月下の古城と赤き淑女①
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ヴァネッサ
種族:ヴァンパイア
とある古城に独り住んでいる。幻術を得意とする。
深い森を抜けた俺達は、舗装もされていない獣道を歩いていた。
辺りは陽が落ちかけた、まもなく暗い夜に差し掛かろうとしている。
「そろそろ、町が見えてもいい頃なんだけどな……」
俺がぼやいたその時、リリアが前方を指さした。
「あっ、あったわ!あれじゃない?」
小さな村だった。アインベルグの街と比べれば、ずいぶんと規模は小さい。
畑と牧場が広がる、素朴な田舎の村――そんな印象だった。
俺達はとりあえず宿を探すことにした。
しかし、村に足を踏み入れた途端、異様な空気を肌で感じ取る。
人々の目はどこかよそよそしく、警戒心を隠そうともしない。
畑の手入れをしている老人が一人、俺達を一瞥するとすぐに視線を逸らした。
「…なんか空気が重くないか?」
「……あそこ、宿屋じゃない?」
リリアが一軒の建物を指さす。木製の看板が揺れている。
俺達はそそくさとその扉を開けた。
中には無愛想な店主が一人いて、視線をこちらに向けたと思いきや、途端に渋い顔をした。
「あの、今日泊めてもらいたいんですが……」
俺が声をかけると、店主はしばし俺達を見定めたあと、重い口を開いた。
「……よそ者か。泊めるのは構わないが……」
どこか言いにくそうにしている。
「その、魔物娘はダメとか……そんな話じゃないよな?」
最悪、リリアとセレナが泊まれない可能性も覚悟して尋ねると、
店主は首を横に振った。
「いや、そういうわけじゃない。ただ……最近、この村じゃ“神隠し”が起きててな」
神隠し――不穏な言葉が耳に引っかかる。
「夜になると、人が消えるんだ。特に、若い奴らや子供がな」
「……それで、よそ者にも警戒してるってわけね」
リリアが溜息混じりに言った。
「ああ、それに……村の裏手にある山奥の古城。あそこに住んでいるヴァンパイアが怪しいって噂になってる」
「ヴァンパイア……」
セレナが小さく眉をひそめる。
「そうさ。血を吸って生きる化け物だってな」
「今じゃ化け物じゃなくて魔物娘だけどね~」
リリアが軽くと呟く。
「まぁ、噂だ。本当かどうかはわからん。
ただ、夜が近づくとみんな戸締まりして家に閉じこもるようになった。
よそ者にも、つい警戒が移っちまってるんだ」
店主は困ったように肩をすくめた。
「……それで商売あがったり、ってわけか」
俺が苦笑すると、店主も「まったくだ」とため息をついた。
「今日は儲けさせてあげるわよ」
リリアが軽くウインクして笑う。
「助かるよ」
俺は魔王様の刻印付きカードを取り出し、支払いを試みる。
だが――
「ん?なんだそれ?」
店主はカードを見て首をかしげる。
……あっ。
俺はそっとセレナに振り返り、両手を合わせた。
「セレナさん、すみません。宿代、貸してもらえますか?」
「はぁ!?アンタお金もってないの!?」
「これは…かくかくしかじか」
「ったく、しょうがないわね」
セレナが渋々財布を開く。
こうして俺達は、村に一泊することになった。
◇ ◇ ◇
宿に荷物を置き、ひとまず一息ついた俺達だったが、
胸に引っかかるものは、拭いきれなかった。
(神隠し、ヴァンパイア、村の異様な静けさ……)
村人達の怯えは、ただの噂話じゃ済まされないものを感じさせた。
「……このまま寝るってわけにもいかないわね」
リリアが、窓の外を見ながら呟く。
外に出た俺達だったが、夜の帳が下り、村はほとんど闇に沈んでいた。
家々の窓は固く閉ざされ、外灯もない。まるで村全体が息を潜めているかのようだった。
「ホントに誰も外にいないわね」
セレナが火魔法で灯りを作りながら見渡す。
その瞬間、かすかに聞こえた。
重い金属がきしむような音。
錠前をかける音。
……そして、遠く、誰かの泣き声
「……聞こえたか?」
俺が顔を上げると、リリアとセレナはきょとんとした顔をしていた。
「何がよ」
「なんか、悲鳴みたいな……」
「うーん?気のせいじゃない?」
二人には聞こえなかったらしい。
だけど俺には確かに、誰かが必死に助けを求める気配があった。
(それだけじゃない……)
窓の向こう、民家の一つ――
カーテンの隙間から、誰かがこちらをじっと窺っているのが見えた。
だが、視線が合った瞬間、慌ててカーテンが閉じられる。
(……この村、何かがおかしい)
「本当にヴァンパイアの仕業なのか?」
俺はぼそりと呟く。
「仮にそうだとしても…」
リリアが言いかけて、セレナが引き取った。
「ええ、魔物娘の特性上、故意に命までは取ったりしないわ」
だけどこのままじゃ、村はただ恐怖に支配されたままだ。
「……行こう」
俺は静かに告げた。
リリアとセレナも、無言で頷く。
俺達は、闇に包まれた村を抜け、問題の古城へ向かう決意を固めた。
たとえそこに、どんな真実が待っていたとしても――
◇ ◇ ◇
闇夜に、月明かりとセレナの炎の魔法が揺らめく。
俺達は、山奥の城へと、ついにたどり着こうとしていた。
「やっぱり……夜の山は無謀だったかもな」
「暗いのが怖いのかしら?」
俺のつぶやきに、セレナが炎を強める。
辺りの様子がはっきり見えるほど、赤々と燃え上がった。
城が近づくにつれ、霧は濃くなり、空気は張り詰めていく。
やがて、重厚な鉄の門が、静かに俺達を迎えた。
「……魔力がここまで漂ってるわ」
セレナが眉をひそめる。
「近くで見ると、ずいぶん立派ね~」
リリアは興味深そうに見上げながら呟いた。
俺達は門を開け、続いて城の扉も押し開く。
中はまるで時間が止まったかのように静まり返り、キャンドルの一本すら灯っていない。
「……お邪魔しまーす」
少しビビりながら、俺はそっと足を踏み入れた。
リリアとセレナも、肩を並べてついてくる。
「誰かいませんかー?」
「そんなに怯えなくても平気よ」
セレナが呆れ気味に言い、ため息をつく。
「べ、別にビビってねーし!」
「ふふっ、可愛いわね」
リリアはくすりと微笑む。緊張感なんてどこ吹く風だ。
重たい扉がきしむ音を背に、俺達は静まり返った城内をゆっくり進んでいく。
空気はひどく冷たく、息が白くなるほどだった。
「随分と荒れてるわね。長い間、誰も手入れしていないみたい」
セレナが壁に指を這わせる。そこには厚い埃が積もっていた。
「でも……変よ」
「何が?」
俺が聞き返すと、セレナは天井を見上げる。
「埃はあるのに、足跡がないの。私達以外の、ね」
その言葉に、俺はゾクリと背筋が寒くなる。
確かに、この静寂にしては違和感が多すぎる。
一方で、リリアは階段の方に目を向けていた。
「見て、あそこ。……上の方、少し明るくない?」
俺達が視線を向けたその先――二階の廊下の奥に、かすかに赤い光がゆらめいていた。
だが、あれは蝋燭の明かりではない。どこか……生き物のように脈打っているような、奇妙な光。
「行ってみましょう」
セレナの声をきっかけに、俺達は階段を上る。
だが――その途中。
視界がぐにゃりと歪んだ。
「……ん? な、なんだこれ……」
「まさか――!」
次の瞬間、周囲の景色が完全に変わっていた。
――気がつくと、俺は見覚えのある場所に立っていた。
それは、あまりにも懐かしい光景だった。
くすんだ外壁に、緑の鉢植えが並ぶ玄関先。
俺が育った、あの実家。
「……え? な、なんで……」
言葉が口から漏れる。
数秒前まで、俺は確かに異世界の古びた城にいたはずだった。
リリアと、セレナと、薄暗い回廊を慎重に進んで――
思考が揺れる中、ギィ……と玄関のドアが開いた。
「カケル、お帰り!」
その声が、耳に刺さった。
懐かしくて、優しくて、あまりにも――現実味がありすぎる声。
「……母さん……?」
目の奥が熱くなる。
涙が自然とあふれていた。俺は夢中で玄関に駆け寄る。
まるで、小さい頃の俺に戻ったみたいに。
「何立ってるの? ほら、早く入りなさい」
手招きする母の笑顔に、足が勝手に動いた。
玄関をくぐれば、そこには暖かな光と、生活の音があった。
リビングでは父がソファに腰掛け、テレビを見ている。
俺に背を向けたまま、ぶっきらぼうに言った。
「……ただいま」 「おかえり」
心がじんわりと熱くなる。
なんてことのない日常のやりとりなのに、俺にはそれが宝物のように思えた。
「お兄ちゃん、おかえりなさい!」
バタバタと階段を下りてきたのは、歳の離れた妹。
無邪気な笑顔で俺に抱きついてくる。
「ああ……ただいま」
声が震えそうになる。
こんな夢みたいな時間が、本当に俺のものだって言うのか?
「さ、座って。夕食の準備ができたわよ」
母に促されてダイニングへ。
テーブルの上には俺の好物ばかりがずらりと並んでいた。
「今日は腕によりをかけて作ったのよ」
「……いただきます!」
四人そろって手を合わせ、食事が始まる。
箸を持ち、料理を口に運ぶ。だが――
(……味が、しない?)
あれほど見た目は美味しそうだった料理が、まるで紙を噛んでいるようだった。
いや、それどころか、何を食べたのかさえ曖昧になる感覚。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「あら、もしかして口に合わなかったかしら?」
母と妹が心配そうに覗き込む。
俺は笑顔を作って首を横に振った。
「……いや、大丈夫だよ。美味しいさ……」
でも、心の奥に小さな違和感がじわじわと広がっていく。
「そういえば、帰りが遅かったじゃないか」
父が低い声で問いかけてくる。
(……遅かった? いや、それは――)
何かを思い出しそうで、指先が震える。
「ああ、それなんだけどさ……変な夢を見てて……」
(夢?)
「なんていうか、白昼夢みたいな……誰かと一緒に……あれ……?」
あれ、なんだろう。
誰かと一緒に旅をしていて、それから。
「……リリア!セレナ!」
唐突に、俺は叫んでいた。
思い出した。
忘れちゃいけない、一緒に旅をしてくれる、あの仲間達。
「きゅ、急にどうしたの?」
家族の声がざわめく。
そして次の瞬間――その“日常”は音もなく崩れ始めた。
家族の顔がにじむ。声が遠のき、壁が赤黒い霧に包まれていく。
ぬくもりが、幻のようにすうっと冷えていった。
(……違う。これは、俺の現実じゃない)
「これは……幻覚だ……!」
目を閉じ、拳を固く握りしめる。
リリアの笑顔が。セレナの真っ直ぐな瞳が。俺を呼んでいる気がした。
(戻らなきゃ……二人の所へ!)
その決意と共に、目の前の“世界”が砕けた。
ガラスのように、ぱりん、と音を立てて――。
◇ ◇ ◇
――気がつくと、私はひとりで立っていた。
足元に広がる、懐かしい芝の感触。春の風が花々を揺らし、優しく肌を撫でる。
耳に届くのは、制服姿の生徒達の笑い声と、魔法の練習に励む声。
どこまでも平和で、優しい日常――
「……ここは……学院……?」
思わず呟いた。
目の前に広がっているのは、かつて私が通っていたアインベルグ魔法学院の中庭。
あの頃は、未来に希望しかなかった。仲間と学び、笑い合い、夢を語っていた日々。
どうして……ここにいるの?
私、あの古城にいたはずじゃ……
「セレナ、こんなところで何してるの? 授業、始まっちゃうよ!」
その声が背後から聞こえた瞬間、全身に電流が走ったような感覚が走った。
この声……まさか。
私はおそるおそる振り返る。そして、息を呑んだ。
「……ティナ……?」
そこにいたのは、あの日、私の目の前で命を落としたはずの少女。
私の、親友――
「どうしたの、そんな顔して。ほら、早くしないと先生に怒られちゃうよ?」
ティナは笑っていた。
昔と変わらない、優しくて無邪気な笑顔。
その笑みを見た瞬間、私は立っていられなくなりそうだった。
(ティナ……本当に、貴女なの?)
胸の奥がずきりと痛む。
どうして今、目の前にいるの?この時間は、幻じゃないの?
でも、心のどこかで、ほんの少しだけ願ってしまった。
「もし、もう一度あの頃に戻れるなら」――そんな叶うはずのない願いを。
私は気づけば、ティナの隣に立ち、一緒に歩き出していた。
まるで、あの日々が続いていたかのように。
「ねぇセレナ、前から聞きたいことがあったの」
「……え? なに、急に」
私の声が少し震える。
胸の奥に冷たい予感が広がる。
「どうして、助けてくれなかったの?」
ティナの声が変わった。
空気が止まる。笑っていたはずの彼女の顔が、無表情に凍りついていた。
「……っ!」
言葉が喉につかえる。
過去に何度も夢に見た、あの問い。そして、何度も自分に浴びせた責め。
「私、ずっと待ってたのに。ずっと……ずっと……」
「……ごめんなさい……私が、もっと早くあの男の正体に気づいていたら……っ!」
涙がこぼれそうになる。
あの時の無力な自分が、また目の前に立っていた。
「セレナは、私のことなんかどうでもよかったんでしょ?」
「違う……違う! 私にとって、貴女は……大切な、たった一人の親友だった!」
「嘘だよ」
ティナの瞳から色が抜け落ちていく。その口が、淡々と、冷たく動いた。
「セレナは、嘘つき」
「やめて……」
「嘘つき、嘘つき、嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき……」
その言葉が、波のように押し寄せてくる。
何度も、何度も、心を削るように。
(……やめて。お願い……)
私は耳を塞ぎたかった。でも、逃げたくなかった。
これは――私自身の罪だから。
「……そうよ、私は貴女を救えなかった。それは今でも、悔しくてたまらない」
拳を握る。今の私は、もうあの頃の私じゃない。
後悔だけを抱えて生きる人生なんて、ティナも望んでないはず。
「でも私は、もう誰も見捨てない。誰も、失わせない」
涙を拭い、ティナの幻影を真っすぐに見つめた。
「貴女を決して忘れない。でも、私は前を向くの。もう、過去に縛られたままじゃいられない」
「こんな幻に、私は負けない――!」
その瞬間、ティナの姿が砕けた。
ひび割れた幻が光の粒となって空へと消えていく。
風が吹いた。
懐かしい花の香りが、どこか寂しげに舞い上がっていった――
◇ ◇ ◇
――まぶたの奥に、じわじわと光が染み込んでくる。
頭が重い。喉はからからで、指先が微かに震えていた。
(……夢? いや、違う。あれは――)
ゆっくりと目を開けると、視界に広がったのは見覚えのある石の天井だった。
体を起こそうとすると、腕にずしりとした重さが残っている。現実に戻った感覚が、じわじわと身体中に広がっていく。
「やっと起きたわね。おはよう、カケル」
霧の中から抜け出すように、軽やかな声が届いた。
「……リリア?」
すぐそばで、いつもの調子の彼女が微笑んでいた。
いたずらっぽいその笑みが妙に眩しくて、無意識に力が抜ける。
けれど、その直後。隣から小さな呻き声が聞こえた。
「ん……っ……あれ……?」
セレナが、俺と同じようにゆっくりと意識を取り戻していた。
「セレナ、大丈夫か?」
声をかけると、彼女はかすかにうなずいた。
「……うん。ここ、廊下……戻ってこれたのね」
「ああ、間違いない。……現実だ」
石造りの壁。冷たい空気。朽ちた燭台の残骸。
どれも幻想にはない生々しい“現実”の感触だ。
さっきまで俺がいたのは、実家だった。
母さんの優しい声。父さんのぶっきらぼうな態度。妹の笑顔――
すべてが、あまりに本物すぎて、今でも胸に残っている。
「……くそ……リアルすぎた……」
「私も……学院の夢を見てた。ティナと……」
セレナの声がかすかに震えていた。
その表情には、言葉じゃ言い表せない痛みがにじんでいる。
……俺達は、囚われていたんだ。心の奥底に。
「ふたりとも、ずいぶんとぐっすりだったみたいね」
リリアがくすっと笑う。
軽口を叩きつつも、たぶん本気で心配してくれていたんだろう。
「……リリア、お前も見たのか?」
そう尋ねると、彼女は肩をすくめてあっさり答えた。
「一応ね。でも、すぐ気づいたわ。“私が望むもの”があまりにも都合よすぎて。
そんな夢、逆に気味が悪いでしょ?」
さらりと言ってのけるその姿に、内心少し驚いた。
リリアは本当に、精神的に強い。
……いや、それ以上に、見えないところで何かと戦っているのかもしれないけど。
彼女の笑顔に、ほんの少しだけ救われた気がした。
だが、その束の間の静けさを破るように――空気が、変わった。
――気配。
肌がひりつくような、冷たい殺気が背筋を走る。
廊下の奥。沈んだ闇の中から、音もなく“それ”は現れた。
「……ようこそ。我が城へ」
女の声。
その瞬間、全身の神経がビリッと研ぎ澄まされる。
月明かりが差し込み、影の中のシルエットが浮かび上がった。
白磁のような肌。
黒いロングマントに身を包み、闇夜を切り裂くように、赤い裏地が揺れている。
銀の髪を整えたボブカットが月光を淡く反射している。
深紅の瞳がこちらを見据えると、空気が一瞬で張り詰めた。
胸元を引き締める編み上げの黒いコルセット、
その下に重ねられたハイネックのブラウスは、
わずかな皺すら許さぬほど整っていた。
ふとももまでの丈のスカートには深紅のフリルが揺れ、
黒革のニーハイブーツからは、ガーターベルト風の金属装飾がちらりと覗く。
黒曜石のチョーカーに埋め込まれたルビーは、まるで血を閉じ込めたかのような光を宿し、
左耳にはワインレッドのバラを象った髪飾りが、ひときわ妖艶に咲いていた。
一歩、また一歩と近づく彼女の足音は静かで、まるで舞うような滑らかさを伴っていた。
銀細工のグラスを手にしたその姿は、まさに“夜の化身”そのものだった。
「あんたが……ヴァンパイアか?」
俺が問いかけると、彼女はふっと微笑んだ。
それは、美しく――どこか物悲しい笑みだった。
「そうとも。余はヴァネッサ。以後お見知りおきを」
丁寧に一礼しながら、グラスを軽く掲げる。
「貴女ね! 私達に幻覚を見せたのは!」
セレナが一歩前に出て詰め寄る。
「いかにも。ご堪能いただけたかな?」
「最悪の夢だったわ! よくもあんな――!」
「おや? 他人の城に土足で踏み入れておいて、それはずいぶんな言い様だ」
「……た、確かに……そうかも……」
「ちょっと!納得しない!」
びしりとセレナの指が俺に向かう。
思わず苦笑いを返すと、リリアが傍でくすくす笑いを漏らしていた。
まるで、漫才でも見ているような顔で。
「ふっ、しかし……皆よく余の仕掛けた幻覚に打ち勝った。見事だ、褒めて遣わそう」
ヴァネッサがゆったりとグラスを回しながら、視線をリリアへ向けた。
「特にそこのサキュバス。ずいぶんあっさり見破ったものだな」
「ええ。おかげさまで、なかなか楽しい夢が見られたわ」
……ん? なんか声が低くない?笑顔なのに、目が笑ってないような……
(あれ……リリア、怒ってる……?)
「ねぇ、私より怒ってない?」
「たぶん……」
耳元でセレナがそっと囁き、俺は小さくうなずいた。
「どうして俺達にあんな幻を見せた?」
声は努めて冷静に出したつもりだったが、自分でもわかる。
幻に見せられた記憶が、まだ胸の奥に澱のように残っていた。
「不法侵入者への警告?それとも何かの試験?」
セレナが俺の隣で問いかける。俺とは違い、声も態度もいつも通りの彼女だ。
ヴァネッサは、ふっと唇の端を持ち上げる。
「おおむね正解だ」
その声は、夜風のように柔らかく、それでいて背筋を撫でるような冷たさを孕んでいた。
「余の城を訪れる者は、大概が好奇心に駆られた愚かな人間共でね。困った話だよ」
その言葉に、リリアが首を傾げながら言葉を返す。
表情は穏やかだが、瞳の奥には警戒の色が浮かんでいた。
「じゃあ、私とセレナにまで幻覚を見せる必要はなかったんじゃない?」
「そうよ。カケルは別として…」
セレナが俺に何か言いたげな様子でちらりと目を向ける。
「俺も愚かな人間ってことかよ……」
苦笑を交えつつ、俺はその言葉を受け入れるように頭を下げた。
「でも、確かに。勝手に入って悪かったよ」
素直な謝罪を聞いたヴァネッサは、わずかに目を細め、くすりと笑う。
その笑みには敵意も怒気もなく、どこか退屈を紛らわせる玩具を見つけたかのような色があった。
「それはもうよい。おかげで、面白いものが見れたのでね」
彼女の目が、俺達一人一人を順に見つめる。鋭く、それでいてどこか寂しさを滲ませた視線。
「君達は、他の連中より骨がある。少しは余を興じさせてくれそうだ」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
リリアがひとつ息を吐き、スカートの裾を摘まむような所作で一礼する。
ヴァネッサはしばし俺達を観察するように沈黙した。
広いホールに静寂が戻り、どこからか風の唸るような音が響いてくる。
「……それにしても」
低く、囁くような声が響いた。彼女はゆっくりと一歩前へ出る。
その仕草ひとつとっても、計算されたような優雅さがあった。
まるで“人のふり”をしているような、不自然なほどに洗練された動きだった。
「この時代に、まだ“まっすぐな瞳”を持つ人間が残っていたとはね。少し……いや、ずいぶんと皮肉な話だ」
その目は、どこか遠くを見ているようだった。俺達を通して、過去の幻影でも見ているかのような。
「皮肉、ってのは……どういう意味だ?」
自然と問いかけが口をついた。
何気ない一言のように聞こえたけれど、妙に重さがある気がしてならなかった。
ヴァネッサは微笑みを浮かべたまま、曖昧に首を傾ける。
「さあ、どうだろうね。いずれ知ることになるかもしれないし、ならないかもしれない」
彼女の目の奥には、笑っているはずなのに冷たいものがある。
まるで他人を試すような、あるいは拒絶するような――そんな感触。
俺はその視線に、少し胸の奥がざわつくのを感じた。
このヴァンパイアは……誰かを信じることを、もうやめてしまったのかもしれない。
その瞬間、ほんの少しだけ彼女の孤独が垣間見えた気がして、なぜだか胸が痛んだ。
「さて。ここまで来たのだ、客人として最低限のもてなしはしよう」
唐突に話題を切り替えるヴァネッサに、俺達は一瞬だけ気を張った。
リリアの指先がわずかに動くのが視界の端に入る。
セレナも無言のまま身構えていた。俺も――もちろん油断なんてしていない。
でも、不思議と、ヴァネッサからは“敵”としての空気を感じなかった。
「食事は期待しないことだ。人間の好むものは置いていないのでね」
それでも、たしかに“もてなす”つもりがあるのだと、彼女の口ぶりから伝わってきた。
「それでも、ありがたい話です」
俺は一歩前へ出て、静かに答えた。どんな理由であれ、戦うでも追い返すでもなく、
俺達を迎えると言ってくれた。それだけで、警戒心の裏に少しだけ安堵が生まれる。
ヴァネッサはくるりと背を向けた。揺れる黒のドレス、その後ろ姿にどこか儚さがにじむ。
このヴァンパイアは、何を失ったんだろう。そんな考えが、ふと頭をよぎった。