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凍てつく大地と精霊の息吹④

登場人物

カケル

種族:人間

主人公。異世界に召喚された青年。


リリア

種族:サキュバス

魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。


エリシア

種族:エルフ

精霊と心を通わせたり、精霊の力を行使できる。


トーラ

種族:ミノタウロス

ヴァルハールの町の自警団に所属。肉弾戦が得意。

何度目かの起床だった。

肩を軽く揺すられる感触に、うっすらと瞼を開ける。

目の前には、もこもこの毛並みを揺らすイエティがにっこりと覗き込んでいた。


「カケル、そろそろ出発してもいいかも~」

まだ寝ぼけた頭にその声が染み込む。

ふと周囲を見渡すと、今回は皆すでに起きていた。

トーラは火のそばで防寒具を整え、リリアは手早く荷物をまとめている。

エリシアも身支度を整えている。


イエティの言葉で、ようやく朝を迎えたことを知る。

外から聞こえる白嵐の唸りが、昨夜よりもいくらか穏やかに感じられた

相変わらず風は唸っているが、あの耳を裂くような荒れ方ではない。


息を吐くと、淡い白霧がふわりと立ちのぼった。

今日こそ氷の聖域へ向かう――そんな緊張と期待が、胸の奥で混ざり合っていた。


皆の支度が整うと、最後に火の始末をして、小屋の扉を押し開けた。

瞬間、外気が容赦なく肌を刺し、鼻の奥がひやりと凍りつく。

それでも昨日の雪嵐に比べれば、風は幾分か弱まっているように思えた。


先頭のイエティが軽やかに雪を踏みしめ、『こっちだよ~』と振り返る。

分厚い毛並みに覆われた背中は心強く、その姿はまるで雪原の案内役そのものだった。

俺達は彼女の足跡を一歩ずつ辿り、深雪を掻き分けて進んでいく。


足元の雪は、昨日よりも硬く締まっていて、一歩ごとにギュッと音を立てる。

吐く息は淡雪のように舞い上がり、風に呑まれて跡形もなく消えた。

時折、氷の粒を含んだ風が横から叩きつけてくるたび、防寒具の隙間から凍気が忍び込んできた。


氷嵐の中を歩き続け、ようやく視界の奥にそれは現れた。

雪と氷に閉ざされた大地の中で、聖域の入り口だけが異様な存在感を放っている。

天を突くような氷壁に刻まれた紋様は、まるで生き物のように淡く光を脈打たせ、近づくほどに肌を刺す氷気が増していく。


「…ここが、氷の聖域」

リリアの声が、緊張を滲ませながら小さく響く。


「見ただけで骨まで冷えるぜ。こりゃ普通の場所じゃねぇな」

トーラは腕を組み、氷壁を見上げて眉をひそめた。


「…この空気、ただの寒気じゃないですね。精霊の力が、乱れてます」

エリシアは周囲を見回し、わずかに目を細める。


「中に入れば、もっと強く感じるはずだよ~。でも…ここから先は、本当に気をつけてね~」

イエティが大きく息を吐き、入り口を指差す。


「……行こう」

雪を踏みしめ、俺達は氷の聖域の中へと足を踏み入れた。


内部へ足を踏み入れた瞬間、外の寒気とは質の違う空気が肌を撫でた。

鋭く張り詰めた冷たさが、まるで全身を針で刺すように浸透してくる。


天井や壁はすべて透明な氷でできており、青白い光が奥へと続く回廊を幽かに照らしている。


「…きれい、ですけど」

エリシアの声が反響し、氷の壁に吸い込まれていく。

彼女の瞳は光を映し、まるで深い湖の底を覗くように澄んでいたが、その奥には不安の影も揺れていた。


「音が少ないわね。風も、雪も、ここじゃほとんど止まってるわ」

リリアが周囲を探るようにゆっくりと視線を巡らせた。


ここでは外の荒れ狂う雪が嘘のように無音の世界が広がっていた。

足音は氷の床に硬く響き、まるで遠くから別の足音が返ってくるような錯覚を覚えた。


◇ ◇ ◇


回廊を抜けた瞬間、息が詰まる。

そこはまるで氷そのものが築き上げたような巨大な広間だった。

肺の奥まで氷刃が突き刺さるように痛む。


「……あれを見て」

その沈黙を切り裂いたのは、リリアの低い声だった。


視線の先、白く凍りついた床の上に、人影が二つ倒れている。

近づくにつれ、それが雪と氷に半ば埋もれた人間だとわかった。


分厚い外套を着ているが、その身は不自然なほど硬直しており、顔の半分は氷に覆われている。

膝をつき、肩に手を置いて軽く揺すった。

返事はない。冷たく、硬い。長い沈黙が、すべてを物語っていた。


「小屋にあった手記を書いたのってこの人達かもしれないわね」

リリアが口を開き、視線を落とした。その声音は、いつになく沈んでいる。


「…あれを」

不意に、エリシアが奥を指差した。

広間の奥、巨大な氷の扉がそびえている。

その前に置かれた台座には、青白く輝く球体が浮かんでいる。


「この先に…氷雪の精霊がいるのかもな」

俺達は球体を避けて扉へ向かおうとした。

だが、台座に半歩近づいた瞬間――球体が脈打つように明滅し、周囲の空気が震えた。


「…止まれ!」

反射的に声が出た。背後で足音が止まり、皆が一斉に俺の動きを注視する。

何かがおかしい――直感が警鐘を鳴らしていた。


床や壁の氷片がひとりでに宙を舞い、渦を巻きながら球体の周囲へ吸い寄せられていく。

氷の破片はぶつかり合い、軋みを上げながら形を変え、やがて人型を象る輪郭を作り出した。

それは女性のようなシルエットを持ち、全身は鎧のように硬質な氷殻で覆われている。


「アイスゴーレム!やばいやつだよー!」

イエティが半ば悲鳴のような声を残し、広間の隅へ避難していく。

普段おっとりしている彼女がここまで焦る姿は、事態の深刻さを物語っていた。


「……何人たりとも、ここを通すことはできない」

やがて完成した氷の巨人は、感情を欠いた冷たい声で告げてくる。


「こいつも…魔物娘、なんだよな?」

俺は思わず苦笑して、冗談めかしてつぶやく。


「そうね。でも…ちょっと大きいかも」

リリアは肩をすくめて、小さく笑った。

しかしその軽口も、すぐに緊張に塗り替えられる。


俺は手袋越しに掌を握り込み、闇を凝縮させて剣を形作る。

背後ではエリシアが光の弓を構える。

トーラは拳を打ち鳴らし、関節が氷を割るような音を響かせた。


もう、言葉は必要ない。


「行くぞ!」


氷の拳が唸りを上げて振り下ろされる。

反射的に身を翻し、肩をかすめる風圧に歯を食いしばった。

直後、足元の氷床に拳が叩きつけられ、砕けた氷が煌めく飛沫となって宙を舞った。


「危ねぇな……っ!」


次は氷塊の槍だ。空中に無数の氷の欠片が集まり、鋭い穂先へと形を変える。

俺は闇の剣を横薙ぎに振って氷槍を弾き飛ばし、

背後から迫るそれをリリアが魔力を込めた蹴りで粉砕する。


「油断しないで、カケル!」


「ああ、わかってる!」


「おらぁっ!」

トーラが巨体の懐へ踏み込み、拳を叩き込む。

しかし、分厚い氷装甲が衝撃を吸収してほとんど揺らがない。


「硬えな。だけどまだまだぁ!」

それでも彼女は怯まず、次の打撃に繋げるために間合いを詰め続けていた。


俺が胸部の奥で瞬く煌めきを目に捉えたその時、背後から弓弦を引く音が響く。


「……あれです!あの球体が弱点です!」

エリシアが氷の外装の奥で脈打つ球体を指し示す。

戦場の空気が一瞬で研ぎ澄まされた。


核を狙えば勝てる――頭ではわかっている。

だが、あそこまで防御が厚い相手に、正面から斬り込むのは容易じゃない。


……使うしかないのか。胸の奥がざわつく。

俺の背中から二本の異形の腕を生み出す力。

あれを使えば、俺自身の剣と合わせて三方向から同時に攻撃でき、活路を見出せるはずだ。


「……チッ!」

俺は歯を食いしばり、足を踏み込む。

背中の影が蠢き、黒影の腕が、それぞれに黒刃を握りしめる。


「――行くぞッ!」

俺は氷床を蹴り、ゴーレムの正面へ転移する。


巨体が反応して両腕を振り下ろしてくるが、左側面からリリアが跳び込み、回し蹴りを叩き込んだ。

動きが鈍ったところを俺は間髪入れず、背後から伸びた闇の腕を斜めに交差させ、振り抜いた。


――両足、切断。

鈍い破砕音と共に氷の脚が宙を舞い、巨体がよろめく。


俺はさらに踏み込み、手にした剣を真っ直ぐ突き出す。

刃先は核の表面を覆う透明な氷にぶつかり、鋭い音を立ててひびを走らせた。


「トーラ!」

俺が声を張ると、氷片の中で拳を構えていたトーラがニヤリと笑った。


「任せろ!」

トーラは氷の床を蹴り、巨体の右脇へ滑り込む。

懐に潜り込んだ瞬間、両拳が嵐の鉄槌となって胸部へ連打される。


ドガッ!バキィッ!ガンッ!


拳が核を覆う氷に容赦なく叩き込まれるたび、白い氷屑が四方へ弾け飛ぶ。

衝撃で周囲の空気が震え、凍結した大気が逆巻く中、トーラは止まらない。

最後の一撃が、雷鳴のような音とともに氷壁を完全に砕き飛ばし、核がむき出しになる。


「今だ、リリア!」

隙を逃さず、リリアが氷の残骸を踏み台にして跳躍する。

露わになった核へ、渾身の回し蹴りを叩き込んだ。


鈍い衝撃音が響いたが、核は砕けず、表面に細いひびが一本走っただけだった。

着地したリリアが肩をすくめ、口元に皮肉な笑みを浮かべる。


「…あら、案外しぶといのね」


「――これで終わりです!」


右後方で弓を構えていたエリシアの声が響く。

弦の張り詰めた音とともに放たれた白煌の矢は、星の軌跡のように走り、

リリアの蹴りで生じた亀裂へ吸い込まれるように突き刺さった。

閃光が弾け、広間は刹那の昼に変わる。


バキンッ!


鈍い音とともに亀裂が走り、核が震える。

外装の氷は一気に崩れ落ち、無数の氷塊が粉々に砕け、足元へと降り注いだ。

核はしばらく脈動を止め、動かなくなる。

氷の広間に、ようやく沈黙が訪れた。


「カケル!」

仲間達が安堵とともに駆け寄ろうとしたその時――


「来るな!」

思わず叫んで制止する。

俺の背中から伸びた二本の異形の腕が、未だ自分の意思では消えていなかった。

氷気漂う空間の中で、その腕だけが生き物のように蠢く。


(――消せ……消えろ……!)


強く念じるが、黒い輪郭は俺の思考を嘲笑うかのように形を保ち続ける。

胸の奥に、焦りと嫌な汗が広がった。


<――もっと力を解き放て…壊せ…全て砕け散るまで…>


冷たい囁きが脳裏を満たす。

言葉と同時に、胸の奥底から黒い衝動がせり上がってくる。


(ダメだ…これ以上は――)


「カケル!」

はっとして顔を上げると、リリアが真剣な眼差しでこちらを見ていた。


「踏みとどまって。あなたは…私達が知っているカケルでしょ?」


俺は奥歯を噛みしめ、背中の腕を押さえつけるように意識を集中させる。


(――消えろ……俺は、俺だ……!)


数拍の後、漆黒の腕は霧のように掻き消え、力の奔流もすっと引いていった。


「……よかった。あなたが戻ってきてくれて」

肩から重荷が落ちたように息を吐くと、リリアは小さくほっとした表情を見せた。


深く息をつき、ようやく落ち着きを取り戻した俺は、広間の床に転がる青白い核へと歩み寄った。

「…このゴーレム、死んじゃったのか?」

さっきまで命を懸けて戦っていた相手だ。

それでも、このまま壊れたままで放置するのは、妙に後味が悪い。


「……ひびが入っただけよ。まだ生きてるとは思うわ」

リリアが核を覗き込み、指先で表面をそっと撫でる。


「じゃあ、その台座にのせてみてはどうでしょう?」

それを聞いたエリシアが、奥の台座に視線を向けて言った。


俺は頷き、核を抱え上げて台座へと運んだ。

核はひっそりと台座に収まり、明滅を繰り返しながら自己修復を始めた。

まるで深い眠りに戻ったかのようなその姿に、俺達はほっと息をついた。

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