凍てつく大地と精霊の息吹③
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年。
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ヴァネッサ
種族:ヴァンパイア
とある古城に独り住んでいた。幻術・護身術を得意とする。
ライア
種族:リザードマン
流浪の剣士。エルザとは幼馴染。
エルザ
種族:サイクロプス
鍛冶職人。ライアとは幼馴染。
エリシア
種族:エルフ
精霊と心を通わせたり、精霊の力を行使できる。
トーラ
種族:ミノタウロス
ヴァルハールの町の自警団に所属。肉弾戦が得意。
翌朝。
窓から差し込む淡い陽光が、白いカーテンを透かして部屋の中を照らしていた。
シェリザーンの朝は冷たいが、それでも雪の咆哮はなく、ずっと穏やかだ。
俺はベッドに腰を掛けたまま、しばらく窓越しに外の雪景色を眺めていた。
女王イゼリアから氷の聖域――氷祠への旅を託され、今日いよいよそこへ向かう。
仲間の前では『行こう』と迷わず言った。
……だが、本当にそれで良かったのか。
無意識に、自分の手を見つめていた。
山岳地帯での戦い、あの時…気づけば、俺は暴走しかけていた。
赤黒く染まった視界、耳にこびりつく怒声、そして止まらなかった拳。
トーラの怒声でようやく我に返ったが…あのときもし止められなかったら。
想像するだけで、胃の奥が重く沈むように冷えた。
あれがまた起きたら――今度は、誰を傷つける?
窓辺に立ち、背に陽を受けたまま、そっと拳を握る。
黒紫の靄が、指の隙間から滲み出した。冷たさと熱さが同時に皮膚を走る、不快な感覚。
もう片方の手を開けば、闇が集まり、やがて刃となる。
黒く濁った光を帯びた剣。その存在感は、あまりにも異質だ。
軽く構えてみても、異常はない。力は安定している。
制御できている――少なくとも、今は。
それでも、胸の奥の不安は消えない。
「……今は、な」
思わず、声が漏れた。
闇の剣が霧のように消え、拳の中の熱も引いていく。
残されたのは、冷えた手と、心の奥底にこびりつく不安だけだった。
「カケル?」
控えめなノックと共に、扉の向こうからリリアの声がした。
部屋から出るのが遅い俺を、迎えに来たのだろう。
「…ああ、今行く」
扉を開けると、リリアがこちらをじっと見つめていた。
その瞳は穏やかだが、奥に小さく探るような影が見える。
……まるで、何かを知っているかのように。
「ちょっと寝起きでぼーっとしてただけだ。準備はできてる」
気取られないように、わざと軽い口調で続ける。
…見透かされてるんじゃないか、そう思った瞬間、俺は笑ってみせた。
彼女は少しだけ目を細め、唇の端をわずかに上げた。
「……無理だけはしないでね」
からかいでも、問い詰めでもない。
ただ、胸の奥にそっと置かれるような重みを伴った一言だった。
「大丈夫だよ。ほら、行こうぜ。皆待ってるだろ?」
俺は何ともないように笑ってみせる。
彼女もそれ以上何も言わず、くるりと踵を返した。
その背中を追いながら、俺は拳をそっと握りしめる。
……今はまだ、言えない。言えば、迷わせるだけだから。
◇ ◇ ◇
全員が宿の広間に集まり、これからの行動を決めた。
冷気に弱いセレナとライア、そしてヴァネッサは都に残ることになり、エルザにはその付き添いを頼んだ。
最初、エルザは自分も行くと強く申し出たが、仲間の安全を優先するよう説得すると、
しばしの沈黙の後に小さく頷いた。
こうして、氷の聖域へ向かうのは俺、リリア、エリシア、トーラの四人に決まった。
城の兵士から分厚い防寒具と食料、簡易の野営道具を受け取り、肩や背にそれぞれ背負う。
さらに女王の配慮で、氷の聖域までの道案内と非常事態への備えとして、
イエティの魔物娘が一人同行することになった。
雪原の住人らしく、白い毛並みと朗らかな笑顔が印象的な彼女は、
自分の役目を誇らしげに引き受けてくれた。
街を出てしばらくは、雲間から白煌が差し込み、雪も穏やかだった。
だが、歩みを進めるにつれ、空は次第に厚い雲で覆われ、風が肌を刺すほど冷たくなっていく。
氷雪の精霊の加護が、この地にはもう及んでいない――そんな予感が胸をよぎった。
「…思ったより、風が強くなってきたな」
俺が声を張ると、隣を歩くトーラが鼻を鳴らす。
「この程度、まだ序の口だ。油断はするなよ」
「まるで、精霊が私達を拒んでいるみたいね」
リリアはフードを押さえながら小さく息を吐く。
「…何か、胸の奥がざわつきます。嫌な予感がします」
前を行くエリシアが、その言葉に小さく頷いた。
やがて雪は、静かに降るものから、横殴りに叩きつけるものへと変わった。
視界は白一色に閉ざされ、何歩先の地形すら霞んで見える。
そんな中でも、先頭のイエティは迷いなく雪原を進む。
「方向は…合ってるんだろうな?」
俺が半ば冗談めかして尋ねると、イエティは振り返ってニカッと笑った。
「大丈夫、大丈夫!雪の匂いが道を教えてくれるの!」
その自信たっぷりな笑顔に、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
俺達は防寒具のフードを深くかぶり、ただイエティの背中を追った。
吹き付ける雪の音と、自分の呼吸だけが、世界のすべてになっていく。
しばらく雪原を歩き続けていると、吹きすさぶ雪の向こうに、ぽつんと黒い影が浮かび上がった。
真っ白な世界の中では、それはひどく目立って見える。
「……あれ、小屋じゃないか?」
俺が雪にかじかむ指先で遠くを指すと、先頭を歩いていたイエティが振り返り、ふわりと笑った。
「うん!今日はあの小屋で休むよ~」
のほほんとした声色だが、その口調には迷いがない。
雪原を生きる者特有の確信が感じられた。
「これって偶然かしら?」
リリアが、マフラーの奥から小首を傾げる。
「ううん、この辺りに小屋があるのは知ってたから~」
その言葉を聞いて、俺は少し安堵する。
流石イエティ、雪原の地理を知り尽くしているようだ。
「でも、まだ暗くなってないぞ?」
トーラが怪訝そうに眉をひそめた。
頬には既に雪が張り付き、吐く息は白い靄となってすぐにかき消える。
「それじゃ遅いよ~。これからもっと底冷えが強くなるしね~」
その一言に、俺は無意識に肩をすくめた。
イエティの言う通り、さっきから空気の質が変わってきている。
風が重い氷気を伴って肌を打ってくる感覚だ
「…体力も…温存しないと…いけませんしね」
エリシアがそう言った時、彼女の唇から、小さな白霧が途切れ途切れに零れ落ちた。
凍りついた息はかすかに震え、声も少し掠れている。
しかし、凍てつく空気に晒されながらも、彼女の表情は崩れない。
「そーそー、それじゃ早く行こー」
イエティはそう言って軽やかに雪を踏みしめ、小屋へと歩を進める。
俺達も互いに視線を交わし、足取りの重さを押し殺しながら、その背を追った。
◇ ◇ ◇
小屋の扉を押し開けた瞬間、凍気がふっと漏れ出した。
外よりはわずかにましだが、それでも室内は冷え切っている。
足元には、吹き込んだ雪が薄く積もり、板張りの床を白く染めていた。
中央には簡素な炉があり、白くなった灰の中に、
かすかに赤く燻る炭が一つ、命を繋ぐようにくすぶっている。
「…これ、最近まで誰かが使ってたんじゃないか?」
俺がそう呟くと、イエティが炉の中を覗き込む。
「うん、たぶんね~。雪原でこんなの残ってるの、珍しいよ」
その言葉に、場の空気がわずかに引き締まる。
誰かがここにいて、そして今はいない――その事実が、妙な生々しさを帯びて胸に残った。
とにかく今は、この火を絶やさぬようにしないと。
リリアが薪棚から乾いた木を取り出し、炭の上にそっと載せた。ぱちり、と小さな火の粉が弾ける。
炉にくべた薪がぱちぱちと音を立て、橙色の光が壁や天井を柔らかく照らす。
外では砂嵐のように雪を巻き上げる風が容赦なく小屋を叩いているが、その音さえ今は遠くに感じられた。
「ふぅ…やっと一息つけるな」
トーラが火元のそばに腰を下ろし、安堵の表情を見せる。
霧のような吐息がふっと掻き消えるように薄れ、緊張の糸がほどけていくのがわかる。
「小屋がなかったら、どうなっていたかしらね」
リリアも火に向かって両手を差し出し、指先をこすり合わせる。
ほんのりと頬に赤みが差し、氷のような冷たさが少しずつ溶けていく。
「皆さん、食料です。少しずつ食べましょう」
エリシアが背負い袋から包みを取り出し、炉の周りに集まった皆に配っていく。
全員が自然と円を描くように座り、橙の炎を囲んで身を寄せ合った。
乾いたパンや干し肉を手に、誰もが少しずつ噛みしめるように口へ運ぶ。
炎の温もりと食べ物の力が、凍えた体と心をゆっくりとほぐしていった。
ふと、俺は視線を火元から外す。
壁際の棚に、他の家具とは明らかに違う古びた木箱が目に留まった。
蓋は半ば開き、その隙間から革表紙の手記が覗いている。
手に取ってみると、表面は外気の冷たさを吸い込んでいてひやりとした感触があった。
だが革の色はまだ濃く、わずかな光沢を帯びている。
新しさが残る一方で、角や背表紙は手の跡のように丸くすり減っており、何度も開かれた痕跡があった。
「……これは?」
俺の呟きに、皆の視線がこちらへ向く。
炎の揺らめきに照らされた手記の黒い輪郭が床に滲む。
「それ、ここに来た人の持ち物か?」
俺が手にした手記をしげしげと眺めていると、トーラが顎をしゃくって問いかけてきた。
「多分…でも放置していくにしては、きれいな状態だな」
革の表紙には、外の氷嵐ではつかないはずの柔らかな艶が残っている。
角はすり減っているが、まるで誰かの手の温もりが染み込んでいるようだった。
「最近まで誰かが使っていたのかもしれませんね」
エリシアが吐息まじりに言い、少し身を乗り出して覗き込む。
炎の明かりが彼女の頬を赤く染め、その瞳の奥にわずかな緊張が宿った。
「……あまり良い予感はしないわね」
リリアが低く、押し殺すような声を漏らす。
唇の端がわずかに固く結ばれているのが見えた。
外では風が小屋の壁を叩き、木材がみしりと鳴る。
俺は無意識に手記を握る指先に力を込めていた。
白の暴風は一向に弱まる気配を見せず、木枠の隙間から入り込む風が、時折ページの端をふわりと揺らした。
俺はひとつ息を整え、膝の上で手記をそっと開く。
革の表紙がぎしりと音を立て、中からひんやりとした空気が立ちのぼるような気がした。
筆跡は整ってはいるが、ところどころ急ぎ書きのように乱れている。
黒いインクが紙に染み込み、かすれた文字が灯火に縁取られて浮かび上がった。
そこには、この手記の主が氷の聖域へ向かうために派遣された兵士であったこと。
そして任務の途上で見聞きした異変が、断片的に、しかし生々しく記されていた。
ページをめくると、丁寧な字でびっしりと書き込まれた記録が目に入った。
最初の数行は、出発前の準備や天候の様子が淡々と綴られている。
〈聖域までの道のりは、もっと穏やかだと聞いていたが…状況は違った〉
〈雪が深く、風も鋭い。まるで聖域が近づく者を拒んでいるようだ〉
次のページでは、記す手がわずかに震えているのか、筆跡が揺れている。
〈氷雪の精霊の気配が、妙に落ち着きがない。これまで儀式で感じてきたあの優しい温もりが、今はまるで…氷の棘のようだ〉
〈明日、この小屋を発って聖域に向かう。何事もなければいいが〉
そこまで読んだところで、ページが不自然に途切れていた。
最後の行には、にじんだインクでわずかに言葉が書かれている。
〈もしこれを読む者がいるなら――〉
その先は、雪に濡れたように滲んで判別できなかった。
あまりにも、意味深すぎる終わり方だった。
「なんだよ。気になる書き方しやがって」
トーラが鼻を鳴らし、手記を指で軽く突いた。
ページの端はまだしっとりとしていて、指先に冷たさが残る。
書かれてから、そう時間は経っていないはずだ。
「これを書いた人が…ここに残したままという事は…」
エリシアが不安げに眉を寄せ、俺の手元を覗き込む。
その言葉の先は、口に出さずとも皆が想像していた。
――誰も聖域から戻ってこなかった。
女王イゼリアが語った、その冷たい現実が、頭の中によみがえる。
背中を不気味な悪寒がじわりと這い上がった。
「…これから先、もっと厳しくなりそうね」
リリアが火元の明かりを背に、ゆっくりと立ち上がる。
淡い笑みを浮かべながらも、その瞳には警戒の色がはっきりと宿っている。
外の冷風が、まるでその言葉を肯定するかのように、さらに強く小屋の壁を叩きつけていた。
火の明かりが小屋の中をゆらゆらと照らし、不規則な闇模様を揺らす。
「…このまま全員で寝るのは、やめたほうがいいわね」
リリアがじっと焚き火の炎を見つめながら、真剣な声を落とす。
「だな。この寒さだと、火が消えたり体温が下がったりして……最悪、目を覚まさないかもしれねぇ」
壁にもたれたトーラが、眉間に皺を寄せたまま同意する。
「じゃあ、交代で見張りを立てるってことか?」
俺は周囲を見回しながら口にした。
「わたしは寒さに強いから、ずっと起きてても平気だよ~」
イエティが穏やかに笑い、白い毛に覆われた手をひょいと挙げる。
その様子は相変わらず飄々としているが、どこか頼もしさもあった。
「いや、君もずっと起きっぱなしじゃ疲れるだろ。全員で交代しよう」
俺はそう提案し、火の揺らめき越しに皆の顔を順番に見やった。
ふと妙な記憶がよみがえり、自然と口元が緩んだ。
「そういや、俺の世界に“スクエア”っていう都市伝説があってな」
「なんだそれ?」
火元の明かりに照らされたトーラが、片眉を上げてこちらを見る。
「四隅に一人ずつ座って、順番に相手の肩を叩いて回って、眠らないようにするんだけど……」
俺は、手振りを交えながら続ける。
「やってるうちに、誰もいないはずの場所から肩を叩かれることがあるって話だ」
「あっ、四人じゃ成立しないってことですね?」
エリシアが目を瞬かせ、わずかに首を傾げた。
「そう、そんな話を思い出してな」
苦笑しながら答えたところで、自分の言葉に妙な違和感を覚えた。
「……あれ?」
途端に、場の空気がひやりと変わった気がした。
皆笑うでもなく、返す言葉を探すでもなく、ほんの一瞬だけ沈黙に包まれている。
冗談のつもりだった俺は、その静けさに軽く背筋がぞくりとした。
リリアが、少し呆れたように息を吐きながら俺を見る。
「カケル?こういう状況でする話じゃないわよ?」
「あー、いや。今回は五人いるから平気だろ。ははっ……」
軽く笑ってごまかすと、トーラが肩をすくめ、エリシアは小さく微笑み、火の爆ぜる音が小屋の中を支配した。
外では相変わらず風が唸っているが、わずかに和らいだ空気がそこにあった。




