散りぬるをも、なお君を⑫
蝋燭の炎が揺らめく、古びた座敷の中。
隙間風が障子を微かに鳴らしている。
私の前に立つのは、くノ一の桔梗。
その尖った耳からして、普通の人間ではない。
恐らく人間と魔物娘――いえ、妖怪娘とのハーフといったところね。
畳の上で向かい合う私たちを、蝋燭の灯りがぼんやりと照らす。
外はすでに夜。
障子の向こうには闇が広がり、虫の音さえ聞こえない。
静寂が、これから始まる戦いを予感させていた。
「景継様に仇なす者は、何人たりとも某が討つ」
主である景継を守ろうとする彼女は凛としていて……でも、どこか痛々しいほど真っ直ぐ。
ふふ、こういうタイプ、嫌いじゃないわ。
「あらあら、そんなに肩肘張って……可愛いこと言うのね?」
からかうように微笑むと、桔梗ちゃんの目がわずかに細くなる。
次の瞬間、その手がわずかに動いた。
「――行くぞ、淫魔」
蝋燭の炎が揺らぎ、彼女の姿が、ひとつ、ふたつ、みっつ……と増えていく。
(分身の術ってやつね……)
四方を取り囲むように桔梗が現れた。
幻か、それとも実体か。
だけど――その気配、その“匂い”まではごまかせない。
「そこよ」
気配の密度、息遣い、足の運び――ごまかせると思った?
私はすぐさま左手奥――本体の気配を纏った彼女へ踏み込み、腰をひねる。
爪先が彼女の顔面に届く寸前、煙が巻き起こる。
「ちぇっ、逃げられちゃったかぁ……」
木片がパタリと落ちた。
今度は身代わりの術ってやつね。
でも、彼女の焦りは隠せてなかったわ。
(さあ、次はどう出る?)
その答えはすぐに返ってきた。
再び術印。
今度はすべての桔梗が、一斉に斬りかかってきた。
迷う理由はない。
「今度はそっちね!」
私は真正面にいた“本物”へ、回転しながら蹴りを叩き込んだ。
バシィッ!!
鈍い音とともに、彼女の頬に爪先が食い込む。
その身体が宙を舞い、畳の上を滑って柱に背を打ちつけ、そのまま崩れ落ちた。
「……くっ」
よろめきながら立ち上がった桔梗は、頬を押さえながら私を見つめる。
その手が微かに震えていた。
彼女の目が、ほんの一瞬、迷った。
「なぜ……見極められる……?」
その問いには、本音が混じっていた。
動揺。疑念。
私はクスクスと笑って、わざとおどけてみせる。
「なんでかしらね~。私、勘がいいのかしら? それとも……貴女が、わかりやすいのかしら~?」
指先をくるりと回しながら、からかうように。
でもその実、私の瞳はしっかりと彼女の奥底に向けられていた。
(景継様、ね……。貴女は彼の“剣”になろうとしてる。その痛々しいほどの忠誠心が、隠しきれてないのよ)
まぁ、忠誠心で言ったら私も魔王様に仕えてる身なんだけどね。
桔梗の雰囲気が変わったのは、ほんの一瞬のことだった。
結びかけた印が鋭さを帯び、瞳の奥に冷たい光が灯る。
(あらあら……)
私は唇に笑みを浮かべながらも、肩越しに流れる空気の密度を読み取っていた。
術の気配、殺気の色――明らかに“先ほどまで”とは違う。
桔梗はもう、本気で私を仕留めに来る気ね。
「貴様だけに構っている暇はない。さっさと沈める!」
桔梗の口から吐き出された言葉に、私の頬が自然と緩む。
艶めいた笑みを浮かべ、片手をひらひらと振って応えてやる。
「うふふっ。あらあら、もう本気だしちゃうの? もっとゆっくり愉しみましょうよ~?」
けれど、その挑発にも桔梗は応えない。
代わりに結ばれる印、込められる魔力――。
「火遁・焔狐ノ舞!」
咆哮のごとき炎が突如として床から噴き上がった。
紅蓮の狐火がうねるように私へ襲いかかってくる。
「ふふっ、見た目は派手だけど――」
私はヒールを軋ませ、ふわりと横へ跳ねる。
だけど、その炎は床を舐めながら追尾してきた。
(しつこいわね……!)
炎の尾が引く間もなく、次の印が結ばれる。
「水遁・水斬槍!」
凍えるような水が槍となり、鋭い音を立てて一直線に突き抜けてくる。
先ほどの炎との連撃で、回避のステップがわずかに鈍った。
「っ……!」
左脚に鋭い痛みが走る。
避けきれなかった……!
太ももに熱い感触。
見ると、細く深い裂傷から鮮やかな赤が滲んでいた。
水の残滓が冷たく肌を這う。
さっきまでの攻撃より格段に鋭く、迷いがない。
これは牽制じゃない。本気の一撃。
「やるじゃない……桔梗ちゃん!」
息を吐きながら体勢を低く取る。
傷の痛みがじわじわと広がっていくけど、意識を奪われるわけにはいかない。
あの瞳……読み違えたわね。
彼女、私の力を見抜いたうえで、最初は探っていたのね。
「土遁・牙衝柱!」
足元の床が震え、石柱が牙のように突き上がってくる。
「くっ……!」
私は咄嗟に跳躍し、石柱の縁を蹴って回避する。
けれど、負傷した左脚ではうまくバランスが取れない。
足場をしっかりと捉えられず、空中でわずかに体勢が傾く。
どうにか着地はするも、膝が床を擦った。
「雷遁・神閃落!」
追い打ちとばかりに、空から紫電が奔る。
稲妻が私を貫こうと降り注いだ。
直撃はなんとか回避したものの、周囲に迸った余波を背に受けてよろめく。
「……いいじゃない。やっと、少しは楽しめそうね」
私の唇に笑みが浮かぶ。
身体に傷を負いながらも、血が逆流するような昂りが胸を満たしていた。
「影縫い・夜縛紋!」
術符が床に落ちた瞬間、私の足元に這うように黒い線が伸びた。
影がじわじわと広がり、まるで毒を含んだ蛇のように絡みついてくる。
――これはまずいかしらね。
跳ぼうとしたその瞬間、膝から下が影に縛られたように、ピクリとも動かない。
「捕らえた……!」
桔梗の言葉に、私はニヤリと口角を上げて魔力を足元に集中させる。
「ふっ!」
そして、足元に込めた力を一気に解き放った。
足の裏から小さな爆風が走る。
私の立っていた畳が――文字通り、浮いた。
畳一枚がふわりと宙に舞い、その下に張りついていた影がバラバラに砕け散る。
「なっ……!?」
桔梗の声が跳ねた。
私は空中で軽く身をひねり、くるりと半回転。
畳が落ちる前に床へ舞い降りる。
「しつこい男も術も、嫌われちゃうわよ~?」
指先に魔力を集める。空気が震えた。
背後に生じた渦が膨らみ、音もなく弾ける。
「そろそろ、私も本気……出しちゃおっかな~?」
瞬間、二体の“私”が現れる。
桔梗の目がわずかに見開かれる。
そう、それが正解よ。
今度は私の番。
三人で、貴女を愉しませてあげるわ。
「分身などで、某が怯むとでも……!」
彼女はそう吐き捨てるように印を結ぶ。
「火遁・焔狐ノ舞!」
またしても紅蓮の狐火が咆哮を上げる。
三人の私たちに向かって、螺旋を描くようにうねりながら襲いかかってきた。
「……」
けれど三人の私たちは、合図など交わさずとも自然と散開する。
ひとりは宙を跳び、ひとりは前へ踏み込み、もうひとりは背後へと滑るように後退。
それぞれが意志を持っているかのような動きで、迫りくる炎を避けきった。
「なにっ……!?」
桔梗の目が大きく見開かれる。
そう、今のは“ただの分身”じゃないのよ。
ただの幻影でも、残像でもない。
魔力の奔流で造られた、限りなく私に近い分身。
れっきとした“私”。
表情も、呼吸も、戦意さえも――完全に同期した、私のもうひとつの身体たち。
「いくわよ」
口角を上げて囁くように告げた時には、もう動き出していた。
右の私は、彼女の懐に入り込み――
「ふっ!」
その顔面に向かって真っすぐ蹴りを叩き込む。
左の私は、くるりと旋回しながら低い軌道をとり――
「よいしょっと♪」
脇腹へと鋭く蹴りを放つ。
そして私は、彼女の足元へ目を落とし――
「おみ足、いただくわね~?」
彼女の右足首に狙いを定め、爪先で蹴りを叩き込んだ。
三方向から放たれた蹴撃。
それぞれがわずかにタイミングをずらしながら、寸分の狂いもなく彼女をとらえた。
「が、はっ……!」
立て続けの衝撃に桔梗の身体は弾かれ、畳の上を転がって柱際まで吹き飛ばされた。
それを見下ろしながら、私たち三人はふわりと並んで立つ。
そして、同時に口元を綻ばせた。
「――うふふ、ねぇ桔梗ちゃん。楽しくなってきたでしょ?」
床に崩れ落ちた桔梗は、膝をついたまま肩で荒く息をしていた。
顔の片側は赤く腫れ、唇の端から血が滲んでいる。
それでも彼女の目は、なおも鋭さを失わず、私をまっすぐ睨んでいた。
「貴様……まさかこれほどとは……」
搾り出すような声。
それは驚きと、どこか誇りを保とうとする気概に満ちていた。
私は軽く肩をすくめ、微笑を浮かべる。
「それはそうよ。これでも私、魔王アビス様の側近なんだもの。舐めてもらっちゃ困るわ」
「だが……」
桔梗は震える膝で立ち上がろうとする。
「某は、景継様への忠義のため……引くわけにはいかないのだ……!」
その言葉に、私は少しだけ顔を曇らせた。
ふっと小さく息を吐き、ゆっくりと桔梗に歩み寄る。
「ねぇ、桔梗ちゃん。貴方、そんな生き方で……本当に満足なの?」
「……何……だと?」
桔梗の瞳がわずかに揺れた。
そこに浮かんでいたのは怒りではなく、戸惑いだった。
「貴方は忠義に生きてきた。それは、確かに立派なことよ。でも……その奥底に、ちゃんと“愛”があるのかしら?」
「愛……だと……」
桔梗は苦しげに唇を噛んだ。
「某は、ただ……若様の命に従うのみ。それで……」
「それだけじゃダメよ」
私は彼女の言葉をやさしく、しかしはっきりと遮った。
「それは本当に、“貴方の”願いなの? 貴方の人生なの?」
桔梗の目が再び伏せられる。
けれど今度は、すぐに答えようとはしなかった。
「私はね、愛する人のために、身も心も惜しみなく注ぎたい。だって、それが“生きる”ってことだと思うから」
しばしの沈黙の中、桔梗はうつむいたまま、震える声で呟いた。
「某は……ただ……姫君を亡くした、景継様のために……」
桔梗の瞳はまだ私を捉えている。
忠義に殉ずる者の眼差し。
だけど、そこに混じるわずかな揺らぎ――私には、それがちゃんと見えていた。
「某は……某は、引くわけにはいかないのだあああああああああッ!!」
叫びとともに、彼女は印を結んだ。
瞬間、白煙が弾け、視界がぼやける。
部屋に充満するのは煙と、殺気。そして――足音。
再び分身を作りだし、私たちを取り囲む。
「貴女には、これ以上言葉で伝えてもダメね」
三人の“私”は、言葉を交わさずとも通じ合っている。
桔梗の気配の乱れ、視線の迷い――。
わずかな兆しを読み取って、私たちは本体に向かって同時に動いた。
「これで、おやすみなさい――!」
一人目の私が、すっと横合いに回り込み、桔梗ちゃんの頬に強烈な蹴りを浴びせる。
二人目の私は脇腹を蹴り抜き、体勢を大きく崩す。
そして三人目の私は、低く身を滑らせるように忍び寄り――膝裏へ最後の一撃を叩き込んだ。
「ぐッ……!」
桔梗の身体が浮き上がる。
そのまま畳の上へ叩きつけられるように倒れ込み、激しい衝撃音が響いた。
静かになった室内に、彼女のかすれた呼吸だけが響いていた。
「某が……負けた……だと……」
倒れた桔梗の身体が、微かに痙攣している。
まだ完全に意識を手放してはいない……けれど、それも時間の問題だとわかった。
私は彼女の傍まで近づき、しゃがみ込む。
分身たちは役目を終えたかのように、霧となって溶けていった。
桔梗の顔は汗と埃にまみれ、呼吸は荒い。
それでも――何かを守るように、きつく唇を噛んでいた。
「……どうか、もう少しだけでもいいから」
私はそっと、その頬に手を添える。
敵として戦った相手に、こんな風に触れるのはきっとおかしい。
でも、それでも――私は、言わずにはいられなかった。
「もう少しだけ、自分の心にも……目を向けてあげて、ね」
それは祈りにも似た囁きだった。
桔梗は何も答えなかった。
ただ、その言葉を聞いた直後、ふっと全身から力が抜けて――静かに、目を閉じた。
気を失ったのだと、私はすぐに気づいた。
でも、眉間の皺がほんのわずかに――緩んだように見えた。
……そう、これで勝負はついた。
でも、不思議と胸にあるのは勝ったという高揚じゃない。
ただ、ほんの少しだけでも彼女の心に届いていればいい――。
そんな小さな願いだけが、胸に残っていた。




