願いのかたち、風に舞う熱砂のように⑤
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年。
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ラシール
種族:人間
王女パトラに仕える宰相。
石階段を下りきると、そこには広大な神殿のような空間が広がっていた。
天井は高く、円形の構造をした部屋の中央には巨大な砂時計が鎮座している。
その周囲には円状に柱が立ち並び、壁面には古代文字が刻まれたレリーフがびっしりと並んでいた。
何より異様だったのは、天井に浮かぶ金色の謎の装置だった。
まるで太陽の紋章を模したそれは、淡く揺らめく光を部屋全体に照らしている。
だが、自然光とは違い、人工で作られたような明るさの光を放っていた。
「…地下なのに、太陽の光?」
思わず呟いた俺に、リリアが首をかしげる。
「魔光装置ね。恐らく、古代の技術で太陽の動きを模したものよ」
セレナは既に壁のレリーフに目を向けていた。
指でなぞりながら、鋭い眼差しで文字を追っていく。
「…『金の刻に砂は動き、真実の階は影の奥に現れる』」
彼女が詠んだその一節に、俺の背筋がぞくりとした。
「“金の刻”って、もしかして――」
「この魔光装置のことよ。見て、少しずつ回転している」
セレナが天井を指差すと、たしかに光の位置がゆっくりと移動していた。
砂時計の上部には半透明の水晶のような装飾がある。
「つまり、光が“正しい角度”で砂時計に差し込めば道は開けるってことか」
「なら、そのタイミングを探るか…あるいは、ちょっと小細工して動かすか、ね」
リリアの冗談めかして言ったその言葉に、ラシールが横から補足する。
「装置の調整盤のようなものが壁際にありましたな。手を加えれば、回転速度や光の向きを変えられるかもしれません」
「なら、やってみよう」
俺達は壁際にある調整盤のような装置に近づいた。
古びた金属の台座に、大小さまざまなレバーやダイヤル、そして魔法陣の刻まれた石盤。
一目見てわかる。これ、適当にいじったら確実に罠が作動するやつだ。
「…この手の仕掛け、慣れてるわけじゃないんだけどな」
俺が苦笑すると、隣でセレナがすっと前に出た。
「私が見るわ。こういうの、学院でも扱ったことがある」
そう言って、彼女は迷いなく手を伸ばす。
複雑に組み合わさった紋様を慎重になぞる指先の動きに、見ている俺の方が緊張してしまう。
しばらくの沈黙のあと、カチリ、と硬質な音が響いた。
「回転制御はこっち…時間調整は、このダイヤル…」
セレナの口元がほんのわずかに上がった。
ああ、いつもよりちょっと楽しそうだな。
普段はどこか張り詰めたような彼女が、
こうして夢中になってる姿は、なんというか、ちょっと新鮮だった。
「調整完了。あとは、光が砂時計の中央に差し込むのを待つだけよ」
セレナが手を離すと、天井の魔光装置がわずかに唸るような音を立てて、軌道を変え始めた。
ゆっくり、しかし確実に光が砂時計へと向かっていく。
空気が張りつめる。
俺達は思わず言葉を飲み込んだまま、その瞬間を待った。
ピタリ、と光が砂時計の上部、水晶のような部分に差し込む。
直後、ゴウン――という鈍い音とともに、砂が流れ出した。
まるで凍っていた時が動き出したかのように。
「動いた…!」
俺は思わず息をのんだ。
砂の流れとともに、部屋の床の一部が震え、砂時計の土台の周囲が沈み込んでいく。
そして、音を立てて開かれていく、円形の石扉。
その下に覗くのは、さらに続く階段だった。
「やった、か?」
最後の砂粒が落ちきると同時に、鈍い音とともに奥の石壁がゆっくりと沈みはじめた。
砂の舞う空間に、わずかながら涼しい風が流れ込んでくる。どうやら、進路が開けたらしい。
「ま、私にかかればこんなもんよ」
セレナが得意げに胸を張る。
自信に満ちたその表情は、どこか子どもっぽさすらあって、思わず苦笑いしてしまう。
「…助かったよ。まさか、本当にこの砂時計が鍵だったとはな」
「“まさか”って何よ。ちゃんと理屈は通ってたでしょ?感覚じゃなくて、観察と推論の結果よ」
憎まれ口を叩きながらも、セレナの瞳はどこか嬉しげだった。
きっと、彼女なりに、この場での自分の役割を果たせたことが誇らしかったんだろう。
「さぁ、進みましょう」
リリアの言葉に導かれるように、俺達は新たに開かれた通路へと足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
第三階層に足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした空気が肌をなでた。
天井や壁に埋め込まれた青白い魔法灯が、淡く揺らめきながら空間を照らしている。
石柱が並び、その奥には階段状に設えられた壇上。
その台座の上に、一人の魔物娘が静かに座っていた。
下半身は逞しい獅子の姿をしており、漆黒の翼を持ち、頭部は精悍な美女の顔立ちをしている。
漆黒の髪をなびかせ、金の装飾を施した衣を身に纏い、琥珀色の瞳がこちらを見据えていた。
「来たか、挑戦者達よ」
その声は低く、だが澄んでいた。
音の一つひとつに重みがあり、空間全体を支配するような威厳を帯びている。
「我はスフィンクス。願いのランプを求めるなら、知恵を示せ。三つの問いに答えよ。誤れば、永遠にここに囚われる」
朗々と響くその声は、まるで石壁に染み込むかのように静寂を震わせた。
俺はゆっくりと視線を巡らせ、リリア、セレナと目を合わせる。
「――ああ、受けて立つさ」
俺の言葉に、スフィンクス娘の口元がわずかに弧を描いた。
「…よかろう。ならば、第一の問いを始めよう」
その言葉とともに、彼女の背後の空間に、淡い光の文字が浮かび上がり始める。
スフィンクス娘の問いが、空気を震わせるように響いた。
「私には心も体もないが、時に人を導き、時に惑わせる。姿を持たぬのに、形にされることもある。私は何か?」
俺は思わず眉をひそめた。抽象的で、答えの輪郭がつかめない。
隣に立つリリアも、顎に手を添えて真剣な表情をしている。
「心も、体もない…形にされる?概念、なのか?」
俺がつぶやくと、リリアが首を振った。
「概念にしては…“人を導き、惑わせる”って、ずいぶんと意志を持った表現よね」
考えを巡らせるほど、霧が深くなる。
導くもの、惑わせるもの、姿がないが形にされる。
ふと、隣に立つセレナが静かに口を開いた。
「夢よ。心も体もない。だけど、時に人を救いもするし、惑わせもする。
姿なんてないのに、絵や言葉、形として表されることもある…違う?」
彼女の瞳は、迷いなくスフィンクス娘を見つめていた。
どこか確信を持った声色に、リリアも目を見開いている。
「正解だ。よくぞ見抜いた、夢こそがその答え」
その瞬間、壁の一部が青白く光を帯び、何かの仕掛けが動き出す音が響いた。
俺はほっと息をついた。セレナの横顔を見やると、彼女は少しだけ得意げに、
けれど誇るような表情ではなく、静かに微笑んでいた。
「すごいな、セレナ…」
俺がそう言うと、セレナはほんの少しだけ視線を逸らして、照れくさそうに呟いた。
「べ、別に…思いついただけよ」
「続いて、第二の問いを告げよう」
スフィンクス娘の声音は、先ほどよりも一層深く、空間の芯に染み渡るようだった。
「目には見えず、触れることもできぬ。だが、人の心を動かし、時に世界を変える。この世にあって、形のないものとは何か?」
スフィンクス娘の問いが空間に放たれると、再び場が沈黙に包まれた。
俺は眉間に皺を寄せながら、その言葉の意味を頭の中で転がしていた。
セレナも腕を組み、真剣なまなざしで何かを考えている。
リリアは口元に指を添え、目を伏せたまま黙っていた。
言葉が浮かんでは消えていく。思考が堂々巡りになる。
そんな中で、ふと――
「…“想い”よ」
静かに、けれどはっきりとした声が響いた。
俺も、セレナも、思わずリリアの方を向く。
「形はない。でも、誰かを想う気持ちは、時に力を生み、時に争いすら止める。そうでしょ?」
リリアの言葉は、問いの核心を突くようだった。
その瞳はまっすぐで、どこか過去を見つめているようにも感じられた。
想い…それは確かに、何よりも強く、時に人の運命すら動かす。
リリアの言葉が空間に染み渡ったあと、短い沈黙が訪れた。
やがて、スフィンクス娘の唇が再び動く。
「…正答だ。そう…”想い”だ」
その声はどこか誇らしげで、どこか安堵しているようにも聞こえた。
直後、地下神殿に再び響く――ゴゴゴ…という、重々しい石の動き。仕掛けが動き出す音だ。
俺達は反射的に周囲を見渡す。
前方の壁の一部が、砂を撒き散らしながらゆっくりと沈み、奥へと続く階段の入り口が姿を現した。
「やった…!二問目も、突破だな」
「ふふ、ちょっと考えさせられたわね」
リリアはそう言いながら、ゆっくりと視線を落とす。
淡い光を受けた横顔は、どこか遠くを見つめるように静かで、
それでいて胸の奥に秘めた想いをそっと撫でるような、優しい光を宿していた。
スフィンクス娘は、再び静かに目を伏せ、ゆっくりと口を開いた。
「最後の問いを出そう。“目には見えても捉えられず、誰にも奪うことはできない。
だが時に迷い、時に揺れる。それでも、世界にただ一つのもの。私は何か?”」
耳に届いた瞬間、胸の奥がひどくざわついた。
セレナが小さく息をのむ気配がした。リリアも隣でじっと俺を見ている。
でもわかってた。これは、俺が答えなきゃいけない問いだ。
「…“自分”だ」
俺はそう呟いていた。自然と、胸に手が伸びていた。
「たった一つしかない。形も曖昧で、時には誰かに影響されて揺れることもある。
でも…誰かの為に何かを選ぶのも、何かを守りたいと思うのも――それを決めるのは、俺しかいない」
顔を上げる。スフィンクス娘と目が合った。
「だから…それは“自分”。俺自身の、心だ」
俺の言葉が静かに空間に溶けていった。
スフィンクス娘はしばらくの間、何も言わずこちらを見つめていた。
まるで俺の“心の奥”を見透かすような視線。
その瞳には、試すような厳しさも、見守るような優しさも、どちらも含まれていた。
やがて、ゆっくりと口元を綻ばせる。
「…見事だ。答えは“心”あるいは“自分”――正解だ」
その声には、先ほどまでの威圧的な雰囲気はなかった。
むしろどこか、安堵や、満足のようなものが混じっていた。
「誰かに与えることはできても、完全に奪われることはない。揺れ、迷い、けれどそれでも歩もうとする
…それは、確かに“あなた”という存在の証。よく、辿り着いたな」
スフィンクス娘の瞳が細められた瞬間、背後の石壁から低く響く音が鳴り始めた。
それは地中からの振動を伴い、空間そのものが目覚めたかのようだった。
重厚な石の扉が、音を立ててゆっくりと開かれていく。
先に進むための道が、静かに、しかし確かに姿を現していった。
俺達は開かれた扉を見つめながら、しばしその場に立ち尽くしていた。
そんな中、リリアがふと首を傾げる。
「でも、どの問いかけも、なんだか曖昧なものばかりだったわね。
正解なんて、人によって変わるんじゃないかって、少し思ったもの」
問いかけというより、独り言のような口ぶりだった。
けれど、それを聞き逃すはずもなく、スフィンクス娘がゆるやかに微笑む。
「それでいいのだ。曖昧な問いは、曖昧なまま“向き合う”ことに意味がある。
わたしは“正しい答え”を求めていたわけじゃない。“答えを出そうとする心”…その在り方を、試していたのだよ」
その声は、どこか慈愛に満ちていた。
問いは試練でありながらも、導きでもあったのだと、今になってわかる。
スフィンクスは続ける。
「心を持つ者にとって、真実とは一つではないもの。だからこそ、迷い、悩み、時に立ち止まる。
けれど、その先に進もうとする姿こそが、価値ある“答え”となるのだよ」
言葉を終えた彼女は、それ以上何も言わず、再び静かに目を閉じた。
「進もう。この先に…ランプがあるはずだ」
俺がそう口にしたとき、背後で誰かが小さく息を呑んだ気がした。
開いた扉の向こうには、薄暗い空間が静かに広がっている。
◇ ◇ ◇
さっきまでの砂まみれの遺跡とは違う。空気が変わった。
重く、張りつめたような、何かが封じられていた空間の気配。
一歩、足を踏み入れる。足音が、石床に硬く反響した。
砂の匂いは消え、静寂だけが広がる。
広間の中央、金と宝石で飾られた一本のランプが光を放っていた。
封じられた時の気配――それは、まるで生きているようだった。
「おおお…あれこそが、願いのランプ!」
ラシールの声が背後から響いた。興奮と欲望が入り混じったような声色だったが、誰も咎めなかった。
それだけ、あのランプには人を惹きつける力がある。
全員が息をひそめる中、俺は一人、ゆっくりと歩を進める。
一歩ごとに、心臓の鼓動が強くなる。緊張か、それとも期待か。
やがて、台座の目前までたどり着く。
本当に、願いを叶えてくれるのか?
問いは胸の奥で揺れたまま、俺はそっと、ランプに手を伸ばした。
だが、手にしたものの、何も起きなかった。
俺はそっと、ランプを抱えるように持ち上げた。重みはある。
壊れそうな繊細さはない。けれど慎重に運ばなくては。
そう思った次の瞬間だった。
手にしていたランプが、まるで何かが脈打つように震え出す。
「っ……!」
反射的に距離を取ろうとする俺の手を振り払うように、
ランプの注ぎ口から、黒紫がかった煙が一気に噴き出した。
「なんだ…これ!」
煙は床を這い、天井にまで届く勢いで広がっていく。
咳き込みそうなほど濃密で、視界がどんどん白んでいく。
煙の中心が渦を巻き、人の形が浮かび上がる。
腰から下は煙そのもので、足はない。宙に浮かぶ身体は艶やかな褐色の肌に包まれ、
胸元や肩を大きく露出した異国風の衣装をまとっていた。
金色の装飾を身体に巻き付き、まるで踊り子のように華やかだが、どこか妖しげな気配も纏っている。
長い黒髪はゆるやかな波打つような巻き髪で、額には金の飾り。
見つめられるだけで、心の奥に何かを見透かされるような瞳。
「ああん?誰よ、こんな時間に叩き起こすのは」
ハスキーで艶のある声が、空間を震わせるように響く。
「…お前は、ランプの精霊か?」
女は手を翻し、舞うように煙の中をくるりと回る。
そのたびに煙が撹拌され、周囲の視界がさらに曖昧になる。
「我が名はジンニーヤ。あなたね?私を目覚めさせたのは。いったい、どんな願いを抱えているのかしら?」
彼女の唇に浮かぶ笑みには、どこか試すような色が滲んでいた。
「願い…?」
俺が思わずそう繰り返すと、ジンニーヤは妖しく微笑んだ。
「そうよ。私を呼び起こしたんだから、願いを叶えて欲しいんでしょ?どんな願いでもひとつだけ、ね?」
「いや、俺は…」
言葉に詰まった。そうだ、これは女王パトラの命令で持ち帰るために来ただけ。
別に願いを叶えてほしいなんて、一言も言っていない。
ふと、セレナの言葉が脳裏をよぎった。
『やっぱり…元の世界に帰りたい?』
それが実現すればどうなるか。
リリアやセレナ、皆と別れることになる。それは、今の旅が終わるということだった。
わかってる。けど、それでも願うべきなのか?
胸の奥が締め付けられる。迷いの中で、俺はちらりとリリアとセレナの方を向いた。
リリアは優しく微笑んでいた。けれど、それは彼女特有の“余裕ある微笑”ではなかった。
わずかに眉が下がり、どこか寂しげな憂いを帯びていた。
彼女は何も言わず、ただ静かに、俺の選択を見守っている。
一方で、セレナは真っすぐな視線を向けていた。
それはまるで、俺の中にある迷いを見透かすような、鋭さと優しさの混じった眼差しだった。
そして、その奥には『あんたの答えを、聞かせて』と言いたげな、覚悟すらにじんでいた。
その視線を受け止めた瞬間、喉が願いの言葉を飲み込んだ。
「……っ」
どうしても、一言が口から出せない。
そんな中、沈黙を破ったのは――
「ならば私の願いを叶えてくれ、ジンニーヤよ!」
突然、後方から鋭く割って入るような声が飛ぶ。
視線の先で、ラシールが一歩前に進み出ていた。
その目には、今まで見せたことのない鋭さと欲望に近い光が宿っていた。
「なっ…!」
「私に、力をくれ!」
「ラシール、何言ってるんだ!」
思わず声を張り上げた。だが彼は俺の言葉など意に介さない。
むしろ、忌々しげに俺を睨み返してきた。
「うるさい!貴様が願いを言わぬのなら、私が叶えてもらうまでのことだ!」
その目には、もはや理性など残っていなかった。
熱に浮かされたような眼差しで、ラシールはまっすぐにジンニーヤへと向き直る。
「アンタ、女王の命令に背く気!?」
セレナが低く、鋭く言い放つ。
ラシールを睨みつける視線は、今にも石化の魔眼を解放せんばかりだった。
「ふふ、面白い展開になってきたわね」
ジンニーヤが楽しげに笑った。興味深そうにラシールをじっと見つめ、
まるでおもちゃを手にした子どものように、目を輝かせている。
「いいわよ、あなた。どんな力がほしいの?」
その問いに、ラシールは一歩踏み出し、堂々と言い放った。
「女王パトラにも勝る…この国を、民衆を統べる力を、私に!!」
俺の背筋に、ぞわりと嫌な汗が流れた。
狂ってる。こいつ、本気で王座を奪うつもりだ。
そんな思考が頭をよぎった直後だった。
ラシールは、迷いも躊躇もなく俺の横をすり抜け、まるで邪魔者を払いのけるかのように肩をぶつけてきた。
俺は台座の縁に足を取られ、一瞬体勢を崩す。
「ジンニーヤよ…さあ、早く願いを叶えろ!」
その声にはただ、確信と欲望だけが滲んでいた。
まるで、これは最初から自分の権利であると言わんばかりに。
「カケル!彼を止めて!」
リリアの叫びが耳を貫く。だが俺は即座に、動けなかった。
その一瞬の隙を、ジンニーヤは逃さなかった。
「では、契約は成立ね。あなたの願い、叶えてあげる」
ジンニーヤは口元を吊り上げ、満足げに微笑むと、ゆっくりとラシールの上へと浮かび上がった。
その手が優雅に、しかし迷いなくラシールへと向けられる。
眩い黄金の光がラシールを包んだ。
目の前の空間が揺らぎ、ラシールの輪郭がおぞましく歪みはじめる。
俺は、息を呑むしかできなかった。
何かが、決定的に壊れた。
取り返しのつかない「何か」が、今まさに動き出したのを、肌が、魂が、確かに感じ取っていた。
光の中心で、ラシールの姿が急激に変貌していった。
最初はただの閃光だった。だがそれが収まると、そこに立っていたのは、もはや人間とは呼べない異形の存在だった。
ラシールの身体が膨れ上がっていた。
細身だった体格は筋骨隆々とした巨躯へと変わり、腕は丸太のように太く、
手の甲からは黒い棘のような角質が隆起している。
白だったローブは裂け飛び、その下からは金属質にも見える漆黒の肌が露わになっていた。
彫りの深かった顔立ちはさらに誇張され、顎は突き出し、口元には鋭い牙が覗く。
目は燃えるような赤に染まり、額には魔力の紋様が浮かび上がっていた。
まるで、魔そのものが肉体を得て立ち上がったような、そんな威圧感があった。
「ほう…これが、ジンニーヤの“力”か」
低く、重く、地を震わせるような声。
それは、かつてのラシールの声とは似ても似つかなかった。
声帯そのものが、別の何かに置き換わったかのように、異質で、禍々しい。
「見ろ、パトラ…!もはやこの身には、王の器すらも過ぎた力が宿っている…!」
ラシール――いや、“魔人”と化した彼は、天を仰ぐように両腕を広げる。
その背後で、砂の地面が低く唸るように震え、細かな粒子が浮き始めた。
魔力の奔流が暴風となって周囲を駆け巡る。
それは、今まで出会ってきたどの敵とも違う。
知性、野望、そして“願い”に裏打ちされた力。
それが融合した、異形の存在。
この男は本気で、世界を握ろうとしている。
「ふはは…これが、力…!この身に満ちる力こそが、真に国を導く資格の証だ!」
ラシールが右腕を振り上げると、後方に控えていた精鋭兵たちが呻き声を漏らし、膝をついた。
彼の掌から発せられる赤い魔力が、まるで彼らの身体に杭を打ち込むように突き刺さっていく。
「さぁ…忠誠を示せ。我が意志に従い、この愚か者達を討て!」
「う…あ…が、があああっ!」
精鋭兵の一人が、目を血走らせながら刃を抜いた。
もう一人も、苦悶に歪んだ顔のまま、得物を構える。
「やめろ、ラシール!」
「もう遅いわよ。命じられたら止まれない、それが“力を与えた者”と“受けた者”の契約なのだから」
ジンニーヤがどこか他人事のように肩をすくめた。俺は歯噛みした。
「カケル、任せなさい!」
リリアが跳ねるように前へ出た。セレナもすぐに彼女に並ぶ。
「アンタは、あの男を追って!」
精鋭兵達が叫びを上げながら突進してくる。
リリアとセレナがそれを迎え撃つ刹那、ラシールは巨大な翼のような魔力の奔流を背にまとい、
笑みを浮かべて天へと舞い上がった。
「王都へ…この国の玉座は、私のものとなる…!」
砂を巻き上げ、ラシールの姿は空の彼方へと消えていった。
「くそっ…逃げられた!」
空を見上げた俺の瞳に、もうラシールの姿はない。
彼は、圧倒的な跳躍力と飛翔魔術を併用して、天井の崩れた空間から遥か上空へと姿を消していた。
胸の奥に、焦燥と怒りが混ざり合う。このまま、放っておけるはずがない。
俺は台座の上にぽつんと残された、あの金色の装飾が施されたランプに目を向けた。
近づき、慎重にそれを両手で抱き上げた瞬間だった。
「ふふ…やっぱり、あなたが持つのね」
不意に、背後から艶やかな声が聞こえた。
驚いて振り返ると、煙のように現れたジンニーヤが、俺のすぐそばに浮かんでいた。
その表情は嬉しそうで、どこか意味深だった。
俺はしっかりとランプを抱き直す。
追わなきゃいけない。今すぐにでも。
ファルナート王国の王都。あいつは、あそこへ向かった。
「必ず止めてみせる!」
その声に、ランプの中から、かすかに鈴の音のような笑いが返ってきた。
迷っている暇なんてない。
叫びと共に、俺は遺跡の外へ向けて駆け出した。




