散りぬるをも、なお君を⑧
登場人物
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
桔梗
種族:人間と妖怪のハーフ(くのいち)
月嶺景継に仕える五華衆の一人。多彩な忍術を持つ。
蝋燭の炎が揺らめく、古びた座敷の中。隙間風が障子を微かに鳴らしている。
私の前に立つのは、くノ一の桔梗。
その尖った耳からして普通の人間ではない。
恐らく人間と魔物娘――いえ、妖怪娘とのハーフといったところね。
畳の上で向かい合った私達を、蝋燭の揺れる灯りがぼんやり照らす。
外はすでに夜。障子の向こうには闇が広がり、虫の音さえ聞こえない。
静寂が、逆に戦いの幕開けを告げていた。
「景継様に仇なす者は、何人たりとも某が討つ」
主である景継を守ろうとする彼女は凛としていて…でも、どこか痛々しいほど真っ直ぐ。
ふふ、こういうタイプ、嫌いじゃないわ。
「あらあら、そんなに肩肘張って……可愛いこと言うのね?」
からかうように微笑むと、桔梗ちゃんの目が僅かに細くなる。
次の瞬間、わずかに手が動いた。
「――行くぞ淫魔」
ろうそくの炎が揺らぎ、彼女の姿が、ひとつ、ふたつ、みっつ……と増えていく。
(分身の術ってやつね…)
四方を取り囲むように桔梗が現れた。幻か、それとも実体か。
だけど――その気配、その“匂い”はごまかせない。
「そこよ」
気配の密度、息遣い、足の運び――ごまかせると思った?
私はすぐさま左手奥――本体の気配を纏った彼女に踏み込み、腰をひねる。
爪先が彼女の顔面に届く寸前、煙が巻き起こる。
「ちぇっ、逃げられちゃったかぁ…」
木片がパタリと落ちた。今度は身代わりの術ってやつね。
でも、彼女の焦りは隠せてなかったわ。
(さあ、次はどう出る?)
その答えはすぐに返ってきた。
再び術印。今度は全ての桔梗が、一斉に斬りかかってきた。
迷う理由はない。
「今度はそっちね!」
私は真正面にいた“本物”へ、回転しながらの蹴りを叩き込んだ。
バシィッ!!
鈍い音とともに、彼女の頬に爪先が食い込む。
宙に舞うようにして畳の上を滑り、柱に背を打ちつけて崩れる彼女。
「……くっ」
よろめきながら立ち上がる彼女は、頬を押さえながら私を見つめた。
頬を押さえる桔梗の手が微かに震えていた。
彼女の目が、ほんの一瞬、迷った。
「なぜ…見極められる…?」
その問いには、本音が混じっていた。動揺。疑念。
私はクスクスと笑って、わざとおどけてみせる。
「なんでかしらね~。私、勘がいいのかしら?それとも…貴女が、わかりやすいのかしら~?」
指先をくるりと回しながら、からかうように。
でもその実、私の瞳はしっかりと、彼女の奥底に向けられていた。
(景継様、ね…。貴女は彼の“剣”になろうとしてる。
その痛々しいほどの忠誠心が、隠しきれてないのよ)
まぁ忠誠心で言ったら私も魔王様に仕えてる身なんだけどね。
桔梗の雰囲気が変わったのは、ほんの一瞬のことだった。
結びかけた印が切れ味を帯び、瞳の奥が冷たい光を灯す。
(あらあら……)
私は唇に笑みを浮かべながらも、肩越しに流れる空気の密度を読み取っていた。
術の気配、殺気の色、それが明らかに“先ほどまで”とは違う。
桔梗はもう本気で私を仕留めに来る気ね。
「貴様だけに構っている暇はない。さっさと沈める!」
桔梗の口から吐き出されたその言葉に、私の頬が自然と緩む。
艶めいた笑みを浮かべて、私は片手をひらひらと振って応えてやる。
「うふふっ。あらあら、もう本気だしちゃうの?もっとゆっくり愉しみましょうよ~?」
だが、その挑発にも桔梗は応えない。
代わりに結ばれる印、込められる魔力――
「火遁・焔狐ノ舞!」
咆哮のごとき炎が突如として床から噴き上がった。紅蓮の狐火がうねるように私に襲いかかってくる。
「ふふっ、見た目は派手だけど――」
私はヒールを軋ませ、ふわりと横へ跳ねる。だが、その炎は地面を舐めながら追尾してきた。
(しつこいわね……!)
炎の尾が引く間もなく、次の印。
「水遁・水斬槍!」
凍えるような水が槍となり、鋭い音を立てて一直線に突き抜けてくる。
先ほどの炎との連撃により回避のステップがわずかに鈍った。
「っ……!」
左脚に鋭い痛みが走った。避けきれなかった……!
太ももに熱い感触。見ると、細く深い裂傷から鮮やかな赤が滲んでいた。
水の残滓が冷たく肌を這う。
さっきまでの攻撃より格段に鋭く、迷いがない。これは牽制じゃない、本気の一撃。
「やるじゃない…桔梗ちゃん!」
息を吐きながら体勢を低く取る。傷の痛みがじわじわと広がっていくが、
意識を奪われるわけにはいかない。
あの瞳…読み違えたわね。彼女、私の力を見抜いたうえで、最初は探っていた。
「土遁・牙衝柱!」
足元の床が震え、石柱が牙のように生えて突き上がってくる。
「くっ…!」
私は咄嗟に跳躍し、石柱の縁を蹴って回避する。けれど、負傷した左足がバランスを崩す。
足場をしっかりと掴めず、空中でわずかに体勢が傾く。どうにか着地はするも、膝が地を擦った。
「雷遁・神閃落!」
追い打ちとばかりに空から奔る紫電――稲妻が私を貫こうと降り注ぐ。
直撃は何とか回避したものの、余波が周囲に迸り、
私は電撃に弾かれたような衝撃を背に受けてよろめいた。
「……いいじゃない。やっと、少しは楽しめそうね」
私の唇に笑みが浮かぶ。身体に傷を負いながらも、血が逆流するような昂りが胸を満たしていた。
「影縫い・夜縛紋!」
術符が床に落ちた瞬間、私の足元に這うように黒い線が伸びた。
影がじわじわと広がり、まるで毒を含んだ蛇のように絡みついてくる。
――これはまずいかしらね。
跳ぼうとしたその瞬間。
膝から下が、影に縛られたようにピクリとも動かない。
「捕らえた…!」
桔梗の言葉に私はニヤリと口角をあげて、魔力を足元に集中させる。
「ふっ!」
そして足元にこめた力を解き放った。
足の裏から小さな爆風が走る。
私の立っていた畳が――文字通り、浮いた。
畳一枚がふわりと宙に舞い、その下に張りついていた影が、重力を失ってバラバラに砕け散る。
「なっ……!?」
桔梗の声が跳ねた。
私は空中で軽く身をひねり、くるりと半回転。畳が落ちる前に床へ舞い降りる。
「しつこい男も術も、嫌われちゃうわよ~?」
指先に魔力を集める。空気が震えた。
背後に生じた渦が膨らみ、音もなく割れる。
「そろそろ、私も本気…出しちゃおっかな~?」
瞬間、二体の“私”が現れる。
桔梗の目がわずかに見開かれる。
そう、それが正解よ。今度は私の番。三人で、貴女を愉しませてあげるわ。
「分身などで、某が怯むとでも…!」
彼女はそう吐き捨てるように印を結ぶ。
「火遁・焔狐ノ舞!」
またしても紅蓮の狐火が咆哮を上げる。三人の私達に向かって、螺旋のようにうねり襲いかかってきた。
「……」
けれど三人の私達は、合図など交わさずとも自然と散開する。
ひとりは宙を跳び、ひとりは前へ踏み込み、もうひとりは背後へと滑るように後退。
まるでそれぞれが意志を持っているかのように、流れるような動きで炎を避けきった。
「なにっ…!?」
桔梗の目が大きく見開かれる。そう、今のは“ただの分身”じゃないのよ。
それらは、ただの幻影でも残像でもない。
魔力の奔流で造られた、限りなく私に近い分身。れっきとした“私”。
表情も、呼吸も、戦意さえも――完全に同期した、私のもうひとつの身体達。
「いくわよ」
口角を上げて囁くように告げたときには、もう動き出していた。
右の私は、彼女の懐に入り込み――
「ふっ!」
その顔面に向かって真っすぐ蹴りを叩き込む。
左の私は、くるりと旋回しながら低い軌道をとり――
「よいしょっと♪」
脇腹へと鋭く蹴りを放つ。
そして私は、視線を落としながら――
「おみ足、いただくわね~?」
彼女の右足首に狙いを定め、つま先で打ち込んだ。
三方向から放たれた蹴撃。それぞれがわずかにタイミングをずらしながら、寸分の狂いもなく彼女をとらえた。
「が、はっ……!」
三点同時の衝撃に桔梗の身体は弾かれ、畳の上を転がって柱際まで吹き飛ばされた。
それを見下ろしながら、私達三人はふわりと並んで立つ。
そして、同時に口元を綻ばせた。
「――うふふ、ねぇ桔梗ちゃん。楽しくなってきたでしょ?」
床に崩れ落ちた桔梗は、膝をついたまま肩で荒く息をしていた。
顔の片側は赤く腫れ、唇の端から血が滲んでいる。
それでも彼女の目は、なおも鋭さを失わず、私をまっすぐ睨んでいた。
「貴様…まさかこれほどとは…」
搾り出すような声。それは驚きと、どこか誇りを保とうとする気概に満ちていた。
私は軽く肩をすくめ、微笑を浮かべる。
「それはそうよ。これでも私、魔王アビス様の側近なんだもの。舐めてもらっちゃ困るわ」
「だが……」
桔梗は震える膝で立ち上がろうとする。
「某は、景継様への忠義のため…引くわけにはいかないのだ…!」
その言葉に、私は少しだけ顔を曇らせた。
そして、ふっと小さく息を吐いて、ゆっくりと桔梗に歩み寄る。
「ねぇ、桔梗ちゃん。貴方、そんな生き方で…本当に満足なの?」
「…何…だと?」
桔梗の瞳がわずかに揺れた。怒気ではない。
困惑、戸惑い、否応にも揺さぶられた内心――そんな感情が垣間見えた。
「貴方は忠義に生きてきた。それは、確かに立派なことよ。でも…その奥底に、ちゃんと“愛”があるのかしら?」
「愛…だと…」
桔梗は苦しげに唇を噛んだ。
「某は、ただ…若様の命に従うのみ。それで…」
「それだけじゃダメよ」
私は彼女の言葉をやさしく、しかしはっきりと遮った。
「それは本当に、“貴方の”願いなの?貴方の人生なの?」
桔梗の目が再び揺れる。けれど今度は、それを隠そうとしなかった。
「私はね、愛する人のために、身も心も惜しみなく注ぎたい。だって、それが“生きる”ってことだと思うから」
しばしの沈黙の中、桔梗はようやく、うつむいたまま、震える声で呟いた。
「某は…ただ…姫君を亡くした、景継様のために…」
その声は、強い決意ではなく、拠り所を失いかけた誰かの――心の奥底からの悲鳴のようだった。
桔梗の瞳はまだ私を捉えていた。忠義に殉ずる者の眼差し。
だけど、そこに混じるわずかな揺らぎ――私には、それがちゃんと見えていた。
「某は…某は、引くわけにはいかないのだあああああああああッ!!」
叫びとともに、彼女は印を結んだ。
瞬間、白煙が弾け、視界がぼやける。部屋に充満するのは煙と、殺気。
そして――足音。再び分身を作りだし、私達を取り囲む。
「貴女には、これ以上言葉で伝えてもダメね」
三人の“私”は、言葉を交わさずとも通じ合っている。
桔梗の気配の揺れ、視線の迷い――
わずかな兆しを読み取って、私達は本体に向かって同時に動いた。
「これで、おやすみなさい――!」
一人目の私が、すっと横合いに回り込み、桔梗ちゃんの頬に強烈な蹴りを浴びせる。
二人目の私は、わき腹へ回り込み、的確に重心を崩す一撃を。
そして、三人目の私は低く身を滑らせるように忍び寄り、彼女の足元へと――膝裏に、最後の一撃を叩き込んだ。
「ぐッ……!」
桔梗の身体が浮き上がる。そのまま、畳の上に叩きつけられるように倒れ込み、空気を裂いた衝撃音が耳に届いた。
静かになった室内で、彼女のかすれた呼吸音だけが響いていた。
「某が…負けた…だと…」
倒れた桔梗の体が、微かに痙攣している。
まだ完全に意識を手放してはいない…けれど、それも時間の問題だとわかった。
私はゆっくりと近づき、しゃがみこむ。
分身達はもう、役目を終えたかのように霧のように溶けて消えていった。
桔梗の顔は汗と埃にまみれ、呼吸は荒く、それでも――何かを守るようにきつく唇を噛んでいた。
「……どうか、もう少しだけでもいいから」
私はそっと、その頬に手を添える。敵として戦った相手に、こんな風に触れるのはきっとおかしい。
でも、それでも――私は、言わずにはいられなかった。
「もう少しだけ、自分の心にも…目を向けてあげて、ね」
それは祈りにも似た囁きだった。
桔梗は何も答えなかった。ただ、その言葉を聞いた直後、ふっと全身から力が抜けて――静かに、目を閉じた。
気を失ったのだと、私はすぐに気づいた。
でもその眉間の皺が、ほんのわずかに――緩んでいたように見えた。
……そう、これで勝負はついた。
でも、不思議と胸にあるのは勝ったという高揚じゃない。
ただ、ほんの少しだけでも、彼女の心に届いていればいい――そんな小さな願いだけが、心に残っていた。