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散りぬるをも、なお君を⑥

登場人物

セレナ

種族:メデューサ

アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。


エリシア

種族:エルフ

精霊と心を通わせたり、精霊の力を行使できる。


彼岸

種族:大百足

月嶺景継に仕える五華衆の一人。強硬なムカデの下半身を持ち、毒の息を吐く。

目が覚めた時、そこは見知らぬ部屋でした。

ほんの先ほどまで皆様と一緒にいたはずなのに今や、その気配はどこにも感じられません。

(……分断されたのでしょうか)


胸の奥が、ふるりと小さく震える。

けれど、すぐ傍らにセレナさんの姿を認めて、ほんの少しだけ安心しました。

どうやら私達は、二人きりで取り残されたようです。


「セレナさん…」

「平気よ、エリシア。でも油断はしないで」


毅然とした口調のセレナさんにうなずきながら、

私も精霊の気配へと意識を傾ける。

けれどこの場所は、あまりにも空気が重たく、冷たく沈んでいました。

まるで湿った闇が、じっと私達を観察しているかのような。

そんな、ひどく居心地の悪い感覚がありました。


──ズズズ……。

床を這うような低い振動音が響き、ゆらり、とその“存在”は現れました。

私の視界に飛び込んできたのは、異様に長い体躯を持つ巨大なムカデ。


赤黒く光沢を放つ硬質の外殻、その無数の脚が這いずるたびに耳に障る音を奏でていました。

そして上半身は人間の姿をした妖しげな女性。


細身で華奢な身体に、黒を基調とした落ち着いた和風の着物。

その布地には鮮やかな彼岸花の紅が散りばめられている。

長く艶やかな黒髪、その中から揺れる二本の触覚。

そして何より印象的だったのは、その伏し目がちの紅紫の瞳――その下に濃く刻まれた、疲弊の滲むくま。


不健康そうな顔立ちなのに、そこから滲み出る狂気の気配に、背筋が粟立ちました。

その女性は、まっすぐに私を見据えています。


「……姫様」


(姫様……?)


「姫様…やっと…やっと、またお会いできました…彼岸はもう、もう…絶対に…離しません…」

彼女はまるで陶酔したかのように、恍惚とした笑みを浮かべていました。


「貴女、私を誰かと間違えて――!」


思わず声を上げますが、彼岸と名乗った妖怪娘はまるで聞いていないようです。

熱に浮かされたように、ゆらりゆらりとムカデの長大な体を蠢かせながら、私達にじりじりと近づいてきました。


セレナさんが私の前に出て、魔力を練り始める。

私も弓を構え、いつでも矢を放てるよう精神を集中させます。


「…こいつも五華衆?面倒な相手になりそうね」


セレナさんの呟きが静かに響く中、彼岸の狂気がこちらを包み込もうとしていた。


「姫様…今度こそ…永遠に、お側に…」

次の瞬間、彼岸の巨大な身体が、ずるりと音を立てながら加速してきました。

あまりの速度に目が追いつかない――! 


「来るわよ、エリシア!」

セレナさんの声と同時に、私は咄嗟に弓を構える。

そして精霊の加護を宿した光の矢を放ちました。

同時にセレナさんの掌から火球が炸裂し、彼岸へ向けて一直線に飛んだ。


ズバン!ガギィィン!


私達の放った矢も炎も、ムカデの下半身の外殻によって弾かれてしまいました。

赤黒く光沢のある分厚い甲殻が、まるで鋼鉄のように攻撃を弾き返しています。

小さな焦げ跡が残るだけで、ほとんど傷を与えられていないようです。


「硬いですね…!」


「姫様…逃げないで…今度こそ、ずっと…お側に…」

彼岸はさらに距離を詰め、巨体を巻くように這わせてきます。


彼岸の紅紫の瞳が、熱を孕んだ執着心で私を見つめていました。

まるで何かを“取り戻そう”としているかのように。


「エリシア、下がって!そびえろ!ブレイズウォール!」

セレナさんが前に出て、再び魔法陣を展開した。

今度は火の壁を生み出し、迫る胴体を炎で押しとどめました。


ブワアアッ!


熱風が巻き起こり、彼岸は一旦ムカデの胴体を引き絞るように退きました。

だが怯む様子はありません。炎に包まれながらも、彼岸の上半身は微動だにせず、その瞳はなおも私を射抜いていました。


「姫様…やっぱり…側に来てくれないのですね…」 

彼岸の声が震え始めました。

その表情には、寂しげな微笑みと歪んだ苦しみが入り混じっていました。


「……上半身を狙うのよ!」

セレナさんの鋭い指示に私は頷き、再び弓を引き絞りました。

狙うべきはあの華奢な上半身、彼岸花の着物を纏う胸元です。

ですが、彼岸はムカデの体をくねらせ、再び高速で横滑りしながら迫ってきました!


「……姫様ぁ!」

その叫びは、まるで狂気と哀願が混ざり合った声でした。

彼岸にとって私は、完全にその「姫様」と重なってしまっているようです。


(捕まれば…もう終わり…!)

私は必死に呼吸を整え、矢をつがえ直す。


「姫様…苦しまなくても、いいんですよ…」

すると、彼岸はゆっくりと吐息を漏らしました。

それは普通の呼吸ではなく、緑色を帯びた靄のような吐息が、もわりと広がっている。

まるで霧のように、その濃密な毒の靄が私達を包み込み始めました。


「…セレナさん!」

「吸っちゃダメ!これは毒よ!」


セレナさんがすぐに判断し、私の腕を引いて後方へ下がりました。

ですが、既にわずかに吸い込んでしまったようです。

胸の奥が僅かに重く、手足が微かに痺れ始めてきました。

息苦しさもじわじわと広がっていく。


(麻痺……?)


足先が少し重く感じる。

動きが遅れるほどではないけれど、わずかな遅滞が生じ始めているのが分かります。

セレナさんも苦しそうに眉をひそめながら、魔法陣を練り直していました。


「…ふふ、姫様…こちらに、いらしてください…」 

彼岸は静かに、だが確実に距離を詰めてくる。

毒の靄は部屋全体に広がり、逃げ場はもうほとんど残されていません。


「風よ、舞え!ウィンドウォード!」 

セレナさんの掌から魔法陣が展開し、部屋に強風が吹き荒れる。

渦巻く風が毒霧を一時的に薄め、視界がわずかに開けました。


「今よ、構えて!」

「…はい!」

私は再び弓を引き絞りますが、麻痺の影響で思うように力が入らない。


「姫様ぁ…今度こそ…捕まえますからぁ…!」

その隙に彼岸は硬質の外殻をまるで鉄壁のように固めながら突進してきた。

彼岸の巨体が渦を巻くように蠢き、私達を包み込もうと迫ってくる。

 

「氷よ、縛れ!アイスクラッチ!」

セレナさんが続けざまに詠唱を紡ぐ。

冷気が一気に部屋の床へ広がり、ムカデの下半身が滑るように凍り始めました。


ギギギ……バキィン!


赤黒い外殻が凍り、わずかに軋む音を立てた。

彼岸の巨体が一瞬だけ鈍る。


「うぅぅぅ…!」

彼岸は呻き声を漏らしながらも、凍った部分を無理矢理砕くように身体を捻り、再び滑走してきました。


「セレナさん…!」

「くっ、やっぱり…完全には止まらない…!」

セレナさんも毒のせいで反撃の詠唱が遅れ始めていた。


(…もう、限界が近い…!)

毒と圧迫と幻影。私達はじわじわと追い詰められていく。

そして彼岸の巨大な身体がぐるりと私を巻き取り、がっちりと締め上げた。

逃げ場はもう、どこにもありませんでした。


「姫様…もう…離させません…っ!」

彼岸の声がますます熱を帯び、その瞳が狂おしく潤んでいました。


「ぐぅ…ああっ…!」

身体が締め付けられるたび、呼吸もどんどん浅くなっていく。


「――エリシアッ!!」

視界の端に、必死にこちらへ駆け寄ろうとするセレナさんの姿が見えました。

けれども彼岸のムカデの巨体が、その進路を完全に塞いでいます。

私を守ろうとするセレナさんの気迫が痛いほど伝わってきます。


「っ…セレナさん…大丈夫、です…私、まだ…!」

私は心の奥底で静かに決意を固めました。


「…もう、逃がしませんよ、姫様」 

彼岸が顔を近づけてきた。

彼女の瞳が、間近にあってもなお伏し目がちで潤んでいます。


「…あの頃は…姫様も、景継様も…幸せそうだったのに…」

小さく嗚咽するように彼岸は語り始めました。


「なのに…あの病が…姫様を蝕んでいって…」

「私には…何もできなかった…何も…!」 


彼岸の腕が震えているのが伝わってきます。

彼女は必死に、姫様の命を助けようとしたのでしょう。

だけど、それができなかった。

だからこそ、今の彼女はここまで病んでしまった。


「私…ただ…お二人が幸せでいてくれれば、それだけでよかったのに…」 


私はその姿に、どうしようもなく哀しみを覚えました。

私はゆっくりと、両腕を伸ばす。

ぎこちなく彼岸の頬に手を添え、そのまま肩へ腕をまわして、そっと抱きしめました。


「もう、大丈夫…苦しまなくていいんですよ…」

彼岸は驚いたように目を見開き、しばらく動けなくなっていました。


「姫…様…?」

私はそこで、精一杯の声で叫んだ。


「今です! セレナさん!」

セレナさんがすぐに詠唱が走らせる。


「…本当にいいのね、エリシア!」 

私の決意を受け取った彼女は、躊躇いながらも両手を突き出した。


「撃ち貫け!サンダークラッシュ!」

バチバチと雷光が奔り、私と彼岸を包み込む。


ズガアアアアアアン!!


強烈な電撃が彼岸の全身に駆け巡り、その身体が激しく痙攣する。

蠢いていた下半身が崩れ落ち、締め付けも緩んできました。


「うああああ…!あああああ…っ…!」

彼岸は苦しげに叫びながら、最後は力なく崩れ落ちました。


静寂が戻る。

私は崩れ落ちそうになったが、直後――


「エリシア!」

セレナさんはすぐに私の身体を抱き起こし、驚きに目を見開いている。


「…っ!?平気なの…?」

私を包んでいたのは――淡い光の球体。

まるで精霊の加護が生み出した透明な結界のようでした。


「…恐らく、精霊達が…私を守ってくれたのだと思います…」 

セレナさんは呆然としながらも、やがてホッと息を吐いた。


「…やれやれ。心臓に悪いわよ、ほんとに…」

私は思わず苦笑してしまった。

だが、その笑いは自然と零れていた。


(ありがとう、精霊達……)


倒れ伏した彼岸は、静かに痙攣を止め、身動きしなくなっていました。

まだ微かに上下している胸――命は、繋がっているようです。


私はそっと膝をつき、彼岸の顔を覗き込む。

伏し目がちなその表情は苦悶を抜け、穏やかさを取り戻しているように見えた。


「…よかった」

私は静かに微笑み、そっと彼女の頭に手を伸ばす。

長い黒髪を撫でるように、ゆっくりと優しく手を滑らせた。


「もう、苦しまなくていいんですよ…おやすみなさい」

彼岸の唇がわずかに微笑んだ気がしました。

そして、そのまま深い眠りへと落ちていった。


隣でセレナさんがホッと息を吐く。

私達は、ようやく――この戦いを終えたのでした。

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