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散りぬるをも、なお君を⑤

登場人物

カケル

種族:人間

主人公。異世界に召喚された青年。


月嶺景継

種族:人間

ジパングを治めている人物であり、人間側の長。


桔梗

種族:人間と妖怪のハーフ(くのいち)

月嶺景継に仕える五華衆の一人。多彩な忍術を持つ。


エルザ

種族:サイクロプス

鍛冶職人。ライアとは幼馴染。


撫子

種族:鵺

月嶺景継に仕える五華衆の一人。霧を用いた術と爪による攻撃が得意。

俺は、静まり返った城内の回廊をひとり進んでいた。

分断された直後から、どれほど歩いただろう。

似たような造りの廊下が幾度となく続き、障子も柱も同じに見える。

方向感覚すら徐々に曖昧になっていく感覚に、心の底で焦りが募っていく。


(……仲間達は無事か?)


不安が胸をかすめるたび、足を止めそうになるのを必死に堪えて歩き続ける。

だが、次第に胸を締め付けるような静けさが耳に染み付いていった。

まるで、この城全体が生き物のようにこちらをじっと監視しているかのような、不気味な気配さえ漂っている。


そんな時だった――


――すっ、と微かな気配が背後に立った。


「……!」

咄嗟に振り返る。

そこにいたのは、静かに闇から歩み出る一人の女だった。

長身の細身、尖った耳に人ならざる気配。

静かに歩み寄った彼女は、一礼もなく淡々と口を開く。


「――某は桔梗。景継様にお仕えする五華衆の一人にございます」

「…桔梗…五華衆の…」

思わずその名を反復する。

ヴァネッサから聞かされていた名前。五華衆の一角が今、俺の前に立っているのだ。

桔梗は無表情のまま、さらに続ける。


「探しておりました、客人殿。――景継様がお待ちです」

「…俺を?」

「はい。景継様直々に、貴殿を謁見の間へとお招きするよう、命を賜りました」

桔梗の声音には感情の起伏がほとんどない。

だが、どこかで鋭く観察されているような妙な緊張感が纏わりつく。

彼女の細い双眸は、まるで俺の内側まで見透かしているようだった。


(…仕掛ける気はなさそう、か)

今は無闇に警戒しても仕方がない。

それに、景継――あの男の姿を、今は自分の目で確かめたい。


「…案内してくれるか」

「御意――こちらへ」

桔梗は音もなく背を向け、俺を導く。

その背中を見つめながら、俺は無言のままついていく。

廊下の奥に進むほどに、空気はさらに冷たく重く感じられた。

まるで城そのものが深淵の中心へと誘っているようだった。


しばらくの沈黙の後、桔梗は金縁の襖の前で静かに立ち止まる。

白地に繊細な筆致で描かれた墨絵の月と峰が、静かに家紋の意匠をなしていた。


「こちらが謁見の間にございます」

そう告げると、桔梗は両手で襖の引手に指をかけ、音もなく――ゆっくりと開け放った。


――静寂。

そして、その奥に待っていたのは――


高座に座る一人の男。

黒地に銀糸の刺繍があしらわれた羽織袴を纏い、胸元と背には月と峰を重ねた家紋が静かに浮かぶ。

艶やかな黒髪は丁寧に結い上げられ、腰には象徴の太刀を佩く。

その姿は、まさしく格式高き大名――この国を束ねる「殿」と呼ぶに相応しい威厳を放っていた。


しかし――その穏やかな微笑みの奥には、わずかに滲む闇が確かに存在していた。

背後にゆらゆらと漂う瘴気のような妖気が、目には見えぬ圧迫感を静かに放ち続けている。


――月嶺景継。

ジパングの人間側の長にして、この城の主。

そして――五華衆の忠義を一身に集める男。


「…遠路よりよく参られたな、客人よ」

柔らかな声が、静寂を破った。

その声音は穏やかでありながら、背筋に冷たいものが走る。

まるで微笑の奥に別の何かが潜んでいるかのようだった。


「…貴方が、景継殿か」

「左様――我こそが、月嶺景継。ここジパングを治める者にて、この城の主よ」


柔和な微笑を浮かべたままのその姿に――

俺は、胸の奥に微かな違和感を覚え始めていた。


(…やはり、ただの“人間の長”ではないな)


「思っていたよりも…丁重に迎えてくれるんだな」

「――礼を欠くは、この国の主として恥ずべき振る舞いであろう。

客人を迎える以上、礼節は尽くす。それが我が務めよ。だが――」


そこで僅かに言葉を区切ると、視線に鋭さが宿る。

「礼節は、互いが敵意なき時にのみ成立する」


(…やはり警戒心は隠していないか)

俺は一瞬だけ息を整え、問いを重ねる。


「俺達がこの国に到着した途端、警告を受けた。

その上でこうして来た訳だけど、俺達をどう見ている?」


一瞬、景継の瞳がわずかに細められる。

だが、表情は崩さないまま低く応える。


「…異国の客人よ。我は、ただ己が民と妖達の安寧を望むのみだ」

「されど――貴殿の内に揺らめく力。……その闇の揺らぎを、我は感じておるぞ」


その一言に、俺はわずかに息を呑んだ。

景継の声色は変わらず穏やかだったが、まるで心の奥底に直接手を差し入れられたような圧迫感が滲んでくる。


(……やはり、俺の力に気づいている)


言葉は穏やかだが、そこに宿る目はまるで刃のようだった。

このまま深入りするのは得策ではない――そう判断した俺は、話題を切り替える。


「……俺の仲間達は、どこに行ったんだ?」


景継は微笑を崩さぬまま、静かに応じる。

「案ずるでない。五華衆が丁重に――“もてなして”いるであろう」


(……“丁重”ね。文字通りには、受け取れそうにないな)


景継の言葉に、わずかに冷たい皮肉が滲んでいた。

俺は眉をひそめながらも、それ以上追及はしなかった。


「そういえば――五華衆って……」


「客人よ。我は、腹の探り合いは好かん。我の問いに、真摯に答えるのみでよい」


俺はさらに話題をずらそうと言葉を紡ごうとした。

しかし、景継が静かでありながら、確かな圧を帯びた声で遮った。


(――完全に見透かされてる…!)


俺はわずかに息を呑み、景継の眼差しを正面から受け止める。

その瞳の奥に、微笑では覆い隠せない鋭利な光が覗いていた。


静寂が落ちる。

だが、その重さが場に染み渡りきる前――


「……景継様」

傍らに控えていた桔梗が、ふと口を開いた。

その細い双眸がわずかに細まり、闇の中に何かを探るように僅かに眉が動いた。


「外により僅かな気配を察知いたしました」

景継は微笑を崩さぬまま、静かに頷く。


「よい、桔梗。行くがよい」

「はっ――」

桔梗は深く一礼すると、再び無音のまま闇へと溶けるようにその場を去っていった。

その背が完全に消えた後、残された静寂がいっそう重く張り詰める。


(……外で何かが起きている。リリア達か?)

胸の奥に、淡い焦燥がじわりと広がる。

だが俺の足は、その場から一歩も動けなかった。

視線を逸らせば、そこから何かが崩れる気がした。


まるで空間そのものが息を潜め、

景継と俺のどちらが先に瞬きをするか――そんな静かな緊張が漂っている。


(……気を抜いたら、すぐに呑まれる)


仲間達の安否を案じる気持ちを押し殺しながら、俺はただ、景継の瞳を正面から見返し続けていた。

今この場では、それが唯一できる“抗い”だった。


◇ ◇ ◇


気がつけば、私は知らない部屋にいた。

…さっきまで、皆と一緒だったはずなのに。

周囲は静かだった。いや、違う。静かすぎる。

音が吸い込まれていくような、妙な圧迫感。


(…分断された)


自然とハンマーを握り直していた。

手のひらの感触が、今の私を地に繋ぎとめてくれる。


部屋の中には、揺れるような靄が漂っている。

まるで炉の奥、熱でゆがんだ空気みたい。


「やっほ~♪お一人さま、かな?」


甲高くも楽しげな、そしてどこか歪んだ声が響いた。

靄の向こうから、ゆらりと一人の少女が現れる。


細身の身体は、虎のようにしなやかな四肢を持ち、柔らかな毛並みの虎耳がピクピクと愛らしく動いている。

その背には、蛇のように艶やかな鱗を持つ尻尾がくねりながら揺れていた。


(混成種…?いや、妖怪娘…)


着物は派手だった。黄色に撫子の花柄。

丈と裾はかなり短く仕立てられ、動きを妨げぬよう軽やかなものになっている。

歩を進めるたび、裾がふわりと揺れ、その小柄な身体をより一層軽快に、まるで跳ねる小動物のように映していた。


無邪気な笑顔を浮かべながら、彼女ゆっくりとこちらに歩み寄る。

だが、その瞳の奥には、年端もいかぬ少女らしさとは裏腹な狂気の色が、うっすらと滲んでいた。


「…貴女も五華衆?」


私がその名を呼ぶと、撫子はくるくると回りながら楽しげに笑った。


「うふふ、当たり~。あたしは撫子♪鵺の妖怪娘だよ!五華衆の末っ子ってとこかな?ま、よろしくね~?」


ひどく軽い口ぶり。

だが、舌の奥で甘く揺れる声音の裏に、鋭い獣の牙が潜んでいるのが分かった。


「私はエルザ。皆をどこにやったの…?」


「さぁ?あたしも全部は知らな~い。椿ねぇや牡丹ねぇ、み~んな張り切ってたから~♪」

撫子はケラケラと笑いながら、わざと肩をすくめた。

 

(やっぱり皆も、戦っている…)


内心の焦りを押し殺し、私はハンマーを構え直す。

撫子はまるで子供の遊びのようにぴょんと跳ね、距離を詰めてくる。


「あたし、こう見えて遊ぶのだーいすきなんだ♪ねぇ、少し遊んでくれる?」


言葉とは裏腹に、撫子の周囲にうっすらと霧が広がり始める。

それは自然な霧ではない。じっとりとした湿気と、微かな甘い香りを帯びている。

恐らく彼女が作り出している幻惑の霧だ。


「…遊びなら、ほどほどにしてね」

私は冷静に告げるが、撫子はまるでそれを楽しむように、もう一度くるりと宙に跳ねた。


「ふふふふっ!ほどほど?いやいや~、あたしはね、楽しいのが一番なの。もっともっと、楽しくしようよ?」

撫子は楽しげに跳ねた。視界が歪む。

空間ごと揺らいで見えた。


(ここからが本番――)


息を整える。

飲まれないよう、集中する。


彼女の遊戯に飲み込まれるわけにはいかない。

慎重に、確実に打ち破る方法を探るんだ。


霧が濃くなり、視界がじわじわと霞んでいく。

まるで城の空間そのものが歪み始めたかのよう。

ぼんやりと浮かぶ障子や柱の輪郭が次第に曖昧になり、まるで霧の海に取り込まれていく感覚に陥る。


「ふふふ…どう?見えにくくなってきたでしょ?」

撫子の甲高い声が、霧の奥から弾むように響いてくる。

どこにいるのか分からない。声があちこちから反響し、まるで周囲全てが撫子の笑いに包まれているよう。


(…位置が特定できない)

音を頼りに気配を探るしかない。目で追えぬなら、音で補う。


「うふふっ…えいっ!」

背後から風を裂く音。身を沈めて回避。

左から、追撃の気配。


ガキィン! 


ハンマーを振り上げ、撫子の爪を弾く。

撫子はくるりと軽やかに回転し、すぐ霧の奥へと姿を消した。


「わぁ、反応いいねぇ♪ぼんやりしてそうなのにね~、キャハハ!」


言葉が飛び交う。四方八方から。声が霧に反響し、錯覚を誘う。

まるで猫が遊ぶように、こちらの動きを試しているのが伝わってきた。


(音すら…混乱させる気?)


目で捉えようとするほど、逆に視界が霞み、撫子の姿が幻のように滲んで揺らぐ。

幻惑の霧だけでなく、鳴き声まで利用して感覚を狂わせようとしている。


「ほらほら~、次はどこから来ると思う~?上?下?後ろかもよ~?」

からかうような撫子の声と共に、右後方から突然の跳躍。

振り返る間もなく、爪が肩口を掠めた。浅いが鋭い一閃。

服が裂け、わずかに血が滲む。


「……くっ」

浅い傷だが、鋭い。

撫子は追撃をせず、また霧の奥へと消えていく。

本気で仕留めに来ない。遊んでいる。


「ふふっ♪もっともっと遊ぼうよ~?ねぇ、エルザちゃん♪」

撫子の声に惑わされまいと、私はハンマーを大きく振り回す。

狙いなど付けようがない。

とにかく周囲に振り払うように重い一撃を叩き込んでいく。


しかし、ハンマーの重い風切り音だけが空しく響き、何も手応えはない。

霧はなおも濃さを増し、撫子の気配は音もなくすり抜けていく。


「きゃはははっ!当たらないねぇ~?当たらない当たらない♪」


撫子の高らかな笑い声が、あちこちからこだまする。

その笑いは無邪気さすら帯びていたが、むしろその分、底知れぬ狂気が滲んでいた。


「ねぇねぇ、疲れてきた?重たい武器、振り回すのもしんどいでしょ~?」

私は無言で息を整え、肩で呼吸をしながら再び構え直す。

動くたび、額ににじむ汗が頬を伝って流れ落ちた。


(…焦るな…焦るな…)


苛立ちが少しずつ心に染みていく。それを自覚し、押し留める。

撫子の遊戯は、まだまだ終わる気配を見せない。


「ねぇねぇ、そろそろ本気で痛くしちゃってもいいかなぁ?」

その声音は、先ほどまでの無邪気さの奥に、わずかに鋭い毒気を孕み始めていた。

ぞわりと背筋を這い上がる悪寒――


その瞬間、右横から鋭い爪撃が飛び込んできた。


「――っ!」

反応が一瞬遅れた。

爪先が肩口から胸元を抉るように走る。

布が裂け、肉を割く感覚と共に、熱い痛みが弾けた。


「ぐ……あっ……!」

続いて左脚。さらに数発。

撫子は踊るように動き、爪が連続して私を穿つ。


脇腹。太腿。背中。

傷が刻まれ、重みが腕を鈍らせていく。


撫子はまるで踊るように私の周囲を跳ね回り、連続で爪を叩き込んでくる。

翻弄されるまま、防御が追いつかない。


「きゃははっ!もっと当たる当たるぅ~♪ねぇ、痛い?苦しい?楽しいねぇ!」

撫子の甲高い笑い声が霧の奥から響く。

傷口から滲む血が霧の中にじわじわと広がり、甘い鉄の匂いが濃く立ち込めていく。


「く……ぅ……!」

私は歯を食いしばり、必死に体勢を立て直そうとするが、撫子は一切止まらない。

楽しげに、遊ぶように、爪がまた横薙ぎに振るわれる。


「もっともっと遊ぼ~?ほらほら、倒れたら終わりだよぉ?」

急に爪の連撃が止む。

撫子は霧から軽く跳ねながら出てきて、相変わらず笑顔を絶やさずにこちらを見つめていた。

だけどその表情には、どこか奇妙な色が混ざり始めている。


「ねぇ…エルザちゃん」

少しだけ…声が柔らかい。。

撫子はくるりと回転し、尻尾を揺らしながら語り始める。


「あたしね…本当はもっとちゃんとした“忠義”っての、わかんないんだ」

笑ってはいるが、その声音には一瞬だけ迷いが走る。

撫子はふわりと舞うようにこちらへ寄り、続けた。


「景継様はね…ずっと悲しそうだったの。

姫様が逝ってから、ずっとずっと、寂しそうで…苦しそうで…」


撫子の瞳の奥に、ふと陰りが差す。

狂気の奥底に、小さな幼い少女のような哀しさが滲んでいた。


「だからね…あたしは、思ったの。景継様に笑ってもらいたい、元気になってほしい。あたしが明るくしてれば、きっと景継様も少しは楽しくなるって…」


撫子はまたくるくると回りながら、霧の中を漂う。

「だからね、あたしはずっと“楽しい”をしてるの。ずっと“遊んで”るの。あたしが元気でいれば、景継様もきっと…」


その語りには、一途で純粋すぎるほどの思いがにじんでいた。

だが、その一途さが狂気と隣り合わせになってしまったんだ。


(……こんな)

私は胸の奥でざらつく何かを感じた。

撫子の狂気は、ただの残虐さではない。

必死に「明るくあろう」として無理に自分を歪めた末の、歪んだ忠義。


「さぁ…もっと遊ぼ?あたしは、あたしは、元気じゃなきゃいけないの…!」

撫子が再び跳躍し、爪を煌めかせて跳びかかってくる。


私は、朦朧とする意識の中でようやく理解し始めた。

目を凝らせば凝らすほど撫子の動きは見えなくなる。

でも――見ようとせずとも、確かに“気配”は流れているのだ。


(目で…追う必要は、ない…)


静心流道場の老人の言葉が脳裏をよぎる。

呼吸を整え、静かに耳を澄ませる。


――世界の気配を感じ取る。

――五感を超えて、己が置かれた空間すべてを把握する“心の眼”。


(世界を、感じろ…)


心の奥底が静まり返る。

目を閉じた訳でもないのに、視界の情報が消えていくような奇妙な感覚。

代わりに、空間の「気配」が全身に染み込んでくるようだった。


「えいっ!!」


撫子の跳躍を、私は感じ取った。

その動きが霧の中を滑るように、空気の微細な振動で、はっきりと伝わってきた。

刹那、体を捻り、振りかぶったハンマーが軌道を描く。


「――そこ!」


ズガンッ!!


重い一撃が、霧の中心で撫子の動きを捕えた。

撫子の小さな身体が吹き飛ばされ、霧の中に弾けて消えていく。


「きゃはっ…!?」

床に倒れ込んだ撫子は、しばらく呆然とこちらを見上げていた。

その瞳に浮かんでいたのは驚愕――そして、微かな困惑。


「…あ、あれ?当たっちゃった」


撫子は、ゆっくりと身体を起こす。

その顔にはまだ笑顔が残っていたが、その端がわずかに引き攣っていた。


「ふふ……偶然かな?うん、たまたまだよね?まだまだ遊べるもん!」

そう呟き、再び跳躍する撫子。


(……もう、見える)


私は静かに息を整えた。

霧の中を撫でるように動く空気の流れ、踏み込んだ床の軋み、わずかに鳴る衣擦れ。

その全てが撫子の動きを如実に浮かび上がらせていた。


「ほらほらっ、次はこっち!」

今度は真上から飛び降りる撫子。


(読める……!)


私は踏み込み、跳びかかる撫子の着地先を正確に狙ってハンマーを叩きつけた。


ズガンッ!


床板が軋み、撫子は寸前で体勢を崩して着地する。


「う、うそ…なんで?なんで見えるの!?霧の中なのに!」

撫子の声に、わずかに焦りが混じり始める。

私は何も言わず、ただ静かに構え直した。


(これはもう…迷いのない感覚…)

世界が音と空気の流れで立体的に浮かび上がる。

視界に頼らずとも、撫子の動きが手に取るように理解できる。

これが、あの老人が教えてくれた――心眼。

撫子はそれでも、必死に声を張り上げる。


「ま、まだまだぁっ!!もっともっと遊ぼうよぉ!!

あたしは、あたしは、元気じゃなきゃいけないの!!」

その叫びは、狂気の奥に、どこか苦しげな必死さが滲んでいた。

遊び続けなければ、明るく振る舞わなければ――自分を保てなくなる。

その痛々しいほどの強迫観念が、撫子を突き動かしているのだ。


撫子は渾身の速度で左右へと翻り、連撃を仕掛けてくる。

でも、もう私は迷わない。


右からの爪――受け流す。

背後からの跳躍――回避する。

左斜め下からの突進――踏み込みと同時に迎え打つ。


「きゃ、きゃはは…な、なんで?どうして当たらないのぉ!?」


撫子の笑いが震え始める。

その動きにも次第に焦燥と乱れが生じていく。


そして私は最後の好機を捉えた。

撫子の跳躍がわずかに甘くなる。

跳びかかる瞬間、その軌道の先に合わせ、私はハンマーを振り抜いた。


「これで終わり!」


ズガァンッ!

重い衝撃音と共に、撫子の身体が大きく吹き飛ぶ。

壁際まで転がった撫子は、力なく床に倒れ込んだ。


「う、うぅ…あは、はは…ま、負けちゃったぁ…」

倒れ伏した撫子は、それでもまだ笑おうとしていた。

その瞳の奥に滲むのは、笑顔では隠し切れない寂しげな色だった。


「…景継様…あたし、元気でいられたかな…?」

呟くようにそう漏らすと、撫子は静かに意識を手放した。


私はゆっくりと息を吐き、構えを解いた。

静寂が戻る――

霧がわずかに薄れ、夜の冷たい空気が肌を撫でた。


(……これが、心眼)


痛む傷を感じながら、私はそっと目を伏せた。

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