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散りぬるをも、なお君を④

登場人物

ヴァネッサ

種族:ヴァンパイア

とある古城に独り住んでいた。幻術・護身術を得意とする。


椿

種族:九尾の狐

月嶺景継に仕える五華衆の一人。幻術が得意。

薄暗がりの中、余は静かに歩を進める。

霧に包まれた直後、導かれるようにして、また別の部屋へと誘われていたのだ。


障子が静かに開く音。

その向こうに現れたのは我々を招いた張本人である椿だった。

椿は口元に妖艶な笑みを浮かべ、余を迎え入れた。


「ようこそ、迷い子の客人殿。お待ちしておりましたわ」

妖しく微笑むその姿を、余は冷ややかな視線で迎える。


「…先の幻術は、貴様の仕業だな?」

問いかけに、椿は余裕綽々と笑みを深めてみせる。


「ふふ…さあ、何のことやら。楽しんでいただけたなら、何よりですわ」

飄々とした態度。その裏に透けて見える、濃密な敵意と悪意。

九つの尾が、まるで挑発するかのように静かに揺れる。


余もまた、静かに息を整える。

ふふ…随分と凝った歓迎ではないか。


「…いいだろう。ならば余も、客人として応えてやろう」

椿の瞳が妖しく細められた。


「まあ。これは光栄ですわ、吸血鬼様」

静けさの中に、ピンと張り詰めた気配が漂いはじめる。


彼女の周囲に漂う九尾の尾が、まるで緩やかにうねる蛇のように揺れている。

椿は変わらぬ妖艶な微笑を浮かべたまま、すっと片手を上げる。


「では、お手合わせを始めましょうか」

何もなかった床の各所から、ぼぅ…と小さく青白い炎が灯り始めた。


ひとつ、ふたつ、みっつ――

気付けば余の足元を中心に、幾重にも狐火の灯が取り囲んでいた。


「ふふ…逃げ場はありませんわよ?」

狐火は生き物のようにゆらゆらと揺れ、輪を縮めるようにじりじりと包囲を狭めてくる。

灯火の色は淡い青から徐々に橙色へと変わり、その熱がじわじわと頬を撫でるのを感じた。


(なるほど…静かにして、容赦はないというわけだな)

燃え上がる炎は次第に高く伸び、今や肩口まで炎柱が迫っていた。

やがて、狐火達は意思を持つかのように一斉に跳ね上がり、余を飲み込もうと襲い掛かってきた。


「燃え尽きて、灰におなりなさいな。吸血鬼様」

椿の囁きと共に、炎の壁が迫る。

だが、余は静かに一歩も退かずにマントを翻した。


「――甘い」


マントが大きく広がり、余の身体を包み込む。

その布地がまるで刃のように鋭く空気を切り裂き、烈風が巻き起こった。


低い唸りを上げた風が、狐火を根元から吹き飛ばしていく。

青白い火球は渦巻く風に巻かれ、霧散し、消え失せた。


僅か数秒の内に、炎の包囲網は完全にかき消えた。

炎の残り香すら漂わない静寂だけが、再びこの空間に満ちる。


椿の唇がわずかに吊り上がる。


「…さすがでございますわ。容易には燃え尽きてくださらないのですね」


「生憎と、簡単に灰になる趣味はないものでな」

九尾がしなやかに舞い、椿の瞳がわずかに細められた。


「ええ、これからが本番にございます」

狐火が消え去った後も、空気に染み付いた妖気は消えはしなかった。

それどころか、ふと空間そのものが、微かに揺らぎ始める。


障子が波打ち、畳がわずかに沈み込むように歪む。

柱の位置すら僅かにずれ、まるで別の場所に踏み入れたかのような違和感が、じわじわと余の周囲を満たしていった。


椿は微笑を絶やさぬまま、優雅に舞う九尾を撫でる。

「ふふ…ようこそ、貴女の内面へ。ここは、貴女自身が映す世界」


次の瞬間、余は異変に気付く。

視界の端に見覚えのある背中が浮かんでいた。


(…カケル?)


それだけではない。

仲間達の姿が、まるで朧月のようにぼんやりと現れては消えていく。

声にならない囁きが、耳奥で反響する。

 

「貴女は失うのが怖いのでしょう?」

「誰かを失いたくないのでしょう?」


まるで余の内奥に潜む感情を、椿が静かに撫でてくるようだった。

直接肉体を傷つける攻撃ではない。だが、最も厄介で陰湿な干渉だ。


(…なるほど、これが貴様の本当の術か)


余は静かに目を伏せ、胸の奥で息を整える。

心を乱されぬよう、ゆっくりと己の中心に意識を集中させた。


椿の囁きが重なる。

「愛しき者の幻影――失いし恐怖――守れぬ無力――

さあ……もっと、もっと開いてごらんなさいな」


その声音には狂気めいた甘さが混ざっていた。

だが、余は僅かに口元を吊り上げた。


「ふふ…執拗だな、椿」

そして、しっかりと視線を上げた。


「だが余は惑わぬ」

その言葉と共に、内面に渦巻いていた幻影の靄が、すっと晴れていく感覚を得た。

余の精神は、未だ折れてなどいない。


「…まあ。素敵ですわ、吸血鬼様。精神力もお強いのですね」

余の「惑わぬ」という言葉に、僅かに歪んだ椿の微笑み。

だが、そこで怯む女ではなかった。むしろ、その瞳に一層濃い艶が宿る。


九尾がゆらりと大きく広がる。

それに合わせるように、周囲の空間が再びぐにゃりと揺らぎ始める。

まるで意識の奥に深く沈み込むような、重い圧迫感が覆ってくる。


「ならば…もう少し、奥深くへ誘って差し上げますわ」

囁くような声とともに、景色が溶けていく。

視界はぐにゃりと歪み、足元の畳が波紋のように揺れた。


次の瞬間、目の前の光景は一変していた。

かつて見慣れた、自らの居城――その広間。

月の光が差し込む、荘厳で静謐な空間に余は立っていた。


(…また幻術か。しつこい女だ)

冷たく嗤おうとしたその刹那、ふと視線の先で動くものが目に入った。


視線の先の瓦礫に崩れた柱の影。

そこに、血塗れの余自身が、膝をついていた。

そして、その傍らには――


(……まさか)

黒髪の青年。かつて余を討たんとした、ヴァンパイアハンターの男。

剣を手に迷いなく余に挑み、そして勝利したはずの男が、

今はその剣を置き、手を伸ばしていた。


余の手を、救い上げるように。

その手は、傷ついていた。

けれど、その温もりは、かつて余が触れた、どの血よりも、どの夜よりも、温かかった。


(……やめろ)

喉奥に言葉が詰まる。

抑え込んできた感情が、胸の奥で泡立つ。

永い時を経ても、癒えぬまま残る、柔らかな棘が疼く。


(その姿を、見せるな…!)

彼の優しさが、あのとき確かに余を揺るがせた。

憐れみではなかった。ただそこにあったのは、真っ直ぐな意志。


そしてその光景は、淡い靄に包まれるように滲み、次第に別の記憶へと変わっていった。


血を流す自分の姿は消え、代わりに立っていたのは、傷が癒えた自分。

彼の前で、何かを決意するように、唇を開いた。


『…眷属になれ。共に永遠を生きようではないか』

言葉には確かな想いがこもっていた。

余は彼と同じ時を生きたかった。闇の中でもいい。隣にいられれば、それで。


だが彼は、眉をひそめて、苦しげに言った。

『…すまない。私は…人間として、人間のままで在りたいんだ』

拒絶ではない。けれど、それは確かに――別れの言葉だった。


彼を変えることは、余にはできた。

力づくでも、牙を立てれば、すべては手に入った。

だができなかった。否、したくなかった。

彼の在り方を壊してまで、傍にいることは、できなかったのだ。


(それが、愛だったのか。逃げだったのか。未だに…答えは出ない)


「いずれ――拒まれるのではなくて?いずれ――失うのではなくて?」


椿の声が、遠くから揺れて響く。

淡く、そして鋭く、過去の傷をなぞるように。


余は目を伏せ、小さく息を吐いた。

指先がわずかに震えたが、それもすぐ、意思の刃で断ち切る。


(あれは、夢だ。永遠に醒めぬままではいられない)


唇にひとさじの皮肉を乗せた笑みを浮かべる。

「くだらぬ……だが、悪くはなかったぞ」


幻が、崩れる。

月明かりが砕け、世界が音もなく剥がれ落ちていく。


「さあ、終幕だ。貴様の幻では、余は砕けぬ――否、認めてなお、揺るがぬ」

微かに哀惜と誇りのにじんだ声を絞り出し、余は過去に別れを告げるように、ゆっくりと歩き出した。


幻術が霧のようにほどけ、現実の座敷がゆっくりと姿を現す。

あのまやかしの光景はもう消えた。

だが、胸の奥に生まれたかすかな痛みは、未だ余の中に残っていた。


「そ、そんな馬鹿な…これでも揺るがないというの?」

椿の声がわずかに震える。

先程まで浮かべていたあの涼やかな笑みが、

今や見せかけの面に過ぎぬものと化している。


「貴様は先ほどこう言ったな。“いずれ拒まれ、失うのではないか”と」

あれは、余の記憶に突き立った言葉だ。

だからこそ、断言できる。それは余への言葉ではない。


「…だが、それは貴様自身の想いではないのかね?」

余が一歩踏み出し、視線を逸らさずに問う。

まるで、心の奥に隠されたものを暴こうとするように。


問いかけた瞬間、椿の目が揺れた。

見事なまでの仮面、その下に隠された心のざわめきが、ほんの一瞬だけ覗いた。


「……くっ」

小さく唇を噛む音がした。

見せかけの強さが、綻び始める音だ。


「さて。今度はこちらの番だ」

「……っ!」

余はゆっくりと歩み寄る。椿がわずかに身構えるのが見えた。


「そう怯えることはない。余も覗き見するだけだ。ほんの少しだけ、貴様の心の奥を」

余が指を鳴らすと、淡く紅い魔力の波が水面のように広がり、椿の周囲を覆っていく。

これは余の幻術――心に触れ、記憶を引き出すための儀。


「やめなさい……っ、勝手に……入ってくるな……!」

椿が眉を歪め、低く震える声で抗議した。

鋭く放たれた彼女の魔力が、波紋の内側から逆流してくる。

しかし、それすらも余の術の流れに絡め取られ、やがて静かに沈みゆく。


「…抗おうとするか。意地でも見せたくない記憶、か」

余は呟きながら、流れ込んでくる像へと意識を委ねる。


視界が溶け出すように歪み、周囲の風景が塗り替えられていく。

そしてより生々しく、鮮明な光景が、余の眼前に浮かび始める。


そこは、穏やかな庭園だった。

柔らかな陽光が降り注ぎ、風に舞う花びらが踊る。

そして庭先には景継と思しき人物と、そして一人の人間の娘が微笑み合って並んでいた。


その様子を、少し離れた場所から優しく見守る椿の姿がある。

今よりもずっと穏やかで、どこか幸せそうに微笑んでいた。


『景継様…姫様…妾は、ずっとこの光景を、守り続けたいのです』

心の中で語りかける椿の声が、余の胸の奥で淡く響く。

映像の中の椿は、ただ純粋に、二人を慈しむように見つめていた。

愛情と誇りに満ちた静かな時――だが、それは長く続かなかった。


時間が進むにつれ、景色が徐々に色を失っていく。

姫君の頬は青白く痩せ、咳き込み、苦しみ始める。

景継の表情もまた、日に日に苦悩と悲しみに染まっていく様が、まざまざと映し出された。


『どうにかして…姫様をお救いせねば…景継様の苦しみを止めなければ…!』

椿の焦りと願いが、強く、熱をもって余の心を打つ。


やがて場面が切り替わり、床に臥す姫君とその枕元に膝をついて静かに見守る椿の姿が映し出される。

『姫様――妾が…お救い致します。どうか、妖の身になってくださいませ。そうすれば永遠に、景継様と共に…』


だが、姫君は弱々しく微笑み、そっと首を横に振った。

その瞳には、静かで確かな意志が宿っていた。


『いいえ、椿…余は、この限られた命を精一杯生きます。景継様と、貴女達と共に…最後の刻まで』

その言葉に、椿の指先が震える。

彼女の望みは拒まれた。それは椿にとって理解を越えた決断だった。


『なぜ…なぜ受け入れてくださらないのです!?』

『妾は…こんなにも愛しているのに…!』


そこから先の景色は音も色も失い、余の意識は再び現実へと引き戻された。

目の前の椿は、激情に染まった瞳で余を睨みつけていた。


「なんですか…その目は…妾の想いを嘲るつもりですか!?罪だと言うのですか!?」

余は静かに目を細め、ゆるやかに言葉を返す。


「…その想いそのものは、きっと純粋だったのだろう」

そして余はそのまま核心を突く言葉を紡ぐ。


「だが、愛は時に狂う。そのまま姫君を妖にしていれば、かえって彼女を苦しめたであろう」


「妾は…そんなつもりでは…!」

椿の唇が小刻みに震えた。

九尾がわずかに痙攣しながら揺れる。


「分かっているさ。誰より、余がな」

その瞬間、胸の奥がわずかに疼いた。

彼女の抱いたその想いが、かつての余とどこか重なっていたから。


「…妾は、救いたかっただけなのです…姫様も、景継様も…」

わずかに震える声が、空気に溶けていく。

激情の余韻を残したまま、椿はただ己の心の奥底を吐露するように、静かに、苦しげに呟いた。


「哀れだな…椿。愛ゆえに歪み、狂い、破滅の縁へと歩んでいく」

椿は目を伏せ、わずかに涙を滲ませ、それでも、必死に微笑を作り続けていた。


「…妾は…景継様の為に――」

その声を遮るように、余は静かに宣告する。


「だがこれ以上、貴様を哀れむ暇はない。幕引きと行くぞ…椿」

そう告げた余の声に、椿の全身が一瞬びくりと震えた。

余は一歩、また一歩と静かに歩みを進める。

まるで逃げ場のない部屋に、音もなく忍び寄る闇のごとく。


その余に向かって、椿は再び狐火を放つ。

青白い火球が幾重にも舞い踊り、余を包み込もうとする。だが――


「…無駄だ」

余がマントをひと振りするだけで、狐火はあっさりと霧散していく。

先ほどまでとは比べものにならない威圧感を纏い、余はさらに近づいた。


椿の瞳が微かに見開かれ、九尾がざわりと揺れる。


その時だった。

椿の瞳がわずかに揺らいだのが見て取れた。

余の姿が、彼女の視界の中で歪んでいくのが、なんとなく伝わる。

輪郭が滲み、余の身体を包むように淡い黒霧が立ちのぼる。

恐らく彼女にはこう映っているのだろう。


闇の中に浮かぶ、紅の双眸。

理性を超えた力の象徴のような、獣めいた煌めき。

吸血鬼――否、まるで古の魔王のような、禍々しくも荘厳な“何か”として、余は彼女の幻覚に映っているに違いない。

心の奥に棲まう恐れ。その正体を、彼女は今、余の中に見ているのだ。


「……っ……ひ……!」

椿の喉から、かすかな悲鳴が漏れた。

恐怖が椿の四肢を凍り付かせていく。

脚は震え、逃げようにも足が一歩も動かせない。


「や……やめ……近寄らないで……!」

なおも余は静かに歩を進める。

まるで底なしの闇が、じわじわと獲物を呑み込むように。


椿は最後の力を振り絞り、再び狐火を放とうとする。

だが、すでに集中力も妖力の制御も保ててはいなかった。

火球は形にもならず、ぼんやりと消えていく。


「――終わりだ」


余は目の前まで近づき、椿の肩に静かに手をかけた。

その細い身体がびくりと跳ね上がる。逃げようとする力は、もはや残されていない。


「は……っ、あ、あぁ……」

余は首筋へと顔を寄せ、ゆっくりと口を開いた。

伸びた牙が、椿の柔らかな白い肌へと触れる。


カプッ――微かな音と共に、牙が沈み込んだ。


椿の身体が一瞬びくりと震えたが――

それ以上の苦痛も、激しい流血もない。

余は、慎重に、制御しながら彼女の体内から僅かずつ妖力だけを吸い取っていく。


命を奪わず、ただ力を封じるように。

妖力の流れが穏やかに鎮まるのを確認し、余は静かに牙を引いた。


「案ずるな。命までは奪わぬ」

椿の身体から力が抜け、その場へ崩れ落ちる。

余はそっと彼女の身体を支え、床に横たえた。


「…しもべにされるかと、思いましたわ」

「貴様を眷属に?よしてほしいね。余の好みは――まっすぐな瞳をした者なのだよ」


椿の目がわずかに揺れるのを見た。

その視線は、どこか遠くを見るように宙を彷徨い、そしてふっと和らぐ。


「…それは…気が、合いますね」

その一言を最後に、椿の瞼がゆっくりと閉じられる。まるで全てを赦されたかのように、静かに意識を手放していった。

僅かに安堵したような椿の寝息が、静かに室内に響く。

九尾はゆるやかに揺れながら、やがて静止した。


「せめて今は、穏やかな夢の中にでも――」

余は名残を惜しむことなく、夜の静寂へと歩を進めた。

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