散りぬるをも、なお君を③
登場人物
トーラ
種族:ミノタウロス
ヴァルハールの町の自警団に所属。肉弾戦が得意。
牡丹
種族:牛鬼
月嶺景継に仕える五華衆の一人。驚異的な再生能力がある。
――薄闇の中、アタイは一人、異様に広い座敷の中央に立っていた。
さっきまでカケルたちと一緒だった場所とは全然違う。
突然霧に飲まれてて、気がつきゃここに放り込まれてたんだ。
周りはしんと静まり返ってて、行灯のぼんやりした灯りだけが空間を照らしてる。
まるで異界にでも迷い込んだような、そんな妙な静けさだった。
「……ったく、何が起きてんだか」
独りごちて、アタイは拳を鳴らした。
張りつめた空気が耳に痛ぇくらい刺さってくる。
気配は、ねぇ。でもそれが逆に、よっぽど不気味だった。
と――
障子の向こうからギシリと軋む音と、
ドスン、ドスンと重たい足音が響いてきやがった。
襖が勢いよく開いて、現れたのは……でけぇ影だった。
下半身は黒き蜘蛛の姿。六本の脚には鋭い爪がぎらりと光ってる。
上半身は紫の着物で、でっかく牡丹の紋が入ってやがる。
肩から先が露出してて、そこに浮かぶ筋肉がまたゴツいったらありゃしねぇ。
肌の色はうっすら緑がかってて、妖気ってヤツがひしひしと伝わってくる。
頭にはでっけぇ角が二本。
金色の目がギラッと輝いて、赤い光がにじんでやがる。
まるで獲物を見つけた獣の眼だった。
「俺の名は牡丹!牛鬼の妖怪娘!五華衆の一人さ!」
アタイは肩をすくめつつ、拳に自然と力が入るのを感じてた。
体が戦う準備を勝手に始めてんだ。
「アンタも五華衆かよ。で?アタイに何の用だい?こんな手の込んだ真似までしてよ」
「椿姉からさ――客人を“もてなせ”って言われてな」
牡丹は六本の脚をわずかに広げ、巨体をゆったりと揺らしながら答える。
その口元がにやりと吊り上がった。
「ホントは俺一人で十分なんだけどよ!」
「言うじゃねぇか。アンタが楽しませてくれるってんなら、アタイも乗ってやるよ!」
視線がバチバチ火花を散らすみてぇにぶつかり合う。
そんでアタイは、躊躇なく駆け出した!
距離を取るだなんて性に合わねぇ。こちとら正面からぶつかるのが流儀だ!
「おらああああっ!!」
拳をぶんと構え、牡丹の顔面めがけて渾身の突撃!
けど、相手も流石に五華衆。
蜘蛛脚でアタイの突進を止めにきやがる!
「邪魔すんなッ!」
その前脚を蹴り飛ばして隙を作る!
牡丹の蜘蛛脚がわずかにぐらついた瞬間、続けざまに拳をぶち込んだ!
「喰らえッ!」
拳がガツンと牡丹のアゴに命中。
…手応えは、確かにあった。
「ぐっ……!」
牡丹は大きく頭を振り、巨体をしならせる。
だが、すぐににやりと口元を吊り上げやがった。
「なかなかやるじゃねぇか、牛女!」
ふざけた呼び方に、アタイも負けじと叫び返す。
「トーラって言うんだ!それと――牛なのはお互い様だろ!」
牡丹は面白そうに豪快に笑った。
「へへっ!言うじゃねぇか!いいぞ、ますます愉しくなってきたぁ!」
六本脚が再び唸りを上げた。今度は向こうが仕掛けてきやがった!
でっけぇ爪がアタイの首めがけて迫ってくる!
だが、そう易々とは喰らわねえ。
「っとと!」
腰をひねってギリギリでかわす!
爪が空振って、背後の柱にブスリと突き刺さった音がゾッとする。
隙を見て蹴りを一閃!牡丹の足をぐらつかせて、拳で反撃!
「はああっ!!」
腹!顎!脇腹!……連撃がバッチリ入ってるはずなのに――
(……おいおい、なんだこれ)
拳を叩き込むたびに、何かが引っかかる感覚が残る。
殴ってる感触はあんのに、殴った場所がすぐに元通りになってやがる。
牡丹は少し後退しながらも、にやりと笑った。
「へへっ…なかなかの拳じゃねぇか。普通の奴ならとっくに砕けてるだろうによ」
アタイは眉をしかめる。息を整えながら睨み返した。
「…何だよ。あんだけ叩き込んでるのに、全然効いてねぇってのかい?」
牡丹は自慢げに、ぐるりと六脚で回転しながら胸を張った。
「そういうこった!俺には再生能力があるんだよ!」
「殴られたってよぉ、多少砕けてもヒビ入っても、すぐに元通りさ!」
見れば、殴った場所の筋肉がウネウネと動いて、傷がスッと消えていく。
まるで見えない手で肉体が押し戻されていくみたいに。
(ったく、ふざけんなよ……)
アタイは汗をにじませながら拳を握り直した。
普通の力勝負じゃ埒が明かねぇ――その現実が、じわじわと背中に重くのしかかってくる。
牡丹がにやりと牙を覗かせて笑った。
「――次は俺の番だぜ!」
その声と共に、六本の蜘蛛脚が一斉に跳ね上がる。
脚先の鋭い爪が幾重にも軌道を描いて、アタイの周囲に殺到してきた。
速えっ――!
アタイはすぐさま踏み込みを引き、回避に専念する。
横へ、下へ、身体を捻り、ギリギリで爪を躱していく。
鋭爪が髪を掠め、背後の床板を抉り、柱を裂く音が耳を劈いた。
けど、牡丹の攻めはそれだけじゃなかった。
蜘蛛脚の合間から、今度は上半身の拳が唸りを上げる。
重たい拳が真っ直ぐ顔面を狙って突き出されてくる。
アタイは頭を低く沈め、寸前でかわす。
その拳が空を裂いて通り過ぎ、風圧で髪がふわりと持ち上がった。
(やるじゃねえか……!)
だが、連続で避け続けるだけじゃ、どのみち追い詰められる。
打開策を探さなきゃならねえ――が、そう簡単には見つからない。
殴っても効かない。再生する。
ならどうすりゃいい?叩く場所を変える?一撃で全部叩き潰す?
――そんな芸当、今のアタイにできるのかよ。
「ほらほら!手が止まってんぞ、牛娘ぁ!!」
牡丹の豪快な笑い声が頭に響く。
その声と共に、脚爪がアタイの脇腹をかすめた。
「くっ!」
今度は正面から拳が飛んでくる――
アタイは腕をクロスさせて受け止める。
衝撃が腕を伝って全身に響く。骨が軋む感覚。だが、まだ耐えられる!
それでも――
(くそっ……持ってかれる……!)
体勢の崩れる瞬間を牡丹は見逃さなかった。
六脚の一本がアタイの足を絡め取るように絡みつき、バランスを奪ってくる。
「そら、もらったァ!!」
勢いそのままに、牡丹の分厚い拳が振り抜かれる。
まともに貰っちまった。
「ぐあッ――!!」
腹部に重たい衝撃が走り、そのまま背中から襖ごと吹き飛ばされた。
パキン!と木枠が砕け、障子紙が舞い上がる。
体ごと叩きつけられた先の床がきしみ、アタイは転がりながらも何とか踏みとどまった。
「はぁ……はぁ……」
息が荒く、腹にまだ鈍い痛みが残ってた。
それでも立ち上がる足は止まらねぇ。拳もまだ握れる。
ここで倒れるなんて、絶対に御免だよ。
アタイは拳をぎゅっと固めた。だが――
ぴたり、と感覚が凍りつく。
自分の腹からじわりと流れる赤いものが、拳にポタポタと落ちていた。
(……ああ、やっちまったか)
薄く皮膚が裂けて血が滲んでいた。
その赤が目に映った瞬間、アタイの胸の奥がズン、と熱く疼いた。
脈打つ心臓の鼓動が、どんどん高鳴っていく。
血の匂いが鼻腔をくすぐり、身体の奥底がざわざわと騒ぎ始める。
(ああ…久々にきたな、この感じ)
その時だった。牡丹が不敵に吠える。
「俺は景継様の力の象徴なんだよ!すべてを壊し、恐れられる存在にならなきゃいけねぇんだよ!!」
その言葉に、アタイの胸の奥にズンと怒りが燃え上がった。
「…バカ言ってんじゃねぇよ」
拳をぐっと握りしめる。
「力ってのはただ破壊するもんじゃねぇ、それはただの暴力だ!」
視線を鋭く向ける。身体の奥底から熱がこみ上げてくる。
「見せてやるぜ!力ってのは――誰かを守るためにあるんだってな!!」
思考が切り替わるのが自分でもわかった。
熱く、騒がしく、体内に満ちていく興奮に身を任せる。
「考えたってしょうがねぇ…アタイは拳でぶつかるだけさ!」
鼓動が速くなる。筋肉が軋み、血流が駆け巡るのをはっきり感じる。
目の前の牡丹が――ああ、面白ぇくらいクリアに見えてきた。
「行くぜ…今度はアタイの番だ!」
体内が煮えたぎるみたいに熱くなっていく。けど視界はどんどん澄んでいく。
牡丹の動きが、呼吸のリズムさえも手に取るように見えてきた。
「へぇ…面白ぇ目だな。まるで別人じゃねぇか」
牡丹が不敵に笑う。
だが今のアタイには、その挑発すらも燃料みたいなもんだ。
「まだまだ、これからだよッ!」
全身に力を込め、一気に地を蹴る。
床板が砕ける音とともに、牡丹へ向けて一直線に突進した。
奴も構える。六脚を踏ん張り、前脚二本を交差させてガードを作る。
「来いよォ!!」
渾身の勢いを乗せたタックルが牡丹の巨体に叩き込まれた。
鈍い衝撃音が響く。巨体がわずかに後退する。だが、完全には崩れねえ!
「ぐぬぅ…!どうした、止まったじゃねぇかァ!」
牡丹が必死に踏ん張ってやがる。六脚が畳を抉り、地面に食い込んでる。
でもアタイは止まらねぇ!
「まだまだッ!!!」
歯を食いしばり、雄たけびを上げながら、全身の筋肉に力を込める。
「オラァアアアアアッ!!」
うねるように力が爆発する感覚。
牡丹の脚が音を立てて軋み、とうとうバランスを崩した!
「て、てめぇ――!!」
叫び声を上げた牡丹の巨体が後方へと押し飛ばされる。
そのまま壁を突き破り、庭先へと吹き飛ばしていく。
「ぐあああああああ!!」
牡丹の断末魔の悲鳴が夜の空気に響き渡った。
灯籠も、植木も、塀も次々と薙ぎ倒され、巨体は地面に叩きつけられるように転がった。
やがてその巨躯は痙攣しながらも動きを止める。
もう、立ち上がる気配はなかった。
荒い息を吐きながら、アタイもその場に膝をつく。
「……っはぁ、はぁ……」
全身が熱い。けど、まだ生きてる――勝った!
「…ったく、しんどかったぜ」
夜空を見上げると、涼しい風が汗を冷やしてくれた。
思わず苦笑いが零れる。
「もう二度と、やりあいたくねぇな……」