散りぬるをも、なお君を②
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ヴァネッサ
種族:ヴァンパイア
とある古城に独り住んでいた。幻術・護身術を得意とする。
ライア
種族:リザードマン
流浪の剣士。エルザとは幼馴染。
エルザ
種族:サイクロプス
鍛冶職人。ライアとは幼馴染。
エリシア
種族:エルフ
精霊と心を通わせたり、精霊の力を行使できる。
トーラ
種族:ミノタウロス
ヴァルハールの町の自警団に所属。肉弾戦が得意。
雅
種族:ぬらりひょん
ジパングの妖怪娘達の取りまとめ役。
桔梗
種族:人間と妖怪のハーフ(くのいち)
月嶺景継に仕える五華衆の一人。多彩な忍術を持つ。
椿
種族:九尾の狐
月嶺景継に仕える五華衆の一人。幻術が得意。
皆が寝静まった頃、余は月明かりの下、静かな庭に立っていた。
白銀の光が庭石や松の葉を淡く照らし、池の水面には揺らめく月が静かに浮かんでいる。
夜風が頬を撫で、草木がわずかに囁く。
全てが穏やかで、そして心地良い。
静かなこの時間が、昔から余は好きだった。
闇は本来、余の領域…月の光もまた、吸血鬼たる余には心地よい穏やかさを与えてくれる。
心を鎮めれば鎮めるほど、耳に届く音は鮮明になる。
微かに、空気が揺らぐ。
わずかな気配。巧妙に隠しているが、誤魔化せるものではない。
殺意は感じないが隠密の術に長けた者独特の間合い。
まるでそこに“在る”のに“居ない”と錯覚させる絶妙な距離感。
余は目を細め、ゆるりと唇を綻ばせた。
「…隠れていても無駄だぞ。出てくるがよい」
声は抑えたが、はっきりと庭全体に届くように放った。
返答はすぐには返ってこなかった。
だが、やがて竹垣の影がわずかに揺れた。
するり、と闇の中からひとつの人影が滑り出る。
忍び装束に身を包み、鋭い目をした女性――胸元に咲く桔梗の花柄が月光に照らされる。
その目には、迷いのない静かな探りと計算が滲んでいた。
「……夜の気配に敏い者がいるとはな。少々意外であった」
淡々とした口ぶり。
敵意も感情も表には出さぬまま、静かに余を観察している。
余はその視線を受け止めながら、唇を僅かに緩める。
「ふふ……夜は余の領分だからな」
言葉にはあえて種族の名を伏せたまま応じる。
相手の警戒心の奥にある探りを、こちらも静かに測っていく。
互いに僅かに間合いを保ったまま、月下の静寂の中で探り合いが始まっていた。
月光が柔らかく庭石を照らし、その隙間に伸びる影が、まるで静かに絡み合うように揺れている。
先に口を開いたのは、忍装束の少女だった。
「某は桔梗。殿、月嶺景継様にお仕えする身なれば」
名乗るその声音は、凪いだ湖面のように静かだった。
だが、その内には一切の迷いも隙もない。まるで水底に隠された鋭利な刃のような芯が感じ取れる。
余はわずかに口角を上げ、同じく名乗り返す。
「ふふ……ヴァネッサだ。まあ、異国よりの余所者とでも思っておくが良い」
夜風がわずかに髪を揺らす中、余は静かに問いかける。
「今宵は何用でここまで忍び込んだ?」
桔梗は微かに視線を細める。
その双眸は、まるで針先で相手の懐を探るかのような鋭さを帯びていた。
「不穏な気配を僅かに感じ取ったゆえ、偵察に参った」
「偵察だけ、かね?」
余は一歩だけ前へ出る。
草木の葉がわずかに擦れる音が静寂に溶ける中、
二人の間の張りつめた糸が、さらに細く鋭く研ぎ澄まされていくのを感じた。
「このままやり合っても、余は構わぬが?」
挑発めいた余の言葉にも、桔梗は微動だにしない。
わずかに首を横に振り、あくまで淡々と告げる。
「その命は景継様より預かってはおらぬ」
沈黙がわずかに流れた。
余の唇に、薄く笑みが浮かぶ。
「…そうかね。だがもし余が貴様の立場であれば、敵対者の寝首を掻くことなど厭わぬと思うが?」
月光が桔梗の瞳を僅かに照らす。
その瞳の奥に、僅かな冷たさが宿ったのを余は見逃さなかった。
「貴様らが脅威となるのならば…な」
低く、鋭く、静かな殺気が一瞬だけ漂う。
だが次の瞬間には、また波紋のように消えていく。
「そして、これは警告でもある」
「景継様の障害となるならば、我ら五華衆、貴様らに容赦はしない」
言葉に込められた忠義は、決して大声ではなく、むしろ静けさの中に確かな決意として響いていた。
余はそのままじっと彼女の瞳を見据えた。
夜風がまた静かに庭を撫で、二人の間に張られた緊張の糸がさらに研ぎ澄まされていく。
「ふふ…心得た。その忠義、見事なものだ」
そう返しながらも、余は心の奥で静かに思う。
この忠義の奥に潜むもの――その歪みを、余は感じ取り始めていた。
二人の間に張り詰めた糸が、なおも細く震え続ける中、
その緊張を割くように、穏やかで柔らかな声が庭に響いた。
「…其方は、桔梗かえ?」
静かながらも、確かな存在感を持った声。
この屋敷の主、雅の声だった。
桔梗は反応をわずかに遅らせたが、すぐに警戒の色を収める。
視線を巡らせ、相手が誰であるかを確認すると、ゆるやかに構えを解く。
「…雅様」
そのまま一礼し、桔梗の姿は再び影へと溶けていく。
まるで最初からそこに存在しなかったかのように、音もなく闇に消えた。
余は微かに息を吐き、足音なく近づいてきた雅に視線を向けた。
「心配はいらぬ。ただの様子見だそうだ」
余の報告に、雅はゆるやかに微笑を浮かべる。
「ふふ……しかし、まさかこれほど早く偵察に現れようとはな」
「……どうやら、もうのんびりとした旅路は送れそうにもないな」
雅は何も言わず、静かに月を仰いだ。
白銀の光が庭に降り注ぐ中、わずかな不穏の気配だけが、夜の空気に微かに残っていた。
◇ ◇ ◇
朝の光が障子越しに差し込み、静かに部屋を照らしていた。
柔らかな日差しの中に身を置きながらも、昨日の雅の話が頭から離れない。
殿である月嶺景継の異変、五華衆の異様な忠誠。
加えて、昨夜ヴァネッサから報告を受けた桔梗の侵入。
只事ではないと感じながらも、胸の奥に渦巻く得体の知れない不安が重くのしかかっていた。
箸を持つ手にも力が入らず、朝食もほとんど喉を通らなかった。
食事の間も、誰とも多くの言葉は交わさず、皆それぞれに思案に沈んでいるようだった。
やがて食事を終えた頃、静かな足音が廊下から響いてきた。
雅が、ゆるやかな歩みで現れる。
昨夜と変わらぬ穏やかな微笑み。だがその奥に漂う、かすかな憂いを俺は見逃さなかった。
「昨夜はお騒がせをいたしました」
「いや、むしろ助かった」
ヴァネッサが穏やかに答える。
俺は少し息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
このまま何もせずに留まっていては状況は悪くなるだけだ。
胸の内に絡まっていた決断の糸を、ひとつひとつほどくように、ゆっくりと口を開いた。
「五華衆の一人がわざわざ偵察に来ている以上、向こうもこっちの動きを注視している。
だったら先に動いた方がいい。まだ話せる余地が残っているなら、今のうちに殿に会っておくべきだと思う」
だがその言葉を口にしながら、胸の奥に引っかかっていた疑問が浮かび上がる。
「……けど、一つだけ疑問があるんだ」
雅へと視線を向ける。
彼女は静かに続く言葉を待っていた。
「そもそも、俺達はただの旅人のはずだ。それなのに、どうしてその存在に気づけた?
ジパングに着いたばかりの俺達を、なぜこうも早く探し当てた?」
自分でも問うていて実感する。
おかしい。偶然では説明がつかない。
雅は微笑を崩さぬまま、煙管をゆるりと傾けた。
細く立ち昇る煙が、淡く空気に溶けていく。
「恐らくは景継様、あるいは桔梗殿が、“揺らぎ”として感じ取ったのではと拙は考えております」
「“揺らぎ”…?」
「ええ。異国より流れ着いた貴方様の中に宿るその“力”は、
静かな水面に映る月の如く、僅かに世界の流れを歪ませるものでございます。
それに応じて、敏き者の目には、そのわずかな乱れが映った――そういうことでございましょう。」
闇の力。やはりそれか。
旅路の中で、何度となく感じていた。
俺の内に流れるこの力は、常に何かを引き寄せ、周囲に微かな波紋を生んでいる。
それは人知れず、周囲の流れに揺らぎを与えていたのだ。
そして、ふと胸の奥に浮かぶ別の可能性。
「…景継殿の身にも、俺の力と似た“何か”が作用している可能性は?」
俺の問いに、雅はゆるやかに目を細める。
「それは拙には断言できませぬ。ですが、似た揺らぎの片鱗を感じることはございます」
その答えを聞いた瞬間、静かだった決意が、ゆっくりと形を成し始めるのを感じた。
これは、単なる他人事じゃない。
もしかしたらこれは、俺自身の“課題”でもあるのかもしれない。
「……なら、やっぱり俺達が行かなきゃならないな」
俺の言葉に、リリアがじっとこちらを見つめ、ゆっくりと微笑んだ。
「あなたがそう決めたなら、私達はどこまでもついていくわ」
その言葉に、誰もが静かに頷いた。
互いに言葉は交わさずとも、その眼差しは一様に、迷いなく前を見据えていた。
部屋の空気が、ゆるやかに、だが確実に引き締まっていくのを感じる。
覚悟は、皆同じだった。
「…皆様がそう決断なされたならば、拙も道筋を整えましょう。
殿も、今ならば客人の来訪を拒まれる段にはございませぬゆえ」
こうして、俺達は景継の城へ向かう覚悟を固めるのだった。
◇ ◇ ◇
昼下がり、雅の屋敷に一人の女中が姿を現した。
狸の耳とふさふさとした尻尾が揺れ、柔らかな笑みを浮かべている妖怪娘だった。
「皆様を景継様の城までご案内せよ、との拙のお役目にございます。どうぞ、こちらへ」
雅の手配による案内人。俺達は彼女に導かれ、城へ向かうことになった。
町を抜けると、次第に人通りはまばらになり、静かな山道へと変わっていく。
なだらかだった道は徐々に傾斜を増し、緩やかに登り坂が続いていった。
両脇には竹林や松林が生い茂り、風が吹くたびに葉擦れの音がさやさやと耳に届く。
虫の声も遠くから細く響いており、町の喧騒はすでに背後へと遠ざかっていた。
「……ずいぶん奥に建ててるもんだな」
ライアがぽつりと呟く。
たしかに、想像していたよりも城までは遠かった。
ただの城下町の外れにあるのではなく、あえてこうして町とは距離を置いた高台に築かれているのがわかる。
防御を重視した造り。まさに山城というに相応しい立地だった。
道は幾度か曲がりくねり、石段に切り替わる箇所もあった。
歩を進めるごとに周囲の空気も少しずつ冷えていく。
森の奥からは小さな沢のせせらぎがかすかに聞こえ、鳥の声も一層遠のいていった。
まるで日常から少しずつ隔絶されていくような、不思議な感覚が胸に広がっていく。
「…何というか、こんなところに住んでるだけで権威を感じそうね」
セレナは額ににじんだ汗を指先で軽くぬぐいながら呟いた。
狸の女中は相変わらず静かな微笑みを浮かべたまま、前を進み続ける。
やがて、森の隙間から遠くの山肌に沿うように築かれた白壁と黒瓦の天守がわずかに見え始める。
だがそこに至る道のりは、まだ幾つもの坂と曲がり道が残されていた。
太陽は傾き、伸びる影が俺達の足元を長く染める。
空も夕暮れの橙から、淡い紫色へと静かに移ろい始めていた。
「殿様の住む場所ってのは、どこもこう険しいもんなのかね」
トーラは首筋の汗を手で拭いながら、軽くぼやいた。
時計で言えば、既に五時を過ぎただろうか。
登城道を進むたびに、城の持つ「隔絶された支配者の領域」という空気が、徐々にその存在感を濃くしていった。
そして、ついに城門がその威容を現した。
高くそびえる門扉、その上に広がる白壁と高櫓。
まるで我々を睥睨するように、その城は静かに佇んでいた。
「この道のり、帰る頃にはすっかり夜だね」
覗き込むと、小さな黒いコウモリが肩の縁にしがみついていた。
ヴァネッサだ。彼女は小型のコウモリに姿を変えて、しれっと俺の服の中に紛れ込んでいた。
その姿に、セレナがジト目で吐き捨てるように言った。
「…アンタは変身できるから楽でいいわよね」
コウモリ姿のヴァネッサがくいっと小さく翼を動かしながら、涼しげに応じる。
「貴族には貴族の嗜みというものがあるのだよ。ふふ、うらやましいか?」
セレナはわずかに頬を膨らませ、ふんとそっぽを向いた。
そんなやりとりに、重たく張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ気がした。
ようやく長い坂道を登りきった先に、白壁の大きな城門がそびえ立っていた。
高く厚い門扉と高櫓が空を背にしてそびえ、静かな威圧感を放っている。
門前には数名の人間の兵が槍を手に警戒の目を向けていた。
狸の女中が一歩前へ進み、丁寧に頭を下げる。
「ご案内の客人をお連れしました。雅様より命を受け、殿のもとへお通しするよう申しつかっております」
だが、門番の一人が首を横に振った。
表情こそ柔らかだが、その口調は断固としていた。
「申し訳ありませんが、殿からの直々の通達がなければ、客人であってもお通しするわけには参りません」
淡々と告げるその声音に、わずかな硬さと警戒心が滲んでいる。
俺達は顔を見合わせた。
ここまで来て、まさか門前払いを食らうとは。
「そこをなんとか…雅様からの御遣いです。確認を取っていただければ――」
リリアが柔らかに取り成そうとするが、門番はなおも首を振る。
「恐れながら、殿は今、御内にてご静養中にございます。余計な騒ぎをお許しになるお方ではございません」
「…こういう無駄なやり取りが一番疲れるんだよな」
ライアはわずかに舌打ちをして呟いた。
埒が明かない、そう思いかけたその時、柔らかな足音が背後から響いた。
ふわりと、ほのかな香が風に乗って流れ込む。
「まぁまぁお堅いことはおやめなさいな」
艶やかな声音に振り返ると、そこに佇んでいたのは一人の女性だった。
透き通るような白い肌は淡い月光を受けたかのように滑らかで、
凛とした上品な顔立ちに切れ長の瞳が静かに光を湛えている。
その瞳はどこか落ち着き払っていながらも、底知れぬ妖艶さと気品を兼ね備えていた。
長く流れる金色の髪は緩やかに肩口から背中にかけて垂れ、微かな風にふわりと揺れている。
頭には白銀がかった狐耳が控えめに覗き、背中には九本の尾が緩やかに波打つように揺れていた。
彼女は恐らく九尾の狐だろう。その名に恥じぬ、その美しさと神秘性は一目で格の違いを感じさせている。
身に纏う桃色の着物は、艶やかでありながらも派手すぎることなく、あくまで品位を崩さぬ意匠が施されていた。
胸元や袖には椿の花柄が繊細に刺繍され、華やかさと雅やかさを演出している。
「これは失礼いたしました。妾は椿。景継様にお仕えする五華衆の一人にございます」
――五華衆。
その言葉を聞いた瞬間、俺達の背筋にわずかな緊張が走った。
思わず互いに顔を見合わせ、全員が無言でその名の重みを噛みしめていた。
椿はそんな反応も楽しむように、柔らかく微笑んだまま続ける。
「景継様より、異国の客人をお通しせよとの仰せを預かっておりますわ」
門番たちは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに恭しく頭を下げた。
「はっ、椿様……御意にございます」
ギィィ……と重々しい音を立て、城門がゆっくりと開かれていく。
俺達は、そのまま椿の導きに従って城内へと足を踏み入れていった。
城門をくぐると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
城内は静まり返りまるで別世界のようだった。
白壁の回廊が幾重にも続き、庭の池や石灯籠が夕暮れの光に浮かび上がる。
◇ ◇ ◇
「どうぞ、こちらへ」
椿は柔らかな微笑を浮かべたまま、静かに先を歩いていく。
その後ろ姿には一切の隙がなく、九本の尾がゆるやかに揺れていた。
俺達は言葉少なにその後をついていく。
廊下をいくつも抜け、いくつもの曲がり角を曲がるたび、城の中はまるで迷宮のように広く感じられた。
ようやく案内された先は、一室の座敷だった。
障子がきっちりと閉められ、外の景色はほとんど見えない。
静けさの中、どこか異様な閉塞感が漂っていた。
「殿は間もなくお越しになりますゆえ。しばしご息災にてお待ちくださいますよう」
椿は柔らかな笑みを崩さぬまま一礼し、音もなく襖の向こうへと消えていった。
静寂が降りる。
障子の向こうでは、庭の虫の音がわずかに響いている。
だがそれ以外、人気の気配は一切なかった。
「……随分と静かね」
リリアが部屋の中をきょろきょろと見回す
時間だけがじわじわと過ぎていく。
差し込む光が次第に薄れ、障子の隙間の向こうが藍色に染まっていくのがわかる。
やがて夕闇は完全に辺りを包み、空はすっかり夜の色へと変わっていた。
だが、待てども誰一人現れない。
セレナが眉をひそめる。
「さすがに変じゃない?殿が現れるどころか、誰の足音もまるでしないわ」
俺も内心で同じ違和感を抱いていた。
妙だ…あまりにも妙すぎる。
「…ちょっと見てくる。ここから先は警戒した方が良さそうだぜ」
やがて、トーラがゆっくりと立ち上がる。
「私も行こう」
ライアも続いて腰を浮かせた。
だが、二人が襖に手を掛けた瞬間だった。
ふわり、と空気が歪んだ。
足元から薄靄のような白い霧が漂い始める。
耳鳴りのような低い音が頭の奥で鳴り響き、感覚がぐらりと揺らぐ。
「っ……!?これは!」
思わず声を上げ、手を伸ばした。
だがその手は、誰にも届かなかった。
仲間達の姿が、まるで霧の向こうに溶けるように霞んでいく。
次の瞬間。
俺は、まったく別の部屋に立っていた。
ついさっきまでいた座敷とは違う。
広さも、空気も、まるで異なる。
薄暗い障子の奥には誰の気配もなく、壁の隅に置かれた行灯がかすかに揺れているだけだった。
目の前に広がるのは、見知らぬ静寂だった。
(……何だ、ここは?)
困惑が頭を支配する。
さっきまで隣にいた仲間達の姿は、どこにもいない。
何が起きたのかもわからない。
幻術なのか、罠なのか、あるいは何か別の現象なのか。
だが一つだけ確かなのは、今自分が“孤立している”という事実だけだった。
俺は小さく息を吐くと、気持ちを無理やり落ち着けた。
「…とにかく、皆を探さないと」
ゆっくりと障子へ手を伸ばし、音を立てぬように静かに部屋を出る。
まるで、この城全体が、何か見えない力で歪んでいるような――そんな嫌な感覚が、静かに背中を撫で続けていた。