散りぬるをも、なお君を①
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ヴァネッサ
種族:ヴァンパイア
とある古城に独り住んでいた。幻術・護身術を得意とする。
ライア
種族:リザードマン
流浪の剣士。エルザとは幼馴染。
エルザ
種族:サイクロプス
鍛冶職人。ライアとは幼馴染。
エリシア
種族:エルフ
精霊と心を通わせたり、精霊の力を行使できる。
トーラ
種族:ミノタウロス
ヴァルハールの町の自警団に所属。肉弾戦が得意。
雅
種族:ぬらりひょん
ジパングの妖怪娘達の取りまとめ役。
船がジパングの港に着いた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
港に広がる光景は、これまでのどの町ともまるで違っていた。
瓦屋根が整然と並び、道沿いに提灯が吊り下げられている。
潮風に揺れる白い暖簾。遠くから微かに聞こえる太鼓の音。
まるで江戸時代の町並みがそのまま現れたかのようだった。
だが、そこにいるのは人間だけじゃない。
通りを歩く着物姿の人々の中には、人間ではない姿も多く混ざっていた。
狐耳の女性が買い物袋を提げ、猫娘の子供が団子を咥えて走り回る。
角の生えた鬼娘が威勢よく魚を担ぎ、背中に甲羅のある亀娘が日傘をさして優雅に歩いている。
妖怪娘達と人間達が当たり前のように混ざり合い、笑い、声を交わし、共に暮らしていた。
まるでそれが“普通の光景”であるかのように。
「すげぇな……」
俺は思わず呟いていた。
こんな世界が本当にあるんだ、と。
争いどころか、むしろ自然に溶け合っている彼らの姿は、
この世界で俺達が今まで見てきた多くの悲しい現実とは、まるで正反対だった。
「本当に…素敵な場所ですね!」
エリシアは胸元に手を添え、感嘆の吐息を漏らす。
異国の文化に触れた驚きと、そこに息づく穏やかな共存の空気に心を打たれているようだった。
「服装も街並みも全然違うのね」
セレナは周囲を見渡しながら、興味津々に目を輝かせる。
普段冷静な彼女も、異国の風情に自然と好奇心が滲んでいた。
「……空気が違う」
エルザは目を細め、僅かに首を傾ける。
気配、音、匂い、そして人と妖怪の混ざり合う独特の空気感を、
職人のような鋭敏さで感じ取っているようだった。
「なんだか不思議な感じだけどさ……嫌いじゃねぇな」
トーラは両腕を組み、柔らかな笑みを浮かべる。
異国の文化も彼女にとってはむしろ新鮮で、すぐに順応できる柔軟さを滲ませている。
「これが本来の在り方かもしれないね」
ヴァネッサは少し目を細め、穏やかな微笑を浮かべながら呟いた。
その声にはどこか優しさと深みがあった。
争いではなく、交わり合う未来の可能性を感じ取っているかのように。
みんな、どこか自然に馴染んでいた。
これが“共存”というものなのか。
そう思わせるだけの説得力が、ここには確かにあった。
「じゃあ、これから少し自由行動にしましょうか」
リリアの提案に皆が賛同する。
事前に決めた集合場所――町の中央にある大きな広場を確認してから、各自思い思いの方向へと散っていく。
俺はライアとエルザに同行することにした。
二人とも、どうやら刀や剣術に興味津々のようだったからだ。
「せっかくのジパングだ。噂に聞く『カタナ』、是非見てみたい!」
ライアが興奮気味に声を弾ませる。
「……作り方も、見てみたい」
珍しくエルザも積極的だった。
その言葉には、彼女なりの確かな熱意が滲んでいた。
普段は寡黙なエルザが、自ら学びたいと口にするのは珍しい。
小さく握った拳に力が入り、僅かに頬が紅潮しているのがわかる。
鋭い一つ目が、既に刀剣の技術への強い興味を映していた。
そうして歩き出した俺達は、やがて一軒の道場の前に辿り着いた、
『静心流道場』と書かれた看板が、静かに揺れていた。
中を覗くと、道場の中央で一人の老人侍が刀を手に構えていた。
腰の入った深い構えから、目を閉じたままゆったりと呼吸を整えている。
弟子の一人が声を掛け、次々に木片や竹筒を投げ始めた。
それらが空中を舞うたび、老人の刀が音もなく抜かれ、次々と正確に斬り落としていく。
目を閉じたまま…まさに「見ずして斬る」芸当だった。
正直、こうして実際に刀の演武を間近で見るのは俺も初めてだった。
テレビや映画の中では何度も目にしたが、こうして生で見るとまるで空気そのものが張り詰めるようだ。
斬るという行為にここまで無駄がなく、静かで、洗練されたものだとは思わなかった。
老人は更に、今度は道場の奥に設置された藁束の前へと静かに歩みを進めた。
鞘に刀を納めたまま、深く腰を落とし構え直す。
再び、目は閉じられていた。
ピタリ、と場の空気が張り詰める。まるで空間そのものが呼吸を止めたかのように。
そして、ほんの刹那。
シュッ、と鋭い音が走ったかと思うと、老人の刀は既に抜き放たれ、藁束が音もなく斜めに崩れ落ちた。
あまりにも一瞬の出来事だった。俺達の目は、その抜刀の動きをまったく捉えられなかった。
「……すごい」
思わずライアが呟き、俺も息を飲んで頷く。
これが居合。静寂の中に潜む、研ぎ澄まされた殺気だった。
演武が終わると、ライアが勢いよく老人のもとへ駆け寄った。
「なあ、ご老人! 今の、どうやったらそんな風に斬れるんだ?」
興奮気味に声を上げるライアの様子に、俺は思わず苦笑いを浮かべた。
「ちょっとライア!いきなり失礼だろ?……すみません、急に入っちゃって」
俺が慌てて頭を下げると、老人はふわりと穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと首を振った。
「おやおや、異国の方々ですかの。構いませんよ。
それに関心を持ってくれるのは、儂としても喜ばしい」
そこへエルザが、少しだけ言葉を探しながら前に出てきた。
「……私も、知りたい」
彼女にしては珍しく、はっきりとした意志が感じられる声音だった。
老人はその言葉をしばし受け止めるように目を細め――そして、ゆったりと頷いた。
「……よかろう。少し教えてやるかの」
その言葉に、ライアとエルザの表情がわずかに輝いた。
老人は道場の隅にあった小さな籠からいくつかの小石を取り出し、エルザの前に立たせた。
「では、まずは心眼の入り口じゃ。目を閉じて、小石が飛んでくるのを感じてみい」
エルザは静かに目を閉じ、ハンマーを構える。
その姿勢は普段の鍛冶仕事を思わせるように安定していたが、僅かな緊張も伝わってくる。
「いくぞ」
老人が軽く放り投げた小石が、エルザの頭上へと放物線を描く。
エルザは音を頼りに反射的にハンマーを振り上げたが…。
ブオン、とハンマーは空を切り、そのまま小石は額にコツンと直撃した。
「……痛い」
エルザは無表情ながら、わずかに眉を寄せた。
老人は柔らかく笑みを浮かべて頷く。
「ふふ、まだまだじゃな。だが、初めは誰もそんなものよ」
その隣では、ライアがすでに剣を鞘に納め、居合の構えを真似していた。
わずかに腰を落とし、踏み込みの重心を探るように動いている。
「よし…こうか?」
ライアは試しに勢いよく鞘から剣を抜き放つ。
まだぎこちなさは残るが、その踏み込みの鋭さには剣士としての地力が滲んでいた。
「どうだ、ご老人?」
ライアが息を弾ませつつ、手応えを求めて問う。
老人は顎に手を当て、しばし黙考してから口を開いた。
「ふむ……悪くはない。筋はある。だが…」
「だが?」
「まだ邪念を捨て切れておらんな」
「邪念?」
「そうじゃ。斬ろうとする意識そのものが、心を乱すのじゃよ」
老人は静かに目を細め、ゆったりと語り始めた。
「心眼…それは目に頼らずとも、世界の気配を感じ取る術じゃ。
音、風、気の流れ、匂い……五感を超えて、己が置かれた空間すべてを把握する“心の眼”と言えるな」
エルザは静かに耳を傾けながら、小さく頷く。
続けて老人は、ライアに目を向ける。
「そして、無の境地。これは居合において肝要となる。余計な思考を捨て去り、心を無にすることで、刃が自然と導かれる。
斬ろう、当てようとする執着が消えた時こそ、最も速く、最も鋭くなる」
「つまり、心眼は“感じ取る心”の修練。無の境地は“迷わぬ心”の極意。
どちらも異なる道じゃが……高みへ至れば、互いに繋がるものでもある」
その言葉に、ライアは真剣な表情で大きく頷いた。
隣でエルザもまた、目を閉じたまま小さく息を整えて再挑戦の構えを取っていた。
こうして、二人の「学びの一歩」が、静心流の道場で始まったのだった。
しばらく老人から教えを受けた後、ライアとエルザは深々と頭を下げた。
「ありがとうよ、ご老人!」
「……ありがとうございました」
老人は優しく目を細め、静かに頷く。
そのまま手を振り、背中を押すように送り出してくれた。
道場の門をくぐり、再び賑わう通りへと戻ると、柔らかな日差しと賑やかな活気が全身に降り注ぐ。
さっきまでの静謐な道場の空気と打って変わり、町の喧騒が心地よく耳に入ってきた。
「いや~、いい経験させてもらったな」
ライアは大きく伸びをしながら、満足げに息を吐く。
その横顔はどこか少年のように嬉しそうだった。
「…うん」
エルザがほんの僅かに口元が緩ませつつ頷く。
「でもさ、エルザまで教えを乞うとはな。てっきり刀の作りにしか興味ないと思ってたよ」
俺が軽くからかうように言うと、エルザは一瞬きょとんとした顔を浮かべ、それから視線をそっと逸らした。
やがて、小さな声でひそりと呟く。
「…それは…かっこよかったから」
その耳元が、ほんのり赤く染まっているのが見えた。
しばし無言が流れた後、エルザはふと思い出したように付け加えた。
「でも…大丈夫。さっきのお爺さんに刀鍛冶屋さんの場所も聞いたから…後で行くつもり」
「ちゃっかりしてるな」
俺は肩をすくめながらも、なんとなく微笑ましくなってしまう。
無口で何を考えてるかわからない時があるけど、意外としっかりしてる。これもまたエルザらしさなんだろう。
道の先からは三味線の音がゆるやかに流れてくる。
異国の空気の中、俺達は穏やかな空気に包まれながら再び歩き出した。
◇ ◇ ◇
夕暮れの光が町全体を柔らかな橙色に染めていた。
瓦屋根の町並みも、提灯に灯る淡い明かりも、どこか幻想的な彩りを帯びていく。
道沿いには紙灯籠がひとつ、またひとつと灯されてゆき、通りに長く伸びる影が揺らめいていた。
そんな景色を背に、俺達は宿探しに難航していた。
「うーん…ここもだめか」
ライアが肩を落とし、道端に立つ宿屋の看板を見上げる。
宿屋の女将も困ったような笑みを浮かべ、申し訳なさそうに頭を下げた。
「やはり通貨が違うのが原因ですね…」
エリシアが小さく息をつく。
「アビス様の刻印入りカードも、この地じゃ通じないみたいだしな」
俺はため息まじりで肩をすくめる。
ジパングでは独自の貨幣制度が定着しており、俺達がいた大陸で使っていた金貨やカードは、
ここでは異国の骨董品のような扱いになってしまうらしい。
換金所はあったが、手続きに手間がかかるうえに、この時間では既に閉まっていた。
「…困ったな。野宿はちょっと勘弁してほしいぞ」
久しぶりの野宿に見舞われることを想像し、内心げんなりする。
「屋根の下で寝たいのは同感だなぁ」
トーラが苦笑しながら空を仰ぐ。
空はすでに茜から群青へとゆっくり溶け始めていた。
だが、まだ夜の帳が降りきるには少し早い、そんな“間”の時間帯だった。
そんな時だった。ふっと背後から、柔らかく、それでいてどこか吸い寄せられるような声が降り注いだ。
「…旅の方々、お困りのようですな?」
その声に、思わず俺達は振り返る。
そこには、いつ現れたのかすらわからない女性が静かに立っていた。
風も足音も感じさせぬ登場に、一瞬だけ空気が静まったように思えた。
夕暮れの光の中、その姿はまるで淡い幻のようだった。
彼女は長く流れる銀白色の髪を夕暮れの光に照らしながら、微笑んでいた。
漆黒の着物には繊細な金糸の刺繍が施され、淡くたなびく煙のような妖気が肩先に絡んでいる。
赤紫がかった瞳は静かな光を宿し、まるでこちらの内心までも見透かしているかのようだった。
けれど、その佇まいに恐ろしさは感じなかった。むしろ、不思議な安心感と柔らかさが漂っていた。
「貴女は……?」
思わず俺が問いかける。
女性は優雅に微笑み、煙管を片手に静かに頭を下げた。
「拙は雅と申します。この町にて、妖たちの纏め役のようなことを少々務めております。
お困りの様子とお見受けしましたゆえ、少々お声掛けいたしました」
その語り口はまるで水面に落ちる小石のように静かで柔らかい。
けれど同時に、その奥底には、底知れぬ知恵と観察眼が潜んでいるのがわかった。
「ええ、正直…少し困ってました」
俺は素直に打ち明けた。
「もしよろしければ、今宵は拙の屋敷にてお休みになりませんか?」
「え、いいのか?」
ライアが目を丸くする。
「ええ。異国の客人とお話できる機会もまた、拙にとっては愉しみでございますゆえ。
もちろん、お代などは要りませぬ」
雅は穏やかに煙管の煙をくゆらせながら瞳を細める。
その申し出に、俺達は内心少し戸惑っていた。
しかし、後ろでじっと雅を見つめていたヴァネッサが、ゆるやかに一歩前へ出る。
「金が要らぬ、とは…ずいぶんと親切ではないか?」
その声音は柔らかいが、奥にはわずかな警戒が滲んでいた。
雅はその問いにもまるで動じることなく、むしろ楽しげに唇を緩めた。
「ふふ、旅は縁。縁は巡り、また誰かの助けとなるもの。困った時はお互い様、というだけのことですわ」
雅の微笑の奥に、どこか柔らかな母性と共に、知恵の底が透けて見える。
けれど、その余裕すらも嫌味ではなく、ただ静かな水面のようにゆったりと広がっていた。
ヴァネッサは一拍置いて雅の瞳をじっと見つめ、やがて小さく目を伏せた。
「…なるほど。随分とできた方のようだ」
「お褒めに預かり光栄にございます」
雅は静かに一礼し、にこりと微笑んで見せた。
「…では、お言葉に甘えさせていただきます」
「ふふ…では、参りましょう。良き夜のはじまりとなりますように」
俺の返事を聞いた雅は静かに背を向け、音もなく歩き出す。
その背中を追い、俺達は淡く照らされた道を進んでいった。
◇ ◇ ◇
雅の案内に従い歩いていくと、町の賑わいが次第に遠ざかり、落ち着いた静寂が辺りを包み始めた。
やがて辿り着いた屋敷は、想像を遥かに超える広さだった。
黒塗りの重厚な門構え。控えめながらも品のある暖簾。
中へ一歩足を踏み入れると、整えられた白砂の庭が視界に広がり、
松の枝振りは見事に剪定され、池には月の欠片のような波紋がゆるやかに広がっていた。
廊下の板は隅々まで磨き上げられ、足音すら吸い込まれるような静けさがある。
障子越しに差し込む淡い灯りが室内を照らし、金細工の欄間が静かに煌めいていた。
この場所全体がまるで雅そのものを映したかのように、
優雅で、静謐で、整えられている。そんな印象を受けた。
「…すごいな。まるで小さな屋敷町みたいだ」
思わず呟いた俺の声も自然と静まっていく。
「町の中でこれだけの屋敷……随分と高名な方らしいね」
ヴァネッサがゆっくりと周囲を見渡しながら低く呟いた。
その声にも、微かな警戒の色が滲んでいる。
雅はそんな視線を柔らかく受け止め、ゆるやかに微笑みを浮かべたまま振り返った。
「ふふ、そこまで大したものではありませんよ。
拙はただ、妖達の取りまとめ役、というだけの存在にございます」
言葉は謙虚ながら、まるで空気すら撫でるような穏やかな響きだった。
その一言一言が、まるで柔らかな波紋のように心に広がっていく。
「…取りまとめ役、か」
ヴァネッサが探るように問い返す。
「拙は、ぬらりひょんという妖でございます」
その名を聞いた瞬間、俺の思考は一気に跳ね上がった。
「ぬらりひょん!?」
思わず声を上げた俺に、仲間達が次々と視線を向ける。
「知っているのか?」
ライアが怪訝そうに眉を上げる。
「俺のいた世界…日本では、ぬらりひょんっていうのは、妖怪たちの総大将みたいな存在だったんだ」
俺の言葉を聞いてもなお、雅は柔らかく微笑みを崩さずにいた。
「ふふ…なんと恐れ多い。拙はただ、騒がぬように皆を見守り、
穏やかに流れを整えているだけにございます。大層なものではありませぬ」
その声音は、偽りのない落ち着きと包容力を含んでいた。
まるで全てを俯瞰しながらも、決して己を誇らず、静かにそこに佇む存在――
まさに“ぬらりひょん”という名が相応しいと、俺は改めて実感していた。
雅の屋敷は外観だけでなく、もてなしの心配りにも隙がなかった。
通された広間は、障子越しに月明かりが優しく差し込み、静かな庭園の景色が一望できる造りになっていた。
やがて運ばれてきたのは、俺にとって馴染みのある料理の数々だった。
竹籠に盛られた握り飯に、透き通った出汁の椀物、焼き魚、漬物、そして彩り豊かな野菜の小鉢達――
どれも素朴ながら品があり、一つ一つが丁寧に仕立てられているのが伝わってくる。
それらは、異世界にいながら、まるで日本の和食をそのまま移したような佇まいをしていた。
「これが…ジパングの料理なんですね!」
エリシアが目を輝かせて感嘆の声を上げる。
「へぇ…香りもいいわね」
セレナも鼻を利かせながら箸を手に取る。
「……美しい」
エルザは、料理そのものの細やかな盛り付けに目を奪われていた。
「うまそうだな! いただきまーす!」
ライアはすでに箸を手にし、嬉々として手を伸ばしている。
箸を手に取ると、自然と指が馴染むのを感じた。
口に含んだ出汁の優しい味わいが、じんわりと体に染みていく。
「……懐かしいな」
思わず小さく呟いていた。
この世界に来てからというもの、肉料理や濃い味付けの食事が多かっただけに、
こうした素朴で丁寧な味はまるで日本で過ごしていた日々を思い出させてくれる。
「ふむ、確かに…ここのもてなしは本物のようだな」
ヴァネッサが一口飲み下し、わずかに微笑みながら静かに評する。
その眼差しにも、警戒よりも穏やかな安堵が浮かび始めていた。
静かな会話と共に、夕食はゆったりと進んでいった。
食事を終えると、俺達は一室に通され、しばし寛ぐこととなった。
畳の上に座り、障子の向こうから微かに聞こえる虫の音を耳にしながら、
それぞれが旅の疲れを癒すように体を休めていた。
その時だった。
静かに襖が開かれ、女中の妖怪娘が顔を覗かせた。
彼女は人間の少女にも見えたが、耳元から伸びた小さな角が、その正体を静かに物語っている。
「失礼いたします。主がお呼びでございます」
柔らかく丁寧に頭を下げる。
「雅様が?」
俺が軽く尋ね返すと、女中は静かに微笑みを浮かべて頷いた。
「はい。皆様方、どうぞお越しくださいませ」
俺達は顔を見合わせ、小さく頷き合う。
ゆっくりと立ち上がり、再び雅の待つ部屋へと向かって歩き出した。
廊下を歩くと、柔らかに灯る行灯の明かりが、床にぼんやりと影を落としている。
◇ ◇ ◇
静かな座敷に通された俺達は、円座に腰を下ろしていた。
先ほどの夕食の余韻も手伝って、どこか穏やかな空気が流れていた。
そんな中、雅が静かに微笑んで口を開いた。
「拙のおもてなし、少しは皆様のお疲れを癒せましたでしょうか?」
優しく問いかけられ、俺は思わず微笑んだ。
「ええ、とても。料理も部屋も、驚くほど快適でした。どこか落ち着ける感じがして…」
雅はゆるやかに頷き、微笑をさらに深める。
「それは何よりにございます。旅の方に少しでも安らぎを差し上げられるのは、拙にとっても喜びでございますゆえ」
その柔らかな口調は、まるで春の陽気のように穏やかで、聞いているだけで自然と緊張がほぐれていくようだった。
だが、その空気の中に僅かな"揺らぎ"が混じらせるように、雅は静かに切り出した。
「しかし、皆様には少々穏やかな旅路を乱すお話を差し上げねばなりませぬ。」
その声音は柔らかいが、確かな重みを帯びていた。
俺達は自然と雅の言葉に耳を傾ける。
「このジパングは今、ぬらりひょんである拙が纏める妖の一族と、
人の側を治める殿、月嶺景継様とが手を取り合い、共に歩む道を築いております」
そこまで告げる雅の声には、僅かに誇らしさと慈しみが滲んでいた。
人と妖が共存を選び、ともに暮らすこの土地――それが今のジパングの在り方なのだろう。
「ですが…その均衡が、最近揺らぎ始めております。」
「揺らぎ…?」
その言葉の奥にある重みを感じ取り、俺の声は自然とわずかに低くなっていた。
ここから語られるのは、単なる噂話や雑談ではない――そんな空気が、雅の静かな声音からじわりと滲み出していたのだ。
胸の奥に、まだ正体の知れない不安が静かに波紋を広げはじめていた。
「はい。……景継様のお心に、どうにも異変が現れているのです」
室内の空気がわずかに張り詰めた。
「元より温厚で思慮深く、民にも妖にも公平であられた御方でしたが……ここ数月、まるで別人のようになってしまいました。
周囲への苛立ち、突然の命令――」
雅の赤紫の瞳がわずかに陰る。
そこにあるのは、長年積み重ねた信頼関係の歪みに対する痛みだった。
「このままでは…かつて築き上げた共存の在り方すら、崩れてしまうやもしれませぬ。
拙としても、看過できぬ状況となりつつあります。」
「特に近頃は、周囲の者達、五華衆の忠誠ぶりが、目に余るほどに増しておりまして」
「…五華衆?」
俺は思わず聞き返した。聞きなれない言葉に、眉をひそめる。
雅は小さく頷き、説明を続ける。
「景継様に仕える五名の妖達…それが五華衆にございます。
皆、元はそれぞれの地で力を持ちながらも、殿のお人柄に惹かれて仕えた者達です」
そこまで語った雅の表情が、ほんの僅かに陰を落とす。
「本来は殿の御心を支え、力となる者達でございました。ですが…近頃は、まるで殿の異変に呼応するかのように、
忠誠心が歪んで強まりつつあるのです。かつての柔らかな主従の在り方が、今はまるで呪縛のように変わり始めております」
微かな煙がゆるやかに揺れ、雅の瞳がわずかに翳った。
「忠誠とは時に、美しくも危ういものでございますな……」
その穏やかな声の奥に滲む静かな危機感を、俺は感じ取っていた。
しばしの沈黙の後、雅は静かに煙管を傾け、ゆったりと言葉を紡いだ。
「…正直なところ、拙にも全ての原因が見えているわけではございませぬ。
ですが…おそらくは“あの出来事”が、景継様のお心に影を落としているのではと考えております」
「あの出来事?」
俺が問い返すと、雅は僅かに視線を伏せた。
「景継様が深く愛しておられた姫様が、数年前に病に倒れ、若くして命を落とされたのです」
静かな室内に、ふわりと沈痛な空気が漂った。
「姫様は、景継様にとって心の支えであり、共にこの国を築いてきた伴侶でもありました。
その喪失が、あのお方の心に深い傷を残してしまわれたのでしょう…」
雅は目を細め、遠くを見つめるように続けた。
「拙は、そこから何かが少しずつ狂い始めたのではないか……と感じております。
五華衆の忠誠の高まりもまた、あるいは殿の内なる迷いと渇望が、無意識に彼女達を縛り始めているのかもしれませぬ」
言葉を紡ぎながらも、雅自身が慎重に選びながら語っているのが伝わってきた。
まだ全貌が掴めていないが、確かな「異変の芽」を感じ取っている──そんな印象だった。
「拙の立場では、それ以上の深入りは憚られております。
ですが、貴方がたには……いずれ、この国の奥に潜む“何か”と向き合う機会が訪れるやもしれませぬ」
雅の表情には、どこか哀しみと諦観、そして微かな希望を湛えているようにも見えた。
雅の語りが静かに終わると、しばしの間、誰も言葉を発せずにいた。
淡い行灯の光が揺らめく中、皆がそれぞれに神妙な面持ちで思案に沈んでいる。
そんな沈黙を破るように、リリアがゆっくりと口を開いた。
「どうして、私達にそんなお話を?」
その問いに、雅は微笑を崩さずにゆるやかに応えた。
「理由は、率直に申し上げましょう」
雅の瞳が静かにカケルへと向けられる。
その目は、ただ柔らかいだけでなく、鋭く深く、まるで内側まで透かし見るようだった。
「貴方の内に流れるその“力”――拙は、その底知れぬ気配を僅かに感じ取りました。
…それは、このジパングに今漂い始めている歪みと、どこかで呼応する匂いを孕んでおります」
静かに煙管から煙が立ち昇る。
それはまるで、雅の言葉がそのまま空気に溶けていくようだった。
「もちろん、今すぐに何かを求めるつもりはございませぬ。
ただ、貴方がたがこの地に踏み入れたその瞬間から、何かの“流れ”が少しずつ動き出したように感じられたのです」
雅は静かに息を吐き、再び柔らかな微笑を浮かべる。
「それゆえ、せめて事前に、ほんの僅かながらでも"警告"を差し上げた次第でございます」
その声音は決して脅しではなかった。ただ静かな誠意と、遠くを見据える賢者の慈しみがそこにあった。
俺達は思わず自然と背筋を伸ばしていた。
雅からの話を聞き終えた俺達は、互いに言葉少なに頷き合い、ひとまず今宵は休息を取ることにした。
重く静かな情報を胸に抱えながら、それぞれが与えられた部屋へと戻っていった。
夜が更けていく。
障子越しに映る月光が、白く柔らかな光を畳の上に落としている。
虫の音だけが静かに響き、屋敷全体が穏やかな静寂に包まれていた。