その正は誰がために⑤
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ヴァネッサ
種族:ヴァンパイア
とある古城に独り住んでいた。幻術・護身術を得意とする。
ライア
種族:リザードマン
流浪の剣士。エルザとは幼馴染。
エルザ
種族:サイクロプス
鍛冶職人。ライアとは幼馴染。
エリシア
種族:エルフ
精霊と心を通わせたり、精霊の力を行使できる。
トーラ
種族:ミノタウロス
ヴァルハールの町の自警団に所属。肉弾戦が得意。
クリス
種族:人間
魔物娘反対派の教会の騎士団に所属する聖騎士。聖剣の使い手。
宿に戻ると、ロビーにはリリアの姿があった。
ソファに腰をかけ、脚を組んだまま雑誌のようなものをめくっていたが、俺の足音に気づいて顔を上げる。
「…あら、やっとお帰り?」
「悪い、ちょっと時間を食ってな」
リリアはページを閉じ、俺のほうに体ごと向けてくる。
「あらそう。でも――」
そこで一拍、言葉を区切ってから、じっとこちらを見つめる。
俺の服の乱れ、肩の小さな裂け目、靴についた泥――
何も聞かないが、何も見逃してはいない目だった。
「パンはどうしたの?」
「あ…ごめん、品切れだったんだ」
なるべく自然に言ったつもりだったけど、リリアの眉がわずかに動いた。
「それにしては、帰りが遅かったじゃない?」
「…あー、それは。変なのに絡まれちゃってさ」
できるだけ軽い調子で言い逃れた。
本当のことを話す気にはなれなかったし、リリアもそれ以上は深く突っ込んでこなかった。
「ふぅん…」
一瞬だけ、彼女の視線が鋭くなる。けれど、すぐに柔らかな笑みに変わった。
「まぁいいわ。今度頼むときは倍にするから」
「はいはい……わかってるよ」
苦笑しながら手を振って、俺は階段を上がっていった。
背後から、彼女の視線が少しだけ長くついてきたような気がしたけれど――
それを振り返る余裕も、今はなかった。
ベッドに身を投げ出すと、疲労と共に重たい何かが胸の奥で静かにくすぶっていた。
(……声はもう、聞こえない)
けれど、それは“消えた”という確信じゃなかった。
むしろ――ただ、ひとまず“静かになっただけ”のような、そんな感覚があった。
部屋の中は、しんと静まり返っている。
窓の隙間から入り込んだ風が、カーテンをかすかに揺らした。
その音さえも、やけに大きく聞こえた。
(あの声……本当に俺の中にあったのか?)
脳裏に焼き付いて離れない囁き。
冷たく、濡れたような声色。耳元に残る震え。
それが一度でも現れたという事実が、何よりも怖かった。
額に手を当てると、じっとりと汗ばんでいた。
布団に横たわったまま、目を閉じても、
暗闇の中にぼんやりとした気配が残っている気がして、眠気がどこかへ逃げていった。
(…まさか、これが“俺の力”の正体なのか?)
闇の力。それはずっと、自分の味方だと思っていた。
だが、今日のあれは違った。
確実に、“俺”じゃない何かが混ざっていた。
それが、静かに目を覚まし、また出てこようとしているような。
そんな不吉な予感だけが、心に爪痕を残していた。
答えが出ない疑念を抱きながら、天井をぼんやりと見つめるうちに、まぶたがどんどん重くなっていく。
…いつの間にか、眠りに落ちていた。
◇ ◇ ◇
――薄暗い意識の中。遠くから誰かの声が聞こえた気がした。
「…カケル…起きて。早く!」
最初は夢の続きかと思ったが、その声は次第に近づき、はっきりと輪郭を帯びていく。
「町が襲撃されてるの!」
はっとして目を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのはリリアの顔だった。
息を切らし、眉をひそめた彼女の表情から、ただ事ではないことがすぐにわかった。
「リリア…?どうした…」
「いいから早く起きて!町が騒然としてるわ。急がないと!」
その声で完全に目が覚め、俺は跳ね起きた。
隣ではエルザも寝巻きのまま起き上がり、驚いたようにこちらを見ている。
「説明は後。皆を集めないと、早く!」
俺達は慌てて荷物と装備を掴み、部屋を飛び出す準備を整えた。
空気が張り詰めている。下からは怒号や金属音がわずかに聞こえていた。
町の平穏な夜が、音もなく崩れ落ちているのを感じながら、俺達は宿の外へ向かった。
宿の扉を開けた瞬間、焦げた空気と共に、怒号と悲鳴が吹き込んできた。
夜のはずなのに、闇は炎の赤に侵食され、町のあちこちで火の手が上がっていた。
人々の叫びが四方から響き渡り、混乱と恐怖が渦巻いている。
「カケル!」
外に既に待機していた他の仲間達全員の視線が俺に注がれる。
既に全員が、戦闘の準備を整えているようだ。
「…皆無事か?」
「なんとかね。けど、目覚めたらもう煙の匂いが充満してたわ」
セレナが短く答える。ライアは剣を抜き、周囲を警戒していた。
「どういう状況だ? これはただの火事じゃないだろう」
その問いに応じたのは、月明かりの中で静かに佇んでいたヴァネッサだった。
「町の外から、人の気配が不自然に流れ込んできていたよ。しかも、武装したままね。数も少なくなかった」
「まさか、襲撃か…?」
「そう。火を放って混乱を作り、逃げ場を塞ぎながら、魔物娘を狙っている。雑だが、悪くない手段だ」
彼女の目線の先には、複数の建物から立ち昇る炎と、それに照らされた逃げ惑う人々の影があった。
遠くからは悲鳴も聞こえてくる。
「こんなこと…いったい誰の仕業なんだ?」
「私達魔物娘に敵意がある者達であろう。手際が良すぎる。“慣れてる”感じすらある」
ヴァネッサの低く冷静な声が、燃え上がる町の喧騒の中でもはっきりと響いた。
その言葉に、仲間達は一斉に表情を引き締める。
まるで、過去に似た光景を見てきた者達が、記憶の扉を開かれたかのようだった。
「なら、急がないと。被害が広がる前に行動しよう」
俺は燃え上がる夜の町に目を向けた後、仲間達を見渡した。
彼女達は皆、焦りや恐怖ではなく、静かに戦意を燃やしている。
これまで共に旅をしてきた絆が、その沈黙の中にも確かに感じられた。
「リリアとヴァネッサは広場周辺を頼む。あそこは人通りが多い、敵が集まりやすいはずだ。
ライアとエルザは市場方面を。火が回れば被害が大きくなる。できるだけ早く火元を断ってくれ」
リリアとヴァネッサが頷き合い、ライアとエルザも無言で武器を確認するように動いた。
「セレナとエリシアは、この宿の周辺の避難誘導を頼む。
まだ逃げ遅れてる人もいるかもしれない。敵を撃退しつつ、住民の安全を最優先で」
指示を受けた二人もまた、真剣な眼差しで頷いた。
セレナは口元を引き結び、エリシアは小さく息を飲み込むようにしてから、弓矢を握り直した。
それぞれが動き出そうとしたとき、リリアが一歩前に出て問う。
「…カケル、貴方は?」
その声には、不安ではなく、信頼の中にある確認の色が込められていた。
「俺は一人で動く。被害が酷そうな場所を優先して回る。誰かに付き添われるより、その方が自由に動けるからな」
リリアは一瞬だけ何かを言いたげに視線を向けたが、すぐに微笑んで頷いた。
「そう、なら気をつけて」
「皆もな。…行こう!」
皆がそれぞれの方角へ駆けていくのを見届けて、俺はひとつ息を吐いた。
仲間を信じて託すしかない――そう思えるのは、これまで一緒に歩いてきた時間があったからだ。
目の前の現実が、ただの夢や幻なんかじゃないことを思い知らされる。
俺が、やらなきゃ。
そう呟くように心の中で言い聞かせて、俺は一歩、燃え盛る町の奥へと踏み出した。
熱気と焦げた臭いが鼻を突く。足元では木材が崩れ、遠くで建物が崩れる音がした。
そんな中、路地裏から、誰かの悲鳴が聞こえた。
「っ……!」
反射的に足を向ける。転移で距離を一気に詰めると、そこには数人の男達に囲まれた小柄な魔物娘がいた。
震える彼女を前に、男達は棒や刃物を手にして笑っていた。
「おい。何してる!」
俺の声に、奴らが一斉に振り向いた。
「なんだてめぇは!」
次の瞬間、身体が闇に染まる。脳が命じるより先に、俺の拳が闇の力に包まれていた。
転移――。
視界が一瞬歪み、次の瞬間には男の腹に拳を叩き込んでいた。
重い打撃音とともに、男が息を吐きながら吹き飛ぶ。
「ぐあっ……!」
別の男が怒鳴りながら刃を振り下ろしてきたが、転移で背後へと回り込み、
闇の力を乗せた踵落としを首元に叩き込む。
「おがっ……!」
俺の周囲に立っていた男達が一瞬たじろいだ。
だが、逃がす気はなかった。
転移。拳。蹴り。重ねるごとに確実に奴らの意識が削れていく。
地面に転がった男の顔に、恐怖の色が浮かんでいた。
「ひ、ひぃっ……!」
最後の一人が背を向けて逃げようとしたその背に、俺は飛び蹴りを叩き込んだ。
鉄をも砕くような一撃に、男は声にならない悲鳴をあげて崩れ落ちた。
「…終わったか」
呼吸を整える間もなく、足元で震えていた魔物娘が俺を見上げていた。
「だ、大丈夫…なんですか…?」
「ああ、ひとまずもう安心だよ」
彼女が小さく頷くのを確認すると、俺は闇の力を収め、ゆっくりと背を向ける。
「ここから離れて、安全な場所に逃げろ。仲間が誘導してるはずだ」
魔物娘を促し、背中を押して路地へと送り出す。
振り返れば、火の粉が夜空を舞い、瓦礫の隙間から赤い炎が噴き上がっている。
耳に飛び込むのは怒号と悲鳴、そして武器がぶつかる金属音。
その混沌の中、ふと視界の端に見覚えのある人影が立っていた。
煙の帳を抜けたその先に、クリスがいた。
燃え盛る炎を背に、動くでもなく、ただ静かにこちらを見つめている。
「クリス!アンタも無事か!?」
駆け寄った俺の声に、彼はゆっくりとこちらに視線を向ける。
その顔はあまりにも静かだった。
「僕は大丈夫さ。教会の聖戦士だからね。狙われたりはしないよ」
まるで他人事のような口ぶりに、苛立ちが込み上げてくる。
「…アンタ、いったい何突っ立ってんだよ!」
思わず語気を強める。
燃え広がる火の粉が夜空に舞い、遠くでは助けを呼ぶ悲鳴が響いている。
それなのに目の前の男は、ただ静かにその惨状を見つめていた。
「見ていたのさ…この光景を」
遠くを見るような目。焦点の合っていない声。
そこに戦士の鋭さも、怒りも、痛みも感じられなかった。
「…見てるだけかよ。聖戦士様が聞いて呆れる」
胸の奥で何かが爆ぜるような感覚。
一歩、踏み出して彼に迫る。
「これを見ても、何も思わないのか!」
問いかけに、彼はただ目を伏せるばかりだった。
「何とか言ったらどうなんだよ!」
吐き捨てるような言葉が出た、その時――ようやく、彼の唇がかすかに動いた。
「…昔、命令で一人の魔物娘を殺したんだ」
凍りつくような告白だった。胸の奥がひりつく。
「…何を言って」
息を飲む俺に、彼は続けた。
「教会はそれを“正義”と呼んだ。でも――」
握りしめた拳が、わずかに震えている。
その様は、痛みと罪の記憶に苛まれる人間そのものだった。
「あの時の彼女の瞳が、夜な夜な僕の夢に出てくる。それでも、教会の教えが正しいと…自分に言い聞かせてきた。
でも、今日のこの光景を見て…やはり違うのかもしれないと、思ってしまったんだ」
炎の明かりが、彼の鎧の輪郭を鈍く照らす。
その影は頼もしい戦士のものではなく、迷いと後悔を纏ったただの青年のものだった。
俺は静かに言葉を返した。
「…なら、自分で決めろよ。何が正義かってな」
それだけを残して、俺は踵を返す。
燃える町の奥へ向かって、俺の足音が再び夜の喧騒へと紛れていった。
◇ ◇ ◇
路地裏を抜け、ひときわ大きな叫び声が響く方へと足を向ける。
遠くから聞こえた金属音と、男のうめき声。そして、何かを打ち砕くような鈍い衝撃音。
そこにあったのは、炎に照らされる牛角の影だった。
拳が振るわれ、空気が砕けるような音が鳴る。
殴られた男が吹き飛び、壁に叩きつけられて動かなくなる。
残った者たちも怯むことなく斬りかかるが、彼女は一歩も退かない。
拳と肘、蹴り。一切の武器を持たずして、獣のような鋭さと重さを持つ攻撃を繰り出し、
次々に敵をねじ伏せていく。
「…トーラ!」
駆け寄った俺に、トーラは一瞬だけ視線を合わせた。
互いに言葉はなくとも、状況はすでに理解している。
二人は背中合わせに立つ。背後に感じるのは、かすかに熱を帯びた彼女の体温と、揺るがぬ信頼。
「カケル!」
「無事でよかった…!」
「アタイは全然へっちゃらさ!」
トーラはそう言うやいなや、襲いかかってきた男の顎を拳で跳ね上げ、そのまま地面へ叩き伏せる。
「でもよ、こいつら…何なんだ? 町が寝静まった頃を狙ってきやがって。タチ悪ぃにも程があるぜ!」
「魔物娘を狙ってる連中らしい。油断するなよ!」
「へっ、アタイを誰だと思ってんだ?素手でぶっ潰してやるさ!」
トーラが拳を握り、俺もまた闇の気配をまとい、転移の構えを取った。
合図など必要ない。互いに動くタイミングを直感で感じ取っていた。
「行くぞ!」
掛け声とともに、闇の靄に身を沈める。
視界が一瞬にして黒く染まり、次の瞬間には敵の群れの真っ只中に躍り出ていた。
拳を振るう。闇の力で強化された一撃が、目の前の敵の腹部を貫くようにめり込み、吹き飛ばす。
反対側では、トーラが既に突進していた。太い腕を振り抜き、二人まとめて壁際へと叩きつける。
拳だけで押し切るその猛攻は、まるで暴風のごとく敵をなぎ払っていく。
互いに背を預けたまま、別方向から迫る敵を迎撃していく――絶妙な距離感と連携。
余計な言葉はいらない。ただひたすらに、目の前の敵を打ち倒していった。
「おい、これ以上はまずい!!退け、退けぇッ!!」
瓦礫の陰や屋根の上にいる魔物娘反対派の兵達が、動揺の色を浮かべて一斉に後退を始める。
「逃がすかってんだッ!」
トーラが吐き捨てるように言い、倒れた男を一瞥してから踵を返す。
「俺も行く!」
俺達は視線を交わすと、息を合わせて路地の奥へと駆け出す。
反対派の残党はトーラと俺に目を見開き、声にならない悲鳴をあげて散り散りに逃げ出した。
闇の力をまとって転移する俺と、血を拭いながらも拳を振るうトーラの姿に、すでに戦意は残っていなかった。
「…逃げ足だけは速いな。全員は無理か」
「いいさ。今は町を守れた、それで十分だろ」
◇ ◇ ◇
「…終わったな」
敵の気配が完全に消えた頃、息を整えながら周囲を見渡す。
焦げた木材の匂いと、まだ燻る煙が視界を曇らせている。
雪のように灰が舞い落ち、静けさが戻りつつあった。
「こんなに暴れたのは久しぶりだぜ!」
隣でトーラが、口角を上げながらも額の汗を袖で拭う。
その目には、戦いの昂ぶりがまだ残っている。
「ホントはもっと暴れたかったんじゃないのか?」
軽口を叩くと、トーラは一瞬眉をひそめ、こちらを睨むように見た。
だがその瞳には、先ほどまでの殺気とは違う、どこか誇らしげな光が宿っている。
「んな訳あるか!この力は守るための力だっつーの」
ふいっとそっぽを向いたトーラの横顔は、どこか火照って見えた。
風が通り抜け、どこか遠くで小さな鐘の音が鳴る。
そこへ、仲間達が次々に合流する。
「やっと見つけた…ホント、無茶するんだから」
リリアの声がした。
いつの間にか後方から歩いてきていたらしく、肩で息をつきながらも、どこか安堵した顔をしている。
その足取りには疲労の色があったが、それでも真っ直ぐこちらを見ていた。
「町の被害も、最小限で済んだ」
エルザは淡々とした口調のまま、周囲を一瞥する。
焦げた匂いを帯びた風の中、その姿はまるで何事もなかったかのように落ち着いていたが、
握り締められた指先には、微かに力がこもっていた。
彼女なりに、この街を守れたことにほっとしているのだと、言葉以上に伝わってくるものがあった。
「ふむ、どうやら美味しい所はとられたようだね」
ヴァネッサがすっ、と髪を整えながら苦笑を浮かべる。
その姿はどこか余裕に満ちていて、冗談めかした言い回しの奥に、どこか満足そうな光があった。
「町の人も、ケガ人はいますが、命に別状はないようです!」
エリシアが駆け寄りながらそう言った。
少しだけ裾を汚しながらも、はっきりとした声。
手には応急処置用の布が握られており、どうやら彼女も戦いの後に人々の手当てをしていたようだった。
「にしてもトーラ、凄い顔してるぞ?」
ライアの言葉に、トーラは一瞬きょとんとした顔をした後、照れ隠しのように鼻を鳴らす。
息を弾ませながらも、トーラの瞳はまだどこか闘志の残り香をたたえていた。
「…炎がな。赤いのを見てると、ついスイッチ入っちまうんだよ」
トーラは少しだけ口元をつり上げながら言い放った。
その顔には、わずかな気恥ずかしさと、ほんの少しの誇らしさが混ざっている。
「まるで闘牛ね」
セレナは腕を組んだまま、半眼でトーラを見下ろす。
だが口元には、かすかに皮肉めいた笑みが浮かんでいた。
その声には呆れが滲んでいたが、どこか楽しんでいる気配も否めなかった。
「うるせぇ!」
トーラがむくれたように叫び、拳を振り上げる素振りを見せると、
皆から小さな笑い声が漏れる。
戦いの終わり――それはただ静かなものではなく、確かに温もりを伴った、確かな“日常の再開”だった。
◇ ◇ ◇
明け方の冷たい風が、静かになった通りを吹き抜ける。
気絶した反対派の男達は、石畳の上にうつ伏せに転がったまま動かない。
「さて、こいつら…どうするんだ?」
拳を軽く振り、肩を回していたトーラが振り向く。
「ここはアタイら自警団に任せちゃくれないか?」
「どうするの?」
一歩前に出たリリアが、不思議そうに問いかける。
「一先ず町の留置所に閉じ込めとく。そんで反省の色がなかったら、しかるべき対応をとるって感じだな」
トーラは意味深な笑みを浮かべながら、顎をしゃくって瓦礫の上に座る。
「しかるべきって…」
「そうだな~…植物系や虫系の魔物娘の相手でもしてもらおうかな!」
その光景を想像してしまった俺は、思わず首の後ろに寒気を感じた。
「いいのさ。身をもって魔物娘の気持ちを知ってもらう、ってやつだな」
トーラは腕を組んでふんと鼻を鳴らし、どこか得意げな様子を見せた。
そんな彼女を横目に、セレナが小さく呆れた声で言葉をこぼした。
「人によっては本気で喜びそうで怖いわね…」
◇ ◇ ◇
数日が過ぎ、町にはようやく静けさが戻っていた。
焦げ跡の残る建物には修繕の足場が組まれ、カン、カン、と木槌の音が朝靄に吸い込まれていく。
不安と疲労のにじんでいた町人達の表情にも、少しずつ柔らかな笑みが戻り始めていた。
その朝、俺達は出立の準備を整え、町の門近くに集まっていた。
リリアが荷物の最終確認をし、エリシアは名残惜しげに町の子供たちと笑顔で別れの挨拶を交わしている。
ライアとセレナは門の外を警戒するように立ち、エルザとヴァネッサは無言で空を見上げていた。
「…よし、行こうか」
俺が皆に声をかけ、歩き出そうとした、その時だった。
「おーい!ちょっと待ったァ!」
聞き覚えのある声が背後から響き、皆が振り返る。
駆けてきたのは、いつもの軽快な足取りのまま、けれどどこか決意を帯びた顔のトーラだった。
肩に担いだ小さな荷袋、軽装ながらも遠出を意識した格好。全身から、“覚悟”が伝わってきた。
「アンタら、まさか黙って行くつもりじゃねぇよな?」
その軽口に、思わず言葉を失って立ち尽くす。
トーラは俺達の方へと歩を進め、真っ直ぐにこちらを見据えた。
「…アタイも、連れてってくれ」
たった一言。
けれど、その短い言葉に込められた意志の強さは、何よりも雄弁だった。
「…どういう風の吹き回しだ?」
俺が問い返すと、トーラは少しだけ視線を逸らしてから、言葉を紡ぎ始めた。
「…アタイはさ、この町が好きなんだ。ガキの頃からずっといて、皆に育ててもらってさ。
今回の襲撃でも思い知ったよ。あたしはこの町を、皆を、守りたいって。心から思った」
そこまで言って、トーラはふぅっと息を吐いた。
それは、心にため込んでいた思いを少しずつ解き放つような、静かな吐息だった。
「でもな…それだけじゃ、足りねぇって気づいたんだ。あの夜みたいに、理不尽に襲われてる連中は、たぶんこの町の外にもいる。
それを考えたら、アタイ、居ても立ってもいられなかった」
その声には、もう迷いはなかった。
指先をぎゅっと握りしめる拳にも、強い決意が宿っていた。
「アタイには、力しかない。でも、その力を使う場所があるなら、アタイはそこへ行きたい。
町の皆には話してきたよ。最初は驚いてたけど…最後は“頑張れ”って、背中を押してくれたよ」
その言葉の一つ一つが、彼女の歩いてきた時間と心の重みを物語っていた。
まっすぐな眼差しは、弱さも不安もすべて押しのけた、真摯な覚悟そのものだった。
「だからさ。アタイも一緒に行くよ。誰かを守るために、誰かを救うために」
言い終えると同時に、トーラは拳を俺の前に突き出す。
その拳は、彼女自身の選んだ道――戦う覚悟の証だった。
俺はしばらくその拳を見つめ、そしてふっと笑って、そっと自分の拳を重ねる。
「…ようこそ。これで、またにぎやかになるな」
拳と拳が重なった瞬間、トーラの口元に自然と笑みが浮かんだ。
その笑顔は、朝の光に照らされ、まるで新しい旅立ちを祝福しているかのように輝いて見えた。
門の近くまで来た時だった。背後から、誰かの声が響く。
「おーい、トーラ!」
振り返ると、町の住民たちが数人、こちらへ駆けてくるのが見えた。
果物籠を抱えた老婆、布に包んだ包みを持ったパン屋の娘、そして、見覚えのある顔ぶれがちらほらと。
「これ、持っておいき。道中で腹は空くからねぇ」
老婆が差し出したのは、干し肉と乾いた果実の詰め合わせ。
「拳の使いすぎで肩を痛めたら、ちゃんとほぐすんだよ?前に教えた体操、忘れてないよね」
以前トーラの世話をしていた薬師の女性が、心配そうに声をかける。
「また、教えてね、格闘技!」
近所の腕白な子どもが、両拳を突き出して構えの真似をしてみせた。
「……ったくよぉ」
小さく毒づくように呟きながら、トーラは後頭部を軽くかいた。
そしてほんの一瞬だけ、顔を背けるようにして息を吸う。
「また戻ってくるよ。そんときは、もっと強くなったアタイを見せてやる」
言葉の最後に力を込めて、トーラは拳を天に突き上げた。
町の人々が『おーっ!』と笑いながら手を振る。
彼女はその声に背を預け、俺達のすぐ横に足音を重ねた。
夜明けの風が吹き抜ける中、仲間としての新たな旅が、静かに始まった。
門を出てすぐの、まだ朝靄がわずかに残る緩やかな坂道を下ると、
その先に一人、白銀の鎧をまとった青年が静かに立っていた。
澄み渡る朝の光が、彼の背を照らし、背中に携えた聖剣の鍔が淡く輝きを放っていた。
陽の光を浴びてなお、彼の佇まいにはどこか影を落とすような静けさがあり、それが不思議と印象に残った。
「…クリス」
自然と漏れた名に、背後から仲間達の訝しげな視線が集まる。
それでも彼は動じることなく、真っ直ぐこちらへと歩み寄ってきた。
足音は一歩一歩確かで、けれどどこか、迷いの色を帯びた足取りでもあった。
「君に、言っておきたいことがあってね」
立ち止まった俺の前で、クリスは穏やかな声で口を開いた。
その声音は柔らかかったが、その奥にはまだ整理しきれていない感情の波が渦巻いているのがわかる。
俺は、あの夜のやりとりを思い出す。
「君に言われたあの言葉が、ずっと胸に残ってる。“何が正義か、自分で決めろ”って」
そう言ってクリスは、ほんの一瞬だけ視線を逸らし、苦笑のような微かな表情を浮かべた。
どこか照れたようにも、悔しげにも見えるその表情に、彼の内面の葛藤が滲む。
「…正直、まだ答えは出ていない。教会で教わったこと、信じてきた正義が、
もしかしたら誰かを傷つけるものだったかもしれないって思うと…簡単に割り切れないんだ」
言葉の後に訪れた沈黙は重く、けれど決して気まずいものではなかった。
風が吹き抜け、揺れる草の音が耳に届く。
まるでその音だけが、時間の流れを教えてくれているかのようだった。
「でもあの夜、君の言葉が、僕を突き動かしたのは確かなんだ。
これまで信じてきた“正しさ”が、本当に人を守るものだったのか…今、それを考えてる」
クリスは顔を上げる。揺らぐ瞳の奥には、それでも逃げずに見つめ続けようとする意志が宿っていた。
その視線をまっすぐに受け止めながら、俺は彼の言葉の重みを受け止める。
「すぐには答えは出せないかもしれない。けど、自分の中で納得できる何かを見つけるまで、僕も僕なりの旅を続けるよ」
彼の言葉にはまだ迷いがある。けれど、そこに確かな決意もあった。
その姿は、もはやただの教会の聖戦士ではなく、一人の“探求者”だった。
「…ああ。お互い、答えが見つかったら、また会おう」
俺はそう告げて、軽く頷いた。
それを見たクリスは、何も言わずに静かに頷き返し、踵を返す。
その背中は、今にも崩れそうなほど不安定で、それでも何かを見つけるために歩き出そうとする、
確かな決意がにじんでいた。
リリアは去っていく彼の背を見つめながら、小さく声を漏らした。
「カケル、今の人誰なの?」
「あいつは…俺の、ライバルみたいな奴、かな」
口にしてみて、ようやく自分の中でしっくりくる言葉が見つかったような気がした。
交わることのない道かもしれない。
けれど、それでもいい。
それぞれの正義を胸に進んだ先で、同じ空を見上げられる日が来ると信じている。