その正は誰がために④
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ヴァネッサ
種族:ヴァンパイア
とある古城に独り住んでいた。幻術・護身術を得意とする。
ライア
種族:リザードマン
流浪の剣士。エルザとは幼馴染。
エルザ
種族:サイクロプス
鍛冶職人。ライアとは幼馴染。
エリシア
種族:エルフ
精霊と心を通わせたり、精霊の力を行使できる。
トーラ
種族:ミノタウロス
ヴァルハールの町の自警団に所属。肉弾戦が得意。
クリス
種族:人間
魔物娘反対派の教会の騎士団に所属する聖騎士。聖剣の使い手。
ヴァルハールの町外れ。
小高い丘を越えた先に広がる平地は、草が朝露を含んでしっとりと濡れていた。
祭りの喧騒も届かない静けさの中、吹き抜ける風が草原を撫でていく。
太陽はまだ低く、長く伸びた影が地を這っていた。
俺とクリスは、互いに距離を取って向かい合う。
朝陽が二人の輪郭を黄金に縁取っていた。
鎧を纏ったクリスの姿は、まるで神話から抜け出した騎士そのものだった。
まるで一点の曇りもないようにまっすぐ俺を見ている。
あの眼に迷いはなかった。これは腕試しではなく――真実を見極める者の眼差しだった。
「…始める前に、そんな装備で問題ないのかい?」
先に声を発したのはクリスだった。
問いかける口調に棘はなく、どこかに純粋な疑念と気遣いすら感じられた。
確かに俺の恰好は元の世界から来た時のままの軽装だ。
しかし、俺は少しだけ視線を逸らして、小さく笑う。
「人の心配をするくらい余裕なんだな」
そう言って、草を踏む足を軽くずらす。
クリスはわずかに目を細め、静かに頷いた。
「すまない。…君が大丈夫なら、それでいい」
その声音は、まるで波風立てぬ水面のように静かだった。
だが、底に沈む意志の重さは、ひと目でわかるほどに揺るぎなかった。
「ふたりとも、準備はいいかい?」
空気を切るように、トーラの声が響いた。
俺達の中央より少し外れた位置に立った彼女は、腕を組み、どこか楽しげな目をしていた。
「ルールは…そうだな。命まで取るなよ。やりすぎんなら止めるからな?」
口調こそ軽いが、その眼差しは鋭く、俺達の動きを一瞬たりとも見逃していなかった。
石に腰掛けていたヴァネッサが、ため息まじりに脚を組み直す。
細い指先で頬を支え、退屈そうな目でこちらを見たあと、ふわりと笑みを浮かべる。
「せっかくの睡眠が…まぁよい。余を楽しませるのだぞ?」
声には冗談めいた響きがあったが、その奥にある本心は見えなかった。
ヴァネッサの紅い瞳は、戦いの行方よりも、俺達の“在り方”そのものを見ていた。
風が止まった。
トーラが、手を高く掲げる。
そして。
「始めッ!」
言葉と同時に、俺は消えた。
一歩も踏み出さず、草を揺らすことなく、身体は霧のように解けて空間をすり抜ける。
狙うはクリスの背後。闇の剣を構え、振り下ろす。
ギィン!!
その刹那、クリスの聖剣が振り向きざまにその軌道を正確に打ち砕いた。
鍔迫り合いになった俺達の間に、静寂が走る。
(…見えてた!?転移先を――!?)
驚愕に目を見開く俺に対し、クリスの眼差しは冷静そのものだった。
「闇の力は痕跡を残す。君の刃が振り下ろされるより早く、僕の剣はそこに届く」
その言葉の直後、俺の剣が押し返される。
力負けだ――握っていた剣が軋み、はじかれ、体勢が崩れる。
「……!」
胴ががら空きになった。即座に、袈裟に振るわれる聖剣。
咄嗟にバックステップで退いたが、完全には間に合わず、肩口から脇腹にかけて浅く斬り裂かれた。
「ぐっ……!」
鋭い痛みと共に、鮮血が飛ぶ。俺は表情を歪めながらも、再生を期待して動きを止めない。
すぐに治るはず、だった。
(…え?…なんで、治らない…?)
斬られた箇所は、まるで時間が止まったように、傷口を開いたまま血を流していた。
じわじわと血が滲み、皮膚はひとつも塞がる気配を見せない。
(馬鹿な…っ。今までなら、こんなの一瞬で――)
自分の体が、自分の力が反応しない。
焦りが、喉を締め付ける。
(まさか…あの剣――俺の再生を、封じてる…!?)
背筋が粟立つ。
心臓の鼓動が急激に早まり、呼吸が浅くなる。
斬られたままの身体を抱えながら、なおも詰め寄ってくるクリスの足音が、死の足音に重なって聞こえた。
「僕の剣は、秩序を守る剣だ。もし君が、それを脅かす存在であるなら――ここで、斬る」
最初から、迷いはなかった。それが彼の“覚悟”だった。
「…確かめてみろよ。俺が何者なのか、その剣でな!」
今度は空中へ転移し、上からの一撃を狙う。
「せいっ!」
闇の剣を構えて振り下ろす。だが――
「甘い!」
クリスの聖剣がそれを受け止め、そのまま押し返す。
空中で体勢を崩した俺は慌てて転移で距離をとる。
「…チッ!出てこいッ!」
地を這う闇の陣から、異形の魔獣が出現する。
巨大な牙、うねる尻尾、禍々しい気配――メレティスとの戦いで得た闇の力、あの召喚だ。
「行けっ!」
合図と共に、魔獣が地を蹴る。
魔獣は牙を剥き、四肢で草原を抉りながら、クリスへと猛進していく。
だが、クリスは微動だにせず、その場に立ち尽くしていた。
彼はゆっくりと目を閉じると、静かに聖剣を掲げた。
その動作に、一片の躊躇もない。
「…聖なる裁き、穿て!」
次の瞬間、剣の先端から閃光が走る。
まばゆい一条の光――直線状に放たれた光のビームが、闇の魔獣を直撃する。
爆ぜる影。砕け散る闇。魔獣は一瞬で掻き消えた。
(…嘘だろ!?)
その光線の軌道上にいた俺は、咄嗟に闇の剣を構えて防ごうとするが――
「……ッ!」
握っていた剣が、光に軋み、裂ける。
形を保てない!壊される!
すんでのところで転移。
霧となってその場を抜け、地を這うようにして再出現した俺は、肩で息をしながら、地に片膝をついた。
(くそっ…なんだよ…魔獣があっさり…)
呼吸が乱れ、鼓動はうるさいほどに高鳴り、血が熱を持って皮膚の下を逆流しているかのようだった。
あの聖剣――力そのものが、格が違う。
否、持っている“覚悟”が違うのだ。それに、勝てる気がしない。
足が震える。心臓の奥にある何かが、静かに警鐘を鳴らしていた。
(…だけどここで倒れたら、全部…意味がなくなる)
傷はまだ癒えない。だが、震える膝を踏みしめ、ゆっくりと立ち上がり闇の剣を再び握る。
「…諦めるのが、早すぎるんじゃないか?」
声に出したその言葉は、自分自身への叱咤だった。
肩を落としそうになる心を、再び奮い立たせるように。
目の前に立つクリスは、変わらず静かだった。
聖剣を下ろしているが、構えを解いてはいない。
「君はまだ立つか。ならば、こちらも応えよう」
その声音は、相手への敬意すら感じさせる。だが同時に、容赦はない。
「今度こそ、覚悟を見せてみろ。君の剣が“何のために”あるのかを」
その言葉が胸に突き刺さった。静かな口調だったのに、俺の鼓動だけがやけにうるさく響いていた。
(…何のために?そんなの決まってる!…見せてやるよ、俺の覚悟を!)
俺は地を蹴った。転移は使わない。あえて真正面から突っ込む。
握っていた闇の剣を、走りながら投げつけた。
「…これでどうだっ!」
空を裂いて飛んだ刃に、クリスが即座に反応する。
「っ――!」
聖剣が一閃し、俺の剣が弾かれて砕けた。その瞬間、彼の構えに一瞬の隙が生まれる。
(今しかない!)
全力で踏み込み、距離を詰める。クリスの眼前、腕が届く場所へ――
「おらああッ!!」
全身の力を込めて拳を振り抜いた。闇の力が拳を包む。
だけど、これは殺すためじゃない。俺の意志と覚悟を叩き込む一撃。
拳が、クリスの胸に叩き込まれる。
鈍い衝撃が返ってきた。硬い。重い。それでも、届いた。クリスの身体が、わずかに後退する。
空気が止まったような静けさの中、俺は息を整えながら、睨むように彼を見据えた。
拳が食い込んだ衝撃が、まだ掌に残っていた。
確かに届いた。あの鉄壁みたいなやつに、俺の拳が。
けど、クリスは倒れなかった。
鎧の胸元がわずかに歪んでいる。それだけ。
一歩下がっただけで、彼は何事もなかったように再び構えを取っていた。
(…簡単には倒れねぇか)
俺も息を吐きながら、闇の剣を再び生み出す。
互いに構え直し、距離が詰まっていく。
「やれやれ、もう十分だろう?」
ヴァネッサが立ち上がり、ゆっくりと、優雅にこちらへ歩いてくる。
細い指先で髪をかき上げ、紅い瞳をわずかに細めながら、戦場の只中を真っすぐ進んでくる。
「これ以上続けても、見るべきものは残っていないよ。余は、十分楽しませてもらった」
笑っていた。でも、その眼差しにはどこか鋭さがあった。
その声に被さるように、もう一つの叫びが空気を裂いた。
「そこまでだ!止めろ!」
トーラの声だ。彼女は地を蹴って、俺達の間に割って入ってきた。
腕を大きく広げて、クリスの前に立ちはだかるように。
「ルールは“試し合い”だろ?」
豪快で雑な口調の彼女の声は、真剣だった。
俺達の間に、火花のような緊張が漂っている。
「…十分すぎるくらい見せてもらったよ、君の覚悟をね」
クリスの声が、すっと風のように届く。
聖剣を構えたまま、静かにそう言った彼の目に、確かにあったのは――認めるような、そんな色だった。
だけど俺は…
「…俺はまだ!」
息が荒くて、肩が上下して、でもまだ戦いたかった。
(ころせ……、たたかえ……)
頭の奥に、声が響いた。
ぞくりと、背筋が凍るような感覚。
違う。俺の声じゃない。俺の思考じゃない。
なのに、はっきりと、耳元で囁かれたような気がした。
「…っ…くそ、なんだよ…!」
頭が割れるような痛みが襲った。
気づけば、俺は頭を押さえてしゃがみ込んでいた。
「カケル?どうかしたのか?」
すぐ近くで、ヴァネッサの声がした。
その場に歩み寄ってきて、俺の顔を覗き込もうとするが、俺は必死にかぶりを振った。
「…大丈夫だ」
声が、少しだけ震えた。でも、言うしかなかった。
言わなければ、今の声が“現実”になりそうで怖かった。
(…これは、いったい…なんなんだ)
胸の奥に、うっすらと黒い靄のような何かが残っていた。
ヴァネッサとトーラに制止され、謎の声もようやく頭から消えた頃。
俺は、ふらつく足を踏みしめて、ゆっくり顔を上げた。
目の前には、まだ構えを解いていないクリスがいた。
けど斬りかかってくる気配はない。
やがて彼は剣を静かに下ろし、鞘に納めると、真っ直ぐこちらを見て言った。
「君の力は、危うい。制御を誤れば容易に脅威となる」
静かな声だった。でもその奥には、剣より鋭い眼差しがあった。
「けれど、さっきの一撃。あれには、君自身の意志が宿っていた。だからこそ剣を引いた」
息を呑んだ。その言葉は、ただの評価じゃない。
“認めた”という意志を、確かに感じた。
「…あんたは、最初から俺を斬るつもりだったのか?」
そう問いかけると、クリスは短く目を閉じてから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「それは自分で選べ、ということだよ。秩序を守る者は、常にその判断を問われる」
そして、踵を返しながら、最後に一言だけ背中越しに投げてくる。
「願わくば、もう刃を交えずにすむことを」
俺は答えの出ない思いを押し込めるように、そっと拳を握りしめた。