その正は誰がために③
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ヴァネッサ
種族:ヴァンパイア
とある古城に独り住んでいた。幻術・護身術を得意とする。
ライア
種族:リザードマン
流浪の剣士。エルザとは幼馴染。
エルザ
種族:サイクロプス
鍛冶職人。ライアとは幼馴染。
エリシア
種族:エルフ
精霊と心を通わせたり、精霊の力を行使できる。
トーラ
種族:ミノタウロス
ヴァルハールの町の自警団に所属。肉弾戦が得意。
店を出ると、夜風が火照った頬を撫でていった。
祭りの賑わいはすっかり落ち着き、町は静けさを取り戻していた。
トーラは少しだけ首を回して、深く息を吸い込む。
「ふぅ…夜風がちょうどいいな。酔いが引いていく」
「…ああ。ちょっと飲みすぎたかもな」
俺がそう呟くと、トーラがちらりとこちらを見やって、眉をひそめた。
「おいおい、大丈夫か? 顔真っ赤じゃねぇか。宿まで送ってこうか?」
冗談交じりの言い方だったが、その目はどこか本気だった。
「いや…平気だよ。まっすぐ帰るだけだし」
そう言って笑ってみせたが、正直、足元は少しふらついていた。
重力がやけに増したように感じるのは、きっと気のせいじゃない。
「…ほんとかよ。倒れんなよ?」
「大丈夫、大丈夫。ありがとな、トーラ。話せて、よかった」
「こっちこそ。お前さんとは、また飲みたいもんだな」
拳を軽く突き合わせ、俺はトーラに背を向けて歩き出した。
夜の町並みが、ゆっくりと後ろに遠ざかっていく。
道のりはそう遠くなかったはずなのに、今はやけに遠く感じた。
一歩進むたびに、地面が少し傾いている気がする。
けれど、意地でも寄り道はしない。まっすぐ帰る――それだけを頼りに、足を運んだ。
ようやく宿にたどり着き、扉を静かに開ける。
軋む音が妙に大きく響いた気がして、思わず息をひそめた。
部屋に入ると、そこは薄暗がりに包まれていた。
窓から差し込む月明かりが、静かに床を照らしている。
その光の中、エルザはベッドの端に腰を下ろし、こちらを見ていた。
まるで最初から、そこにいてくれるのが当然だったかのように。
シンプルな上着一枚と短パンの寝巻姿で、
そこから覗く青い肌が月光に照らされて微かに輝いて見えた。
「…ただいま」
少し照れくさくなって、そう声をかけると、彼女はほんの少しだけ首を傾けた。
「…お酒、飲んできたの?」
静かで、感情の色をほとんど感じさせない声。
けれど、それが逆に、まっすぐに胸に届く。
「ああ。ちょっとだけな」
そう答えながら靴を脱ごうとしたが、思った以上に足元がふらついていた。
片手で壁に手をついてバランスを取りながら、苦笑いがこぼれる。
「…そうは、見えない」
エルザの視線が、わずかに鋭くなったように感じた。
次の瞬間、彼女は動く。
そっと、自分の膝の上を、手のひらで軽くぽん、と叩いた。
「…ここに、横になって」
「え?」
あまりに自然な誘導に、思わず聞き返す。けれど、エルザは目を逸らさない。
表情に揺れはなく、ただ、こちらの状態を静かに見極めているようだった。
「…顔、赤い。歩き方も、ふらついてた。だから…今は、寝た方がいい」
そう言って、膝の上をもう一度ぽんと叩く。
彼女なりの気遣いが、確かにそこにあった。
「…じゃあ、お言葉に甘えて」
俺はふらつく足をなんとか動かしてベッドに近づき、
ゆっくりと身をかがめ、彼女の膝に頭を預けた。
エルザの太ももは、意外なほど柔らかく、あたたかかった。
無表情なはずの彼女が、わずかに指先で前髪を払う気配がある。
「…おかえり」
その声は、そっと心に染み入るようだった。
まるで“ちゃんと帰ってきてくれて、よかった”と語るように。
俺は静かに目を閉じた。
酒の熱も、彼女の膝のぬくもりも、今はただ心地よく身体に染みていく。
そして俺はそのまままどろみに落ちていった。
◇ ◇ ◇
かすかな光が、まぶたの向こう側を照らしていた。
意識を取り戻した途端、頭の奥がずきりと重く響く。
喉もひどく渇いている。
「…ん、朝か?」
声にならない声を漏らしながら、俺は重たい体をゆっくりと起こそうとした――その瞬間だった。
「カケル、起きてるー? 朝食――って、はぁ!?」
勢いよく開いた扉とともに響いた、セレナの声――というか、悲鳴。
「な、なにしてんのよあんた!? っていうか、エルザ!? な、なにこれ、どういう状況!?」
「えっ…?」
俺は寝ぼけ頭のまま、周囲を見渡す。そしてようやく、自分の状況に気づいた。
――ベッドの上、エルザのすぐ隣。
しかも俺の腕は、彼女の肩に回るような格好で。
おまけに、彼女の胸元が目の前に……距離、近すぎる。
「ち、違う!これは誤解だ!昨夜は膝枕だったんだ!気づいたら、こうなってて…!」
慌てて跳ね起きようとするが、頭がずきりと痛んでバランスを崩す。
「うわっ…ちょっと待て、これはほんとに違う、違うからな!?」
セレナの目がすでに半分“魔眼”に入ってるのが見える。
「酔ってて覚えてません、とか言うんじゃないでしょうね…?」
「ちがっ…いや、それもあるけど!」
すると、その横で、まだ寝ぼけた様子のエルザがもぞりと動いた。
「…うるさい。…眠い」
「ご、ごめん、起こしちゃって…その、昨夜は膝枕してもらって」
俺が必死で弁明を続ける中、エルザは目を開け、しばらくじっと俺を見たあと――
頬をほんのりと赤らめて、目を伏せたまま、静かに言葉を漏らした。
「…昨夜、すごく、気持ちよさそうだった」
「…は?」
一瞬、部屋の空気が固まる。
「ちょ…エルザ!? 言い方!!」
「…だって、気持ちよさそうに寝てたから…」
「うわぁあああ!違うから!そういう意味じゃないから!!」
「…ふーん」
セレナが腕を組み、半眼でこちらを見てくる。
その背後から、誰かの『朝から楽しそうねぇ』という呑気な声が聞こえた気がした。
「…ち、違うって言ってるだろぉぉぉ!!」
朝の静けさは、もうどこにもなかった。
◇ ◇ ◇
宿の食堂に降りていくと、すでに何人かの仲間達が席についていた。
ヴァネッサは優雅に紅茶をすすっており、エリシアは窓際の光を受けながらパンに蜂蜜を塗っている。
そして――セレナは、パンをつつきながら、ちらちらとこちらを見ていた。
「…おはよう、みんな」
俺が声をかけると、エリシアが微笑みながら軽く手を振った。
「おはようございます、カケルさん。…昨日は、よく眠れましたか?」
「まぁ、ぐっすり…だったと思う」
「…へぇ。膝枕で?」
セレナはふいに目をそらし、ぼそりと吐き捨てた。
パンを千切る手が、どこか乱暴だ。
「いや、その、あれは偶然というか、ほんとに…!」
俺が慌てて釈明しようとすると、リリアがくすっと笑う。
「ふふ、カケル。そんなに動揺してると、余計に怪しく見えるわよ?」
「…俺は、潔白だ。断じて何もなかった!」
「へぇ?“何も”なかったんだ?」
セレナはむくれ顔のまま、ぶつぶつと聞こえるか聞こえないかの声でつぶやくように言った。
エルザはというと、淡々と朝食をとっている…が、耳の先がほんのり赤い。
どこか落ち着かない雰囲気の中、朝食が進んでいった。
朝食を終える頃には、宿の食堂にも穏やかな光が差し込んでいた。
今日も晴れそうだ――そんな予感を胸に、俺達は食後の水を飲みながら、
これからどうするかを話し合っていた。
「さて、と。今日はちょっと武器屋を覗いてみたいかな。鍛冶の工具とか見ておきたいし」
椅子を引いて立ち上がったのはライア。その後ろにはエルザも静かに頷いて続く。
「うん…少し見たい素材が、ある」
二人は顔を見合わせると、そのまま連れ立って食堂を出ていく。
「私は――そうですね、装飾品のお店でも覗いてみようと思います」
エリシアはそう言い残して、どこか浮き立つような足取りで、笑みを浮かべながら去っていった。
「わ、私も、ちょっと…ちょっとだけ!」
急にそわそわし出したセレナは、言い訳のような言葉を残してそそくさと席を立つ。
どこへ向かうかはわからないが、妙に挙動不審な背中だった。
「ふぅ…余はそろそろ、就寝の時間だね」
ヴァネッサがカップを置いて立ち上がると、スッと目を閉じ、
次の瞬間、小さな黒いコウモリの姿へと変化した。
「ではカケル。ポケットを貸してくれるかな?」
「え、またかよ…まあ、いいけど」
くすりと笑う声とともに、ひらりと舞った小さな羽ばたきが、俺の胸元へと飛び込んできた。
ジャケットの内ポケットに収まったヴァネッサ――仮眠モードらしい。
「カケル、あなたはどうするの?」
リリアがどこか楽しげに問いかけてくる。
「特に決めてないけど……」
「じゃあ、パン屋に寄ってくれない?昨日品切れだったやつ、今日ならあるかも。蜂蜜入りのやつ」
そう言って、リリアは簡単な地図を手渡してきた。
「…俺が行くのか?」
「お願い。ほら、リーダーってそういうもんでしょ?」
からかうような口ぶりに苦笑しつつ、俺はその紙切れをポケットにしまった。
「ふふ、よろしくね~」
軽く手を振るリリアを見送りながら、俺も重い腰を上げた。
◇ ◇ ◇
パン屋に向かう途中、街の空気はどこか穏やかだった。
祭りの余韻が路地の隅々にまで残っていて、早朝にも関わらず笑い声がちらほらと聞こえる。
胸ポケットのヴァネッサはコウモリの姿のまま、器用に丸まっている。
少しでも動くと毛並みがくすぐったくて妙に落ち着かない。
(さて、パン屋はたしかこの通りの先だったか――)
俺は地図を頼りに目的地に向かおうとした、そんな時だった。
理由は――説明しがたい、視線のような気配だった。
背後から、鋭くも静かな気配が、こちらを正確に捉えている。
「…君。少し、いいだろうか」
振り返ると、白銀の鎧に身を包んだ青年が、広場の端からこちらへ歩いてくるところだった。
金髪が朝陽に照らされ、金属のように煌く。
背には神聖な何かを宿した光を放つ一本の剣を携えている。
まるで“勇者”の絵本から抜け出してきたような男。
その顔立ちは凛々しく整っていて、どこか爽やかな空気をまとっている。
けれど――油断できない気配が、背筋をかすめた。
「…俺に用か?」
問いかけると、彼は立ち止まり、柔らかく微笑んだ。
けれどその瞳は、まっすぐに俺を見据えていた。
「僕はクリス・ヴァルクライト。教会の騎士団に属している。君に興味があって、つい声をかけてしまった」
「俺に?」
「…いや、正確には君が放っている“何か”に、だ」
クリスの目が、ほんの一瞬だけ、俺の胸元――いや、もっと奥。
内側にある“闇”を見透かすように揺れた。
「失礼な言い方だったらすまない。でも…どうしても気になってしまって」
彼の言葉に裏は感じられない。けれど、ただの“偶然”でもない。
俺の中にある力――この世界に来てから、ずっとつきまとっている“闇”が、何かを引き寄せたのか。
…そう考えると、背中に冷たいものが走った。
「君、名は?」
「…カケルだ」
短く答えたつもりだったが、自分でも気づく。わずかに声が張っていた。
「その名は、記録にも見覚えがない。…いや、それよりも、君から漂う気配が…少し、異質だ」
全身を見透かされるようなその言葉に、背中を冷たい汗が伝う。
だが表情は変えず、俺は少し首を傾げて皮肉っぽく笑いながら応じた。
「あいにく、占いの館は通り過ぎてきたばかりでね。気配の正体までは占えなかったよ」
「なるほど……だが、剣を抜くかどうかを決めるには、それだけで十分なこともある」
クリスの視線が鋭くなった。同時に、空気が張り詰める。
無言の圧力が空気を圧縮し、まるで世界が静止したかのように周囲の雑音が遠のいていく。
彼の手が、背中の聖剣の柄にゆっくりと伸びる。
まだ抜かれてはいない。だが、それは“いつでも抜ける”という明確な意志の表れだった。
俺も本能的に身構える。
腰の影が蠢き、闇の剣が輪郭を形づくり始める。
ただの町中で、しかもまだ朝だというのに――まるで決闘の場にいるような緊張が走る。
(……マズいな。こいつ、本気でやる気か?)
「…あのよォ。その手、下ろしてくんねぇかな?」
張りつめた空気を裂くように、低く野太い声が割って入った。
見ると、いつの間にかトーラが腕を組んで立っていた。
ふてぶてしい口調に、クリスの眉がわずかに動く。
だがトーラは臆することなく、二人の間に踏み込んできた。
「ここは町の中だ。祭りの準備も進んでるってのに、剣なんか抜かれちゃたまんねぇ。
ケンカしたいなら、町の外でやれっての」
その声音は、冗談のようでいて冗談ではなかった。
周囲に漂っていた張りつめた気配が、少しずつ解かれていくのを肌で感じる。
俺はひとつ息を吐き、闇の剣を収めた。
クリスも聖剣から手を離す。
「…君の言う通りだ。民の平穏を乱すつもりはない」
トーラは俺に目線を向け、苦笑交じりに言う。
「ったく…せっかくの晴れ空が台無しになっちまうとこだったぜ。あんたも頼むぜ、カケル」
「…悪い」
「んじゃ、外でやるってことで決まりだな。アタイも立ち会ってやるよ」
「え、やり合うのは止めないのかよ」
常識的に考えて、止めるところだろう。
なのにこのミノタウロスの姉御は、面倒ごとの火種に自ら薪をくべにいくようなことをさらっと言ってのける。
だが、トーラはニヤリと口元をゆがめて、面倒見の良い姉貴というより、
ちょっとした祭りの火付け役のような顔で続けた。
「まぁ、面白ぇ勝負になりそうだしな。どうせやるなら、ちゃんと見届けてぇじゃん?」
その言い草に、俺は頭を抱えたくなった。
この人、絶対止める気なんて最初からなかっただろ…。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
緊張が解けた今、ほんの少しだけ、その場の空気に笑いが混じっていた。