その正は誰がために②
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ヴァネッサ
種族:ヴァンパイア
とある古城に独り住んでいた。幻術・護身術を得意とする。
ライア
種族:リザードマン
流浪の剣士。エルザとは幼馴染。
エルザ
種族:サイクロプス
鍛冶職人。ライアとは幼馴染。
エリシア
種族:エルフ
精霊と心を通わせたり、精霊の力を行使できる。
トーラ
種族:ミノタウロス
ヴァルハールの町の自警団に所属。肉弾戦が得意。
町の祭りをひとしきり楽しんだ俺達は、その夜、町の宿に泊まることにした。
部屋割りはくじ引きみたいなものだったが、俺はエルザと同室になった。
エルザは隅のベッドに腰を下ろし、薄明かりの中で小さな工具を静かに磨いている。
トントン、キュッ。
一定のリズムが妙に心地よく響き、祭りの賑やかさとは真逆の静けさを部屋に満たしていた。
俺は扉を閉め、荷物を壁際に置くと、向かいのベッドに腰を下ろした。
ふと目に入ったのは、道具に視線を落とすエルザの横顔。
無表情に見えるその顔は、どこか穏やかで、機械を扱う職人のような集中力があった。
その様子をしばらく眺めていたが、ふと、胸の奥がざわついた。
祭りの喧騒が、まだ身体に残っている。
灯り、笑い声、鼻をくすぐる香ばしい匂い――
それらが、静まり返ったこの部屋にはあまりにも似つかわしくなくて、
ベッドに身を沈めるには、少し早い気がした。
「…ちょっと、外に出てくるよ」
ベッドから立ち上がりながらそう呟くと、手の動きを止めたエルザが、ピクリと肩を動かした。
「…どこに行くの?」
視線はまだ道具に落としたままだったが、その声にはわずかな硬さが混じっていた。
気遣いか、それとも何かを気にしているのか。俺はその意図を測りかねながら、口を開く。
「祭りの名残が残っててさ。外の空気を吸いたいだけだよ。すぐ戻る」
エルザはしばし無言のまま作業を終え、ようやく顔を上げた。
彼女の一つ目が、真っ直ぐに俺を見つめてくる。
その視線は驚くほど真剣で、まるで小さな異変すら見逃さない鍛冶師の眼差しのようだった。
「…そう。――気をつけて」
その一言は短く、素っ気ないほどだったが、不思議と胸の内に、じんわりとあたたかさが灯るのを感じた。
「ありがと。…行ってきます」
俺は少し笑って、軽く手を振る。
エルザは何も言わずに、ただ静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
扉を開けると、夜風が鼻先をかすめた。
昼間の喧騒が嘘のように静まった通りの先には、
まだどこか、祭りの余熱が残っているように思えた。
街路に出ると、夜の風が心地よく肌をなでた。
昼間の賑わいを残す石畳には、まだほんのりと焼き菓子や香辛料の香りが漂っている。
俺はぶらぶらと足の向くままに歩いた。
誰かに会いたいわけでも、何かを探しているわけでもない。
ただ、祭りの余韻が冷めるには、少しだけ時間が足りなかった。
そんなとき、ふと目に入ったのが――
古びた木製の看板に吊るされた、「銀脈の吐息亭」の文字だった。
鉱石を模した装飾が施されたその看板は、どこか温もりと渋みを感じさせる。
店先に近づいて、扉の隙間から中を覗き込むと、
グラスが触れ合う音と、賑やかな笑い声が漏れ聞こえてくる。
ここは…酒場だろうか。
「…そういえば、この世界に来てから、ちゃんと酒を飲んだことなかったな」
思えばずっと、剣を振るい、謎を追い、命を守る日々だった。
ひとときくらい、肩の力を抜いてもいい。そんな気分だった。
「久しぶりに…飲むか」
そう呟いて扉を押すと、木の軋む音とともに、芳ばしい酒の香りがふわりと鼻をくすぐった。
中はほどよく賑わい、笑い声とグラスの音が柔らかく交じり合っている。
カウンター席に目をやると、そこに見覚えのある赤茶の髪があった。
「…トーラ?」
彼女はグラスを片手に、すでに二、三杯は空けていそうな様子で座っていた。
その横に歩み寄り、声をかける。
「隣、いいかい?」
トーラはちらとこちらを見て、ニッと豪快に笑った。
「おお、カケルじゃねぇか!もちろんだとも。一緒に飲もうじゃないか!」
俺が腰を下ろすと、彼女は酒瓶を手に取り、もう一つのグラスに酒を注ぎ始めた。
「今日はアタイの奢りだぜ。祭りの成功を祝ってね。遠慮すんな!」
「いや、それは…俺が払うよ」
そう言って、俺は懐から小さなカードを取り出した。
――魔王アビス様の刻印が入った、特別なカードだ。
宿泊や買い物など、これまでの旅で何度も世話になってきた便利な品。
俺は少しかしこまった仕草でそれを掲げ、かっこつけたようにトーラに見せる。
(…たまには羽目を外しても、許してくれるよな、アビス様)
心の中でそう呟きながら、カウンターの店主にカードを差し出す。
「今日は俺が奢るよ。…気分なんだ」
「へぇ、いいのかい? じゃあ遠慮なくいただこうじゃないか!」
トーラはそう言って、グラスを掲げた。
俺もそれに倣い、注がれた酒を手に取る。
異世界で初めての杯。その隣にいるのが、彼女で良かったと、素直に思えた。
「――乾杯」
「乾杯だ!」
グラスが鳴る音が、夜の静けさに心地よく響いた。
口をつけた酒は、思っていたよりも飲みやすく、喉を滑るように落ちていった。
舌の上に残るわずかな苦みと、後からじわりと広がる甘みが心地よい。
喉の奥にほんのりとした熱が灯り、それが胸元までふわりと染み渡る。
「…うまいな、この酒」
自然にこぼれた言葉だった。
それを聞いた隣のトーラが、くいっとグラスを傾けながら、ニッと笑みを浮かべる。
「だろ?酒の味がわかるやつは、アタイは好きだぜ」
その笑顔は豪快で、どこか懐かしい温もりがあった。
俺もそれにつられるように口角をゆるめる。
「まあ、酒自体は嫌いじゃないからな」
俺ももう一口。
舌に馴染んだ風味が、さっきよりも少しだけ柔らかく感じる。
「どうせだったら、お仲間も連れてくりゃよかったのに」
トーラは空のグラスを指先でくるりと回しながら、ぽつりと呟く。
その何気ない一言に、少しだけ寂しさが混じっているような気がした。
「…もともとここに来るつもりじゃなかったからな。ふらっと歩いてたら、たまたま見つけただけだよ」
どこか気恥ずかしげに視線を外して言うと、トーラは『なるほどね』と苦笑した。
「でもさ――酒はいいもんだぜ?飲んだ奴の本心ってのが、こう…ぽろっと出るからな!」
グラスを持ち上げる手が、どこか誇らしげだ。
場を和ませる冗談のようにも聞こえるが、酔いのせいか、その言葉の裏には本音が透けていた。
俺はふと、仲間達の顔を思い浮かべる。
リリアは――あの悪戯な笑みのまま、饒舌になるのかもしれない。
セレナは、頬を赤く染めつつも『べ、別に酔ってなんかないわよ!』と強がるだろう。
ライアは、誰より真剣に酒と向き合ってしまいそうで、気づけば誰よりも酔っていた、なんてこともあるかもな。
エルザは、静かに黙って飲みながら、時折こちらを見つめてきそうだ。
エリシアは、慣れない酒ですぐ酔ってしまいそうだ。
ヴァネッサは…酔ったりする姿が想像できないな。
「…今度は、皆で飲んでみるとするか」
自然に出た言葉だった。だが口にしてみると、どこか嬉しくなっていた。
「おっ、いいじゃないか。仲間と飲む酒は格別だからな!」
トーラは身を乗り出すようにして嬉しそうに言い、俺のグラスに酒を注ぎ足してくれた。
温かな気持ちが、さらに胸の奥に染み込んでいく。
「そういうトーラは、一人で飲んでたのか?」
俺がふと思った疑問を口にすると、トーラは目線を落とし、気まずそうに笑ってみせた。
「ん? あー…そりゃ、アタイと一緒に飲んだやつは、みんな先に潰れちまうからな」
「…聞かなかったことにしよう」
「ちょ、ちょっと待てって!大丈夫だって!無理に飲ませたりはしねーからよ!」
あわてたように手を振るトーラの姿に、思わず笑みがこぼれる。
この世界で、こんなふうに肩の力を抜いて笑える相手がいることが、何よりもありがたかった。
グラスが空になる頃、トーラはふと真面目な顔でこちらを見た。
それまでの朗らかな笑顔とは違う、芯のある視線だった。
「なあ、カケル。お前…これまで、どんな旅をしてきたんだ?」
唐突な問いだったが、どこか自然に胸に落ちた。
トーラの声には好奇心だけじゃなく、俺という人間を知ろうとする素直な気持ちが感じられた。
俺は少しだけ天井を見上げて、グラスをゆっくりと置いた。
「…俺は、もともとこの世界の人間じゃないんだ」
酒のせいか、それともこの空気のせいか――
普段なら出し渋るような言葉が、驚くほどするりと口からこぼれていった。
「魔王アビス様の召喚で、この世界に呼ばれた。最初は、何が何だかわからなかったよ。
右も左もわからない異世界に放り込まれて、元の世界に戻れるのかどうかすらわからないまま――」
少し言葉を切って、苦笑する。
「でも、旅を続けるうちに仲間ができた。…リリア、セレナ、ヴァネッサ、ライア、エルザ、エリシア。
それぞれに出会って、助けたり助けられたりして――気づけば、俺自身がこの世界に根を下ろしてた」
酔いが回っているのか、頭が少しぼんやりしている。
けれど、言葉は不思議と淀まずに出てくる。
「戦いもあった。傷も負ったし、怖い思いもした。
それでも、あの時ああしてればよかったなんて、後悔はあんまりない。……多分、みんながいたからだな」
グラスの中の酒を見つめながら、俺は言葉を紡ぎ続ける。
「こうして人に話すの、案外初めてかもしれないな。…これが、酔った勢いってやつか」
言った自分が可笑しくなって、少しだけ笑った。
けれど、その笑みの奥には、心のどこかでずっと誰かに聞いてほしかった想いが、確かにあった。
トーラは、黙って俺の話を聞いていた。
グラスを片手に、時折頷くだけで、口を挟もうともしなかった。
やがて、俺が話し終えると、彼女はそっと視線を落としたまま、静かに言葉を落とした。
「…いい旅をしてきたんだな、お前」
その声には、酒のせいとは思えないほどの深さと温かさがあった。
だからこそ、次に続いた一言が、静かに胸を揺さぶる。
「でもよ…お前は、それでも元の世界に戻るつもりなのか?」
酒場のざわめきが、ふっと遠ざかった気がした。
あれほどスラスラと話せていた言葉が、今は喉の奥で引っかかる。
「…それは」
答えが出てこない。
異世界に来た当初は、ただ元に戻る方法を探すだけだった。
それが唯一の目的で、理由でもあった。
けれど、いつの間にか――旅の中で出会った仲間達と、
笑って、怒って、命をかけて、背中を預け合う日々が、
俺の“帰る場所”を、少しずつ変えていったのかもしれない。
今でも、帰りたいという気持ちはある。
けれど、それと同じくらい…いや、もしかしたらそれ以上に、
ここでの今を捨てたくないと、そう思っている自分がいた。
ただ、それを言葉にするのは難しくて。
「…わからない。まだ…答えが出てない」
ようやく絞り出した声は、ひどく情けなく、頼りなく響いた。
それでも、今の俺には、それが精一杯の本音だった。
トーラは、黙って俺の迷いを受け止めてくれていた。
そして、少しだけ柔らかく口角を上げて口にした。
「…それでいいさ。今、無理に口にする必要はねぇよ。
旅の中でじっくり――自分の答えを見つけりゃいいさ」
その言葉は、どこまでも優しくて、どこまでも力強かった。
慰めでも、励ましでもない。ただ、ありのままを認めてくれるような温度があった。
思わず胸の奥が熱くなる。
こんなふうに、真正面から肯定されたのは、いつぶりだっただろうか。
何かが込み上げてきそうになるのを誤魔化すように、俺はグラスを取って、酒を一気にあおった。
喉の奥に火が走る。
それでも、涙がこぼれそうになるよりはずっといい。
「……っ」
「おっ、いい飲みっぷりじゃねぇか。そうこなくっちゃな」
気取らず、照らさず。
彼女の言葉は、まるで自分の重荷を半分だけ預けてくれるようだった。
俺は一度、息を整えると、逆に問いを返す。
「…なあ、トーラ。今度は、こっちが聞いてもいいか?」
視線を向けると、彼女はからかうようにウインクして笑ってみせた。
「おう、いいぜ。今夜は語り合おうじゃねぇか」
グラスとグラスの間に、ささやかな夜の物語が、ひとつまたひとつと、注がれていく。
グラスを置いて少し間を置いた俺は、視線をトーラに向けた。
まだ酒は残っていたけど、今はそれよりも――ちょっと聞いてみたいことがあった。
「…なあ、トーラ。アンタはなんでこの町で自警団なんてやってるんだ?」
唐突な問いかもしれない。けど、ずっと気になっていた。
あの祭りで見た彼女の姿――誰よりも前に立って動き、町の人達に慕われていた理由。
トーラは少し驚いたように眉を上げたが、すぐに口の端をゆるめて笑った。
「急にどうした?ま、でもいいか。せっかくだし、語ってみるのも悪くねぇな」
そう言って、彼女はグラスを軽く傾け、一口酒を含むと、天井を見上げるようにして言葉を継いだ。
「昔な、この町――いや、鉱山だった頃さ。ここは酷ぇ場所だった。人間も魔物娘も、鉱石目当てにこき使われて、
死んでも誰も気にしちゃくれねぇような、地獄のようなとこだったんだ」
彼女の声は穏やかだったが、その奥に眠っている熱は隠しようがなかった。
まるで、長いあいだ炭の中にくすぶっていた火が、少しだけ顔を出したように思えた。
「でもな。そんな場所でも、立ち上がるやつがいた。
逃げ出すんじゃなくて、もう一度ここを“生きていい場所”に変えてやろうって、そう考えるアホどもが、何人もいたんだよ」
言葉はどこか自嘲めいているけれど、その“アホども”への眼差しは温かかった。
「そいつらと一緒に、アタイは拳ひとつ戦った。
やがて鉱山は潰れて、町として再建されて、気づきゃアタイは自警団――つまり“ここの守り手”になってたってわけさ」
グラスを置いたトーラは、指先で軽くカウンターの木目をなぞった。
まるで、過去の記憶をなぞるように。
「…だからか」
「ん?」
「この町の人達、アンタのこと、すごく信頼してた。あれは、たまたまじゃなかったんだなって」
トーラは少しだけ照れくさそうに笑い、片手で無造作に髪をかきあげた。
「ま、今さら格好つける気もねぇけどな。やるべきことやってただけさ」
その言葉には誇りも照れも混ざっていたが、何より“真実”があった。
俺はグラスを見つめながら、静かに問いを投げる。
「…じゃあさ。お前にとって、“強さ”って、なんだと思う?」
それは、たぶん今の自分が最も知りたいことの一つだった。
戦う理由。守るもの。――この世界で、俺自身が手に入れつつある“何か”の答え。
一瞬、トーラは目を見開いた。
だがすぐに目線を落とし、グラスの酒をじっと見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「強さ、ねぇ…。他人を倒す力とか、技の冴えとか、そういうのもあるけど――」
少し言葉を探すように、指先でグラスの縁をなぞる。
「“誰かを守るために、自分の痛みを受け止められる奴”。アタシにとっちゃ、それが一番、強いってやつだな」
その声は、大きくはない。けれど、不思議なほど深く胸に染み込んできた。
強さとは、誰かのために泣いて、立ち上がれること。
倒すためではなく、支えるために戦うということ。
彼女が今、何を守っているのか。
それはこの町だけじゃない。過去の仲間たちや、信じた想いそのもの――
きっと、それら全部を背負って、ここに立っているのだとわかった。
「…アンタ、やっぱり強ぇな」
思わず零れた言葉は、本心だった。
トーラはちょっとだけ眉を上げた後、照れ隠しのようにグラスを掲げて笑った。
「おう。飲め、カケル。語ると喉が乾くぜ?」
「…そうだな」
再び酒をあおりながら、俺は心のどこかが少し軽くなっているのを感じていた。
酒の温もりとは違う、何かあたたかいものが、静かに胸の奥に灯っていた。