森の祈りと鋼の侵略者⑥
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ヴァネッサ
種族:ヴァンパイア
とある古城に独り住んでいた。幻術・護身術を得意とする。
ライア
種族:リザードマン
流浪の剣士。エルザとは幼馴染。
エルザ
種族:サイクロプス
鍛冶職人。ライアとは幼馴染。
エリシア
種族:エルフ
森に住むエルフ。精霊と心を通わせることができる。
メレティス
種族:人間
魔物娘反対派の技術者。人型兵器グロリアの開発責任者。
…静寂だった。
いや、静かすぎる。息苦しいほどに、ね。
仲間達は皆、身を潜めていた。
動こうにも、敵の包囲網の中で容易に動ける状況ではなかったのだろう。
リリアは判断を誤らぬよう様子を窺い、セレナはいつもの通り、爆発寸前の火薬のような気配を滲ませていた。
ライアとエルザは睨みを利かせながらも、まだ刃を抜けずにいる。
焦りと警戒が入り混じる中、皆の視線は逸らさぬまま、時間だけが過ぎていた。
――けれど、余は違う。
この手の状況、何度経験したことか。
余は既に、闇の中に溶け込んでいた。
ほんの少し前に、小さなコウモリの姿となって空へと飛び立っていたのだから。
誰にも気づかれず、誰にも見咎められず。
余の黒翼は、今宵もよく風を読む。
馴染み深い夜気に包まれながら、余は天井近くの高所、崩れかけた柱の影に身をひそめていた。
石の冷たさが肌を撫でる。影の密度、空気の湿度、すべてが心地よい。
…ああ、もう日が傾いてきたか。
空が見えずとも、この身体は陽の気配の薄れを知っている。
余にとっての舞台が、整いつつある。
小さく羽ばたいて、梁の上へ。羽音など、もちろん立てない。
この程度の闇では全力とはいかないが――まぁ、必要十分といったところか。
血潮に眠る“夜の力”が、そっと目を覚ます。
意識を集中すれば、ぼんやりと兵の配置が浮かび上がる。
魔術師の立ち位置、結界の流れ、細部まで見えてくる。
「――宵闇は、悪くない」
誰にも聞こえぬほどの独り言を零して、余は動く。
滑るように梁の上を伝い、目的の一点へと近づく。
そう、あそこ。後方の結界の綻び。
紋様が浅く、魔力の流れも甘い。まさに、お粗末。
(焦らず。冷静に。音もなく。…一箇所、崩すだけでいい)
そうすれば、仲間達が動ける。
余は、ただ“きっかけ”を与えるだけでいい。
外ではもう、十分に闇が目を覚ましつつある。
余は、滑るように天井の梁を伝い、敵の結界の奥――わずかに力場のゆらぎを感じる“一点”に向けて飛んだ。
(…おそらく、ここが補強の繋ぎ目)
魔術師達が後方から急いで展開した部分。
基部の紋様が浅く、魔力の流れも乱れている。
ここなら、穿てる。
余は空中で一度旋回し、短く息を吸い込んだ。
そして、囁くように呪を唱える。
「集え、小さき夜の眷属よ。この宵に我が血を刻みて、刃となれ」
余の魔力が紅く灯り、闇の中から同胞のコウモリ達が集う。
まだ夜には早いけれど、この程度の薄闇でも彼女達は応えてくれるのだ。
…まったく、忠実な可愛い子達。
騒ぐ必要はない。一撃でいい。
きっかけを与えるだけで、あとはリリア達が上手くやってくれる。
宵闇に身を任せて、余は一気に急降下。翼を広げ、目指す一点へ。
(宵闇に祝福を)
刹那、空気が裂けた。
黒い弾丸のように駆けた余の身体が、結界に穿たれた綻びに突き刺さる。
鈍い音と共に、術式の光が乱れ、結界が“きぃん”と不安定な振動を放った。
一瞬遅れて、背後の魔術師達が驚愕の声を上げる。
「なに!? 結界が――!」
「後方から何かが侵入して――ぐあっ!?」
よし、上々。
小さな眷属達が、撹乱するように彼らの視界を覆い、
余は旋回してから再び高所へ跳ね上がる。
さあ、舞台は整った。
余が開けた突破口を、誰よりも冷静に、鋭く、そして的確に掴み取る者がいることを信じて。
あとは――任せたぞ。
◇ ◇ ◇
「……今の、音……?」
かすかに耳に届いた、金属の擦れるような嫌な響き。
これはただの物音じゃないわ。
空気が揺れて、結界の力が軋む……これは“異変”。
それも、ただ事じゃない。
私は息を止めて、じっと気配を研ぎ澄ます。
するとほんの数秒もしないうちに、闇の奥から魔術師達の慌てた声が弾けた。
「結界が……?」
「視界が……っ、くそ、何だこれは!」
ふふっ、やってくれたわねヴァネッサ。
崩れかけた均衡の気配。
それは、確かに“綻び”だった。
この沈黙を破るにはこれ以上ない合図だわ。
「皆、今よ!」
私の声に、誰よりも早く反応したのはセレナだった。
もう指先に紅い炎を灯してるあたり、さすがね。
彼女の鋭い目が、敵の奥を真っ直ぐ睨んでいる。
ライアはすでに前へと歩を進めていて、エルザは黙ったまま、低く構えて気配を殺していた。
その頭上を、黒い羽音がびっしりと覆い尽くしていく。
コウモリ達――ヴァネッサの眷属ね。
彼らが敵陣に紛れ込んで、混乱を生んでいく。
「行くわよ!」
私は躊躇なく地を蹴った。
もう迷ってる暇なんてない。
この一瞬を逃したら、きっと…後悔する。
「リリアッ!?」
背後からセレナの声が飛ぶ。けれど、振り返らない。
ごめんね、セレナ。でも今は――彼のもとへ。
…そう。理屈じゃないの。
この胸の奥で、彼の“気配”が私を呼んでる気がして。
「ライア、エルザ!リリアを!」
「わかってる!こいつらは任せろ!」
ライアが短く叫び、剣を抜き放つ音が鋭く響いた。
うん、頼もしい背中。
「支援する…止めはしない」
エルザが静かに呟きながら、大槌を振りかざす。
その覚悟はしっかり伝わったわ。
直後、岩壁が砕ける重い音が響き、粉塵が舞った。
「行けリリア! 背中は私達が守る!」
その声に、私は一言だけ返した。
「お願い。任せるわ!」
風が私の背中を押してくれるような気がした。
瓦礫の隙間をすり抜けながら、私はただ、彼のもとへ全速力で駆けた。
◇ ◇ ◇
「さぁ、試運転に付き合ってもらうわよ、勇者さん?」
メレティスの声が、冷たい刃のように耳を裂いた。
その瞬間、心臓が重く、沈むように鼓動した。
目の前に立ちはだかるのは、もはやただの“兵器”ではない。
まるで生きているかのように、わずかに肩を上下させながら、静かに呼吸しているようにさえ見えた。
新型グロリア。その内部にエリシアがいる。
「……冗談、だろ」
かすれた声が漏れたのも気づかぬほど、全身の血が凍るようだった。
彼女は操り人形のように、無言でその装甲の中に組み込まれている。
メレティスの思惑通り“適合”は成功しているようだ。
低く軋む駆動音が鳴り、グロリアの左腕が滑らかに持ち上がる。
「来るっ…!」
ドンッ、ドンッ、ドンッ!
チャージの間もなく放たれた連続魔力弾が、空気を裂きながら迫ってきた。
試作機とは比較にならない速さ、精度、威力。
俺は瞬時に転移し、射線から脱出する。
しかし、新グロリアの視線は、俺の転移先を正確に捉えていた。
背部の補助ブースターが咆哮し、爆風と共に一直線に間合いを詰めてくる。
「くっ……速いっ!」
右腕の魔力刃が、空間ごと断ち割る勢いで振り下ろされる。
再度転移して間一髪逃れると、背後の石柱が無音のまま袈裟斬りにされ、崩れ落ちた。
高周波の魔力刃――石も鉄も、紙のように切断される。
あれをまともに受けたら、闇の剣ですら保たないだろう。
俺は回り込み、意識を集中させながら、脚部へ向けて闇の剣を振るった。
エリシアに傷をつけるわけにはいかない。
ガィィィィンッ!
重く、鋭い衝撃音。空間がわずかに波打つ。
剣は弾かれ、その外殻に淡く揺らめく膜が浮かび上がる。
「…バリアか!」
攻撃は完全に拒まれていた。
透き通る光の盾が、鋼鉄の巨体を守っている。
「通らない、のか…!」
呼吸を整える暇もなく、次の攻撃が来る。
ドゥガガガガッ!
肩部の連装砲が唸りを上げ、魔力の弾丸が無数に発射された。
まるで意志を持った獣のように、俺を追い詰めてくる。
「追尾弾っ!?」
霧のように体を消して逃れるも、数発がかすめ、袖口が焦げていく。
「くそっ……これが、完成型ってわけかよ!」
虚無に向けて吐き出した皮肉が、冷えた空間に虚しく響く。
あの中にいるのは、本来なら精霊の加護を受け、人と自然を繋ぐはずだったエルフの少女――エリシア。
だが今、鉄の仮面の奥にその面影はなく、代わりにただ無言の殺意だけが、刃となって突き刺さってくる。
逃げながらも、俺は彼女に呼びかける。
追尾弾が再び放たれる中、その隙間を縫って声を届けようとする。
「エリシア!頼む、攻撃を止めてくれ!」
返答はない。返ってきたのは冷酷な連射。
巨体がブースターを噴かせて突進してくる。
「お前、本当にそれでいいのかよ!」
高周波の刃が唸り、床が裂けた。
跳躍し、転移で身を躱す。
「俺はお前がこうして利用されている姿なんて見たくない!」
「ふふ…無駄よ!」
メレティスが高台から見下ろし、勝ち誇った声を響かせる。
「そんな言葉が彼女に届くわけないわ!これは魔導と技術の結晶。感傷で揺らぐような、甘い代物じゃないのよ!」
グロリアの左腕が再び閃光を放つ。放射砲の光線が一直線に走るが、着弾の精度が先ほどより明らかに荒い。
間を縫って飛び込むように回避しながら、俺は気づく。
(…動きが…荒くなってる?)
肩部砲門の連射速度も落ちていた。明らかに出力が不安定だ。
背部ブースターの魔力光がゆらぎ――次の瞬間、背面から噴き出す魔力が途切れた。
「ちっ、魔力切れを起こしてるというの!?制御が効いてない…!?」
メレティスの苛立った声が、俺の耳に届く。
何かを急いで操作しているようだったが、グロリアの挙動はなおも鈍いままだ。
耳をつんざくような金属音と共に、機体ががくりと膝をついた。
その姿に、俺の中にある確信が膨らんでいく。
(まさか…エリシア…お前、自分で…!)
兵装の出力バランスを崩すほどに、わざと魔力を流して自ら、内部から暴走させようとしている…!
焦げるような臭いが漂い、魔力のこもった煙がグロリアの隙間から漏れ出す。
その奥で、ほんの一瞬――グロリアの頭部の仮面の奥に、金の瞳がちらりと光った。
◇ ◇ ◇
意識の底で、誰かの声が…私を呼ぶ。
――エリシア、頼む、攻撃を止めてくれ!
(……カケルさん?)
その名前が、どこか深くに沈んでいた心をかすかに震わせた。
霧のように曇っていた思考の隙間から、微かな光が差し込む。
森の風。仲間達の笑顔。そしてカケルさんの、あの優しい手の温もり。
(…私、どうしてこんな…)
体が…重い。
意識が何層にも重ねられた膜に覆われていて、思うように動けない。
けれど、それでもわかる。
魔力の流れが私の中から、あの機構へと向かっている。
まるで、糸の切れた人形のように、勝手に…いえ、命令されている。
自分の意思では止められない。力が…どんどん、奪われていく。
(このままじゃ、誰かを傷つける…)
いや――嫌です……!
誰も、傷つけたくない……!
私は、意識の残り火に縋るように、“拒絶”の意志を叩き込んだ。
魔力の通り道に、わずかに逆流するよう力を滑り込ませる。
その瞬間、機体がビクリと跳ねた。
背中から伝わる魔力の鼓動が、微かに乱れる。
少しずつ、でも確実に……制御が、崩れていく。
魔力タンクが波打ち、補助回路の一部が熱を帯びて、ヒリヒリとした感覚が走る。
内部に警告音が鳴り響くけれど、それが…不思議と、心を落ち着かせた。
(…お願い…気づいて、カケルさん…)
(私は…私のままで、いたいのです…)
(あなたの声が…ちゃんと、届いています…)