森の祈りと鋼の侵略者②
登場人物
カケル
種族:人間
主人公。異世界に召喚された青年
リリア
種族:サキュバス
魔王アビスの側近。カケルの監視役でもあり案内役。
セレナ
種族:メデューサ
アインベルグ魔法学院を主席で卒業し、主に攻撃魔法を得意とする。
ヴァネッサ
種族:ヴァンパイア
とある古城に独り住んでいた。幻術・護身術を得意とする。
ライア
種族:リザードマン
流浪の剣士。エルザとは幼馴染。
エルザ
種族:サイクロプス
鍛冶職人。ライアとは幼馴染。
俺達は宿を後にし、ブルメリアの花香る通りを抜けて森を目指していた。
朝の街はいつも通りのにぎわいを見せていたけれど、
それがかえって、これから向かう場所との対比を際立たせているように思えた。
カラフルな花が咲き誇る小道を歩くたびに、足元で舞う花びらがちらほらと視界を横切る。
なんでもない日常がこんなにも平和に見えるなんて、少し前の自分なら気にも留めなかったかもしれない。
やがて、足元の舗装が石畳から土に変わる。
香草の甘い香りに代わって、少し湿った土の匂いが鼻をかすめた。
「ここから先が、森の境界ね」
リリアの声が、風に溶けるように静かに響いた。
緑の壁のように連なる木々は、まるで“これ以上は入るな”と告げているかのように見える。
森の奥から吹いてくる風には、さっきまでの花の香りも、あたたかさもなかった。
一歩、また一歩と境界を越えるたびに、世界が少しずつ沈黙に飲まれていくような感覚があった。
そして俺たちは森の中へ足を踏み入れた。
森の中は、思っていた以上に静かだった。
一歩進むごとに、まるで音が吸い込まれていくような感覚に襲われる。
足元で落ち葉を踏む音がやけに大きく感じられ、それ以外には仲間の呼吸と、
枝葉のわずかな擦れ合う音しかない。
セレナが立ち止まり、森の奥を鋭く見つめた。
「…やっぱり、おかしいわ。魔力の流れがよどんでる」
ヴァネッサも、小さなコウモリの姿のまま俺の胸ポケットから顔を覗かせる。
「霊脈の揺らぎ、はっきり感じる。森の中のどこかで、流れが断ち切られてるな」
その声は小さかったが、張り詰めた空気がはっきりと伝わってきた。
ライアは無言のまま剣の柄に手をかけ、木々の奥をじっと睨んでいる。
「この森…ただの木立じゃないな。獣の気配も、妙に静かすぎる」
耳を澄ませても、鳥のさえずり一つ聞こえない。
ただ、沈黙だけが、森全体を包み込んでいた。
進むほどに草木の密度は増していき、やがて視界の先に――ひときわ不自然な空間が現れる。
苔むした石と木々の合間に、ぽつんと残された古い構造物。
それは、精霊を祀るための小さな祠だった…かつては。
だが、今その姿は無惨に崩れていた。
屋根は半ば崩れ、柱はひしゃげ、中央の祭壇は粉々に砕け散っている。
祠の周囲には、爆風のような吹き飛び跡と、焦げ跡が広がっていた。
「…これが、精霊の祠?」
俺は思わず足を止め、声を漏らした。
恐る恐る近づいてみると、砕けた石片の表面には、黒く焼け焦げた跡が点々と残っている。
「意図的に壊されているね。これは自然の老朽化ではない」
ヴァネッサが、静かに断言するように言った。
冷たい口調だったが、どこか確信を持っているように聞こえた。
「こっちを見てくれ。…罠の痕跡だ」
ライアが祭壇の裏に回り、何かを指さした。
駆け寄って確認すると、地面に半ば埋もれるようにして、金属のワイヤーが切れた状態でのぞいていた。
その隣には、黒く焦げた魔石の破片――鈍い赤紫のかけらが転がっている。
「封魔装置の残骸…それも、かなり雑な作りだわ」
セレナが周囲を警戒しつつ、破片を拾い上げて小さく唸る。
彼女の手つきは冷静そのものだったが、その目は細かく周囲を見逃さなかった。
「…許せないな」
ライアが唇を噛みながら、祠の前に立ち尽くしていた。
誇り高き剣士である彼女の、押し殺した声が森に溶けていく。
俺は彼女の背中を見つめながら、どこか自分の中にも近い感情が芽生えていることに気づいた。
ふと視線を巡らせると、近くの低木が、根元から黒く枯れ果てていたのが目に入った。
葉は散り、残った枝もねじれたように干からびている。
エルザがその枯れ葉にそっと触れた。
「…精霊がいないから…枯れた?」
小さな呟きだったが、その声には確かな手応えがあった。
無表情な彼女の瞳が、ほんのわずかに揺れた気がした。
森の命が、精霊の不在と共に失われていく。
それは、すでに始まってしまった“侵食”の兆しなのかもしれない。
もう後戻りできない。そんな気がしていた。
「行こう。まだ何かが、この奥にある」
俺の言葉に、誰も反論しなかった。
仲間たちは無言のまま頷き、それぞれの武器に手を添えると、静かに歩を進めていく。
歩を進めるにつれ、森の様相は次第に異様さを増していった。
木々はうねるように伸び、枝葉は空を覆い尽くすように密集している。
昼間のはずなのに、足元は夕暮れのように薄暗く、空気は湿気を含んで重く肌にまとわりついた。
草の匂いも変化していた。甘い香りに代わり、どこか腐敗のような、鼻の奥を刺激する臭いが混じっている。
ときおり背中を撫でるような冷気が走るたびに、森の静寂がこちらを観察しているような錯覚に陥った。
やがて、二つ目の祠が現れた。
誰も言葉を発しなかった。
そこにあるのは、祠というよりも“瓦礫”だった。
柱も屋根も崩れ、中心にあったはずの祭壇は影も形もない。
周囲の地面には爆風の跡が生々しく残り、わずかに煙のような匂いも漂っていた。
(…さっきのより、新しい?)
リリアが残骸に手を触れ、目を細めながら呟く。
「…この祠、壊されたのはたぶん昨日…いえ、もっと最近かもしれないわ」
その声に、背筋に冷たいものが這い上がる感覚が走った。
「誰かが…今も森の中で、これを繰り返しているのか?」
思わず漏れた声に、セレナが鋭く振り向く。
「急ぎましょう」
誰も異を唱えなかった。
森は沈黙していた。
だがその静けさの奥に、確かに“意図”のようなものが潜んでいる。
風もないのに、葉がかすかに揺れた。
まるで、何かがこちらの足音を待っているかのように。
その時だった。
森の奥――木々の彼方から、何かが裂けるような音が響いた。
「…今の音、聞こえたか?」
俺が問うと、セレナとリリアが同時に頷いた。
「…人の気配。複数いる」
ライアが険しい顔で森の奥を睨みつける。
「しかも、あれ…叫び声じゃない?」
リリアの声に、全員が一瞬だけ視線を交わした。
そして、誰からともなく駆け出していた。
木々の間をすり抜けながら、俺は耳を澄ます。
枝を割る音。何かがぶつかる音。
そして誰かの、切羽詰まったような悲鳴。
茂みを抜け、視界が一気に開けた。
そこにいたのは、淡いエメラルドの髪をなびかせ、長弓を構える女性。
足元は泥に汚れ、呼吸は荒い。
それでも、彼女は必死に矢をつがえ、震える手で敵を睨んでいた。
「下がって!一歩でも近づけば、撃ちますよっ!」
その前に立ち塞がっていたのは、黒装束の数人の男たち。
捕縛具、魔力抑制の札、細工された術具――その姿は、戦士ではなく“狩人”だった。
「囲め!逃がすな!こいつはエルフだ、使えるぞ!」
「さっさと気絶させろ、適合率が落ちるぞ!」
「暴れたら呪縛符を貼れ!」
女性…エルフの彼女は一歩後ずさり、足元の枝を踏んで体勢を崩しかけた。
けれど、その目だけは、必死に何かを訴えていた。
その瞬間、俺の体が動いていた。
「やめろ!!」
叫んだ瞬間には、すでに身体が闇の中に溶けて、男の目の前にいた。
「なっ――!?」
驚愕に目を見開く男の顔面に、思い切り拳を叩き込んだ。
拳に伝わる鈍い感触と同時に、男の身体が大きく後方に吹き飛ぶ。
「ぐっ…があっ!」
「な、なんだお前は!?」
「突然現れやがって…!」
動揺している男達の中に、再び転移。
顎を打ち上げるように殴りつけ、一人、また一人と倒していく。
「ったく、あのバカ…!」
セレナが小さく舌打ちしながら詠唱を唱える。
「皆、あいつに続くわよ!」
彼女の手元に氷が生まれ、次の瞬間、鋭い槍が一人の男の足元に着弾する。
「う、うわっ!?」
リリアはその隙を突いて回り込み、男の背後から容赦なく蹴りを放つ。
軽やかで華麗な動き――けれど一撃の威力は重い。
「よそ見してる余裕なんて、ないわよ?」
ライアは正面から剣を抜き、叫ぶこともなく斬り込んでいく。
剣筋は力強く、迷いがなかった。
「抵抗する気なら、手加減はしないぞ」
エルザは無言のまま、大きなハンマーを肩に担いで一歩踏み出す。
そして、ひと振り。
敵の一人が構えた術具ごと地面に叩き伏せられ、地面がわずかに揺れる。
圧倒された男達が、ようやく戦意を喪失し始める。
「ひ、引けっ…!こんな奴ら、聞いてない!」
「撤退だ!あのエルフは後回しにしろ!」
「あれの準備をしろ!俺達だけじゃ敵わない!」
叫びながら数人が森の奥へ逃げていく。その背を誰も追わなかった。
戦闘が終わった頃、エルフの女性はまだその場に立ち尽くしていた。
俺達は武器を納め、呼吸を整えながら彼女に目を向ける。
手には弓を握ったまま、言葉も出せず、呆然とこちらを見ている。
「大丈夫。もう誰も君に手は出さない」
俺はできるだけ穏やかな声でそう言って、一歩だけ距離を詰める。
しかし彼女は弓を下ろさず、警戒の眼差しをこちらに向けている。
無理もない。あんな目に遭って、すぐに信じろという方が難しい。
「…誰、なの…? なんで…どうして、助けたの…?」
「通りがかりだよ。君の叫び声が聞こえたから、それで放っておけなかった」
「…通りがかり、で」
エルフの女性は小さく息を吐き、ようやく弓を下ろした。
「…ありがとう。助けてくれて。でも私は、迷惑をかけたくなくて…一人で逃げるしかなかった」
彼女は視線を伏せ、小さく息を吐いた。その声は震えていた。
強くあろうとしていた彼女の心の内に、ほんの少し触れた気がした。
「あなたが助けを呼ばなくても、私達は動いてたと思うわ。だから、気にする必要なんてないのよ」
リリアは肩をすくめて、いたずらっぽく微笑んだ。
「…君、名前を教えてもらえる?」
そう問いかけながら、俺は改めて彼女の姿を見つめた。
鮮やかなエメラルドグリーンの髪が、腰まで流れている。
柔らかく風にそよぐその髪は、まるで森の陽だまりを纏っているかのようだった。
その奥に覗く瞳――深い碧のアーチ型の瞳は、怯えを湛えながらもどこか澄んでいて、
まるで森の泉のように静かで清らかだった。
華奢な身体を包むのは、セージグリーンと白を基調とした七分袖のチュニック。
その上には、金色の葉飾りを留め具にしたショートケープが羽織られている。
スカートの裾からは、太もも丈の革のブーツが覗き、その姿にはどこか品のある慎ましさが感じられた。
首元には、小さな木彫りのハープのペンダント。森の精霊たちへの祈りと、
音楽への静かな憧れを込めたような、そんな穏やかな装飾。
その一つ一つが、彼女がこの森の中で、自然と共に生きてきたことを物語っていた。
「エリシア。私は、この森に住むエルフです」
彼女はそう名乗ると、ちらりと森の奥を振り返った。
深い緑の向こうに、何かを置き去りにしてきたような表情。
指先が微かに震えているのが見えた。
「最近、森の精霊の声が聞こえなくなって。
おかしいと思ったんですけど…集落の皆は“深入りするな”って言うばかりで」
言葉を選ぶように、慎重に話しているのが伝わってくる。
自分の不安を隠すように、それでも必死に言葉を紡ぐ姿が印象的だった。
俺はエリシアの顔を見ながら、率直な疑問を口にした。
「一人で来たのか?」
彼女はこくりと頷く。
その瞳にはまだ迷いが残っていたけれど、確かに芯のような光が宿っている。
怯えを乗り越えようとする意志。それが確かに感じられた。
「すごく、不安でした…でも、誰も動いてくれないなら、
せめて自分の目で確かめようと思って。それで」
素直な声だった。作った強さじゃない、本当の決意がそこにあった。
リリアは小さくため息をついた後、やわらかな目でエリシアを見つめた。
「無茶は無茶。でも…その勇気、ちゃんと届いてるわよ」
「私はただ…」
エリシアは少しだけ俯き、手をぎゅっと握った。
その手の震えが、彼女がどれほど怖かったかを雄弁に物語っていた。
「最初から、誰にも頼らないって決めてたんです。頼れば頼るほど、誰かが危険になる気がして。だから…」
彼女の声はかすかに震えていたが、その思いはまっすぐだった。
セレナはふっと鼻を鳴らし、肩越しにエリシアを一瞥する。
「世話が焼ける子ね。けど、嫌いじゃないわよ、そういうの」
ぶっきらぼうな口調の中に、どこか自分と重ねるような温かさがにじんでいた。
ライアも辺りを警戒しながら彼女を称える。
「うん、勇敢な行いだよ」
彼女らしい、素直な言葉。だからこそ、重みがあった。
どの言葉も、彼女の心の奥に届いたのだろう。
エリシアは少し驚いたような顔をしてから、ふっと力が抜けたように微笑んだ。
その笑顔は、ようやく自分が“ここにいていい”と感じた証のようだった。
そのタイミングで、俺の肩に何かがぽすんと乗った。
驚いて振り返ると、いつの間にか小さなコウモリ姿のヴァネッサが俺の肩に止まっていた。
「ふむ、なかなか面白い子だね」
気まぐれそうな声に、エリシアが目を瞬かせる。
「……おい、いつからそこに」
俺が苦笑混じりに問うと、ヴァネッサはふわりと舞い上がる。
「私はヴァネッサ。崇高なるヴァンパイアだよ、エリシア」
空中をくるりと一回転しながら、優雅に人型へと変化する姿は、まるで舞のようだった。
エリシアは目を丸くし、呆けたように見つめていた。
「…貴方達って、一体」
「変わり者の集まり、ってところかしら」
リリアがさらりと返すと、ふとエリシアの口元にほんのわずかに笑みが浮かんだ。