月下の古城と赤き淑女⑤
斬りかかってきた男の腕をかわし、そのまま腹へ拳を叩き込んだ。
最後の見張りが、その場に崩れ落ちる。
額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、俺は荒い息を整えた。
(これで……一通り、片付いたか)
こんなにも人を殴ったのは初めてだ。
腕は重いし、拳もじんじんと痛む。
けど、休んでる場合じゃない。
周囲を見渡した、その時――
霧の奥に、リリアとセレナの姿が見えた。
二人の前には、大斧を持った巨漢が立ちはだかっている。
どう見ても、さっきまでの見張りとは格が違う。
「リリア! セレナ!」
考えるより先に、二人のもとへ駆け出した。
だが、その瞬間――
一歩踏み出したところで、背筋に冷たいものが走った。
(……誰かいる)
「……随分と暴れてくれたな」
反射的に振り返る。
そこには、いつの間にか一人の男が立っていた。
(……いつからいた?)
男はくたびれた黒革のジャケットを羽織り、黒髪を後ろで無造作に束ねていた。
口元には整えられた髭。
そして片目には、鋭い傷痕が走っている。
男は鋭い目で俺を見据えていた。
「せっかく“品物”を運び出す準備が整ったというのに……これは大きな損失だ」
品物――。
こいつは、捕まえた人たちをそう呼んだ。
「……お前が、黒幕か?」
(こいつ……さっきの奴らとは違う)
男は肩をすくめ、口元に薄い笑みを浮かべた。
「黒幕? そんな仰々しいもんじゃないさ。ただの“元・被害者”さ」
その言葉の意味を問う暇もなかった。
次の瞬間――男の姿が、ぐにゃりと歪んだ。
「……え?」
気づけば、目の前にいた。
「悪いがな、坊主――お前に構ってる暇はねぇんだ」
俺は反射的に拳を振るった。
だが、拳が届く寸前、また男の姿が歪む。
「なっ……!?」
拳は空を切った。
もうそこに奴の姿はなかった。
「っ……ぐぅっ!」
みぞおちに鋭い衝撃が走った。
肺から一気に空気が抜け、膝が崩れる。
「ふん、素人だな」
見下ろすように、男が吐き捨てた。
「てめぇ……っ」
みぞおちを押さえながら、どうにか立ち上がった。
それと同時に、男めがけて拳を振るった。
けど――まただ。
拳が届くより先に、男の姿が歪んだ。
「後ろだ」
声に反応して振り向くと、頬を拳で打ち抜かれた。
「がっ……!」
よろめいたところへ、今度は腹に拳がめり込む。
「っ……ぐ……!」
胃の中のものが込み上げ、俺はその場に膝をついた。
堪えきれず、そのまま吐き出す。
「あーあ、汚ねぇな。魔物娘たちがいるってのに、みっともねぇ」
男は呆れたように鼻を鳴らした。
「おっと、自己紹介がまだだったな。俺はアルヴァ。ここの組織のリーダーだ」
こいつは……戦い慣れている。
俺の攻撃なんて、まるで相手になってない。
(このままじゃ、やられる……)
腹の奥にはまだ鈍い痛みが残っていて、まともに息もできない。
けど、ここで俺が倒れたら――。
リリアもセレナも、助けた人たちも危ない。
「……まだだ」
俺は痛む腹を押さえながら、もう一度拳を構えた。
「……なるほど。諦めの悪いタイプか」
アルヴァが口元を歪めた。
「だが、力だけじゃ俺には届かねぇ。その身で学べ」
アルヴァの姿が、またぐにゃりと歪んだ。
(また来る!)
姿が消える。
さっきも、こいつは俺の背後に回った。
だったら――!
「っ……!」
俺は反射的に振り返り、そのまま拳を振るった。
ゴッ、と拳に硬い感触が返ってくる。
拳が、アルヴァの肩を捉えていた。
「……ほう。今のを当てるか」
「はぁ……はぁ……」
俺は荒い息を吐きながら、アルヴァを睨み返した。
「さっきと……同じ所から来ると思ったからな」
今のは、たまたま当たっただけかもしれない。
それでも――絶対に当たらない相手じゃない。
アルヴァは目を細めると、懐へ手を入れた。
取り出したのは、一本のナイフだった。
刃が、地下の薄暗い光を鈍く反射した。
「遊びはここまでだ。終わりにしよう」
アルヴァがナイフの切っ先を俺へ向ける。
さっきまでとは違う。
今度は、まともに食らったらまずい。
俺は、拳を握り直した。
「ああ、上等だ……来いよ」
荒い息を整えながら、俺はアルヴァの動きに集中した。
アルヴァは殴られた肩をちらりと見ると、薄く笑った。
「いい読みだったよ。だが、それはさっきまでの話だ」
アルヴァの姿がまた歪んで、そして消える。
(また後ろか――!)
そう思って振り返る。
けど、いない。
「どこに――」
「遅ぇよ」
声がしたのは、真横だった。
「っ!」
脇腹に鋭い痛みが走る。
見ると、服が裂け、その下から血が滲み始めていた。
アルヴァはすでに俺から距離を取り、血のついたナイフを手に立っていた。
脇腹を押さえながら、アルヴァを睨んだ。
けど、もう姿が消えている。
「がっ……!」
今度は背中に強烈な衝撃を受け、身体が前へ吹き飛んだ。
地面に叩きつけられ、一瞬意識が遠のく。
(クソ……! 見えねぇ、読めねぇ……)
さっきまでとは、動きがまるで違う。
後ろに来ると思えば横。横だと思えば、また別の場所から攻撃が飛んでくる。
身体中が痛い。まともに息をするだけでも苦しかった。
それでも、地面に手をついて立ち上がった。
「どうした? 目ぇ回ってんのか?」
アルヴァはナイフを手にしたまま、こちらへ歩いてくる。
「拳一つでここまでやるとは思わなかったが……調子に乗るなよ」
アルヴァの姿が、再びぐにゃりと歪んだ。
(来る……!)
分かってるのに、身体が動かない。
視界が霞み、足にも力が入らない。
(……やられる)
霞む視界の中で、アルヴァのナイフが鈍く光った。
「終わりだ」
空間が歪み、アルヴァの姿が滲む。
気づいた時には刃が目の前まで来ていた。
「そこまでにしてもらおうか」
聞き覚えのある声が、静かに響いた。
黒いマントが視界を横切った。
ヴァネッサは俺とアルヴァの間へ滑り込むと、ナイフを握る手首へそっと指先を添えた。
そのままわずかに横へ押し流す。
俺を狙っていた刃が、すぐ脇をすり抜けていった。
「……お前、吸血鬼か。人間を庇うとはな」
アルヴァが忌々しそうに吐き捨てる。
「ふふ。余の客人に、これ以上手荒な真似をされては困るのでね」
ヴァネッサは俺を庇うように、アルヴァとの間に立っていた。
その背中には、焦りも恐れも感じられなかった。
まるでここが戦場ではなく、自分の城の広間であるかのように悠然としている。
アルヴァの姿が掻き消えた。
直後、ヴァネッサの目前でナイフが閃く。
アルヴァが手にしたナイフを、ヴァネッサへ振り抜いた。
刃が、彼女のすぐ目の前を通り過ぎる。
すれ違いざま、ヴァネッサの手がアルヴァの手首へ添えられた。
その腕を軽く引いたかと思うと、アルヴァは勢いを殺しきれず、数歩たたらを踏んだ。
まるで踊っているみたいだった。
アルヴァはたまらず体勢を崩し、そのまま床へ転がった。
「その程度では、余のドレス一つ揺らせないな」
「チッ……このっ……!」
再びアルヴァの姿が歪む。
右から刃が迫ったかと思えば、次は背後。
けれどヴァネッサは、そのたびにわずかに身体をずらし、時には手首へ触れ、攻撃の軌道を逸らしていく。
一度として、アルヴァの刃は彼女に届かない。
(……すげぇ。全部、捌いてる……)
けど、ヴァネッサは攻撃を受け流しているだけだ。
だったら――俺にも、まだやれることがある。
ヴァネッサに腕を流され、アルヴァの体勢が崩れた。
その脇腹が、がら空きになる。
俺は痛む身体を無理やり動かし、アルヴァへ駆け出した。
「おおおおっ!」
俺は勢いのまま、拳をアルヴァの脇腹へ叩き込んだ。
ズドンッ、と重い感触が拳に返ってきた。
「ぐっ……ぉあああッ!!」
アルヴァはそのまま数歩よろめき、脇腹を押さえながら片膝をついた。
「てめぇ……ッ、やりやがったな……」
アルヴァは脇腹を押さえたまま、俺たちを睨みつけた。
けれど、その視線がふいに俺たちの後方へ向けられる。
そして、アルヴァの姿が掻き消えた。
「……っ、どこに!?」
慌てて辺りを見回した、その時だった。
少し離れた場所にいた少女の背後に、アルヴァが立っていた。
アルヴァは少女を背後から捕まえ、その首元へナイフを突きつける。
「なっ……!」
「動くな。少しでも近づけば……こいつの喉を裂く」
アルヴァの呼吸は荒い。
けれど、少女の首元に突きつけられた刃は微動だにしなかった。
動けなかった。
下手に動けば、少女が危ない。
「おや、気づいていなかったようだね。もう――手遅れだよ」
ヴァネッサが静かに告げた。
「……何?」
その直後、アルヴァが少女を見て、大きく目を見開いた。
「な、なんだ……お前……!」
何も起きていない。
少なくとも、俺にはそう見えた。
それなのにアルヴァは突然少女からナイフを離し、その身体を突き放した。
「う、うわああああっ!!」
何かから逃げるように、アルヴァが後ずさる。
「この野郎ッ!」
俺は地面を蹴り、アルヴァへ駆け出した。
アルヴァが俺に気づき、ハッと顔を上げる。
けど、もう遅い。
拳が、アルヴァの腹にめり込んだ。
「ぐっ……!」
アルヴァの身体がくの字に折れる。
「まだだッ!」
右、左、さらに右。
俺は息をつく暇もなく、拳を叩き込んだ。
アルヴァはよろめきながらも、どうにか踏みとどまった。
「……ぐ、ぅ……坊主が、調子に……乗りやがって……!」
それでも、アルヴァが再び動こうとする。
その前に、俺は最後の一撃を腹へ叩き込んだ。
「がっ……!」
アルヴァは地面に膝をつき、荒い息を吐いていた。
それでも、なお、にやりと笑っていた。
「……やるじゃねぇか、坊主」
アルヴァは荒い息の合間に、言葉を続けた。
「だがよォ……闇は終わらねぇ。俺を倒したところで、また別の場所で、誰かが必ず――」
その言葉が終わるより先に、アルヴァの身体から黒い靄が滲み出した。
「ぐ……っ、が……あああッ……!」
苦悶の声とともに、アルヴァの身体が崩れ始める。
指先から少しずつ輪郭が失われ、肉体そのものが黒い霧へと変わっていく。
「な、なんだよ……これ……」
ただ、その光景を見つめることしかできなかった。
アルヴァが完全に消えた後、その場には黒い光だけが残されていた。
球体とも結晶ともつかないそれは、まるで鼓動するように明滅している。
「……これ、リースの時と同じ……?」
魔術学院でリースを倒した時にも、これとよく似たものが残った。
(あの時と同じなら、これも……)
確かめるように手を伸ばした、その時だった。
「待て」
振り返ると、ヴァネッサは珍しく険しい表情で黒い光を見つめていた。
「それに触れるな。……ただの魔力の塊ではない」
「……前にも、同じようなものを取り込んだことがある」
「だからとて安全とは限らぬぞ」
「分かってる。けど、このままここに残しておく方が怖い」
ヴァネッサはしばらく黙ったまま俺を見つめていた。
やがて、諦めたように小さく息を吐く。
「……ならば、せめて闇に飲み込まれないようにな」
「ああ。分かってる」
そして、俺は手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、黒い光が俺の手へ吸い込まれた。
「っ……!」
直後、焼けつくような熱が腕を駆け上がる。
熱い。苦しい。
身体の奥へ、何かが無理やり入り込んでくるような感覚だった。
やがて黒い光は完全に消え、身体の奥に重い感覚だけが残った。
「……君も、いつか抗えなくなる日が来るかもしれない」
ヴァネッサが、小さく呟いた。
「……え?」
聞き返した時には、ヴァネッサはもう何も言わなかった。
「カケル!」
少し離れた場所から、リリアとセレナがこちらへ駆け寄ってくる。
二人とも怪我はなさそうだ。どうやら、向こうも無事に片付いたらしい。
「カケル、大丈夫!?」
「ああ。なんとか」
俺の無事を確認すると、セレナは今度はリリアへ鋭い目を向けた。
「まったく……リリアも無茶しすぎなのよ。少しは反省しなさい!」
「でも、燃えたでしょう? スリルがある方が、私は好きよ」
リリアは悪びれる様子もなく、にこりと笑った。
「そーいうところが危ないって言ってんのよ!」
セレナがリリアに詰め寄るが、リリアは楽しそうに肩をすくめるだけだった。
いつもの二人のやり取りに、張り詰めていた力が少し抜けた。
俺は傍らに立つヴァネッサへ目を向けた。
激しい戦いの後だというのに、その表情にはいつもの余裕が戻っていた。
「ヴァネッサ、助かったよ。ありがとう」
「礼には及ばない。が、もっと余を称えてもよいのだぞ?」
「はい、はい」
周囲では、檻から解放された人たちが互いに寄り添っていた。
泣いている人もいれば、無事を喜び合っている人もいる。
その後、アジトの中を調べると、闇市での取引記録や、金の受け渡しに関わった者たちの名前が記された書類も見つかった。
俺たちはそれらを回収し、救出した人たちを連れてアジトを後にした。
外の空気は澄んでいて、ひんやりとしていた。
東の空がわずかに白みはじめている。
ヴァネッサが空を見上げ、呟いた。
「……余は朝を好まぬが、こうして迎える夜明けも悪くない」
俺もつられるように、空を見上げた。
◇ ◇ ◇
村へ戻ると、そこはすでに騒ぎになっていた。
闇市と繋がっていた一部の村人たちは、アジトが潰されたことを知り、すでに逃げ出していた。
事情を知った村人たちによって、その多くが取り押さえられていた。
「私は知らなかった……!」
「仕方なかったんだ! 家族を守るためには……!」
アジトで見つけた名簿を手に、リリアが関係者の名前を一人ずつ読み上げていく。
名前を呼ばれた村人が否定するたび、セレナの魔眼がその嘘を見抜いた。
こうして、村が隠してきた真実は次々と明るみに出ていった。
翌朝、俺たちは村を後にした。
セレナが一度だけ村を振り返り、不機嫌そうに呟いた。
「あんな場所、さっさと出て正解ね。気分が悪いったらない」
「……あれ? ヴァネッサは?」
俺たちは足を止め、辺りを見回した。
けれど、ヴァネッサの姿はどこにもない。
「いない……? まさか、黙って帰っちゃった?」
その時、俺の胸元で微かな重みを感じた。
「……ん?」
胸ポケットを覗くと、そこに一匹の小さなコウモリが丸くなって眠っていた。
「……おいおい」
俺の声に反応したのか、コウモリが目を開ける。
やがて羽を広げると、胸ポケットから飛び出した。
空中でふわりと旋回すると、その姿がヴァネッサへと変わった。
「……勝手についてきたとは言わせぬぞ?」
ヴァネッサは何食わぬ顔で、うっすらと笑った。
リリアがため息交じりに笑う。
「まったく……ほんと、自由な人ね」
「それで? 私たちと一緒に来るってことでいいの?」
セレナの問いに、ヴァネッサはふいと視線を逸らした。
「……気まぐれだよ。君たちがどこまで“愚か”なのか、少し興味が湧いただけさ」
「そっか。じゃあ、歓迎するよ。退屈はさせないと思う」
俺がそう答えると、ヴァネッサは小さく笑った。
こうして、新たにヴァネッサを加えた俺たちは、再び歩き始めた。
またどこかで、誰かの泣く声が聞こえたなら。
その時もきっと、俺は見て見ぬふりなんてできないんだろう。




