愛を取り戻す霊
霊がさっきからまったく動かない。
ユラユラ揺れてはいるので意識はあるのだろうが、それだけでは潮流に揺らされる海底のワカメと変わらない。人間の顔がついているぶんワカメとは違うが、表情が呆けていて、まるで恍惚の人のようだ。
せっかく霊を見つけたというのに、これではどうしようもない。
暗い病院の廊下に突っ立っているだけの霊に、私は失望を隠すこともせずに、声をかけてやった。
「おい、霊」
霊がぴくっと眉を動かし、こっちを見た。私は叱るように言ってやった。
「おまえ、岩崎麻友子の霊だろ? 二年前に死んだやつ」
コクコクと、霊が二回うなずいた。表情には相変わらず生気がない。いや生気がないのは当たり前か。言い直そう。やる気がない。
私は叱りつけてやった。
「おまえには憎い相手がいるだろう。そいつを呪い殺す気力はどこへ行った?」
「あー……」
霊が紫色の口を、開いた。
「そんな気がするけどぉ……もう忘れちゃったぁ。……なんだったっけぇ」
「覚えてないのか」
私は思い出させようと、教えてやった。
「おまえは二年前、愛していた男に殺されたんだ。彼の愛を信じていたのに、そいつはただおまえの貯金60万円が狙いだったんだ」
「あー……」
霊はどうでもよさそうに、口から声を漏らした。
「そんなことも……あったねぇ〜」
「たった60万円のために殺されたんだぞ? 悔しくないのか?」
「さぁ……? 私の命、そんなもんじゃない?」
「それよりもだ! おまえを愛しているなんて嘘をつき、おまえを夢中にさせておいて、醜く裏切った男のことが恨めしくないのか!?」
「うーん……」
霊は心からどうでもよさそうに、だるそうに言った。
「なんかもう……ずっとここに立ってるだけでぇ……いいかなぁって」
「そうか……」
私は気づいたことを口にした。
「愛が冷めてしまったんだな? 愛の反対は憎しみだ。愛が冷めれば憎しみも薄れる。そういうことなんだな?」
霊は何も答えず、ぼーっと突っ立っている。
「おい、霊。聞くが、桐谷雪彦のこと、まだ愛しているか?」
「ゆきひこさん……」
ちょっと彼の顔を思い出したような色が、霊の顔に浮かんだ。しかしそれはすぐに消えてしまった。
「雪彦山……」
なぜか知らんが姫路市北部にある日帰り温泉施設もある山の名前に変わっていた。
「愛を取り戻せ! いわ・さーき!」
シャウトするように岩崎麻友子を叱りつけた。
「いわ・さーき! シャキッとせんか! おまえの血は何色だぁー!?」
「さぁ……? 幽霊に血は……ないんじゃないかなぁ〜」
「うわ……、ショーーック!!」
私は自分の手首を噛みちぎり、声をあげた。
「本当だ! 血が、出ない!」
「あら? あなたも霊だったの?」
「いわさきーっ! おまえに雪彦を呪い殺してもらわなきゃ困るんだよーっ! 私、3万円しかない貯金のためにあいつに殺されたんだぞ! うらめしや」
「あはは」
「笑うな!」
「あなたが呪い殺せばいいじゃな〜い?」
「だめなんだよ! 死んで1年以上経たないと呪えないらしいんだ! 私にはまだその力がないんだ! だからおまえに会いに来たのに……!」
「あはは」
「笑うなーーっ!」
「私にどうしろと?」
「だから愛を取り戻すんだよ! 愛が復活すれば憎しみも戻ってくる! その憎しみでヤツを呪い殺すんだ!」
「えー……。どうやって?」
「まずはそのユラユラをやめろ! ワカメみたいに揺れるな! シャキッとしろ!」
「はーい」
「ユラユラしながら言うな! まぁ……それはいいとして、アレだ。私をまずは憎んでみろ」
「あなたを? 関係ないじゃな〜い?」
「私は雪彦と結婚する約束をした。雪彦とキスもした。雪彦とえちえち……うわぁたあ! 思い出が私を攻撃してくるぅ!」
「あはは……」
「嫉妬はしないのか? 私はおまえが愛した男と寝たんだぞ!?」
「愛、冷めてるしー……。どーでもいい」
「ならば……これでどうだっ!?」
「え……」
私は岩崎麻友子の細すぎる腰を抱きしめた。その口を、私の唇で、塞いでやった。霊と霊の、冷たい口づけは、永遠のように続いた。
唇を離すと、私は麻友子に言ってやった。
「どうだ? おまえが愛した男が口づけた唇との口づけは? 思い出したか? あいつへの愛を?」
「どっきゅーーーん」
岩崎麻友子の身体が魚のようにビックンビックンしだしたので、驚いて私は仰け反った。
「うわ!?」
「ずっきゅーーーん!」
岩崎麻友子が右手を高く掲げた。
そして拳王のように、言った。
「我が生涯に一片のくくくくくっ……!」
昇天していく岩崎麻友子を見上げながら、私は叫んでいた。
「霊ーーーッ!!!」
霊の身体が爆発し、粉々に砕け、無数のちっちゃな天使に変わって空へと昇っていった。
なぜ……成仏してしまったんだ。