花芽吹きの中、聖女は愛を知る
繁吹き雨に窓が濡れる。
まだ昼間だというのに窓向こうの空は暗く、分厚い雨雲に覆われていた。
打ち付ける雨音が響く、静まり返った応接室。
わたし──ナディア・キルシュはソファーに座り、雨のせいで湿ってしまった銀髪を耳にかけた。胸元までの髪は下ろしたままだけど、こんなに雨がひどくなるのなら一つに結んでくればよかった。
わたしの前に座り、厳しい顔で書類を読んでいるのはテオフィル・ブラント辺境伯。魔獣の森と隣接しているこの辺境の地を治めている方だ。紫がかった紺色の髪を鬱陶しそうにかきあげたブラント辺境伯は、金色の瞳をわたしに向けた。
その鋭い視線に怯みそうになるけれど、その書類を読めばそうなってしまうのも仕方がない事だろう。
「無能聖女との婚約か。イグナーツ殿下は、随分と辺境の地を軽んじておられるようだ。軽んじているのは君の実家であるキルシュ伯爵家も同じか。婚約者として送り出す娘を馬車で送る事さえしないのだからな」
書類をテーブルに放り投げたブラント様の言葉に、わたしは身を小さくする事しか出来ない。
無能聖女とはわたしの事で、イグナーツ殿下とは……わたしの婚約者だった人だ。
わたしの実家が軽んじているのはブラント辺境伯のことではなく、わたしの事だと思うけれど……確かに馬車も用意せず、娘の支度もしないとなれば、そう思われても仕方がない。
乗合馬車で、鞄一つでやってきた娘は大事にされているようには見えないもの。
「それで? 我々は王命によって強制的に婚約者となったわけだが、生憎と俺は婚約者を欲していない。見れば分かるだろうが、俺の命は残り少ないものだからな」
そういうとブラント様は左腕を上げる。シャツ越しでも分かる物々しい呪いの気配。袖から覗く手首と、首元から頬にかけては呪いの痣が刻まれている。恐らくシャツに隠れる腕全てにも同じようなものがあるのだろう。
テオフィル・ブラント辺境伯は呪われている。
瘴気を強く浴びた事で発現したこの呪いは、彼の言う通り、遠くない未来にその命を喰らい尽くす。
「王命といえど、未亡人になる事が決まっている君と婚姻を結ぶわけにはいかない。我が辺境伯を君に渡すわけにはいかないのでね」
「承知しております」
「優秀だという姉聖女にも解けなかった呪いだ。無能の君にどうにか出来るものではないしな」
随分と棘の多い物言いだけれど、それも仕方ないと受け入れる。
わたしは聖魔法を扱う事の出来る聖女として覚醒しながらも、その力を存分に揮う事の出来ない……無能だと、そう烙印を押されているから。
実の姉であるアマーリエは力のある素晴らしい聖女で、その妹であるわたしは落ちこぼれ。その話は、この辺境の地まで伝わっていたらしい。
「確かにわたしでは、その呪いをすぐさま解いて見せる事は出来ないでしょう。ですが、その痛みを和らげる事は今からでも出来ます。毎日少しでいいので、浄化の力を注がせていただけないでしょうか」
「……やってみろ」
許可を受け、ソファーから立ち上がったわたしはテーブルを回ってブラント様の側に膝をつく。護衛らしき騎士が剣の柄に手をかけるのが見えた。
怪しい動きをした瞬間に、わたしは切り捨てられるのだろう。もちろんそんな事はしないけれど、ここまで警戒されているとさすがに悲しくなってくる。
そんな気持ちを飲み込んで、わたしは大きく息を吸った。
左腕に両手を翳し、目を閉じる。心の中で女神様に祈りを捧げる。
わたしの中にある光が熱を持ち、両手の平からそれが溢れ出す事を感じた。
ゆっくりと、力を紡ぎだす。聖力が雫となって、ぽとりとブラント様の腕に落ちた。まるで種のようなそれが、ゆっくりと腕に馴染んでいくのが分かる。
わたしは雫のような力を注ぎ続ける。水を与えるように。いつかこの種が芽吹く事を願うように。
目を開けると両手の平から溢れる光の残滓が泡のように消えるところだった。
ブラント様のシャツから覗く痣に変化はない。しかし先程までの忌々しい気配は少しだけ鳴りを潜めているような感じがする。
「……痛みが消えた」
「良かったです。出来れば朝晩と、今のように短くて構いませんのでお時間をいただけますでしょうか」
「分かった。……この件に関しては礼を言う」
お礼を言われたのなんて初めてだ。
聖女らしく解呪も浄化もあっという間にこなす事が出来ないわたしを、見下す人ばかりだったから。こういう時にどんな反応を返すのが正解なのか分からずに、わたしは曖昧に微笑む以外に出来なかった。
「部屋を用意させる。何か必要なものがあれば侍女に伝えてくれ。ただ、俺は君を婚約者として扱うつもりはない。君はただの客人という事を忘れずに、それ相応の振る舞いをするように」
「承知しました。出来るだけお部屋から出ないようにはしますが、少しだけお庭を散歩するだけの時間はいただけますか」
「それくらいなら好きにして構わないが、外出する際には──」
「しませんから大丈夫です」
「……そうか」
眉を寄せて、ブラント様は応接室を後にする。後をついていく騎士は最後まで剣の柄から手を離す事はなかった。
入れ替わるように入ってきた侍女も、わたしを見て不機嫌そうに表情を歪ませる。
このお屋敷の人達に歓迎されていない事は分かっているけれど、あからさまにそんな表情を向けられると中々厳しいものがある。
まぁ、仕方ないのだけど。
持ってきた荷物は鞄一つだけ。それを自分で持ったわたしは、侍女に先導されて客室へと向かった。
***
聖女とは瘴気を祓える聖魔法を扱う女性の事。
魔力の強い女性が覚醒する事が多いと言われていて、この国だけでもわたしの他に七人の聖女がいる。
聖女は瘴気を祓うだけでなく、解呪や浄化、治癒にも秀でている。瘴気は魔物を生み、人を呪う。そんな恐ろしいものに立ち向かう事が出来るのだから、尊ばれる存在だ。
でもそれは……力を充分に揮う事が出来ればの話。
わたし、ナディア・キルシュが聖女として覚醒したのは去年の事。十六歳の時だった。
二歳上の姉と共に寝込んでしまい、その熱が下がった時には髪色が銀へと変化していた。銀髪はこの国を守護する女神様と同じもので、女神様の力を借りられる聖女にしか持つ事が許されない。
銀髪という事は、それだけで聖女という証なのだ。
わたしと姉はすぐに神殿へと連れていかれ、そこで大教皇様に聖女と認められた。
神殿には聖力を測定する水晶があり、わたしはそこで過去最高の値を出した事で……ものすごく期待をされてしまって、あれよあれよという間に当時十九歳だった第一王子イグナーツ殿下の婚約者になったのである。
でも……残念な事にわたしは力をうまく使う事が出来ず、姉や他の聖女のように一瞬で瘴気を祓ったり、すぐさま怪我を直したりする事が出来なかった。
それに比べて、姉は力の使い方が上手かった。銀髪になった事でより一層その美貌が際立った事もあり……イグナーツ殿下は姉のアマーリエに夢中になった。
わたしは幼い頃から要領のいい姉に虐められてきたから、あまり姉の事が好きではない。
婚約者に選ばれた時は、これで姉から離れられると喜んだけれど……姉を溺愛する両親からは恨まれるし、姉からの虐めは酷くなる一方だった。
姉はわたしを貶めるのがとても上手だから、姉がはっきり口にしなくとも、皆がわたしの事を出来損ないだとか無能だとか言い始めた。
力をうまく使う事が出来ないのは事実だし、それは甘んじて受け入れるしかない。わたしなりに出来る事をしたり、今までの教本を読んで修行に励んだりしてみたのだけど……姉のようにはいかなかった。
そうこうしているうちに姉とイグナーツ殿下は距離を縮め、私は婚約を破棄される事になったのだ。
それもただの婚約破棄ではなくて、テオフィル・ブラント辺境伯にわたしを押し付けるとは思わなかった。
数年前に王城で開かれた剣術大会で、イグナーツ殿下はブラント様にこっぴどくやられてしまったらしい。それからずっと目の敵にしていると聞いたけれど、わたしを使って嫌がらせをするとは思わなかった。
ブラント様は魔獣討伐の際に、瘴気を強く浴びたと聞いている。その呪いが体に現れたのは二か月前の事。
呪いのもたらす痛みは体だけでなく、心も苛む。彼は二か月間、その痛みに耐え続けてきたのだ。
もちろん、姉をはじめとして聖女たちはブラント様の呪いを解こうとした。
しかし呪いはあまりにも強力で、誰一人として解呪する事が出来なかったのだ。
それも姉のプライドを刺激してしまったのだろう。わたしをブラント様の元に送る事を提案したのは姉だというのだから。
呪いの側には聖女を置くべきだとか、色々なそれらしい理由をつけて。
そういうとんでもない経緯で辺境伯領にやってくる事になったのだけど、わたしは聖女だ。力をうまく扱えなくても、一瞬で呪いを解くなんて事が出来なくても、わたしに出来る事があるのなら、逃げるわけにはいかないのだ。
***
そして辺境伯領での生活が始まったのだけど……まぁ居心地は悪い。
使用人はわたしに近付かない……どころか、すれ違う度に無能聖女が何をしに来たと厳しい言葉を掛けてくる。主人であるブラント様があの態度だから、使用人がそうなるのも当然だろう。
それでも食事が抜かれる事はないし、暗い部屋をあてがわれたり、物を盗まれるような事はない。これなら実家の伯爵家の方がひどかったかもしれない。
わたしはブラント様の元に行って、朝晩と浄化の力を注ぐ日々を繰り返している。
それ以外はお庭をお散歩したり、部屋の中で刺繍をしたり大人しくしているつもりなのだけど……使用人や騎士達からの視線は相変らず厳しいものだった。
でも仕方ない。受け入れるしかないのだ。
「不便はないか」
ブラント様に話しかけられたのは、わたしがこの地にやってきて二週間が経った頃だった。
自室で朝食をとった後、決まった時間に執務室へと呼ばれる。
そこで浄化の力を注いで、立ち去る。それがこれまでのルーティンだったのだけど、話しかけられたのは初めての事だった。
「ありません。大変良くしていただいて、有難く思っております」
「使用人は君にきつく当たっていると聞いたが」
「皆さんのお心を思えば当然でしょう」
「しかし客人に向ける態度ではなかった。申し訳ない」
予想外の謝罪に目を瞬いた。
これはブラント様の指示ではなかったらしい。
執務室の壁側に控えている侍従と騎士も、どこか気まずそうな顔をしている。
「……君が浄化してくれるようになって、痛みが引いている。そのおかげで夜もよく眠れるようになった。感謝している」
「いえ、そんな。……解呪が出来ていないのですから、わたしにそんなお言葉は勿体ないです」
「いや、他の聖女にも無理だったんだ。無能と蔑んだ事も謝罪する」
一体どういう風の吹き回しなのか。
痛みがないというだけで、こんなにも態度が変わるのか……と思って、変わるだろうと納得した。体も心も苛む痛みに耐え続けられる事がすさまじいのだ。
それと同時に、この人は優しい人なのだと理解した。
自分の非を認めて謝罪するなんて、中々出来る事ではないもの。立場がある人なら猶更だ。
「本当の事なのでお気になさらず。ではまた夜に」
別の意味での居心地の悪さを感じて、わたしはそそくさと執務室を後にした。
感謝される事なんて慣れていない。
それなのに、すれ違う使用人の態度まで変わっているから、もう本当にどうしたらいいのだろう。
気まずそうにしながらも挨拶をしてくれたり、わたしの身支度を手伝ってくれようとするのだ。
それは丁寧にお断りして、今まで通りにしてくれるように頼んだ。何とも言えない表情をされてしまったけれど、落ち着かないのだから勘弁してほしいのだ。
手の平を返されたら、きっとわたしは……今まで以上に傷付いてしまうもの。
それなら優しくされない方がいいのだ。
わたしは、落ちこぼれなのだから。
***
朝晩との浄化の時間に、世間話をするようになり。
その時間が段々と伸びて、この地にやってきて一か月が経った今ではお茶を一緒に楽しむようになってしまった。
お忙しいブラント様を付き合わせるのも申し訳ないので、早く部屋に戻りたいと思うのだけど……折角誘って下さっているのに、無碍にもしがたい。
そんな風に自分に言い聞かせているけれど、正直……誰かと一緒にお茶を飲む事も他愛もない会話を楽しむ事も久しぶりで、その時間に心を弾ませてしまっている。
「部屋ではよく刺繍をしていると聞いたが」
「はい、手慰みに」
「いまは何を作っているんだ?」
「女神様の文様を刺繍しています。ご迷惑でなければ、この地にあります神殿へ奉納させていただけますか?」
「もちろん。有難いが……出来上がったら俺にも見せて貰えるだろうか」
「かしこまりました。数日中には出来上がりますので、こちらにお持ちしますね」
初日の態度が嘘のように、ブラント様もお屋敷の皆さんも優しくしてくれる。
ブラント様だけでなく、使用人の皆さんも謝罪をしてくれて……わたしはそれを受け入れた。
それなのにわたしは……いつかまた、無能と蔑まれるのではないかと恐れている。
だって、わたしは──いつだって、蔑まれる。
実家でもそうだった。
姉が一番で、わたしを気に掛ける事のない両親。姉に追随してわたしを見下す使用人。
友人だって出来なかった。お茶会に行っても、皆が姉を褒め讃えて、わたしの事を馬鹿にする。
聖女になってからだって、何も変わらない。
特別になれたのだと喜んだのも一瞬だった。わたしは力を使いこなせない無能で……切り捨てられる。
だから今回だって、期待なんてしてはいけない。
期待をすれば、手の平を返された時に裏切られたなんて思ってしまう。それは嫌だ。
期待しなければ、傷付く事もないもの。
「ナディア嬢?」
物思いに耽ってしまっていたらしい。
気遣わし気な声に顔を上げると、こちらを見つめるブラント様と目が合った。その金色の瞳からは、わたしを心配しているというのが伝わってくる。
「すみません、少しぼうっとしてしまったみたいで」
「毎日浄化をしているから、疲れも溜まっているんだろう。少し休んでも俺は構わない」
「いえ、大丈夫です。ブラント様の──」
「それなんだが」
言いかけた言葉は、ブラント様に遮られた。
カップを手にしたブラント様が、紅茶を飲んでから口を開く。
「テオフィルと呼んでもらえないだろうか」
予想外の言葉に目を瞬いた。
お名前を呼ぶ許可をいただけるなんて。
本来なら喜んで受け入れるべきなのだろう。
わたしの名は呼んでくださっているのだから。
でも……これだと距離が近くなってしまう。
わたしは、いつかここを離れるのに。
「……抵抗があるのは分かっている」
わたしがすぐに返事をしないでいるからか、ブラント様は静かな声で話し始めた。わたしを咎める色はなく、ただ穏やかな声だった。
「君に失礼な態度を取り、悪し様に蔑んだ男の名だ。だが……俺は君に、俺の名を呼んでほしいと思う」
ブラント様はわたしへの振る舞いを後悔しているようで、この一か月の間に何度も謝られてしまった。
そう言われるだけの実力しかないのだから、言われて当然なのだ。ブラント様が謝る事はないのだけど……それを伝えても、ただ困ったような顔をされるばかりだった。
別に敵対したいわけではないのだ。
ここは受け入れよう。寂しくなっても、それはそれ。自分で折り合いをつければいいだけだ。
「テオフィル様」
わたしが名前を口にすると、テオフィル様はほっとしたように表情を和らげた。
「お名前を呼ばせていただきますが、出来ましたらもう以前の事はお気になさらないで下さると嬉しいです。テオフィル様も、お屋敷の皆様も、わたしの評判を聞いての事だったのですから間違っていなかったのです。今はわたし自身を見て下さっている。……それ以上の喜びはないのですから」
「だが……いや、そうか。君がそう言ってくれるのなら」
そう言ってテオフィル様は微笑んだ。
最初にお会いした時よりもずっと柔らかく、優しい表情だった。
胸の奥が疼く、不思議な感覚。
初めて感じるその疼きに戸惑いながら、わたしはそれを隠すように紅茶を飲んだ。
テオフィル様のお名前を呼ぶようになってから、わたし達の距離は随分と近付いたと思う。
食事を一緒に取るようになったし、お庭のお散歩も一緒にしている。
ドレスやアクセサリーを贈って下さった時にはどうしていいか分からなくて、これ以上の贈り物は遠慮したいと申し出た。それからは刺繍糸を手配してくれるようになったから、それは有難く頂戴している。
テオフィル様と一緒に過ごす時間が増えれば増えるほど、胸の奥が苦しくなる。
不快なものではないのだけど、どうにも落ち着かない。ドキドキして、テオフィル様から目が離せなくて……その手に触れて、触れられたいと願ってしまう。
どうやらわたしは、テオフィル様に恋をしてしまったようなのだ。
この恋が叶う事はないのに、恋心は育っていくばかり。
ずっとこの場所には居られない。テオフィル様の呪いが解ければ、聖女との婚約理由もなくなるもの。テオフィル様は、彼に相応しい人を妻に迎えるべきなのだ。
だからわたしは、ここを離れるつもりでいる。
***
夜気に花が強く香る。
満天の星々が囁き合うように輝く夜だった。
夕食後のサロンでテオフィル様とソファーに並んで座り、左腕に向かって浄化の力を注いでいく。
毎朝毎晩と繰り返された行為だけど、テオフィル様の体に聖力が溜まっていくのをわたしは感じ取っていた。
浄化を始めた頃は、瘴気に近付くと痛みがぶり返してしまっていたそうだけど、今ではそんな事もないらしい。それは聖力が体を巡り始めているからだろうと思う。
ドアは開いているけれど、サロンの中にはわたしとテオフィル様しかいない。
お茶を用意した後に侍女は下がってしまったし、侍従もテオフィル様の就寝準備の為に席を外している。護衛騎士はいつからか部屋の中に入らずに、廊下に立つようになってしまった。
「……ナディア、俺達は婚約者だ」
「はい。ですが書類だけのものですし、弁えておりますので大丈夫ですよ」
「いや、そうではなく……」
歯切れの悪い様子が珍しく、わたしは首を傾げながらこの日の浄化を終わらせた。
光が泡のように弾けていく。その虹色の光を見るのが好きだった。
「俺が悪いのは重々承知しているんだが……今からでも、婚約者として仲を深める事は出来ないだろうか」
予想外の言葉に、瞬きさえ忘れてテオフィル様を見つめてしまった。
視線を外したテオフィル様が口元を手で押さえる。その耳がうっすらと朱に染まっているのに気付いて、鼓動が跳ねた。
「婚約者、として……仲を深める……」
改めてテオフィル様の言葉を繰り返すと、顔に熱が集うのが分かった。それが恥ずかしくて紅茶のカップを両手で持った。口元にカップを寄せて少しでも顔を隠そうとしたけれど、うまくいっているかは怪しいところだ。
「婚約者ならこれくらいの事はと思ってプレゼントを贈っても、君は困った顔をするし。もう少し時間をかけて君との距離を詰めていけたらと思ったが……俺にはそんな時間の余裕もない。だから、もういっその事、言葉で伝えた方が早いのではないかと思って」
テオフィル様の声が、甘い。
その声が耳に届く度に、胸の奥がぎゅっと切なくなってしまう。
「……君が好きだ」
「わ、わたしは……そう言って頂けるような価値なんてありません。わたしは……出来損ないですし」
「君の噂を信じてしまった俺が何を言っても響かないかもしれないが。……君は出来損ないでも無能でもない。俺の呪いを解いてくれようとする聖女で、その真っ直ぐな心根に、優しさに、俺は惹かれているんだ」
嬉しい。
ただ、素直にそう思った。
初めて恋をした相手が、わたしを想ってくれる。そんな奇跡みたいなこと、あるなんて思っていなかった。
でも……その気持ちを受け入れていいのか、分からないのだ。
出来損ないと蔑まれるわたしなんかよりも、テオフィル様には相応しい令嬢がいる。
わたしが隣に立つ事で、彼に迷惑をかけたくない。
……違う。わたしは本当は恐れているのだ。
やっぱりお前ではなかったと、テオフィル様がわたしの手を離す日が来てしまうのではないかと……それが怖い。
「ナディアの気持ちを、いますぐ俺に向けてくれとは言わない。ただ、俺の想いを知っていてほしかったんだ」
言葉を返せなかったわたしに、戸惑っていると思ったのだろう。テオフィル様が優しい声を掛けてくれる。
それにも何て言っていいか分からずに、持ったままのカップをまた口に寄せた。
「これから先の未来も君と共に在りたかったが、それは叶わぬ夢らしい。俺の心は君にあったと、そう覚えておいてくれ。俺が死んでも婚約はこのまま──」
優しい声はそのままだけど、テオフィル様の表情が僅かに曇る。
「──テオフィル様は死にませんよ」
紅茶を飲んで、カップをソーサーに戻す。
わたしの言葉に、今度はテオフィル様が瞬きもしないでこちらを見つめていた。
「わたしが浄化の力を注ぎ続ける限り、呪いが広がることはありませんもの」
「そう、なのか……?」
「はい」
テオフィル様が何かを言おうと口を開き、また口を閉ざす。それを何度か繰り返して、深くて長い息を吐いた。安堵したように表情を緩めるその様子に、つられるようにわたしも笑みを零した。
「では君が居てくれるのだから問題ないな」
「ずっとお世話になるわけには参りませんし、呪いを解けばわたしは出ていくつもりだったのですが……」
「は?」
先程までの表情とは一転して、テオフィル様の顔が強張っている。
まるでここに来た日のような低い声に、内心で緊張しながらもわたしは口を開いた。
「すぐさま解いて見せることはできないと、ここに来た日に申し上げました。わたしが毎日浄化の力を注いでいたのは、痛みを和らげるためもありますが、解呪の為に聖力を巡らせていたのです」
「いや、そうではなく。それももちろんありがたい話なのだが……」
「力をうまく扱えないために無能聖女と言われてはおりますが、これでも聖力の数値だけなら歴代一と言われているのです」
だから大丈夫だと、そう伝えたかったのに。
テオフィル様は真っ直ぐにわたしを見つめている。膝の上に置いていた手が、テオフィル様の両手に包まれた。
わたしのものより大きくて温かい、力強い手だった。
「俺は、死なないのか。これからの未来を、君と共に過ごす事が出来るのか」
「テオフィル様は死にません。わたしがもっと上手に力を扱えたら良かったのですが。あ、でも……ここに来て毎日浄化の力を使っているおかげか、力が安定してきたような気もするのです」
これは本当のことだった。
わたしの中に宿る力を使おうとすると、力が暴れてしまってうまく出力できないでいた。
溢れ出すままに聖力を注いだら、その相手がどうなってしまうか恐ろしくて、ゆっくりと雫を零すような注ぎ方になってしまうのだ。
でもその雫が、ぽたぽたと量を増しているのだ。
いつかは流れる水のように、滑らかに注ぐことができるかもしれない。
きっと呪いが解ける日は、そう遠くない。
「テオフィル様、呪いが解けたら……この婚約は無効だと申し立てをしてください。呪いの侵食を抑えるための聖女との婚約ですもの。呪いが解ければ、その理由はなくなります」
「無効だとは俺が認めない。死なずに済むというなら、余計に君を諦めることなんて出来ないからな」
「でも、わたしよりも……」
「ナディア、俺は君がいいんだ。俺の気持ちを、どうか疑わないで欲しい」
テオフィル様は握っていたわたしの手を、自分の口元に寄せた。手を引っ込める暇もなくわたしの指先に口付けをする。吐息交じりの温もりに、わたしの顔は一気に赤く染まってしまった。
「俺は君を諦めない。それだけは覚えておいてくれ」
甘やかな声と、蕩けるような瞳に宿る熱。
わたしは小さく頷く以外に、出来なかった。
***
辺境の地に来てから、二か月が経った。
テオフィル様はずっとわたしに気持ちを伝えてくれている。
わたしも……テオフィル様への想いが募るばかりだった。応えてしまえば楽になるのだろうか。でも、好きだからこそ怖いのだ。
テオフィル様は優しい人だから、わたしが気持ちを吐露する事を強要しない。
きっとわたしの気持ちには気付いていると思うけれど。それでも待っていて下さるのだ。
だからわたしは……自分の中で期限を決めた。
呪いが解けたら、気持ちを伝えると。その時にテオフィル様が応えてくださるかは分からないけれど、ずっとわたしに誠実であってくれたテオフィル様に報いなければならないと思っている。
そんな事を考えながら過ごしていた日々。
ある夜のことだった。
厚いカーテン越しにでも、雨が窓を叩く音が聞こえてくる。
遠くで雷の音がする、嵐の夜。
いつものように浄化の力を紡ぎ出す。ぽつりぽつりと、雫が零れる。
違和感はすぐに現れた。雫がまるで雨のように降り注ぎ始めたからだった。今までにないほどに、体を巡る聖力が落ち着いている。
いける、と思った。今までよりも聖力の出力を上げる。雫が流れる水になり、今まで以上に強い光を放った。
「……ナディア?」
光の奔流にテオフィル様が戸惑っているのが分かった。
それに応える余裕もなく、わたしは溢れる力をコントロールする事だけに集中していた。
強い光は風を生み、わたしの銀髪を大きく揺らす。
花の香りがした。
「テオフィル様、芽吹きます」
そう伝えた瞬間、テオフィル様の呪いの痣が赤い光を放ち始めた。
不気味に明滅する痣を、聖力が覆いつくす。その赤い光が聖力によって全て隠された瞬間──白い花がテオフィル様の手首から咲き始めた。
その花はあっという間にテオフィル様の首元まで咲き乱れる。
あまりにも美しくて幻想的な光景に、わたしもテオフィル様も言葉を失っていた。
白い花が風に揺れる度に、鈴のような音が響く。軽やかで澄んだその音が大きくなったかと思えば、強い光と共に花は全て散ってしまった。
きらきらと弾けた光が泡のように消えていく。
テオフィル様の腕から首元まで這っていた痣は、すべて綺麗に消えてなくなっていた。
「……ナディア」
「呪いは、解けました」
達成感と、高揚感がすごい。
ふわふわと、まるで宙に浮かんでいるかのように、気持ちが落ち着かない。
呪いが解けた。
わたしにも出来た。
テオフィル様が死なないで良かった。
「ありがとう、ナディア」
テオフィル様がわたしの頬を包む。指先で目元を撫でられて、自分が泣いている事に気付いた。
それに気付いたら、もうだめだった。溢れる涙は止まる事なく、呼吸が乱れて肩が震える。
そんなわたしを、テオフィル様が抱き締めてくれた。
わたしの背に回る、力強い腕。自分とは違う温もりに、胸の奥が温かくなる。
テオフィル様の心臓の音が聞こえる。生きている。
この音が聞こえる事が嬉しくて、ほっとする。もうテオフィル様が呪いで死んでしまうような事はないのだ。
痛みに耐える事もない。本当に良かった。
呪いが解けたなら、伝えなければ。
大丈夫。気持ちを伝えられる。もしテオフィル様が……ううん、それは今はやめておこう。
わたしはテオフィル様の背に、両手を回して自分からも抱き着いた。
応えるように、わたしを抱く腕に力が籠もる。それがどうしようもないほどに嬉しくて、愛しかった。
「わたし……テオフィル様をお慕いしています。ずっと前から、あなたの事が好きでした」
想いを紡いだ声は、自分でも驚くくらいに恋慕の色に染まっていた。
口にすると、今までずっと抱えていた不安が泡のように弾けていくのが分かった。
テオフィル様が好き。ただそれだけで良かったのだ。
わたしを抱く腕から少し力を抜いたテオフィル様が、近い距離でわたしを見つめる。熱を帯びて少し色を濃くした金の瞳が綺麗だと思った。
「明日にでも結婚しよう。式やパーティーはまた後日しっかりとやるが、まずは書類だけでも君と夫婦になりたい」
「え? 明日ですか?」
「そう。余計な横槍を入れられても困るし、冷静になった君がいなくなっても困るからな」
「いなくなったりしません……」
「臆病な男だと笑ってくれて構わない。想いが重なったんだから、囲ってしまってもいいだろう?」
「か、囲う?」
急展開についていけず、目を丸くしているとテオフィル様が嬉しそうに笑った。
その笑みがあまりにも幸せそうだったから、わたしもつられるように笑ってしまった。
***
呪いが解けた翌日、テオフィル様は言った通りにわたしとの結婚を成立させてしまった。
そんなに急がなくても……と零したわたしに『横槍が入ったら面倒だろう』なんて言っていたけれど、その横槍とやらを理解したのは結婚して二週間が経った頃だった。
王家から結婚の承認を受けた後に、テオフィル様は呪いが解けた事を報告した。
どの聖女も解けなかった呪いを、出来損ないだったわたしが解いたという事を姉やイグナーツ殿下は信用しなかったらしい。
でも解呪を成功させたわたしは力の扱いが上手くなり、聖力が安定している事もあって解呪や浄化も難なくこなせるようになったのだ。
歴代一といわれる聖力を存分に揮えるようになり、神殿の大教皇様にもその力を認めていただけた。
そうしたら……婚約破棄は無効だとか、辺境伯の呪いが解けたなら聖女は返すようにとか、イグナーツ殿下が騒ぎ始めたのだ。
それが、テオフィル様が懸念していたことだったらしい。
でもわたしはもう結婚しているし、王都に戻るつもりもない。
どうしてイグナーツ殿下がそんなことを言い出したのかというと……なんと姉が聖女の力を失ってしまったそうなのだ。
「姉は……聖女ではなかったと?」
「大教皇の見解ではそうらしい」
テオフィル様とサロンでお茶を楽しんでいると、そういえば……とテオフィル様が口にしたのが姉のことだった。
王都の──というかイグナーツ殿下や姉、それからわたしの実家であるキルシュ伯爵家の情報をテオフィル様は把握している。
「君の力が強すぎたのと、不安定だった事。その二つが原因で、君と姉の間に回路が繋がっていたらしい。それで君の聖力が姉へと流れていたようだ。しかしナディアの力が安定した事で、回路が閉ざされた。聖女でなかった君の姉は、力を使うことが出来なくなった……っていうそれだけの話さ」
「それは、わたしの──」
「君のせいだなんて思うなよ? 君のものだったとはいえ、力を扱う事はできていた。その心が聖女に相応しいものであったなら、女神様が力を与えていてもおかしくなかっただろう……と大教皇は言っていた。結局は自分の行いで、その機会を失っただけの話だ」
「でも……姉は荒れているのでは?」
聖女であることに誇りを持っていた姉のことだ。
その力が自分のものではなかったなんて、認められないだろう。
「荒れる余裕もないだろう。なんせ女神様から嫌われて、罪の印を額に刻まれたらしいからな」
「……嫌われた?」
「力を失った君の姉は、全てがナディアのせいだと言いふらしたらしい。『妹が自分を恨んで力を奪った。出来損ないの妹は女神様が忌み嫌う悪魔と契約を交わしたに違いない』なんてことを本気で語った。そして君の両親もそれに追随した」
その話を聞いても、わたしは悲しくならなかった。
姉に出来損ないと貶められるのはいつものことだし、両親もその話を嬉々として広げたことだろう。もうどうでもいい人達だから、彼らがわたしを悪く言っても気にならない。
テオフィル様やお屋敷の皆さん、辺境の地に住まう人々がわたしを認めてくれている。だからわたしはもう、姉の言葉に傷ついたりはしないのだ。
「それが女神様の逆鱗に触れて、君の姉も両親も罪印を刻まれたってわけだ。三人は屋敷に引きこもっているらしいぞ」
「あらあら。結婚を機に縁を切っておいてよかったです」
「そうだな。それもあってイグナーツ殿下が騒いでいるというわけだ」
歴代一と言われるわたしが惜しくなったのだろう。
もちろん、戻るつもりはないのだけど。
「で、そんなクズ王子からの手紙がここにあるわけだが……」
テオフィル様がジャケットの内ポケットから一通の手紙を取り出した。
封蝋は確かにイグナーツ殿下に与えられた印で間違いない。
「俺はこれを君に渡すつもりはないんだ」
そう言うとテオフィル様の手の中で、手紙は燃えて灰になってしまった。
テオフィル様がぐっと拳を握ると、舞っていた灰も消えてしまう。後に残されたのは、紙が燃えた後の独特の匂いだけ。
「ふふ、これからもそうしてくれます?」
「ああ。だが強めの抗議をしておいたから、そんな余裕もなくなるだろう」
「わたしは既婚者ですしね。手紙を送ってこられても困ります」
テオフィル様がわたしの肩を抱いて引き寄せる。
その腕に甘えて、テオフィル様の首元に頭を擦り寄せた。森を思わせるコロンが強く香る。
「俺の可愛い奥さんに横恋慕なんて、直接潰してやりたいくらいだが。……まぁ表舞台からは消えることになるだろう。もう二度と会わないかもしれんな」
過激な発言だけど、これが本気だというのは伝わってくる。
テオフィル様が何かをすることのないよう、イグナーツ殿下には大人しくしておいてもらいたいと切に願うばかりだ。
「まぁクズ共の話はもういいな。俺は可愛いナディアを甘やかしたい」
「もう充分すぎるほどに、毎日甘やかされていますのに」
「足りない。俺の気持ちを全て伝えるにはどうしたらいいだろうな」
テオフィル様がわたしの髪に唇を寄せる。
その優しい触れ方にも、熱を感じてしまって胸の奥が甘く疼いた。
「……わたしも同じ気持ちです。この想いを伝えるために、わたしの心の中をテオフィル様に曝け出せたらいいのにって、そう思っています」
「またそういう可愛い事を言う。何をされても文句は言えないな?」
「何を……っ」
何をするつもりなのかと、そう問うはずだった唇はテオフィル様の唇で塞がれていた。
熱も想いも伝え合うかのような口付けに、息が出来なくて眩暈がしそう。ぎゅっと固く目を閉じながら、テオフィル様の背に両手を縋らせた。
唇が離れても、まだわたし達の距離は近いまま。
ゆっくりと目を開くと、蕩けるように甘い金の瞳と視線が重なった。
「愛してる」
吐息交じりに囁かれた睦言に、返事をするよりも早く──また唇が重なった。
テオフィル様への想いが溢れていく。
明日も明後日も、これからもずっと……わたしはテオフィル様に恋をする。
テオフィル様が望んでくれた、共にある未来。
それをわたしも強く望んでいる。そしてそれはきっと、幸せで彩られているのだ。
ふと、柔らかな香りが鼻を擽った。
白く輝く、あの夜に芽吹いた花の香りが。