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ロベルト視点
「おい、つき纏い者」
「…………」
「お前だ、変態」
「…………」
「返事しろ、金髪」
「俺はそんな名前じゃなし、本当は金髪でもない……」
隣国であるオルセニア王国騎士団本部医務室で、俺はセレイアが横たわっているベッド横の椅子に座り、彼女の顔を見つめている。
セレイアは昨日から続く極度の恐怖と緊張からの解放と、走り続けたことで体が限界に達し気を失った。
抱き上げたセレイアの温もりに、彼女が無事に生きていてくれたことを実感し神に感謝した。
「お前がさっさと彼女を連れて帰国していれば、彼女が危険な目に遭うこともなかったんだぞ」
さっきから俺を非難しているのは、この国の第五王子であり、王国騎士団長のジョシュアだ。
「お前はいったい何をしていたんだ! 俺がわざわざデートをお膳立てしてやったのに、なんの進展もないとは……」
「それについては、感謝している……」
ジョシュアは俺にため息を吐き、呆れたように言った。
「最初から正体を隠さず、誠心誠意謝ればよかったんだ」
「それじゃ駄目なんだ……! 謝ったところで、仮にセレイアが許してくれたとしても、彼女が俺を愛してくれなければ、意味がないんだ!」
ジョシュアに振り返ってそう言うと、彼はカップを置いて首を振った。
「情けない……」
「なんとでも言え」
「情けないと言ったのは己に対してだ。俺はこんな男と命を懸けて戦っていたのか……」
***
我がエレンデール王国とオルセニア王国は、国境沿いの要衝地を巡って激しく争っていた。戦況は一進一退を極め、前線の兵士たちは日々の激しい戦闘に疲労困憊していた。
戦いが長引く中、貴族たちは王族を出征させるべきだという不満を強めていた。彼らは、王族が直接戦場に立つことで士気を高める必要があると主張していた。
しかし、国王はもちろん、次期国王である王太子や、王太子の予備である第二王子を戦場に送るわけにはいかず、第三王子のワルターに白羽の矢が立った。だが、ワルターはその決定に恐怖を抱き、出征に対して消極的だった。
俺の母は現王の妹であり、俺は王位継承権を持つ身。俺は条件と引き換えに、ワルターに代わり王族代表として前線へ行くことを決意した。
俺が出した条件は、セレイアとの結婚だった。セレイアと結婚するためにはいくつかの障害を乗り越える必要があった。そのためにはこの方法をとるしかなかったのだ。
ワルターは俺と同い年の従兄弟であり、そして、ライバルでもあった。学問や剣術だけでなく、それは恋愛においてもそうだった。
俺たちは学生時代からずっとセレイアに想いを寄せていた。
セレイアはその美貌と聡明さで、周囲の人々の注目を集める存在だった。彼女を巡って、俺たちは密かに対立していた。
次に、第二王女のカタリナも問題だった。カタリナは兄姉たちと年が離れた末っ子であり、周囲に甘やかされて育ったため我儘だった。
彼女は幼い頃から口癖のように『ロベルト兄さまと結婚する』と言っていた。それを真に受けた王は、俺とカタリナを結婚させようとしていた。
そして、一番の難敵はセレイアの父親だった。彼はセレイアを溺愛し、過保護ともいえるほどの愛情を注いでいた。そのため、俺がセレイアに対して何度も求婚したにもかかわらず、彼はのらりくらりとその話をかわし続けた。
「セレイアはまだ若すぎる」、「もっと立派な男性になってから出直してこい」、「家の事情が許さない」と様々な理由をつけられ、俺の求婚は拒否され続けた。
ワルターにセレイアを諦めさせ、カタリナを他国へ嫁がせ、セレイアの父を黙らせた。こうして、俺はついにセレイアと結婚した。彼女を手に入れたことで、俺の胸は喜びに満ちていた。
結婚式の翌日、セレイアに見送られ、戦線へ発った。
彼女の不安げな表情が、俺の心に深く突き刺さった。覚悟していたものの、身を斬られるような思いだった。
——セレイア、すぐに戻る。待っていてくれ。
そう強く誓い、馬を駆けた。
しかし、このときの俺は、帰還までに五年もかかるとは思っていなかった……。
前線は厳しい状況が続き、ままならない状況に苛立ちを覚える毎日だった。戦況は一向に好転せず、王族として俺が来たことで一時的に上がった兵士たちの士気も、次第に低下していった。
俺の命令で、定期的に執事長からセレイアの日常報告が送られてくる。それだけが唯一の癒しであり救いだった。彼女の無事と、日々の些細な出来事が書かれた手紙は、戦場の荒涼とした空気の中で俺の心を暖めた。
一刻も早くセレイアのもとへ帰るため、俺は副将として全力を尽くした。鬼神のごとく奮闘し、前線を駆け抜ける俺の姿に、いつしか『孤高の狼』と呼ばれるようになった。しかし、その激しい戦いぶりに、将である第二騎士団長はついに俺に休息を命じた。
戦地の外れにある小さな湖のほとり。大木に寄りかかり、俺はセレイアに送る手紙を書いていた。いや、書こうとして便箋を広げていた。しかし、ペンを握ったまま、なかなか書き出せずにいた。
便箋を広げると、短い婚約期間中に届いた、今は侯爵邸の金庫に大事にしまってあるセレイアからの手紙を思い出す。手紙には彼女の優しさと俺への気遣いが溢れており、それらがとても美しい字で綴られていた。その手紙を思い出すたびに、俺は躊躇してしまうのだ。
下手な手紙を出したら、セレイアに幻滅されてしまうかもしれない……。
そう考えてしまい、俺は一通の手紙も送れずにいた。何を書いたらいいのか、現状をどう報告したらいいのか、まるで見当がつかない。
何度も便箋を見つめ、ペンを握り締めたまま、考え込んでしまう。
「「うーん……」」
「「ん?」」
大木の裏側から重なった声に振り返ると、そこには見覚えのある男がいた。
「ジョシュア王子……?」
「ロベルト・アシュフォード……?」
戦場では剣を交えて戦った相手。思わぬ人物を目にして、俺たちの間に緊張が走った。しかし、互いの軽装から、自分たちが休息中であると察し、その緊張はすぐに消え去った。
俺たちは剣を抜くことなく並んで座った。そして気づけば、戦況や互いの国の未来について語り合っていた。戦場では敵同士だったが、このときの俺たちには、共通の悩みや希望が浮かび上がっていた。
次の休息日に同じ場所を訪れると、そこにはジョシュア王子が待っていた。俺たちは再び並んで座り、自然と話を始めた。戦況だけでなくプライベートな話題にも及び、俺はセレイアのことを話し、ジョシュア王子は婚約から逃げていることを語った。彼は戦地にまで送られてくる釣書にうんざりしている様子だった。
そんなことを繰り返し、いつの間にか俺たちは友人となっていた。
そのうち俺たちはこの戦争を終わらせようと、和平条約締結に向けて動き出した。秘密裏に計画を練り、互いの国に和平を提案するための準備を進めた。多くの困難が立ちはだかったが、俺たちは決して諦めなかった。
戦闘の合間に和平に向けた策を講じる日々は非常に忙しく、数年の月日があっという間に流れた。
和平条約締結の道筋がようやく見えたとき、俺は心身ともに限界を迎え、後を国の重臣たちに託すことにした。
「ジョシュア、帰国の前にうちに寄らないか?」
「ああ、それも悪くない。今帰ったら、また無理な婚約話を押し付けられそうだからな」
俺の王都への帰還が決まり、セレイアに手紙を書こうと便箋を広げた。
そして、気づいてしまった……。その手紙が、俺がセレイアに宛てた初めての手紙となることに……。
俺は要点だけを綴り、ジョシュアを連れて王都へ向かった。
戦地を離れ、セレイアの待つアシュフォード侯爵家の別邸に到着した俺を迎えたのは、領地で暮らしているはずの父と母、そして、息子にその職を譲り引退したばかりの前執事長をはじめとする使用人たちからの、笑顔に隠された、いや、隠しきれていない氷点下の視線だった……。