7
馬車の揺れが続く中、わたしの心は張り詰めたままだった。周囲の静寂が増し、心臓の鼓動だけが鮮明に感じられた。窓の外には、闇に染まる空。車輪が石や砂利を踏むたびに、馬車の軋む音が耳に残る。
やがて馬車が停まり、ドアが開くと冷たい空気が流れ込んできた。二人の大柄な男がわたしを強引に引きずり出し、足元の不安定な地面を歩かせた。
真夜中の冷え込みが肌に染み渡る。月明かりが微かに辺りを照らし、闇の中で建物の輪郭が浮かび上がった。
目の前には古びた建物が立っていた。外壁には苔が生え、窓は割れている。今は深い森の中にひっそりと佇む廃墟のようだった。
「ここに入れ」
低い声で命じられ、わたしは抵抗することもできず、男たちの後に続いて建物の中へ足を踏み入れた。薄暗い廊下は湿気でじめじめしていて、歩く度に古びた木の床が軋む。
廊下を進み、奥の部屋に連れていかれると、そこには古い椅子が置かれていた。強引に座らされ、腕と足を椅子に縛り付けられた。
「ふふ。いい気味ね」
マルゴの冷たい声が響き、わたしは恐怖に震えながらも、彼女に問いかけた。
「マルゴ……、なぜこんなことを……」
わたしがかすれた声で尋ねると、マルゴは冷笑を浮かべながら答えた。
「なぜって? わからない? あんたがエレンデール王国民だからよ」
彼女は冷たい目でわたしを見下ろし、続けた。
「エレンデール王国との戦争で、わたしの夫は命を落としたのよ。彼は勇敢な兵士だった。わたしたちは結婚したばかりだったのよ。わたしは幸せな未来を祈りながら、夫の帰りを待っていたわ。なのに……! すべてがあの戦争で奪われた。あんたたちエレンデール王国のせいで、わたしの人生はめちゃくちゃになったのよ!! だから、あんたをここに連れてきたの。わたしたちの苦しみを少しでも晴らすためにね」
その言葉を聞いた瞬間、わたしの心は凍りついた。マルゴの境遇はまさにわたし自身のものと重なる。わたしもまた、出征したロベルト様の無事を祈りながら彼を待ち続けたのだ。
「わかるわ……」
「ふざけないでよ! あんたにわたしの気持ちがわかるわけないじゃない!! わたしは夫を失い、家を追い出され、居場所さえ無くしたのよ!!」
マルゴの言葉は鋭利な刃のようにわたしの胸に突き刺さった。彼女の瞳には涙が浮かび、その抑えきれない憎悪と震える声が、心に負った傷がどれほど深いものかと痛感させられた。
「わたし、あんたがエレンデール王国の騎士と話しているのを聞いていたのよ。そして調べたの。あんた王族の妻だったのね」
わたしは、あのときの会話をマルゴに聞かれていたことに息をのんだ。
「なんでこんな所にいるのか知らないけど、わたしたちの復讐にぴったりだわ。この国にはね、わたしと同じように、家族や恋人を失って苦しんでいる人たちがたくさんいるの。明日みんなの前であんたを殺してやるわ。わたしたちの苦しみを思い知ればいいのよ!!」
マルゴはそう言い残して、男たちと共に部屋を出て行った。
わたしは為す術無く、薄暗い部屋にひとり取り残された。
絶望的な状況に追い込まれながらも、わたしは冷静に周囲を見渡し、部屋の中に使えるものがないか探した。
そのとき、壁の隅に古い棚を見つけた。その陰には何か鋭利なものが落ちていた。
わたしは椅子を巧みに動かし、それに近づいた。それは古びた釘だった。その釘を掴もうと、わたしは体ごと椅子を倒した。衝撃で体に痛みが走ったが、指先で釘を掴むことができた。
釘を使って、慎重にロープを切り始めた。手が痛み、意識が朦朧とする中、時間がかかったが、少しずつロープが緩んできた。
ついにロープが切れ、自由になったわたしはそっと部屋を出て廊下を進んだ。人の気配に注意しながら静かに進み、やがて建物の外に出ることができた。
東の空の端はうっすらと明るくなり始めている。夜が完全に明ける前に、できるだけ遠くへ逃げたい。わたしは周囲を警戒しながら、その先に見える森の中へ向かって走り出した。
しばらく森を走り続けたとき、後方から追手の怒号と足音が聞こえた。
「逃がすな! 捕まえろ!」
足は重く、息が上がる。けれど、立ち止まるわけにはいかない。枝や蔦が行く手を阻み何度もつまずきそうになるが、わたしは必死に木々の間を縫うように走った。心臓が破裂しそうなほど鼓動が早まるのを感じながら、前に進んだ。
「はぁ……はぁ……っ……!」
体力が尽きかけ足が思うように動かなくなってきた。わたしは辺りを見渡し、大きな木の陰に身を潜めた。
「何処だ!?」
「まだそんな遠くには行っていないはずだ!」
声の方へ視線を向けると、数人の追手の姿が視界に入った。わたしは彼らに気づかれないよう、乱れる呼吸を必死に整えた。
彼らの声が近づくにつれ、恐怖に体が震え出す。
彼らがわたしに気づかずに去ってくれることを願い、さらに身を低くしたとき、足元の小枝を踏んでしまい、パキッという音が響いた。
「いたぞ! あそこだ」
追手の目がわたしを捉え、わたしは再び走り出した。振り向く余裕もなく必死に足を動かし走り続けると、やがて木々の密度が薄くなり、目の前には朱に染まる開けた草原が広がった。
森を抜け、一瞬安堵しかけたものの、わたしは止まることなく草原を駆け抜けた。
しかし、足元の草が靴に絡みつき、わたしはバランスを崩して地面に倒れ込んだ。立ち上がろうと顔を上げ背後に目を向けると、目前に迫った追手の姿が見えた。
体は限界を訴えていた。
(もう逃げ切れない……。最後にもう一度だけ、あなたに会いたかった……!)
そう諦めかけたとき、前方から馬の蹄が地面を駆ける音が響いた。
近づいてきた馬上の人物の姿に、わたしは心からの安堵を覚えた。恐怖が和らげていくのを感じ、涙で視界が歪んだ。
「レナート様……」
たった今、最後にもう一度だけ会いたいと願った彼が、そこにいた。
彼を目の前にして、心の奥に閉じ込めていたもう一つの気持ちが溢れ出てしまった。わたしはロベルト様を愛している。けれど、その想いが消えていないにもかかわらず、わたしはレナート様を愛してしまったのだ。
彼はわたしに駆け寄ると、勢いよく馬から降り立ち、追手の前で剣を構えた。
「彼女に触れることは許さない!! これ以上近づけば、容赦しない!!」
レナート様の言葉に追手たちは一瞬ひるんだが、すぐに剣を振り上げ襲いかかった。レナート様は冷静に構えた剣を振るい、一撃一撃を正確に防ぎつつ反撃に転じた。
金属音が響き渡り、剣が交錯する。
追手の一人が大きく斬りかかってきたが、レナート様はその攻撃を巧みにかわし、逆に敵の横腹に鋭い一撃を見舞った。
背後から狙ってきた別の敵にも素早く反応し、その剣を受け流して逆に刃を突き立てた。
彼らの攻撃が激しさを増す中、レナート様は冷静かつ圧倒的な力で応戦し続け、敵を次々と打ち倒していった。
そのとき、わたしの背後から忍び寄ってきた敵が、剣を振り上げ、わたしに向かって斬りかかろうとした。
「セレイア!!!!」
その瞬間、レナート様はその名を叫び、わたしを庇うように前に立ちふさがった。
驚きと混乱の中で、わたしは動くことができず、ただ呆然と座り込んでいた。
(なぜ……?)
わたしはオルセニア王国では『セリー』と名乗り、『セレイア』という名は明かしていない。
けれど、レナート様は『セレイア』と、わたしの本当の名を叫んだのだ。
レナート様の剣と敵の剣がぶつかり、その衝撃に敵の剣先がレナート様の仮面に当たった。仮面は鋭い音を立てて割れ、地面に落ちた。
レナート様は素早く敵を打ち倒し、わたしの無事を確認するように振り向いた。
朝日に浮かんだ彼の顔を見て、わたしはあまりの驚愕に目を見開いた。
わたしの目の前には、ここにいるはずのない彼が立っていた……。
「ロベルト様…………?」