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翌朝、わたしは緊張しながらベアトリス様のもとへ向かった。昨夜のことで、わたしの素性が露見してしまったのではないかと心配しつつ、ドアをノックし彼女の私室へ入った。
部屋の中では、ベアトリス様は朝の支度を整え、元気な笑顔でわたしを迎えてくれた。
「おはよう、セリー。今日はお庭で遊べるかしら」
「おはようございます。ベアトリス様。はい、今日はお天気も良いので、お庭で楽しく過ごせると思います」
いつもと変わらない光景に、わたしは心の中で安堵のため息をついた。
レナート様もいつもと変わることなくその場に立っていた。わたしは彼に近づいて、改めて感謝を述べた。
「レナート様、昨夜はありがとうございました」
「ああ。今後は十分気を付けるように」
「はい……」
わたしたちがそう話していると、ベアトリス様がレナート様に尋ねた。
「セリーに何かあったの?」
「酔った騎士に言い寄られていた彼女を部屋へ送っただけですよ」
「まあ! セリーは綺麗なんだから油断したら駄目なのよ!」
まるで娘を叱る母のような口調でわたしにそう言うベアトリス様の姿に、その場は和やかな空気に包まれた。
「はい、承知しました。気を付けますね」
変わらない穏やかな日常に、わたしは心の中で感謝した。
「さあ、朝食に参りましょう」
わたしはベアトリス様をダイニングルームへと案内した。
使節団との協議は王城の西翼にある大会議室で行われるため、王族の居住区である東翼にエレンデール王国の者が立ち入ることはないが、護衛の騎士たちが食堂を利用する可能性を考え、わたしは軽くつまめる昼食を用意してもらい、宿舎の裏の小さな庭園で昼食を摂っていた。
ベンチに座り、サンドイッチを一口頬張った。オルセニア王国のパンは、エレンデール王国のものよりもふっくらとした食感がある。具材はシンプルでありながら、こちらならではの風味がしっかりと感じられる。オルセニアの味にもすっかり慣れ、このサンドイッチもとても美味しく感じる。
そのとき、わたしの名を呼ぶ声が宿舎の方から近づいてきた。顔を向けると、そこにはマルゴが立っていた。
「セリー、少し話してもいい?」
彼女はにこやかに笑いながら、普段よりも穏やかな声で話しかけてきた。いつもと雰囲気が違うマルゴに少しの違和感を覚えるが、わたしは気にせず、彼女を促した。
「もちろんよ、マルゴ」
彼女はわたしの隣に腰を下ろし、少しの間静かに庭園を見渡してから口を開いた。
「セリー、この前、レナート様と街へ出かけたんでしょう? 実はわたしもずっと休みを取っていないから、次の休日に街へ出掛けるつもりなの。でも街にはあまり詳しくないから、よかったら案内してもらえないかと思って」
マルゴの誘いに、一瞬驚きながらも、温かい気持ちが胸に広がった。彼女は先の戦争で夫を亡くした悲しみを内に秘め、普段はあまり多くを語らない。
「わたしも詳しくないけれど、この前行った辺りなら案内できると思うわ。それでもいいかしら」
わたしがそう答えると、マルゴは嬉しそうに笑った。
「ありがとう、セリー。じゃあ、次の休日は合わせましょう。楽しみだわ!」
マルゴの明るい笑顔に、わたしも笑顔で頷いた。
「わたし、用事があるから先に戻るわね」
マルゴはそう言って城内へ戻って行った。
***
マルゴとわたしは同日に休暇を取り、街へ向かう準備を整えた。マルゴは久しぶりの休日をとても楽しみにしている様子だった。
二人で宿舎を出て、街へ向かう馬車に乗り込んだ。
「まずはマーケットに行ってみたいわ。 新しいお店がたくさんあるらしいの」
「ええ、いいわよ」
マルゴの提案に、わたしは微笑んで答えた。
街へと向かう道中、窓の外を流れるオルセニアの風景を楽しんだ。レナート様と出掛けたときは、緊張からか風景を眺める余裕さえなかったことに気づいた。
「セリー、今日わたしと出掛けること、誰かに話した?」
「え? 特に言ってないわ。どうして?」
「わたし、いつもレベッカとエリサに良くない態度を取ってしまっていたから、お詫びの気持ちとしてお土産を渡そうと思っているんだけど、迷惑かしら」
マルゴは気まずそうにうつむきながら言った。
「そんなことないわ。レベッカもエリサもきっと喜ぶわ」
街に着くと、まず賑やかなマーケットを訪れた。様々な露店が並び、色とりどりの品々が目に飛び込んでくる。
「見て、あの布地! すごく綺麗ね」
マルゴが興奮気味に言って、店主と楽しそうに話し始めた。今日の彼女は普段と違いとても饒舌だ。
「セリー、あの露店に寄りたいわ!」
「わかったわ」
マーケットを楽しんだあと、わたしたちはカフェに入った。レナート様と行ったカフェとは違って、より気軽で手頃な価格のお店だ。
わたしたちは窓際の席に座り、ゆっくりとくつろぎながらおしゃべりを楽しんだ。
「セリー、街を案内してくれてありがとう。とても楽しいわ」
「こちらこそ、マルゴと一緒に過ごせて嬉しいわ」
カフェを出たあと、古い書店やアンティークショップなど、さらにいろいろな場所を巡り街歩きを楽しんだ。
「セリー、最後にもう一軒だけ寄ってもいい? お手頃なアクセサリーのお店なんだけど、裏通りにあるらしいの」
日が傾き始めたころ、マルゴに帰路につくことを提案すると、彼女は名残惜しそうに、そう言った。
マルゴの言葉に、わたしは一瞬躊躇した。裏通りはあまり治安が良くない。レナート様にも、決して行かないように言われていた……。
(でも、水を差すのも悪いし……)
「わかったわ。それならそのお店に寄ってから帰りましょうか」
大通りの賑やかさを背にし、わたしたちは裏通りへと進んだ。薄暗く人通りもない路地に入ると、マルゴはどんどん先に行ってしまった。
「マルゴ、だんだん静かになってきたけれど、本当にこんなところにアクセサリーのお店があるの?」
わたしがそう尋ねると、先を歩いていたマルゴは足を止め、振り返って言った。
「ないわよ。そんな店」
「え……?」
わたしが驚いて立ち止まったとき、突然背後から現れた何者かに口を塞がれてしまった。声を上げようとするも、きつく押さえつけられて声が出ない。必死にもがき抵抗するわたしの耳元で、低い声が囁いた。
「静かにしろ。騒げば命はないぞ」
わたしは引きずられるように、その先に停まっていた馬車の中へ強引に押し込まれた。
冷たい汗が背筋を這い上がる。恐怖に震えながらマルゴを探すと、彼女は平然と馬車に乗り込んできた。
「んー、んー」
声にならない声をあげたわたしを、マルゴは鋭い視線で睨みつけた。彼女の目は憎しみと深い悲しみを物語っていた。
わたしの心臓は激しく鼓動し、不安と恐怖が全身を包み込んだ。