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丘の頂上からは広がる青い海が一望できる。穏やかに打ち寄せる波、太陽の光を受けてキラキラと輝く海面。
丘の斜面には緑豊かな草原、空は雲ひとつなく青く澄み渡っている。
太陽の暖かい光と心地よい風が頬を撫でる。
遠く離れた対岸に見えるのは、母国であるエレンデール王国。
エレンデール王国とオルセニア王国は陸続きで隣接しているが、海岸線が大きく湾曲している地域からは、海を挟んで互いの国が見えるのだ。
「セリー! 見て見てー!」
長い金髪を揺らしながら、深青の瞳の幼い少女が、わたしに向かって駆け寄ってくる。
「まぁ! 綺麗なお花ですね。お部屋に飾りますか? それとも押し花にしましょうか?」
「押し花がいいわ。そうしたら栞にしてずっと使えるもの!」
「かしこまりました、ベアトリス様。では帰って一緒に作りましょうね」
わたしが侯爵家を出てすぐ、エレンデール王国とオルセニア王国の二国間では和平条約が締結された。
わたしはそのどさくさにまぎれ海を渡り、敵国であったオルセニア王国の地にたどり着いた。そして、運よく王宮メイドとして働くことができ、さらに、第二王女であるベアトリス様の専属メイドのひとりになることができた。
和平条約が締結されたとはいえ、エレンデール王国にとってオルセニア王国は元敵国。わたしはエレンデール王国民であることを隠し、オルセニア王国民だと偽っている。
「セリー、またここからの景色を眺めていたの?」
ベアトリス様が、わたしの手を握って、どこか心配そうな声で訊ねた。
わたしは対岸に見える母国を見つめ、答えた。
「ここからの眺めが好きなんです。この広くて大きな海を見ていると、心の中の蟠りが解消されるような気がします」
「わだかまり? モヤモヤした気持ちってこと? セリーにそんな感情があるの?」
「ええ、ありますよ。そうですね……、例えば、どうやってベアトリス様に人参を食べさせようかと企んでいます」
「キャーーー!」
ベアトリス様は笑い声を上げ、わたしから逃げるように駆け出した。わたしも笑いながら彼女を追いかける。二人の笑い声が風に乗って広がり、丘の上の静かな空間に響き渡った。
「あっ……!」
ベアトリス様を追いかけていると、足元の小さな石に躓き、わたしの体が前に倒れかけた。けれどその瞬間、強く逞しい腕がわたしをしっかりと受け止めた。
「君は意外とそそっかしいな」
低く鋭い声が耳元で響いた。顔を上げると、そこには目元を覆う仮面をつけた、金髪の騎士様が立っていた。
「も、申し訳ございません、レナート様。ありがとうございます……」
わたしは戸惑いながら礼を言ったが、彼はその腕を離すことなくわたしを支えていた。
「あ、あの、もう大丈夫ですから……」
姿勢を正そうと彼の腕をそっと押すと、彼は軽くため息をつきながらわたしを解放した。
「気を付けるんだ。君が怪我をしたら他の者の仕事が増える」
そう注意され胸に小さな痛みを覚えるが、わたしは慌てて頭を下げ、再度謝罪を述べた。
「セリー、大丈夫ー?」
ベアトリス様が駆け寄ってきて、わたしにギュッと抱き着いた。
「ええ、大丈夫ですよ、ベアトリス様」
わたしは優しく答え、彼女の頭をそっと撫でた。
「レナート、そんな言い方をしたらダメよ? わたくしの近衛なら、レディにはもっと優しくしなきゃ!」
ベアトリス様は、幼い子供に言い聞かせるようにレナート様を窘めた。すると彼は、わたしをじっと見つめたあと、フイッと顔を背けた。
一瞬の気まずさが過ぎ、わたしは気を取り直して言った。
「ベアトリス様、そろそろ帰りましょうか」
「うん! レナート、抱っこして」
ベアトリス様は近衛騎士である彼に向かって両手を広げた。彼は口元で微笑みながら彼女を抱き上げ、その小さな体をしっかりと支えた。
ベアトリス様を抱えたレナート様と並んで歩き出す。まるで幸せな家族のようなその光景に、わたしの胸には言いようのない寂しさが広がった。
それは、かつてわたしが夢見たものだった。
(彼と家庭を築くことができていたら……)
わたしは振り返り、遠くの母国を再び見つめた。彼への未練が消えてくれることを願っているのに、その想いは薄れることなく、心はいつまでも彼に囚われている。
***
ベアトリス様の私室は穏やかな午後の日差しに包まれていた。
「あらあら、ベアトリス様は眠ってしまったのね」
レナート様に揺られて心地よかったのか、ベアトリス様はいつの間にか可愛らしい寝顔を見せていた。
「こんなに穏やかなベアトリス様を見るのは久しぶりだわ。お母様を亡くされてからずっと寂しそうだったから……」
ベアトリス様の顔を覗き込んだメイド長が、優しく微笑んだ。
「ベアトリス様のお母様である側妃様は、とても美しくて優しい方でね。セリーはどことなく側妃様に似ているわ。だから、ベアトリス様もあなたに対して特別な親しみを感じているのかもしれないわね」
その話を聞き、わたしは心が軽くなるのを感じた。
妻として望まれなかったわたしを、ベアトリス様は必要としてくれている。そんな彼女の存在はわたしにとって大きな救いだった。
ベアトリス様をベッドに寝かせたところで、その場にいた全員が深く頭を下げた。
「トリスはお昼寝中?」
部屋に入ってきたのは、オルセニア王族の特徴である光り輝く金髪と深青の目を持つ美丈夫、第五王子であるジョシュア殿下だった。ベアトリス様とは年の離れた異母兄妹だが、二人はとても仲がいい。
「ジョシュア殿下、いかがなさいましたか」
メイド長が尋ねると、ジョシュア殿下はチラッとレナート様に視線を送ったあと、笑みを浮かべ言った。
「君たちの中に明日休みを取る予定の者はいる?」
ジョシュア殿下の言葉に、周囲の人たちはお互いを確認し合いながら首を振った。
何か特別な用事があるのだろうか。わたしが躊躇いつつ手をあげると、ジョシュア殿下はわたしの前に立ち、一枚のチケットを渡した。
「これを君にあげよう」
「え?」
「オルセニアン劇団の特別公演のチケットだよ。明日、王都劇場で開催されるんだ。ぜひ楽しんでおいで。もう一枚はお前に。エスコートは頼んだぞ?」
ジョシュア殿下はレナート様の肩をポンポンと叩き、彼にチケットを渡した。
「いや……殿下、しかし私は……」
レナート様は困惑している様子で、視線を下に落としチケットを見つめていた。仮面の奥で思案しているのが伝わってきた。
「オルセニアン劇団のオーナーは俺の友人なんだ。チケットをもらったんだが、生憎俺は忙しくて行けそうにない。だから君たちに託すよ。素晴らしい時間を過ごしてくれ」
ジョシュア殿下は手を振りながら、ベアトリス様の私室を去って行った。
メイド長に促されたわたしとレナート様は、休憩室のテーブルに向かい合って座っている。
(非常に気まずい……)
わたしは雰囲気を変えようと、明るい声で言った。
「レナート様、もしよろしければ、わたしがいただいたチケットをお渡ししますので、別の方とご一緒に行かれてはいかがでしょうか?」
「ジョシュア殿下からチケットを譲り受けたのは君だろ?」
レナート様を気遣ったつもりだったが、彼はその提案に低い声で答えた。
「でも……」
そこまで言って、わたしは言葉に詰まった。
(わたしと一緒に行くのは嫌でしょう……?)
レナート様は寡黙だけれど、決して冷徹な人ではない。けれど、わたしはそれに当てはまらない。
わたしはあまりレナート様に好かれてはいない。普段の彼の態度は、それを如実に物語っている。
次の言葉が見つからず黙り込んでいると、レナート様がおもむろに言った。
「明日の正午に裏門前でいいだろうか?」
「え?」
「早いか?」
「い、いえ。あの、わたしでいいのですか?」
「君は俺が相手では不服なのか?」
「と、とんでもありません!」
「そうか……。ではそれで頼む」
レナート様は席を立つと、急ぎ足で休憩室を出て行った。
「あの……」
彼を引き止めようと手を伸ばしたが、わたしの手は届かなかった。そうして、わたしは明日の休日をレナート様と共に過ごすことになったのだ。