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 その部屋は、シンプルながらも質の良い家具が配置され、静かで品格のある落ち着いた空間だった。


 窓辺には、部屋の主人である女性がぼんやりと外を眺めていた。彼女は長い髪をゆるくまとめ、シンプルなグリーンのドレスを身にまとっている。


 窓の外には、どんよりとした厚い雲が広がり、今にも雨が降りそうな気配が漂っている。遠くの木々が風に揺れ、葉がささやくような音がかすかに聞こえてくる。


 彼女の手には、一枚の小さな肖像画が握られていた。そこには、黒髪に紫の瞳を持つ礼装の男性と、栗色の髪にグレーの瞳を持つヴェールドレス姿の自分が描かれていた。


 そのとき、ドアをノックする音が響き、彼女は「どうぞ」と応じた。


 部屋に入ってきたのは、この邸の新しい執事長である若い男性。彼は先代の執事長の息子で、父親からその職を引き継いだばかりだった。


 彼が持つトレーの上には、上質な紙でできた一通の手紙が置かれていた。


「奥様、お手紙が届いております」

「ええ、そこに置いておいて」


 執事長はテーブルの上にそっと手紙を置き、静かに部屋を去って行った。


「初めてね……」


 彼女はテーブルの上に置かれた手紙を見てつぶやいた。


 机の引き出しからペーパーナイフを取り出し、その封を開けた。


 震える手で取り出した便箋には、彼女の願いとは裏腹に、彼女の予想通りの内容が書かれていた。





 ***





「セレイア、お前の嫁ぎ先が決まった……」


 父であるヴォンヘルム伯爵は、登城して帰ってくると、すぐに執務室のソファーに項垂れた。彼の顔には疲労の色が濃く、重い決断を下したことが窺えた。わたしに告げたその声は、いつもよりも低く、重々しかった。


「相手はロベルト・アシュフォード第二騎士団副団長だ」


 その名前を聞いた瞬間、わたしは息をのんだ。ロベルト・アシュフォード第二騎士団副団長といえば、アシュフォード侯爵家の嫡男であり、文武両道で、容姿端麗、誰もが憧れる雲の上の人だったからだ。


 彼の名は広く知られており、その勇敢さと知性は多くの人々に尊敬されていた。


 しかし、父は項垂れたまま、深い溜息をついた。その姿は、己の無力さを痛感しているようだった。


「すまない、セレイア……。アシュフォード副団長は、前線に派遣されることが決まっている」


 父がそう言うと、隣に座っていた母は寂しそうな笑顔を見せた。その目は潤み、今にも泣き出しそうな表情だった。



 我がエレンデール王国は隣国オルセニア王国と戦争中だ。王都にはその影響は及んでいないが、前線では激しい戦闘が繰り広げられている。戦況は一進一退を極め、終戦までの見通しは依然として不透明だと言われている。


 つまり、わたしは結婚してすぐに夫を戦場へと送り出し、いつ帰るのかわからない夫を待ち続けなければならないのだ。


「王命でなければ……」


 父は悔しさを滲ませつぶやいた。その声には、娘を守れない父親としての無念さが込められているように感じた。


「お父様、お母様、ロベルト・アシュフォード様は陛下の甥。我がヴォンヘルム伯爵家が王家に連なる名家と縁づくことは大変名誉なことです。わたくしは喜んでロベルト様と結婚いたします」



 この結婚は王命によるもの。断ることはできない。おそらく出征前に甥を結婚させたかった陛下の意向なのだろう。ロベルト様にとって不本意なものであるが、彼はその命に従うしかなかったのだ。





 ***





 結婚の準備は急速に進められ、わたしたちは結婚した。そして結婚式を挙げた翌日、わたしは夫となったロベルト様を戦場へ送り出した。


 わたしが十六歳、ロベルト様が十八歳の時のことだった。


 以来、五年という月日を、わたしはこのアシュフォード侯爵家の別邸で過ごしてきたのだ。






 出征したロベルト様からは、手紙の一通も届くことはなかった。


 手紙の代わりに届いたのは、ロベルト様にはわたしと結婚する前から恋人がいて、彼女を戦地へと連れて行ったという噂だった。


 ロベルト様の恋人は身分が低いため、陛下は二人の結婚を認めなかった。


 しかし、恋人との結婚を諦められない彼は、それを褒賞にしようと考え、最前線に行くことを決意した。


 そして、彼は先日大きな武勲を立て、王都への帰還が決まったのだ。


 戦場から届いた初めての手紙には、こう書かれていた。



 ——間もなく戻る。大切な人を連れて帰る。その邸を出てくれ。






 わたしは執事長にその内容を伝え、侯爵邸を出る準備を始めた。


 執事長を始めとする使用人たちは、皆、驚きと同情の表情を浮かべていた。彼らは夫に愛されない形ばかりの妻であるわたしに対して、いつも親切に接してくれていたのだ。



「奥様、お支度をお手伝いいたします」


 荷物の整理を始めたわたしに、メイドが控えめに声をかけた。彼女の目には心配の色が浮かんでいる。


「大丈夫よ。もともと荷物もそんなにないもの。ひとりで出来るわ」


 わたしは微笑みながら答えたが、その声にはどこか寂しさが滲んでいた。


 わたしは侯爵家を出たら、どこか誰も知らないところへ行こうと考えていた。

 これからは全てひとりでやらなくてはならない。わたしは鞄に必要最低限のものを詰めた。


 宝石箱を開け、いちばん大切なものを取り出した。それは、ロベルト様から贈られたパープルサファイアのネックレス。これだけは持っていきたい。



 あなたを愛していた証拠として……。







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