お兄ちゃんの悪戯2
お兄ちゃんは中学生になると、悪たれの度合いが更に大きくなったらしい。さんざんやり散らかした悪戯の一つが、三年生の時の夏休みの美術の宿題だった。題材は自由、だが各人なりに芸術性を追求した水彩画を作成するように、というなかなか粋な課題だ。
そこで九月にお兄ちゃんが意気揚々と先生に手渡したのが、女の人のヌードの絵、題名は裸婦像、ずばりそのままだ。
僕はその絵を見たことはないけれど、お父ちゃんお母ちゃんによるとなかなか上手に描けていたらしい。あいつはあまり絵画の才能はないが、と言うのも全体の構成とか各部の均衡とかはいま一つだったからなんだが、しかしあの肌の色合いとか質感なんかの描写は見事だった、とお父ちゃん。ほりゃほだけどが、何の役にも立たんとろくさいことにばっかりエネルギー使っとって、大体ほんなとこ、誰に似ただん?とお母ちゃん。
教壇でその絵を受け取った先生は目を剥いて、教室の黒板の前、クラスの生徒達がずらりとこちらを向いて座っているにも構わず、何だこれはと詰め寄ったそうだ。お兄ちゃんは、これは模写です、ルノワールの有名な絵を描き写してみました、ほら、リュクサンブール美術館所蔵のその筋では有名な『まどろみの浴女』、先生ご存知でしょ、勿論本物を直接見て描いたわけじゃない、インターネットを利用したんです、とは言え芸術作品の模写作品ということで今回の課題の条件を十分満たしていると考えているのですが。
それにしてもだ、と先生、裸の女はよろしくないだろう。いやいや、とお兄ちゃん、少なくとも下半身は上手いこと隠してあるし、最低限のルールは守っているはずですよ。だが上半身は全部じゃないか、ちょっとは隠しても良かろう。隠す?ふむ、どの程度でしょうか?おっぱい一つくらいってことですか?そういう問題じゃない!しかし隠すのなら両方だろうな。ええ!おっぱいを二つとも?そんなもの、芸術にはなりませんよ、たわけたことを。おっぱいが描いてなくても立派な芸術作品があるだろう、ほれ、お前の好きなルノワールだったら『後姿の横たわる』ってのがあるじゃないか。ああ、ありますよ、だけどあれにはちゃんと大きなお尻が描かれているじゃないですか、尻ならいいんですか、尻なら?とろくさいことを言うな!しかし、大体お前のこの絵の背景、あまりフランスっぽくないが、これはどういうことだ?いや、はあ、それはですね、折角の入浴場面なんだし、それなら温泉が、それも露天風呂がいいと思いまして、そうするとフランスの温泉保養地がどういうものかということになりますが、寡聞にして存じておりません、そこでちょっと背景だけ日本風にアレンジしてみました、それくらいは勘弁してもらってもいいと思いますよ、ほら見てくださいよ、こういう風にするとゴッホが模写した浮世絵のような趣がありませんか?今度はゴッホか、そんなことはどうでもいい!俺が言いたいのは、年相応の中学生らしい絵を描いてこいということなんだ。へえ、中学生らしい?これ、中学生らしくないかなあ、中学生(の少なくとも男子生徒)は皆こういうの、好きだと思いますよ、皆好きならそれこそ中学生らしいということになるんだが、しかもこれルノワールですよ、リュクサンブール美術館所蔵の芸術作品―――の模写ですよ、ちょっとアレンジしてはあるけど、先生が何をそんなにこだわってみえるのか、分からんなあ、云々
何とか美術館の何やらという有名な絵画なんて知らないし、芸大で現代絵画ばっかりやっていた先生は有効な反論もできず、しぶしぶながら受け取らざるを得なくなったお兄ちゃんの提出物を他の生徒達の作品とともにそそくさとカバンに仕舞い込み、自分達にも見せてほしいとわいわい騒いでいる生徒達を尻目にほうほうの体で職員室へと撤退した。
さて、ここで臨時の職員会議だ。果たしてこれは中学三年生の夏休みの課題提出物として妥当か否か、当然のことながら各先生方の見解は、特に女の先生方においては、認められないという意見が大多数、認めざるを得ないのではないかという少数意見も、その絵が本当に高名な画家の傑作の模写であるとしたならば、という条件付きだった。では、これがその傑作の模写であるかどうかという段になると、どうもよく分からない。美術の先生はご存知ないし、パソコンでいろいろ検索してみても見つからない。『まどろみの浴女』なんてどこにも出てこない。しかしだからと言って存在しないとも言い切れない。有名な画家なんて、生涯に数多くの作品を描いているに違いないのだ。たかが日本語だけで検索し、それで出てこないからと言ってその作品が存在しないとは断言できないのだ。ではフランス語を使って検索するか?残念ながらフランス語が達者な先生はおられない。まあ、下手にアルファベットを使って検索したりして、妙なサイトに引っ掛かったりしたら目も当てられない。さあどうしよう。
全員が頭を抱えてしまった時、お兄ちゃんの課題提出物をながめていたある若い男の先生が、ちょっと待ってくださいよと言ってパソコンのキーを叩き始めた。周りの先生方は、彼のその手慣れた高速ブラインドタッチを見て、驚きとともにこれはもしや、という希望を持った。その軽やかで速くよどみのない調子の、チャッチャチャチャッチャというような静かな音を聞いていると、いやが上にも期待が高まる。
やっぱりこれだ、とその先生は最後にエンターキーをぱしっと叩き、右手を斜め上にさっと上げて見得を切った。と、そのパソコン画面に現れたのはあのお兄ちゃんの絵とほぼ一致する―――綺麗な裸のおねえさんがどこかの温泉宿の露天風呂見たようなところで湯船にしなだれかかっている写真だった。この画像、お兄ちゃんの絵にそっくりで、おねえさんの肌の色合いと質感だけルノワール風とやらになっているみたいだけれど、人物の姿勢やその配置、全体の構図から背景まで全く同じだったのだ。
そしてこの写真、当然ルノワールの作品なんかではなく、その上名画の類でも勿論なく、いわゆるエッチな動画の一場面、その動画の題名はご丁寧にも『まどろみの欲情』という手の込んだもので、いや、手が込んでいるのはお兄ちゃんの方なんだけど―――。
この女優さんは、その筋では有名な人で――実は僕も知っている――お父ちゃんのコレクションに確か何本もあったはずだ。きっとお兄ちゃんはそれを見たに違いない。いずれにしてもお兄ちゃんの嘘はこうしてばれてしまった。その発見をした先生は意気揚々としていたんだけれど、若い綺麗な女の先生から、でもよくご存知でいらしたんですね、と真正面から笑顔で言われ、たちまち小さくなってしまったそうだ。
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