花いかだ
あんたと出会って桜の咲く季節を迎えるのは何度目やろう。今年は寒い日が続き、造幣局の通り抜けも例年より遅くなったけど、一週間もすると桜はすっかり散ってしまうでしょうね。今年は一人で天満橋の上から桜を見てます。あんたは満開の桜より、散り際の桜が好きでしたね。あんたと知り会うたんが、うちの運の尽きかも知れません。橋の下の遊歩道には人が溢れ賑やかです。二重橋の上は車が渋滞していて車を運転している人も窓から桜を見てるのでしょうか。車の走行する音が聞こえません。去年はあんたと二人であの遊歩道歩いてました。普段、大川に浮かんだ花びらが天神橋へと揺らいで流れています。中之島の中州を経て安治川、木津川に分かれ再び合流して大阪湾まで運ばれた後、どこに行き着くんでしょうね。
葉桜が茂り、夏になったら天神祭りですね。初めての夜をはっきりと覚えています。環状線の天満駅で降りたらえらい人混みでした。天神祭りに行くのが嬉しくって新しく買うた浴衣着て改札であんたを待ってました。
改札を出てきたあんたはうちを見て言いました。
「浴衣着て来たんかいな」
「あかんかった」
「いや、よう似合うとるで」
うちは嬉しくて下駄をカコカコ鳴らして、あんたについて行きました。
商店街の店先に露店も出てえらい人混みやった。うちが金魚すくい見つけたら、あんたは顎をしゃくりました。
「やるか?」
店番のおばちゃんからアルミのお椀と掬い紙を二つずつ受け取り、カップルや子どもたちのへばりつく水槽に並んでしゃがみ、金魚を掬い始めたけど、あんたは大きい琉金ばっかり追い回すから掬い紙はすぐに破けてしまい、後ろに立ってうちのこと見てました。うちは小さい頃から金魚掬いが得意でした。
「金魚と水を一緒に掬うたらあかんねんで」
そう言いながら金魚を乗せた掬い紙を斜めにして水を流すわたしを見てました。
「そうか、上手いもんやな」
あんたは真っ赤になったうちが持つお椀覗き込んで言いました。
うちが破れた掬い紙とお椀返した時、店番のおばちゃんに耳打ちされました。
「浴衣の合わせが反対やで……」
浴衣の前を見たら右上になってた。慌てて出掛けてきたから、いつもの洋服着るように女前にしていたのに気づきませんでした。
「どうした?」
あんたに聞かれて、うちは顔が熱くなりました。
「浴衣の合わせが反対やねん」
あんたはうちの顔見て笑ってました。
「そんなんかめへんし……」
それでもうちは恥ずかしくって左を歩くあんたの右腕にしがみ付いて離れることが出来ませんでしたけど、あんたの腕が胸に当たる度、全身から汗が噴き出してました。
「女はな脱がせてもらうもんなんや」
脱がせてもらうもん……、あんたの言う言葉の意味は分からんまま頷いてました。
天神橋商店街抜けて曽根崎通りに出たら車が渋滞してました。ポーン、ポーンと大きな音が聞こえ顔を上げると、花火で夜空が彩られていました。
信号を渡り、天満宮でお参りして境内の露店で買うてくれたのは真っ赤なりんご飴でした。人波に流されるまま天満橋まで歩きました。大川沿いも露店が仰山出ていて人が溢れ、まともに歩けませんでした。大川には船渡御の船が行き交い提灯が揺らぎ、夜空に咲いた花火が川面を照らしていました。
花火に見とれて気づかなかたのですが、慣れない下駄履いて、長い時間歩いたうちは下駄の鼻緒の辺りに痛みを感じていました。街灯の下で足を見ると、鼻緒の辺りが擦り剝け血が滲んでいます。あんたに寄りかかり足を引きずっていました。
「大丈夫か? そこのコンビニで絆創膏買うてくるわ。ここで待っとり」
あんたはそう言って、首を横に振るうちを無視してコンビニに走っていったまま、中々戻ってきませんでした。足は痛いし、人混みに流されそうで不安でした。うちは肝心な時にいつも足を擦り剝いてしまいます。
あんたは戻って来ると道路に跪いて、中指に唾付けて足の擦り剥けをなぞりました。
「唾は殺菌作用があるんや」
汚いとは思いませんでしたが、あんたの唾は痛くて顔を顰めてしまいました。
「痛い」
「俺の唾は殺菌作用が強いからな、良薬は口に苦しや、そこまで歩けるか? こんなんやったらタクシーも止まらんやろしな」
谷町筋は車が渋滞していて、全く動きません。あんたは駅とは反対の人気の少ない民家に続く辻を指さした。
「ここに居とり」
うちはそう言われ、片足上げて電信柱に凭れ掛かってあんたの後ろ姿を見ていると、民家の路地から自転車を引きずり出してました。
「そこに放ってあったんや」
「そんなことないし」
「ほんまやし、ごちゃごちゃ言わんと後ろ乗れ」
「そやけど……」
「後ろ乗れ言うとんのや!」
うちは何も言えんようになってしもうて荷台に横座りすると、あんたは自転車を押して歩き出しました。
「二人乗りやあらへんから、止められることもないやろ。怪我人の搬送や」
それがあんたの言い分でしたが、警官とすれ違う度、うちは心臓が飛び出しそうでした。
谷町六丁目辺りまで来ると、浴衣姿の人も少なくなって、国道を走る自動車もスムーズに流れていました。
「賑やかなんもええけど、俺は祭りの後が好きやな。どうや、痛いか、歩けるか? 地下鉄の階段も降りられへんやろう。俺の部屋までタクシー乗って帰ろうか」
部屋まで帰ろうかと言われ、どぎまぎしましたが、足は痛いし、うちのマンションはまだまだ遠いし、あんたに見放されたらどうしょうと思い頷きました。
あんたはタクシーを止めるために車道に身体を乗り出しましたが、どれもこれも乗車していて中々タクシーは止まりませんでした。どのくらい立ってたやろ。タクシーが捕まるまで、あんたの言葉に頷いたのを後悔するやら、あんたにならこの身を任せても構わないと思い直したりしてました。
やっと乗車出来たタクシーの中で大きな手を握り締めると、あんたは力強く握り返してくれました。ルームミラーの中で運転手さんと視線が合い、意味もなく恥ずかしくなり、手を振り解こうとしても、あんたはずーっと握りしめたままでした。
幹線道路を右折してコインパーキングの前でタクシーを降りて下駄を引きずるうちの前に、あんたは背中を向けてしゃがみ込みました。コインパーキングの街灯があんたの背中を煌々と照らしてました。
「おぶったろ」
浴衣の裾ははだけるし、汗ばんだ身体でおんぶされるのは嫌やけど、広い背中に頬を当てると幸せでした。
部屋はワンルームで片付いているようには見えんけど、玄関には下駄箱に靴が並べられていたし、シンクには洗い物が少し残っていましたが、小さなテーブルとソファーベッドがあり、男の独り暮らしとしては綺麗な方だと思いました。
「シャワー浴びるか? 棚にタオルもあるし、着替えは……、うーん」
あんたは悩んだように唸り続けました。
「俺のスウェットでも着とけ」
「あのワイシャツ借りてもええ」
うちは窓のカーテンレールに掛けてあるハンガーを見て言いました。
「シャワーあそこや。その上にタオルもあるから勝手に使こうたらええ」
あんたが指さした廊下にある扉を開けると、トイレと風呂場が一緒になっていて、棚にタオルも数枚畳んでありました。
うちは白地にブルーストライプのワイシャツを手に取って、ユニットバスに入りました。
シャワーを浴びて部屋に戻ると、あんたは点けたばかりの煙草を灰皿に押し当てました。
「俺もシャワー浴びて来るわ」
することもなく、うちはワイシャツの一番下のボタンをクルクルと弄んでいました。
トランクス姿で出てきたあんたはタオルで頭を拭きながら、うちの前に座り手を退けるとワイシャツのボタンを外し始めました。
「合わせが反対か……、洋服の打ち合わせに女前があるんはな、脱がしてもらうからなんやで」
上からボタンを外され、身頃を合わせて隠してたけど、下から二つ目のボタンが外れた時、性毛が見え恥ずかしくワイシャツの裾を両手で重ねると、胸がはだけてしまいました。
「電気消して……」
あんたがリモコンで照明を暗くすると、うちは目を閉じてソファベッドに横になりました。
うちの胸に顔埋めておっぱいに吸い付くあんたを赤ちゃんみたいやと思いながら、まだ濡れたままのあんたの髪の毛に触れましたがその後、どうしたらいいのか分からず、両腕を身体の横にしていました。あんたの手が性毛の上を滑り、小さな突起に触れられると身体が無意識に反応しました。
「初めてか?」
うちが小さく頷くと、心なしか手の動きが優しくなったような気がしました。あんたが入ってくると、痛みを耐えるのに無我夢中でその後のことは何も覚えていません。朝起きても、あんたまだうちの中に入ったまんまのような違和感がありましたが、横を見るとあんたは小さな鼾をかいていました。
一回、ミナミの三津寺にあるカラオケバーに連れて行ってくれましたね。カウンターの中には女の人が二人居てたけど、あんたの前に立ったパーカーを着た髪の長い女の人が時々、うちを睨むように見てました。狸顔のうちと違って鼻筋の通った狐顔の綺麗な人やった。あんたがその女の人とずっと話してるから、うちは手持ち無沙汰でグラスを弄んでいると、うちが一人できているのかと思ったのか、隣に座っていた無精ひげの男の人にデュエットしないかと誘われました。
「何か一緒に歌いません?」
うちはドギマギしてあんたを見た。
「デュエットしたらええがな」
あんたが言うと「なんや、連れおったん。ごめん。ごめん」と無精ひげの男の人が言うたけど、狐顔の女の人がうちの前にマイクを置き囃し立てました。
「歌うたらええやんか」
そう言われると無精ひげの男の人がうちにリモコンタブレットの画面を向けました。
うちはあんたの様子を窺いながら、ロンリーチャップリンを歌っていましたが、あんたは知らん顔で狐顔の女の人と話していました。一時間くらいその店にいて外に出ると、ホステスさんらしい女の人と腕を組んで歩く男の人が沢山いました。うちが歩けなくなるとおぶってくれるけど、人前では手も繋いでくれません。あんたも狐顔の女の人と楽しそうにミナミの街歩いてるのかなと思いました。
「なぁー、あんた、狐と狸どっちが好き?」
「なんや急に、変なこと聞いて」
「ううん、別に何でもあらへんねんけど、なぁーどっち?」
あんたは眉間に皺を寄せ、不思議そうにうちを見ました。
「そやな、狸かな、愛嬌あるしな」
あんたは寿司屋さんの店先に置いてある信楽焼の狸を見て続けました。
「狸は金玉もでかいし」
「うち、金……、なんか」
うちは言葉を続けられず、口に手を当てましたが、嫉妬心を抱いているのが分かったようであんたは笑っていました。
「ラーメンでも食べて帰るか」
そう言い、畳屋町を南に歩いていくあんたの腕にしがみ付いていました。ネオンに照らされ色を変えるあんたの顔を見上げても、何を考えているのか分かりません。
宗右衛門町を出るまでに悲鳴がして視線を向けると、チャイナドレスを着た外国人女性が道路に倒れて、男の人が覆い被さり平手打ちをしています。女の人が泣き叫んでいますが何を言っているのかわかりませんでした。
「フィリピン人やな」
「何でわかるん?」
「たぶん、タガログ語や」
誰が通報したのか警察官の姿が見えると、二人は手を繋いで駆け出してました。警察官も後を追って行きましたが、その後どうなったのか分かりません。
「殴られてたのに何で一緒に逃げたんやろ?」
「不法滞在違うか? 捕まったら強制送還されるやろし、殴られてもあの男のこと頼りにしとるんやろ。男と女のことは本人同士でしか分からんことあるがな」
渋滞するタクシーと人波を縫うように歩いて、道頓堀川に架かる太左衛門橋の欄干に凭れ、あんたは川面を見ていました。
「ネオン映って華やかやろ。そやけど、昼間はどんよりとして、前か後かどっちに流れてるかも分れへん。明るい陽に照らされて見えんようになるもんもあるんやな」
覗き込むと真っ黒な川面をネオンが彩り揺らいでいました。
「一緒に暮らそか……」
あんたの言葉があんまり寂しそうやったから、何も考えずに頷いていました。親も兄弟も居らんから、誰にも相談せんで良かったし、不安もあったけど、あんたとずっと一緒に居られると思ったら嬉しかった。戎橋商店街でラーメン食べて近鉄難波駅から電車でうちのマンションに帰りました。男の人はおろか女友達も連れて来たことないから、隣近所の目がきになったけど、あんたは自分の部屋は狭いから言うて、翌日には荷物運びこんで居付いてしまいました。
一週間ほど過ぎた頃、二人で買い物に出た時、エレベーターの中で隣の部屋の女の人と一緒になりました。
「旦那さん?」
そう聞かれたけど、一緒に暮らし出して一週間ほどやし、婚姻届けも出してないし、うちは何も答えることが出来ませんでした。
「はい。よろしくお願いします」
うちが顔を上げると、あんたは女の人に頭を下げていました。一緒に暮らし出してあんたと呼ぶようになっていました。ちぐはぐな大阪弁やな言うて笑われてたけど、ちょっとは様になってきたかな、みんなあんたが教えてくれたんやで、あんたはすっかりうちの身体の中まで住み着いてしまいました。
熊本の孤児院で育ったうちは、高校卒業してすぐに大阪に出てきました。就職先は漬物を製造販売する会社でした。百貨店にも出店していて、うちはそこの販売員として働き出しました。食料品を扱うから化粧も控えめにと言われ、白いエプロンつけて売り場に立っていました。仕事が終わって私服に着替えても漬物の臭いが身体に滲みついている気がして仕事が嫌で嫌で仕方ありませんでした。心斎橋は毎日が祭りのような人出で、田舎暮らしのうちは圧倒されてばかりでした。
ある日、仕事帰りに御堂筋歩いて駅に向かってると、急に雨が降り出しました。周りの人は軒下で雨宿りしたり、地下街の入口に駆け出したりしてましたけど、うちは雨が身体の臭い洗い流してくれるんやないやろかとアホな考えでぼんやりしてたら、後ろから声かけられました。
「えらい、濡れてるやん。これ使い」
あんたはうちの手を持ち上げて、自分の差してるビニール傘を無理やり握らせると、あっという間に駆けて行ってしまいました。
近鉄難波駅のホームで雨に濡れたあんたを見つけましたが、うちのことなんか覚えていないようでした。
「これ、ありがとう」
ビニール傘を差し出されて、あんたはうちを見て笑いました。
「なんや、さっきの女の子かいな」
「わたしに傘貸したからこんなに濡れて」
うちはバッグからハンカチを取り出し、あんたのレザージャケットを拭こうとしました。
「かまへん。かまへん。こんなもん大したことあらへん。そやけど、あんなにゆっくり雨の中歩いてたら風邪ひくで」
あんたはうちの動作を手の平を広げて制止して雫を振り払いました。
うちは雨が嫌いやった。臭いが籠るようで、電車に乗っても漬物の臭いが車内に広がるようで、雨に流されてしもうたらええと思いながら歩いてました。同じ電車に乗ったけど、うちはあんたから少し離れるように立ってました。話すこともなくあんたはメールを確認しているのかスマホの画面を見ていました。あんたが鶴橋駅で降りるまでの時間を長く感じました。
電車を飛び出たあんたの姿が見えなくなるまで見つめ、気が付くと返すはずのビニール傘を右手にぶら下げていました。
翌日から、うちは雨降りでもないのにビニール傘を持って通勤して、仕事帰りに駅で探し始め、三週間後に改札を通り過ぎるあんたの姿を見つけました。横にストレートのロングヘアーの女の人が居て、声を掛けたら迷惑になるかなと後退ってしもうたけど、視線が合って近づきました。
女の人がビニール傘を見て笑ったような気がして、モゾモゾと後手にビニール傘を隠してしまいました。今日も傘を返せないかも知れません。
「ほな、また連絡するわ」
あんたが言うと女の人は踵を返し改札口に向かいました。その背中が見えなくなると、うちは傘を差し出しました。
「これ……」
「なんや?」
「前に借りたままになってたから」
「こんなもん、ええのに、この傘毎日持ち歩いてたんかいな」
黙って頷き傘を手渡しホームに続く階段を下りて行き、電車が入って来るとうちは駆け出し、飛び乗りました。
発車のベルが鳴って扉が閉まり横を見るとあんたが横に立っていました。
「一緒の方向やな、何処まで帰るんや?」
「俊徳道……」
「そうか、俺は鶴橋なんや。良かったらご飯でも食べて帰らんか?」
「さっきの人、彼女?」
「ちゃう、ちゃう、同級生や。偶然、難波駅で会うたんや。ミナミでバーやってるって、営業されたんや」
うちは意味もなく嬉しくなって頷くと、顔が火照っている自分に驚きました。
改札を出ると、焼肉の匂いと煙の中を縫うように歩くあんたの背中を追い掛けました。
千日前通りにある居酒屋の縄のれんを潜ると、カウンターにお客さんが溢れていました。あんたは店の人を見て左手の階段を指さし登り始めました。何処に連れて行かれるのかちょっと不安になったけど、二階は掘りごたつのようなテーブルが幾つも並んでいてお客さんが大勢いて料理に箸を伸ばして楽しそうにお酒を飲んでいました。うちらは一番奥の席に案内されて向かい合わせに座りました。
あんたの注文するのは、チャンジャ、チヂミ、ナムルとうちが初めて耳にする韓国料理ばかりでした。あんたは生ビールを飲んだ後、麦焼酎の水割りに代わっていましたが、うちはカルピス酎ハイを半分飲んだだけで身体が熱くなって、その後はウーロン茶を飲んでいました。熊本から出て来て一人暮らしをしていることと百貨店で食料品の販売していることなど、話しましたが、漬物売り場やとは言えませんでした。あんたの仕事は仲介業だというので不動産業者かなと思いました。
「今度の土曜、通り抜けなんやが行けへんか?」
「通り抜け?」
「造幣局の通り抜けや。夜桜が綺麗なんや」
「八時には仕事終われると……」
あんたはうちが言い終えるのを待たないで言いました。
「ほな、決まりやな、天満橋は渋滞するし、タクシーでライオン橋まで行って歩いたら間に合うやろ」
「ライオン橋?」
「ほんまの橋の名前は何ちゅんやろな、ライオンがおるんや」
「えっ、ライオン」
「ハッ、ハハハほんまもんのライオン違うがな、石像や、橋に狛犬みたいに二頭おるんや。仕事場まで迎えに行ったろか?」
少し考えて、仕事場の同僚に見られるのが恥ずかしい気がして首を横に振りました。
「八時半で御堂筋の道頓堀の橋の上やったらあかんかな」
「御堂筋か、それやったら堺筋の橋の上にしよ。タクシー乗ったら一直線やしな、八時半やな」
その後、携帯の電話番号を交換して駅まで送ってもらい別れ、部屋に戻ると、電話番号でLINEの知り合いかも通知が届いていました。
今日のお礼と楽しみにしていますと返信しその日は眠りました。
約束の日まで五日ありましたが、一度もあんたから連絡はなく、からかわれたのかとも考えました。それでも造幣局の通り抜けに誘われたのが嬉しくて、その日からカレンダーの日付けに小さなバツ印を付けてました。うちが浮かれているのは傍から見ても分かるようで、仕事場の人からもからかわれてました。
約束の日、仕事が終わって、更衣室で新しく買った口紅引いて、この日のために選んだニットワンピース着て、パンプス履いて時計見たら、急がんと間に合いません。
これから向かいます。少し遅れるかも知れませんとメール打って、心斎橋商店街横切って、清水町通り抜けて笠屋町から周防町まで来るとホステスさんやら呼び込みの黒服さんで道路ごった返していました。急いで走ったからパンプスの右のヒールが折れて転んで膝を擦り剝いはてしまいました。血が出てて恥ずかしいし、痛いけど、ハンカチで膝押さえて道頓堀の橋の上に着いた時にはハンカチが真っ赤になっていました。LINEを確認したら既読になっていませんでした。電話して帰ろうかと思いましたが、もう少しこのまま待ちながらLINEを確認しても何時になっても既読になりません。約束の時間を十分過ぎていたので電話してみましたが、電源が切れているのか繋がりませんでした。もし、電話番号が間違っていたら、もう二度と会えない気がして、うちはヒールの折れた靴抱えて植え込みのブロックに腰掛けて待ってたけど、何時まで経ってもあんたの姿は見えません。事故にでも遭ったのか、それともうちが待ち合わせ場所間違えたのか、心細くて一歩も動けませんでした。何人に声を掛けられたやろ、その度に顔を背けて知らんぷりしてました。中には執拗な人もいて、何度も顔の前に回り込んで離れない人もいました。零時を回った頃でした。宗右衛門町から歩いて来るあんた見つけて立ち上がろうとしましたが、横に女の人がいるのに気づいて咄嗟に背中を向けました。顔をはっきり覚えていませんでしたが、駅で見た人に違いないと思いました。あんたは傍らを通り過ぎましたが全然気づく素振りもありませんでした。涙でぼやけて見えるあんたらは、扉を開けて客待ちしているタクシーに乗り込みました。雑踏の中で聞こえるはずもないドアの閉まる音が耳に痛くて思わず目を閉じました。次に目を開けた時にはあんたらを乗せたタクシーは滞留する車に紛れてどこにいるのか分からなくなって心も空っぽになってしまいました。(ライオン橋)あんたと行くはずだった橋の名前を呟いてみました。本当にそんな橋があるのでしょうか、そんな橋はないんじゃないかと思うと、確かめたくなりました。膝に当てたハンカチが血糊でベタベタしてました。手を上げて止まったタクシーに乗り込みました。
「ライオン橋」
運転手さんに伝わるかどうか心配で小さな声で言いましたが、運転手さんはメーターを倒して走り出しました。窓を流れるネオンやテールランプをぼんやり眺めていました。
「あんなスピード出さんでも、この堺筋は六十キロで走ったら、信号が繋がって引っ掛からんのや。あの車五、六個先の信号で止まるで」
信号待ちをしている追い越した車の横に停車しました。
「おっちゃんの言うたとおりやろ」
運転手さんは得意げやったけど、うちにはどうでもええことでした。
橋の袂で降りると、思いのほか明るくて丸い電灯が葡萄の房のように五つ付いた街灯が、向こうの橋詰まで左右に十二本ずつ立っていてその明かりを優しく感じました。深夜にも関わらずちらほら人影がありました。大きなライオンの石像が橋塔になっていてうちを見下ろすように座っていました。信号を渡って反対側のライオンを見ると、こっちのライオンはしっかりと口を閉じていて、あんたの言ったように二匹のライオンは神社の狛犬みたいでした。向こうに見える高速道路がトラックが通る度弛んで見えました。
橋の中央まで歩くと中州に降りる階段がありました。下を覗くと沢山の花壇が並んでいて街灯に照らされた薔薇園の樹々浮かび上がって宙を舞っているようでした。数組の男女が手を繋いで歩いているのを見て、本当なら今頃、うちもあんたとあの中にいたのかなと思うと悲しくなり、また北へと歩き始めました。中州を過ぎると川面は真っ暗で所々、ネオンに照らされ蠢いているように見えました。
立ち止まると風が頬を撫でました。西から東に吹いた風は川面を揺らし、天満橋の方向に流れているように見えました。大阪港のある西へと視線を向け、もう一度流れを確認しましたが、どちらに流れているのか分かりません。川までうちを誑かすのかと俯いて目頭を拭いた。顔を上げると、向こうの橋塔のライオンの背中が見え、前に回り込んだ。こちらのライオンは口を開けていてソフトボールを咥えさせられていました。その様子が呑気で、石像をよじ登ってライオンにボールを咥えさせた人のこと思うと、気が抜けて笑い出していました。
そして、不揃いな靴を脱ぎ捨て裸足で来た道を引き返していました。
それから駅であんたに会うたんは三日後やった。
近づいて来るあんたを無視して歩いた。
「足どうしたんや?」
何事もないように並んで歩き出し言いました。
「ずーっと、待ってたのに……」
そう言うのがやっとでした。約束破って女の人と歩いてたのを見たとは言えません。
「これから造幣局行こか」
そう言い、改札とは反対方向に歩いて手招きしました。
「何してるんや。早よせんと」
有無を言わせない物言いに、引き込まれるように着いて行きました。
地下鉄御堂筋線は混雑していて自分の身体から、漬物の臭いがするのではと心配でした。淀屋橋で地下鉄から京阪電車に乗り換えて天満橋に着くと道路に人が溢れていて交通規制が敷かれていました。あんたのこと見失いそうで腕にしがみ付くようにしてましたが、足が思うように動きませんでした。
大川沿いを歩いて天満橋を渡り、造幣局に入ると咲き誇る桜を写メに撮る人が立ち止まり足取りはさらに遅々としていました。敷地内を通り過ぎるのに三十分位かかりました。その後、流域の遊歩道に露店が沢山でていました。あんたは缶ビール飲みながら歩き、露店を顎でしゃくりました。
「りんご飴買うたろか?」
「えっ!」
戸惑ううちの手にはすでに真っ赤なりんご飴が握らされてました。
「すいません。ちょっと写メ撮って下さい」
うちは通りすがりの人の好さそうなおばさんにスマホを手渡しました。
「おいおい、そんなんええて」
うちはりんご飴片手に、照れ隠しに笑うあんたの腕にしがみついてました。
「もうちょっと、早めに来たら、もっと満開で綺麗やったんかな?」
うちはこの間、約束をすっぽかされたのを皮肉って言いました。
「ん……、そうか……」
あんたは言葉に詰まり、缶ビールを持った手の人差し指で小鼻を掻き、川面に視線を向けて続けた。
「このくらいが一番好きなんや。俺はな、川面に花びらが連なって流れてるんが、何とも言えんと哀愁を感じるんや。華やかなんもええけど、俺にはあのくらいが丁度似合てると思うんや」
そう言うて欄干に凭れるあんたの横顔は寂しそうでもあり、微笑んでいるように見えました。うちにも満開の桜は似合わんような気がして、約束はしたものの、わざとすっぽかしたんやないかと思いました。あの女の人との関係を聞けずじまいのまま天神祭りの夜抱かれてしまいました。あの人との関係聞かされたら身体を許さんかったやろか、いいえ、あんたが居らんようになるなんて考えられません。そやから後悔なんかしてません。もし、あの日自棄になって好きでもない男に身体任せてたら、悔やんでも悔やんでも仕方なかったと思います。
あの女の人とはずっと続いてたんでしょう? 将来の約束した訳でもないし、そのこと問い詰めたら帰って来ないようで言い出せませんでした。
「ちょっと待っとれよ」
それがあんたの口癖やった。一緒に暮らし出してもうちは相変わらず漬物販売してたけど、あんたは勤めを辞めてしもうて、商売始めると言い出しました。
「何の商売するん?」
尋ねると、あんたは寝転んだまま、煙草を吹かしながら言いました。
「それを今、考えてるんやないか」
何をするのかも分らずに仕事を辞めて、無茶苦茶な人やけど、一ヵ月後に居酒屋始めてましたが、儲けるどころか一年もせんうちに店閉めてしもうて借金だけ残ってしまいました。それでも手先が器用で、洋服やカバンなんかも縫ってしまうから、チラシをポスティングして洋服のサイズ直しを宅配で始めました。
「これやったら、家賃もしらんし、仕入れもないからな」
何かを始めるあんたを見るのは好きやったけど、どれもこれも長続きしませんでした。仕事を辞める度、元気がなくなるようで、うちまで辛くなっていきました。
「もうちょっと、辛抱したら、石の上にも三年って言うし」
「儲からんもん、続けられへんやんけ、三年辛抱したらどないなるねん。それこそ苔生えて動けんようなってしまうわ。ちょっと待っとれ」
「なぁー、うちそんな贅沢せんでも、あんたと一緒に居てるだけでええんやで、給料、安うても真面目に働いて……」
「金はないより、あったほうがええやないかい!」
あんたは怒鳴って、部屋を出てその日は帰って来ませんでした。電話をしてもLINEメールをしても連絡がつかず、あんたがあの女の人ところへ行ったのではと、一度連れて行ってくれた店を訪ねようとしましたが、独りで歩く夜の街は何処も同じように見え、探し当てたのは午後十時を回っていましたが、中に入ることはできません。店の前で待っていました。店の扉が三度開く度、うちは背中を向けて隠れて様子を窺っていましたが、あんたの姿を見ることはなく、店の電気は消えてしまいました。あんたは何処へ行ってしもうたんやろ。駅に向かおうとして時計を見たら、最終電車が終わってました。飲み屋街を抜け、堺筋を南に歩き、千日前通りを東に進みました。文楽劇場の前まで来るとクラクションを鳴らしたレクサスの助手席の窓ガラスが下り、若い男が声を掛けてきましたが空耳かなと思いました。レクサスはうちの歩調に合わせてゆっくり付いてきたけど、閑却していると(ブス)と詰るように怒鳴り、スピードを上げ走り去っていきました。下寺町の交差点にある二十四時間スーパーの電飾を見上げて、視線をずらすと谷町筋に続く長い坂にため息を吐いた。手を繋いだカップルがホテル街に姿を消していく。こんな坂道を独りで歩いてる女はうちくらいでした。長い時間歩き回って足が突っ張り棒のようになっていました。あんたが居たら、「足痛いか」とか言うておぶってもくれるやろけど、そばには誰もいません。坂を上り切るとホテル街から姿を見せたカップルがあっさり別れて行くの見て、男と女なんかそんなもんやと自分に言い聞かせ、行灯の灯るタクシーに手を上げました。
マンションを見上げ、もしかしたらあんたが帰ってるのではと思いましたが、道路から見えるうちの部屋の明かりは灯っていません。コツコツとエントランスに向かううちの足音だけが響いていました。ドアノブにキーを差し込んで、鍵を掛けていないこと思い出しました。あんたが出ていった日からいつ帰ってきても大丈夫なように施錠してませんでした。あんたもキーは持ってるやろうけど、失くしてたら困るやろうと思っていましたが取り越し苦労のようでした。扉を開けるとあんたの靴が何足も並んでいました。おしゃれで皮靴の好きな人やから、履き替えに帰って来るんやないかと、揃えたままにしていましたが、綺麗に並んでる皮靴見てると無性に腹が立ってきて、足で引っ搔き回しまし、その場にへたり込んで何度も床を叩きました。
「何処に行ってたんや?」
あんたの声が聞こえた気がした。いつもと違う小さな声やった。幻聴まで聞こえ始めたと頭を振りました。
「あーぁ、俺の靴こんなんしてしもうて」
「えっ!」
玄関先に出てきた足にしがみ付きました。
「あんたこそ何処に行ってたんな、何処に、アホ……」
そう言ってあんたの顔見て驚いた。
「その顔どうしたん?」
あんたは顔を背けて言った。
「何でもあらへん」
「何でもあらへんことないやん。えらい腫れてるやん。病院には行ったん?」
「何でもあらへん言うてるやろ!」
きつい口調で言うと馬乗りになって、うちのブラウス引き千切って、乳房を掴みました。腫れた顔が痛むのか、あちこち痙攣していました。気まぐれで抱かれるのが嫌で抵抗しましたが、どれだけ身体を捩って、手足をばたつかせても男の力に敵うわけもなく、あんたの手がショーツにかかると、うちは身体の力を抜き顔を背けました。
あんたの手の動きが緩やかになり、腫れた顔みたら涙が溢れた。
「嫌なんか?」
「うち、オモチャやないもん。勝手に出て行って、知らん間に帰ってきて、うっ、うううう」
あんたは嗚咽を漏らすうちから離れて、仰向けに寝転がり、溜息を吐きました。しばらく暗い部屋で二人には会話もありませんでした。
気まぐれで抱かれるのは嫌やったけど、またあんたが何処かへ行ってしまいそうで不安で、寝転がるあんたの手を探り当てて掴んだ。
「してもええよ」
あんたは床に置いたショートホープの箱を口元に運び、煙草抜き取ろうとするのですが、唇が腫れていて上手く取り出せなくて、箱を投げてしまいました。うちは煙草は吸わないけど、ショートホープを一本咥えて、使い捨てライターで火を点けたら咽て咳込みながら、あんたの手に煙草を持たせた。あんたが吸い込むと煙草の先が明るくなって笑っているのが分かった。
「アホやな……」
あんたは誰に言うてるのかわからんように呟き、煙草を灰皿に押し付けて、うちを抱き寄せました。
翌日、早く帰ると言って仕事に出掛けたけど、部屋に戻ったらまた居らんようになっているのではと考えたら気が気ではなく急いで帰りました。
部屋の扉開ける前から中からテレビの音が聞こえてたけど、居てなかったどうしょうと、ビビクビクしながらドアノブを引いたら、煙草の煙が籠っていて、あんたの背中が見えた。
「窓、開けたら……」
窓を開けると、あんたが横に立って顔を近づけて言いました。
「早いな」
「煙草吸い過ぎ違う? 煙草臭いで」
「お前の乳も煙草臭なったかな」
昨夜のことをそう言うのはあまり好きやないけど、その言葉であんたが側に居てくれると思い頷きました。
あんたの顔の腫れも引いて、久しぶりに二人で出かけました。雲一つもなく青空が眩しくって、あんたは目を細めて道路の向こうを見てました。
うちは頷いて黙ったまま、あんたの手を握り締めましたが、照れ臭そうに口角を少し上げてその手を振り解きました。
「ミナミに出て、映画でも見よか?」
うちは少し考えて答えました。
「大阪城に行ってみたい。大阪に来て三年になるんやけど、大阪城に行ったことないねん」
「そうか、ほな大阪城公園に行こか」
「うん!」
うちはあんたの腕にしがみ付きましたが、またあんたはうちを振り解きました。
近鉄電車乗って鶴橋駅でJR環状線に乗り換えました。進行する電車の車窓から民家の屋根が流れていました。通勤時間を過ぎた車内はわりと空いていました。電車が玉造駅を出て少しすると、せっかちなあんたは座席を立ちあがり、扉の前に移動しました。
「森ノ宮で降りて公園の中歩いて行こ」
公園に入るとすぐ右手にアイスクリームとポテトフライを販売しているキッチンカーが止まっていました。
「食べるか?」
「ううん、お腹空いてないし」
「そうか……」
あんたはキッチンカーまで歩いて缶ビールだけ買ってきました。
天気も良く滑り台などの遊具で遊ぶ子供たちが駆け回っていました。正面にある噴水に向かって歩いて行きました。堀を回り込むように遊歩道を歩くと、ジョッキングをしている人に追い越されゆっくりと天守閣に向かいました。
うちらと同じ年恰好のベビーカーを押す男女とすれ違いざま赤ちゃんが泣き声を上げると、父親だろう人が赤ちゃんを抱き上げ、あやしながらうちに頭を下げました。あんたも愛想笑いを返していました。
「日曜日とかやったらイベントもやってて、出店を出てて賑やかなんやけどな、それでもちょくちょく人出あるな……」
「一緒に歩くだけでええねん。あんたはこれくらいの方がええんやろ」
うちが手を握り締めたら、さっきは振り解いたけど今度はギュッと握り返して繋いだ手に一瞬視線を向けました。
「俺……」
「何?」
「俺……、もう、何かするとか考えんと、働きに出るわ。明日から仕事探すわ」
そう言ってあんたは缶ビールの空き缶をゴミ箱に投げた。
「うん。せっかくやし、天守閣登ろうな」
「登ったかって、何もあらへんぞ」
うちはあんまり気が進まないようなあんたの腕引っ張ってはしゃいでた。
「ここが大阪の中心や。大阪城に近い方が番地の一丁目になるんや」
「そうなん。うちの部屋一丁目やから、ここから俊徳道のなかで一番近いんやな」
「そんなもん知ってても何の役にもたたんけどな、帰りにどっかでご飯食べて帰ろか。何か食べたいもんあるか? 鶴橋に戻るか?」
すぐに帰ってしまうのが嫌でうちは駄々をこねるように言いました。
「トイレマットも買い換えたいし、京阪モールで買い物して帰りたい」
「晩飯も京阪モールで食うか」
ビジネスパークを抜けて京阪モールに着くと、夕暮れで仕事帰りのサラリーマン、学生が溢れていました。
「どっちがええ?」
違う柄のトイレマット持ってあんたに見せました。
「どっちでもええわ。お前の好きなんにしたらええ」
日用品の選択に迷って尋ねると、あんたはいつもそう言いましたが、しばらくして辺りを見回したらあんたは居ませんでした。
うちは買い物カートにぶら下げたバッグからスマホを取り出し電話したけど、留守番電話になっててでません。店内を歩いて風呂場用品売り場で姿を見つけました。
「電話したのに出てぇな」
「ん……」
あんたはポケットからスマホを取り出し画面を見て続けました。
「あっ、ほんまや。着信入っとるわ。気づかんかったわ」
あんたは目新しい物を見つけるとそこから離れませんでした。
「これおもろいな……」
あんたはサンプルの珪藻土マットに霧吹きで水を吹きかけて言いました。
ニトリでトイレマットと脱衣場の珪藻土マットとビーズクッションを買いました。
その後、ユニクロでエアリズムのタンクトップを買いました。
「あんたはTシャツとかいらんのん?」
「ユニクロのTシャツは俺には綺麗すぎるんや。薄手の綿100の洗いざらし感ある方が好きなんや。ここは無印良品入ってないやろ。帰りに京橋寄るわ」
大きなビーズクッションは配送してもらいましたが、荷物を持つあんたの両手は塞がっていました。
京阪電車で京橋に向かい、JR環状線につながる広場に出た時でした。向こうの人混みから三人連れの男がこちらを見ていました。その視線に気づいたあんたは俯いて、荷物を持った手をうちの背中に回し踵を返しました。
「こっちや」
あんまり急なことで、パンプスが脱げてしまいました。
「どうしたん?」
「ええから、早よせえ」
うちが手間どって立ち上がると、三人の男がうちらの前に立ちはだかっていました。細い吊り目の男が言いました。
「何処に行ってたんや?」
「何処に行こうがお前に関係あらへんがな」
「そう言うわけにはいかんのんや。お前の都合で事務所入ったり、出たりされたら俺のメンツが立たんのや」
「知らんがな、行こ」
あんたはうちの背中に腕を回す。
「ちょっと待ったらんかい! しょうもない女連れやがって」
あんたは荷物を全部右手に持ち替えてうちに押し付けた。
「向こうで、ちょっと待っとれ」
あんたの『ちょっと待っとれ』はろくなことがあれへん。ただならぬ雰囲気にうちは震えてばかりでした。
あんたは吊り目の男と向き合い怒鳴りました。
「もう一ぺんぬかしてみぃー!」
「何やと、こらぁー」
「もう一ぺんぬかしてみぃー、言うとんじぁー!」
あんたは吊り目の男の胸倉掴んで引き寄せ、反動で突き放すと同時に、足を引っかけ押し倒すと馬乗りになりました。
「兄貴! 大丈夫でっか」
吊り目の男の連れのスキンヘッドとサングラスを掛けた男が、あんたを引き離そうとしますが、あんたは倒れた男の顔に拳を振り下ろしていました。
「やってまわんかい!」
吊り目の男が殴られながら言うと、サングラスの男が看板を固定していたブロックを手にしてあんたの後頭部に振り下ろしました。
前のめりに倒れたあんたを吊り目の男は、押し退けるようにして立ち上がり、手の甲で口を拭い、血を吐き捨てました。
その後、男たちは身動きしないあんたを殴るわ、蹴るわでうちは泣き叫んでいました。
吊り目の男がブロックを見て顎をしゃくると、サングラスの男がブロックを頭上に振り上げあんたの顔めがけ投げつけました。野次馬も沢山いましたが、誰一人助けようとする人はいませんでした。警官が駆け付けた時には男たちの姿はありませんでした。パトカーと救急車のサイレンがうちの頭の中で入り乱れていました。
うちは警官をすり抜け、救急救命士をかき分け駆け寄りました。血だまりの沼にブロックとあんたの顔が浮かんでいるように並んでいました。
「あんた、あんた……」
呼びかけたらほんの少しだけ目を開けて、口を動かしました。
「何……、何……?」
「ちょっと待っ……」
あんたはそこまで言うと目を閉じた。
ストレチャーで運ばれるあんたについて行きました。救急車からは外の風景が見えず、時間が止まっているようで、応急処置を受けるあんたの手を握り締めてた。病院に搬送されてからもあんたから離れられませんでした。
処置室の外で待ってて、次にあんたの姿を見た時には顔に白い布が掛けられていました。
「嫌やー! あんた、死んだら嫌やー、待っとれって言うたやないのぉー、嘘つき、あんたは大嘘つきやー」
動くことのないあんたから離れることが出来ませんでした。騙されてばっかりやから、もしかして目を開けて『何を泣いとるんや』と言い出すんやないかとも思いましたが、今回だけはどうにもならず、あんたの声を聞くことはありませんでした。
身内の話は何も聞いていないし、親が生きているのか、兄弟がいるのか皆目分かりませんでした。警察の人に聞かれても何一つ答えられなくて難儀でした。警察の人が調べてくれたことによると、十年前に自宅の火災で両親と二つ年下の妹を亡くしているということでした。その他に親類は父親方に叔父さんがいるということでしたが、姿を見せることはありませんでした。結局、葬儀はネットで調べて通夜も告別式もない直葬にしました。人が亡くなってから二十四時間は火葬、埋葬をしてはいけないと葬儀屋さんに説明され、病院から遺体はうちの部屋まで葬儀屋さんが運んでくれました。医師から死亡診断書を受け取り、死亡届の提出と火葬許可書の受け取りは葬儀屋さんが代行してくれました。二十四時間が過ぎて納棺され、直葬でお経を読んでもらう必要はないと言われましたが、色々話を聞いていると、戒名を付けないとあの世で名前が呼ばれず、迷子になると教えられお坊さん呼んでお経を読んでもらい戒名を付けてもらいました。遺影は通り抜けの時に撮った写メで作ってもらいました。りんご飴片手にうちがはしゃいでるあの写メです。
火葬場には他にも火葬される人の家族がいましたが、目の前の火葬台を見送っているのはうちと火葬場の職員さんだけでした。あんたは……、あんたは、ほんまにうちを独りぼっちにしてしまいはったんや。涙で割箸で摘まむ遺骨が滲んで見えました。
「よろしいでしょうか?」
職員さんが止める声もぼんやり聞こえて、骨壺を見ると遺骨が溢れていました。
初七日を終えた夕暮れ、チャイムが鳴り玄関に出てみると、サングラスにレザージャケットを羽織り、細身のジーンズを穿いたショートレイヤーをアッシュグレーに染めた女の人が立っていた。
「どちらさん?」
うちが尋ねると、右手で髪の毛を数度搔き上げ、サングラスを外しました。
「分からんかな……、一回ミナミの店来てくれたやろ。わたし、冴子言うて中学の同級生や」
「あっ、雰囲気が全然違うから、別人みたい……」
「あいつの遺骨あるんやろ?」
「えっ」
うちは目の前の冴子さんが、どうしてあんたが死んだのを知っているのか不思議に思いました。
「刑事から聞いたわ」
「刑事さんから?」
「色々あるわ。線香上げさせてもろてええかな」
断る理由も見つからず、玄関先に並んでいるあんたの靴を端に寄せた。あんたの靴をまだ始末できませんでした。
「これみんなあいつの靴かいな?」
黙って頷くと、冴子さんは舌打ちしました。
「こんなもん、早よ放ってしまい」
「まだ居てないようになったとは……」
うちが言い終える前に冴子さんが首を縦に数度降りました。
「そうか……、そうなんやな」
冴子さんは線香に火を点け、手を合わせ遺影を見て言いました。
「蛭田、捕まったで……何を呑気な顔して笑ろとるんや」
うちも昨日警察に呼ばれて、犯人の顔確認したので知ってましたが、何故、冴子さんが名前まで知っているのか知りたくなりました。
「コーヒーでも……」
焼香の済んだ冴子さんは少し考えるように視線を宙に向けましたが、うちの勧めた椅子に腰掛け話し出しました。
「蛭田な、学校は違うけど、同じ町の中学なんや。昔はあいつもわたしも悪仲間やったんや」
冴子さんはあいつと言う度、衣装ダンスの上の遺影に一瞬視線を向けました。
「中学卒業して、愚連隊みたいなことしてたわ。蛭田はやくざになったけど、あいつはやくざには向いてなかったんやろな。それでも時々つるんでたわ。わたしもな十年ほど前やけど、あいつの家でシャブやってた時、火事出してしもうたんや」
「シャブ!」
それが覚醒剤だということは分かり、口に手を当ててしまいました。
夜中に覚醒剤を打って火災を出して、二階で寝てた両親と妹が焼け死んで、一緒にいた従弟に大やけどを負わせたということでした。それで叔父さんからも縁を切られ、あんたが死んでも顔も見せなかったんですね。火事の後、みんなは離れ離れになったままやったけど、偶然、近鉄難波駅で再会したということでした。そううちがあんたに傘を返そうとしたあの日です。
うちの知らんあんたの姿、想像してぼんやりとしてたら冴子さんが尋ねました。
「あんた、これからどうするん?」
「えっ!」
「えって、これからもあいつの供養していくんかいな? 籍もまだ入れてないんやろ? てっきりあいつの叔父さんとこに遺骨あるんかなと思って行ったけど、あんな奴のことは知らん言うて門前払いされたわ。しゃーないわ。高校生の息子にシャブ教えて大やけど負わせた上に兄貴夫婦まで死んでしもうたんやからな。わたしもあいつが居らんかったら焼け死んでたと思うわ。気がついたらあいつの腕の中で燃え上がる炎見上げてたんや。その後、どっか行ってしもうて、あんたも遺骨、寺にでも預けて、またええ男探してやり直しそのほうがええで……」
うちは首を横に振っていました。
「まだ、あの人が死んだとは思われへんのです」
「そうかいな、ほんまにあいつのこと好きなんやな、あんたにはわたしでは勝てんわな。ごめんな、蛭田とあいつ引き合わせたんもわたしなんや。金がいる。何でもする言うし、ちょうど蛭田が人探してるいうもんやし……」
冴子さんは立ち上がり、遺骨の前のショートホープに火を点け、位牌の前の灰皿に供えました。
煙草を吸わないうちが火を点けるといつも咽て咳が出ますが、冴子さんは美味しそうに煙を吸い込んで、尖らせた唇から吐き出していました。
「一ヵ月程前、顔腫らして帰ってきたやろ。あの日、頭が痛くて寝てたんや。チャイムが鳴ってほっといたんやけど、しつこうて玄関開けたら、あの顔やろ。蛭田と仲よくやってると思ってたからびっくりするやんか、とりあえず部屋に入れて氷で冷やしてやったんや。濡れ手に粟みたいな仕事なんかあらへんし、気軽に蛭田に会わせたけど、蛭田は鉄砲玉になる子分が欲しかったみたいで、子分になるのを迫ったんやと、あいつはやくざになる気はこれっぽっちもないから断ったんやと、昔は連れでも蛭田にもメンツがあるし、袋叩きされたんやわ。あいつ、わたしの膝に頭乗せて氷で顔冷やしながらわたし見て何て言うたと思う」
うちは首を横に振り聞きました。あんたが言うたことは何でも聞いておきたかった。あんたはもう何も話してくれないから……。
「何て?」
「顔の腫れが引くまで、おいてくれって、こんな顔見せたら心配しよるって、十年前は何も言わんと居らんようになったくせに、駅で会うた時嬉しかった。あんたのことなんか何とも思ってなかったのに、そやのにいつの間にか一緒に暮らしてるやて、腫れが引くまでやとアホなこと言わんと心配してる女のとこ帰ったれ言うて追い出したったんや」
冴子さんは右手で髪の毛を掻き毟り、目頭を押さえ、Tシャツの衿ぐりからサングラスを取り、顔に掛けると洟を啜り上げました。この人もあんたのことが好きやったんやと思うと申し訳ないような気がしました。それでも、あんたが生きていたら、この人とうちの間行き来して、しまいに向こうに行ってしもうてたんやないやろか、そしたらこの人を恨んでいたのかも知れませんね。それでもあんたに生きていて欲しかった。
「わたしも女やちゅーねん……」
冴子さんはそれ以上、何も言わずに部屋を出て行きました。かける言葉もなく、扉がゆっくり閉まるのを見ていました。廊下を歩くヒールの音が響いていました。しばらくして立ち上がり、窓の外を見た。アッシュグレーの髪の毛が夕日に溶け込むように消えていきました。
今年の造幣局の通り抜けも今日が最終日ですね。二重橋から見ていると、四十九日も過ぎたというのに『ちょっと待っとれ』と言うあんたの声が聞こえてきそうです。
桜の木の下を歩く人波は誰も彼も幸せそうにうちの目には映ります。華やいだ声が風にのり聞こえてきそうです。冴子さんが線香上げに来てくれてうちの知らんあんたのこと教えてくれました。
雲行きが怪しくなってきました。今晩の雨で桜は殆んど散ってしまいますね。男の子が大川の上を滑る水上バスに手を振っているのが見えます。川面に桜の花びらが連なって揺らいで行き場を探してるようです。うちはあんたにとって何やったんやろう。冴子さんも同じこと考えているのではないでしょうか。あんたが居らんようになって泣いてばかりやったけど、いつまでもそうもしてられません。
「あっ、動いた」
うちは呟いてお腹を擦りました。
男の子のような気がします。あんたに似て厄介な男になるのやないかと、生まれて来る前から心配しています。ここから大川に浮かぶ花びら見てたら、横にあんたがいるような気がします。来年は二人で会いにきますね。
了