26.「としょかん」
「やほー」
「ひゃっ!」
目の前の本を読むことに集中していた彼女の、柔らかい頬っぺたに冷菓を押し付けると、彼女は面白いように飛びあがる。
「ななななにするの!?」
「あいすたべるー?」
「た、食べる、けど……」
光が風に揺れている。薄い窓ガラスの向こうには、庭に植わった大樹の影が映り、やはり風に合わせて揺れている。彼女のお気に入りのダークブラウンの木造の小さな塔は、壁一面にお洒落な本が詰められており、暗いこの塔の中で、木漏れ日は眩く写った。光柱の中を埃がゆっくりと舞っている。
一回にはテーブルが置いてある。そこには、彼女が抜きだした世界中の物語が積んである。汚さないように、彼女は手に持っていた本を山に戻し、それから私の居る窓の側に来て、とすんと隣に座り込んだ。
彼女がはむと、小さな口でその先端を咥えた。それを食べている間は、私が一方的に喋れるだろう。
「私ねー」
彼女はアイスを咥えながら、壁に寄りかかる私の顔を淡白に見つめる。
「二人の邪魔だと思ったの」
彼女がアイスを咥えたままもごもごと慌てる。
「そんな事っ——」
「私には必要なかった。二人と一緒に、居る理由が無かったから」
何か言おうと慌てる彼女の頭の上に、手を置いて抑えつける。
「でも、今のきらりんには彼が必要だったの」
「……分かんないよ、そんなの」
「きらりんは、一緒に居たいと思ってる」
「……うん」
「でも私は、あいつの事なんか別に好きじゃないし」
「……それは――」
「アイス溶けるよ」
彼女が慌てて柱を伝う水滴を舌で拭った。可愛らしい、桜色の舌だ、指で挟んで引っ張りたくなるような。
「だからね、私たちが三人で居る必要も、私が彼と居る必要も、無いと思ったんだ」
彼女が、下から私をのぞき込む。
「もう……三人では、会わないの?」
「うん。……そうしようって、決めてたんだけどね」
壁に預けた背中は、ずりずりと落ちていき、地面まで落ちて、彼女の目線の高さと合った。
「寂しくなっちゃった」
彼女は、黙ってアイスを舐めている。
「よくよく考えてみれば、私があれに気遣いする義理なんて無いし、きらりんに遠慮する気も無いし。だから勝手にする事にしたの。あなた達が迷惑だろうと何だろうと、私は勝手に輪に加わる」
彼女はもごもごと、口の中の甘味の汁を消化している。
「つまり、しずくもはやてが好きって事?」
「違うけど。話聞いてた?」
「いや、聞いてたけど。何が言いたいのかよく分かんなかった」
「最近変に二人を避けてたけど、それを辞めるって話」
「ふぅん。そっか」
「ねぇ、きらりんはあいつの事、好きなんだよね」
応えるまでに、彼女は一度アイスを齧った。もごもごと咀嚼する。けれど、次に口を開いて言うには、
「好きだよ」
彼女の言葉には、揺らぎが無かった。
……そうか。私に言っちゃうのか。
「……その包帯、まだ外れないね」
アイスを持つ両の手には、白い包帯が巻かれている。
「厨二ごっこの延長? それとも」
だとしたら良かったのだけど。それに手を伸ばすと、鋭く払われた。
「触らないで」
彼女は冷えた声で言う。まだ、治ってないか、もしくは。
「跡が、残った?」
ぴくり、彼女の肩が震えた。黙って、目の前の水色のアイスを齧っている。
「ふーくんは、それを見て、なんて?」
「……お洒落だねって」
やはりか。干渉しない、受け流す、彼がそう選んだのなら。
「アイス、残りもらうね」
「え?」
彼女の腕を掴んで引き寄せ、最後の塊を齧った。もぐもぐと甘い汁を口の中に湛えながら、彼女を床に押し倒す、その上に馬乗りになる。
「な、なにする……の?」
「ふふふ。何だと思うー?」
「……そ、そういうのはまだ、早いというか……」
「……いやいや、何すると思ってるの。純真じゃあるまいし」
掴んでいた彼女の右腕を、上に引っ張った、そのまま包帯の結び目に手を掛け、
「やめて!」
「きゃっ!」
突き飛ばされ、強かに腰を撃つ。
「いてててて……」
「……あ……また、また私……」
「お、ケンカかー? やった事無いけど負けないよー。その包帯を剥がすまでね」
「や……やめて! 来ないで! 何でそんな事するの!? 私が、私が嫌がる事——」
「私は勝手にやるって言ったはずだよー。きらりんが嫌がろうと何だろうと」
ネットで見た朧げな知識だったが、やはり私は天才だったらしい。すぐに、彼女は地面に組み伏せられていた。
「やめて!! 離して!!」
バタバタと暴れ、本が落ちてくる、彼女はそれを掴み私の方へ投げてくる。額に当たって、切れて、血が流れて来たけれど。私は構わず、彼女の腕の包帯を剥がした。
「嫌……いや……見ないで……見ないでよ……」
よく見れば、小さくだが、赤い筋が腕の腹にあった。先日、きらりんが暴れた時に出来た傷だろう。ふーくんの方も酷かったけど、彼はケロッとしていて、でも。
彼女は瑕を見逃せないでいる。それから目を逸らし続けたままで居る。彼も、それに合わせて、だから。
私が見てあげるのだ。
「何……なんで……」
彼女は床に額を付いて、ぽろぽろと泣いていた。
「きらりんこそ。何でこんな小さな傷を隠すの?」
ばっと手を振り払われ、私の拘束を逃れた彼女は、座ったままずりずりと壁の方へ後ずさっていく。
「当たり前……じゃん、だって、だって……この傷は……私がみんなを傷つけようとした証拠で……」
「そんなの言わなきゃ分かんないよ。そういう風に意味づけてるのは、きらりんだけ」
「はやては知ってるよ!」
彼女は叫ぶように言った。
「しずくも……知ってる……だから……」
「だから何?」
「見られたく無いの……二人には……嫌われたく、無い、こんなの見える所にあったら、いつまでも忘れられなくて」
「忘れられなくて、それで?」
「二人に、嫌われて……」
「何言ってるの?」
後ずさる彼女に私は詰め寄る。
「人を殴るきらりんなんて嫌いだよ、そりゃ」
彼女の動きが止まった。目を見開いて私を映して、顔が歪んで、ぽろぽろと大粒の涙が零れてくる。
「誰も、あなたに言ってくれなかった? まぁ、ふーくんは言わないだろうね。どうせ、どんな君でも受け入れるとか、そんな適当なセリフ」
「うぅ……うぅぅ……」
「でも私は言ってあげる。私は、そんなきらりん、嫌いだから」
彼女は蹲り、縮こまって、唸るように泣いていた。目を閉じて、頭を抱えて、耳を塞いで、嫌なものから逃げて。
また一歩、彼女に近づくと、
「出て行って……」
「きら――」
「出て行って!!」
ぴりぴりと窓が震える。手を触れれば、強く払われた。それでも構わず、小さくなった彼女の体を、上から抱きしめた。
彼女が弱々しく顔を上げる。
「……どうして……」
「私は勝手にするって言ったでしょ」
「意味わかんない……私の事嫌いって言って……慰めて……意味わかんないよ……」
ぎゅぅぅと抱きしめる。彼女は震えていたから。
「どうして……」
「どうして慰めるかって事? きらりんの事が好きだからね」
「……でも、でも今……嫌いだって……」
「そりゃ、嫌いな所の一つや二つあるよ。人間だからね」
「じゃあ……」
か細い声だった。
「ねぇ、きらりん。私があなたに言う“嫌い”っていうのは、あなたに変わって欲しいわけじゃ無い。改善してくれ、直した方が良いよって、そう言ってるわけじゃ無いんだ」
まぁ、もちろん、無いなら無い方が良いけれど。
「どうにもならない事は、どうにもならないからね」
出来るだけ、平らな声で、彼女の耳元で囁く。
「私は、そんな嫌いなきらりんの事を知っていて、それでも私はきらりんの事が大好きだから」
彼女が濡れた瞳をあげた。
「だから見せていい。怖くても、嫌われるかもしれなくっても、きらりんはきらりんの全部を、私に見せていい。誰にでもじゃなくていい、私にだけでもいいから」
すぐ間近に、綺麗な彼女の眼がある。睫毛が細かく揺れている。
「私は嫌いなあなたも認めてそれでもあなたを好きになる。だからきらりんにも、嫌いな自分も、隠さないで、否定しないで、受け入れて欲しい。あなたはあなたを好きになるの」
彼女の中に映っていたのは私だった。
「ね? 約束。二人だけの、秘密の約束」