16.「静かな方へ」
驟雨が降りしきる。屋根に打ち付ける均一な雨の音は強張った肩を下げてくれる。
「……まぁ、わざわざ雨の日にやる事はねーよな」
「……」
「……どうする? 今日やるか?」
「……」
「きらりさん、良い事を教えてあげましょう。冒険者は雨の日は休むんですよ」
「……それは先生だけじゃないですか?」
「命を懸けて戦う冒険者にずぶ濡れのハンデを自ら負うバカは居ません」
それもそうだ。
「……じゃあ、晴れたらにする」
「そうですか。では私は帰りますね」
ぼふぅと彼女がベッドに頭を突っ込む、じたばたと足をばたつかせる。
「……この気持ちはどーすればいいの?」
「天の神様が言ってるんだよ、気を張り詰めすぎだって」
「うぅ……」
「折角もらった休みだし、今日はゆっくりしない?」
「うん……」
と、扉の向こうから雫が顔を出した。朝ごはんの帰りだろう。
「早かったねー」
「お前は起きるのが遅かったけどな」
「もう終わったの?」
「雨天順延」
「だと思ったー」
彼女はきらりが占拠したベッドに腰を下ろす。
「だと思ったって、やる場合もあっただろ」
「昨日の雲で今日は雨、雨が降ったなら、きらりんは延期するだろうって、思ってたし」
「延期を言い出したのはあっちの二人だよ。冒険者は雨の日休むんだとさ」
「でも決めたのはきらりん。きらりんがやろうって言ってたなら今日がその日だった」
「いや、雨の中無理にやる必要も……」
……。
「何が言いたいんだ、お前」
「そりゃわざと負けるだけだから早く終わって欲しいよね、きらりん。天気に左右されないだけの、覚悟も無いし」
「はぁ? お前、何言って……」
きらりは、枕に顔を突っ伏したままだった。違うの一言も、何も言わなかった。
窓ガラスを粒の細かい雨が頻りに叩いていた。空は灰色に澱み、海は静かに雨を受け入れている。
“わざと負ける”……か。
「……きらり? そうなのか?」
彼女はまだ、突っ伏したまま、何も言わなかった。
……はぁ。
「それがお前の選んだことなら、俺は何も言わない」
「私は言うけどね。この臆病者。根性なし。嘘つき、見栄張り、お為ごかしの風見ど――」
“しずくに何が分かるの”、と、枕にくぐもった声が聞こえる。
「ばーか」
「しずくに何が分かるのっ!!」
彼女は勢いよく顔を上げ、雫に詰め寄った。
「オレがどれだけみんなの事考えて!! 悩んで!!」
「一緒に行こうって言ったのに」
「……っ!! オレだって本当は——!!」
「一緒に行こうって言ったのに!!」
雫は涙を流し、彼女を詰った。きらりの胸倉をつかみ、胸に頭を当てる。声を震わせて彼女を詰った。
「嘘つき……! 一緒に行こうって……言ったのに……!!」
「……っ!」
きらりは、それ以上、彼女に何も言えなかった。
「……ふーくんも、ふーくんも何か言ってよ!」
「要は、きらりは島に残るって決めたって事だろ、自分で。きらりが決めた事なら尊重するさ」
「本当にそんな選択が正しいと思ってるの! ふーくんは、ふーくんはこれだけ一緒に居たのに、きらりんに何の執着も無いの!?」
「正しい選択をさせる事が正しい事じゃ無い」
「うるさい! そうやってまた理屈ばっかり言って——」
「今までずっと、きらりは正しい選択を押し付けられてきたんだ。きらりが自分で選んで決めた事なら、何だって尊重するさ」
「……でも!!」
「俺が決める事じゃ無い、俺はそう決めてるんだよ。お前は好きにすればいい、俺はきらりの選択を受け入れるだけだ」
「……っでも!! だって!!」
彼女は震える腕をきらりの服を掴む、力を込めて、離さないように
「やだ……やだよ……行かないで、置いて行かないで……一緒に居てよ……」
「……置いてくのは、そっちじゃん」
「ずっと、ずっと私と一緒に居てよ……」
「……オレだって、ずっと……ずっと一緒に居たいよ……」
ぽろぽろと、彼女の目から涙がこぼれる。
「離さないから、絶対……離さないから……」
彼女は細い腕できらりにしがみ付く。きらりがその気になれば、容易に引き剥がす事は出来るだろう。
二人は一緒になって泣き続けた。空いた沈黙は、心地よい雨の音が埋めた。
すぅすぅと、彼女は膝の上で寝息を立てて寝ている。何もかも忘れたような、安らかな寝顔だった。目元は赤く腫れている。
「……なんだ?」
「どうでもいいから、オレを置いてくの?」
「……寂しいとは思ってるよ」
「それだけ?」
「……そうだな。自分の本心も言えない面倒な女は、置いて行くに限るからな」
「本心? ……オレの本心って何?」
「やりたい事、あったんじゃないのか?」
「……もしかして、冒険者になりたいって夢? 確かに……ずっと憧れだった。でも……それって大事な事なのかな、他の、色んな事より優先すべき事……なのかな」
「知らんさ、そんなの。お前が決めろ」
「……またそれ?」
「俺に決めて欲しいのか?」
「……分かんなくなっちゃったの。色んなことを考えて、どの方向に行っても私を引っ張る人たちが居るの。そっちには行くな、そっちはダメだって」
彼女が、膝の上で眠る雫を見下ろす。
「だから、俺が決めるのか?」
「……はやては賢者の弟子、なんでしょ? 正しい答え、教えてよ。オレはどうすればいいの?」
彼女は迷子のように、縋る目で、窓の外を見つめていた。そんな彼女の手を取る、細い、柔らかい、温かい手だった。
はぁ。
「行くか」
「……え?」
「ここは少し、うるさいかもな。考え事をするには」
「……? 聞こえるのは、雨の音くらいだけど」
「ここには雑音が多い」
きらりが、膝元の彼女を見下ろす。
「……えっと、しずくは?」
「置いて行け、そんな重い奴」
「え、いや……」
彼女の手を掴んで引っ張ると、雫の頭はベッドの上にずり落ちた。
「行くぞ」
「う、うん」
「すみませーん、ちょっと家出してきますねー」
「あぁ? 何言って——」
それだけ言って扉を閉めると、バタバタと慌てて彼が顔を出す。
「お前、こんな雨の中どこに、」
そして、彼は彼女の顔を見て、言葉を止めた。そして何を思ったか、
「……元気でな」
そう言って、顔をひっこめた。
「じゃあ行くか」
「……うん」
彼女の手をぐいぐいと引っ張っているけれど、彼女は振りほどこうとはしなかった。繋がれた手を見つめ、顔を赤らめて、こんな事を言う。
「……なんだか、駆け落ちみたいだね」
「お前がいいなら、それでもいい」
「……いいの? しずくはどうするの?」
「置いて行けよあんな重い奴」
「……ふふ。それ気に入ったの?」
しとしとそぼ降る雨の中、俺たちは空の下に出てきた。くすむ灰色、外套を叩く粒の感触は心地いい。波打つ銀色の光が世界を照らす。海は止まったように静かだった。
小さな船に乗り、俺たちは島を抜け出した。