10.「覚悟」
「鍋いっぱいに水が入っている。それを煮詰めて、水分を飛ばして、ざらざらとした結晶だけが残る。もう一つ、そこに新しい鍋がある。鍋には既に水が入ってて、さっきの結晶をそこに入れる。結晶は少しずつ水に溶けていき、やがて一つになる」
彼女が振り返る。背景には胸の透くような青空がある。
「それが僕たち転生者さ。記憶は継承しているけれど、前の人間と同じかどうかは分からない。記憶を入れる前は、確かに別人だった。今は……僕自身でさえ、分からない」
「俺に前世の記憶は無いです、師匠」
「君は少し事情が異なる。同じ器を溶かして、固めて、出来たのが君だ。中に入っていたものは……どうなったんだろうね。器に刻み付くほどの強い記憶は、残ってるかもしれない」
「同上ですが、俺に前世の記憶は無いです、師匠」
「……ふふ、そうか。まぁ、自分では分からないものさ」
「……?」
「何でもないよ」
彼女もまた空を見上げる。触れた途端に壊れてしまいそうな華奢な背中に、声を掛ける。
「前の人間は……」
「……?」
「師匠の、ひとつ前の人間は、死んだのでしょうか」
「どうだろうね。覚えて……いや、覚えている。僕は死んだ、確かに死んだんだ、何度も……いや、一度だけ? いいや……この僕はまだ、死んでいないのかもしれない。生き返った事なんて、一度もないのかもしれない……」
ほとんど独り言の様だった。
「そうですか。なら、良かったです」
「……何がだい?」
「師匠の前の人間は、死んだのでしょう? きちんと死ねるという事は、人間として大事な事だと思います」
「……そうだね。そうさ。僕も命の理に則った、普通の人間なのさ」
「普通とは、ちょっと違うと思いますけど」
「……君には言われたく無いなぁ」
のんびりと浮かぶ綿雲は、ただ無機質に俺たちを眺めていた。
「だから……僕は役目を果たして死ぬけれど、今の僕はきちんと死んで、二度とは生き返らない。君の目の前に姿を現したとして、それは違う僕さ。……もちろん、どう捉えるかなんて、人の勝手だけど……」
「だけど?」
「だけど……なんだろうね」
彼女はずっと、向こうを向いていた。
「“僕は別人として扱って欲しい”、ですか?」
彼女が振り向いた。ひどく、泣きそうな笑顔だった。
「君は聡いね。流石は僕の弟子だ」
彼女は俺をしばらく見つめて、また空を見上げた。
俺の人生でやるべき事は、この時に決まった。
目を覚ますと、そろそろ目に馴染んできた天井が見える。格子に区切られた窓の外を見れば、少し続いて褐色の大地と、その先に広がる海と青空。
昔の夢を、見ていた気がする。ぼんやりと、虚ろな記憶の感傷に浸る。
仕切りの向こうの気配を探れば、まだ二人は寝ているようだ。……よく姉弟と川の字になって寝ていたらしいから、しずくにとっては、その距離が心地いいのかもしれない。故郷を離れて俺と二人きり、見知った顔は俺だけの新天地。雫にだって、縋るような何かがあっていいだろう。
すやすやと、今だけは何もかも忘れて寝ている。
再び考える。俺が優先すべきは何だろうか。俺がやるべきは何か、やりたい事は何か。
目標を一つに定めれば、その他はすべて些事になるのだけど、果たしてそれでいいのだろうか。運命の歯車にねじ切られる彼女の命を見捨てたとして、俺は彼女だけは救う事が出来るのだろうか。
俺の両手で持てるものは限られる。俺の手でやれる事は限られている。今まで目の前の事柄に囚われ続け、俺の命はすり減るばかりだ。こんな事ではそれどころか、自分の使命すら果たせず俺の命は潰える事だろう、彼女の言う通り。
俺は切り捨てなければいけないのだろう、きっと。本当に大事なもの以外。だから、切り捨てるべきを考える。俺にとって大事なものは何か、切り捨てるべきは何か、諦めるべきは何か。幾度も幾度も考え直す。
思考が巡る俺の目には、変わらない青空が映っていた。