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19.「むきんしつ」

「戻りなさい」

 

 長かった逃避行も、これで終わりだ。

 車の窓からのぞく、俯く彼女の顔からは、もはや何の希望も見出せなかった。車が小さくなって、見えなくなってからもずっと、俺はただ突っ立って、道路の先を見つめていた。



 背中を預ける、ガラスを隔てて向こうには、彼女の為に作られた部屋がある。、汚れ一つ存在を許されない、彼女だけの部屋。その中で汚れと言えば、彼女自身が生むそれだけだった。


「捕まっちゃいましたね」

「……」

「また今度出かけましょう、一緒に。何度でも。あなたが望むなら」

「……大丈夫だった?」

「俺は大丈夫ですよ。そっちこそ、お体の方は?」

「……風邪を引いただけ。けれど、それもいつもの事。嫌になるのも、飽きたくらいに……」

「体はもう平気?」

「……うん」


 よろよろと、彼女がガラスの方に這って来た。最低限、体を隠すだけの巻頭衣は、極力肌に触れないようにと隙間だらけで。中が見えてしまわないよう、目を逸らした。


「他の……誰、かは」

「誰も居ませんでしたよ」

「……そう。良かった」


 ぺたと、彼女が手のひらをガラスに付ける。それが剥がれたなら、彼女の指紋がガラスを汚していた。


「やっぱり私……外には、出ない方が……良かったんだ」

「……どうして?」

「私が外に出れば……沢山の人に迷惑が掛かる。……あの人にも、そう怒られた」

「彼女なら、あなたが他人の迷惑や世間体を気にしてあなたを責めたわけじゃない。ただあなたの体が心配だっただけですよ」

「そう……なの?」

「あぁ見えて、あの人はあなたの事が大好きなんですから。ツンデレって奴です」

「そう……知らなかった」


 彼女もガラスに背を預ける、一枚を隔てて、彼女に触れる。


「ねぇ、外に出たいよ」

「あなたが言えば、いつでも、いくらでも」

「違うの……私は外で暮らしたい。この部屋の外で、広い、自由な世界で……折角、外に出てもいつかはここに戻される……そんなのは嫌……嫌なの! 私も外がいい、私の居場所はここじゃない、はやてと、はやてたちと一緒がいいっ……!」


 堰を切ったように、彼女から言葉が溢れ出す。それが終わったなら、しゃくり上げる、彼女の啜り泣く声だけが聞こえる。

 今、俺が出来る事と言えば、ここに居て、適当な言葉を吐くくらいで。……ならば出来る限りの言葉を、彼女に。


「俺が好きなのは、今のあなたです」

「……ぅえ?」

「俺が知ってるのは、そこに居るあなたです。そして、俺はそんなあなたが好き。あなたが外に自由に出る事が出来たら、それは素晴らしい事でしょうが、俺が好きなのは今のあなたなんですよ」

「でも……私は、自由に触れ合うことすら出来ない……あなたとこうして、指先一つ、触れる事すら……」


 かりかりと、白い彼女の指がガラスの上を滑る。


「いいんです、それで」

「……でも」

「それがあなたなら、俺はそれでいいから」

「私は! 私は、嫌なの……そんなの……」


 彼女は大声を上げて、俺の言葉を否定する。


「嫌だよ……嫌なんだよぅ……」


 幼い少女は、ぽろぽろと涙を零す。


「それでいいんですよ」


 俺の言葉に、しゃくり上げながら、彼女は聞いてくる。


「……どういう、こと?」

「そこに居るあなたが好き、とは言いましたが、別にそうじゃなくてもいい。そこから出たいと願うあなたも、俺は好きです、もしそこから出られたとしても、やっぱり。俺はあなたが好きですよ」


 彼女は泣き濡れた目で、俺を見つめて首を傾げる。


「ここから出られない……助けが必要な、弱い私が、好きなんじゃなくて……? あなたは、ただ私に力を貸す事が、好きなんじゃなくて……?」

「違いますよ」


 透明なガラスに手を当てた。


「俺は、どんなあなたでも好きだから。あなたに欠けた所があるとか、それが埋まったらそうじゃなくなるとか、そんなんじゃなくて。ただ俺は、どんなあなたでも好きだから。だからいいんです、そのままでも、それから逃れたいと願うあなたも、今のあなたを厭うあなたも、あなたの望むあなたになったとしても」


 ガラスは俺の手を阻むけれど、俺の姿と声は彼女に届く。くぐもった声は、電波を介して、鮮明に。俺はただ、俺の想いを彼女に伝える。


「俺はあなたが好きですよ」

「今の……私も?」

「そうですね」

「この……こんな、こんな私が……?

「そうです」

「……なんで」


 彼女は涙で顔をぐちゃぐちゃにして、問いかける。


「なんでって?」

「私の良い所なんて……ない、何も、こんなに体が弱くて、何も出来なくて、あなたに何もあげられないのに、他人に縋るしか、他人に迷惑を掛けるしか出来てないのに……私の何を、好きだって言うの?」


 何処が好きとかじゃない。理屈じゃ無いのだ。でも彼女はそれでは足り無さそうだから……そうだね。あえて言うなら、君を頭の中に浮かべて、最初に思う事は、


「笑顔が素敵、ですかね」

「え……がお?」

「あなたの清らかな、鈴を転がすような笑顔を見ていれば、心が洗われる、いくらでも元気になれる。そうやって、俺はあなたから、いくらでも貰ってますよ、お返しなら。貰いすぎてるくらいです」

「それ……だけ……?」

「俺にとっては、大事な事ですよ」

「それだけ、なのに……」

「俺にとっては大事な事です」

「それだけで……いいの……?」

「そうだよ。俺の目の前で、可愛い女の子が、素敵な笑顔を浮かべてくれるって事はね」


 彼女は泣きながら、呆れるように笑った。


「……もう。またそうやって、はぐらかして」


 不意に浮かんだ笑顔は、すぐに消えてしまう事は無く。彼女は泣きそうな笑顔のまま、涙を拭い、頭を振った。

 彼女は清潔な床にへたり込み、ぼーっと、俺の顔を見つめていた。


それから、唐突に提案してきた。


「ねぇ、キスして」

「……キス?」

「うん。……だめ?」


 まぁ……いいか。君が望むなら。


「ガラス越しで、良ければ」

「ガラス越しでいいの、きっと……それが今の私だから」


 彼女が目を瞑り、んーっと唇を押し付けてきた。写真に撮って待ち受けにしていいだろうか。スマホを掲げると、薄眼で見ていたらしい、ばれた。


「写真ダメ」

「折角可愛いのに。写真に撮って何度も見返したいな」

「見せてあげるから、はやてが頼めば、いつでも、いくらでも」

「なるほど、必要も無いですね」

「……うん。えへへ」

「じゃあ気を取り直して、今度こそ」


 唇が触れたのは冷たい、硬質なガラスの感触。いつでも触れられるその感触を、俺はいつまでも忘れはしないのだろう。それこそが、彼女のそれだと刻み付けて。

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