17.RuinersReport「退廃の龍王」・前
そこには誰も居なかった。
私が望んだ静寂と孤独の中で、私はゆっくりと冷えていく。
あぁ……寒い、寒い、寒い――
気付け代わりに思い出そう、彼らと過ごした日々を、彼女たちとの思い出を。暖かった……あの日々を。どうにか正気を保って、凍えと死の苦しみと静寂に耐える。
「ねぇ、助けてあげようか。その苦しみから助け出してあげようか」
……苦……しい。……寒い、誰か……誰か……——
「ほら、私がここに居るよ。私なら助けてあげられる、君をそこから救ってあげられる。だから願って? “神様、どうか私に力を下さい”って」
朦朧と、差し伸べられた手を、私は振り払う。
「要らない……これは、私が果たすべき贖罪だ……」
「……そう。ま、いつまでも待ってるよ」
どれだけの時間が経ったのだろうか。意識は落ちず浮かばずの状態で、ここまでの記憶も定かではなく。
「まだ全然だよ。三日も経ってない」
……私はいつ、ここを……——
「何を言ってるの、君が言ったんじゃないか。君はいつまでもそこに居るんだよ」
いつまでも……いつま、でも、こんな苦しみが……苦しみが……。
「もし、時間が気になるなら時計を見せてあげようか。ほら、君の見える所に、ここに置いておこう」
目は見えなかった、しかしそこにある。見えずとも音が鳴る……酷くゆっくりと進む、秒針の音が、私の心を刻んでいく。
「まぁ永遠を生きる君には、必要ないかもしれないけど」
あぁ……長い、時間はゆっくりと進んでいる。
寒い、寒い、寒い、寒い、寒い、寒い、寒い、寒い――
何か、何か温かいものを、何か……思い出はとっくに擦り切れてしまった、もっと温かいものを、心が紛れるものを、あぁ……お腹が空いた、お腹が空いた、お腹が空いた、お腹が空いた――
「さぁ、これを食べなよ。きっと楽になる」
もう正気は無かった。私は、得体の知れない何かを手に掴み、無我夢中で呑み込んだ。それは私の喉を滑っていって、何かが溶けていく。私の体の中で、ゆっくりと、苦しみが溶けていく。
*
極彩色の世界。
子どもが思いのままに塗りたくったような、カラフルな空と大地。見渡す限り広がるそれは、形は綺麗なのに、色だけが異質。見ているだけで吐きそうだった。
「傾聴っ!!」
人の群れが一斉にそちらを向く。
「今ここに“退廃の龍王”救世班を結成! これより“退廃”鎮圧に入る!」
鋭い声があたりに響く。
「龍王が暴走により竜脈が溢れた! 間もなく数多の街を飲み込み世界は滅ぶ! その前に龍王を抹殺することが我々の使命だ!」
「ま、待ってください! 殺す以外に止める方法は!」
彼女が振り向く。
「無い! 少なくとも我々にその余裕は無い! 他に質問はあるか!」
「……他に——」
「お前が止めるその間に刻一刻と世界の寿命はすり減っていく! 分かったら黙って居ろ!」
「時間を稼げばいいんですか?」
声を上げたのは一人の男。
「“純白の根源”を抑制すれば、一時的に竜脈は鎮まります」
「……“根源”の討伐は許可されていない」
「いえ、あなた方が龍王様をどうにかしている間に、そっちを食い止めるという話ですよ、俺たちが」
「……」
「時間を稼げるのなら、あなたにとっても悪い話じゃ無いでしょう?」
鋭く声を上げた男の方を見つめる。
「……そんな事が可能なのか?」
「俺たち全員でやれば、まぁ」
「……それだけの戦力を余所に割く余裕は無い」
「提案ではなく、私たちはこうすると言ってるんですよ」
男は少しの間、睨まれる。
「……勝手にしろ」
「それじゃあ皆さん、俺に付いてきてくれます?」
男を先頭に、茜のマントを纏った皆が、大地を駆けていく。残ったのは、背徳姉さまと謎のフードの男、あとは俺だけだ。
「……やってくれたわね」
「人望無いですね背徳姉さま」
「殺すわよ」
「今日は機嫌悪いですね」
「当たり前よ。あれだけの事があって、彼女は結局」
極彩色の世界に一つ、ひときわ輝く純白の城を睨む。
「殺されるんだから」
「まぁまぁ、折角時間も出来た事ですし、のんびり作戦を考えましょう」
聞いていた災厄は、宣告通りに訪れた。
「彼女と世界を救う作戦を」
「行きますか」
「待ちなさい」
姉さまが手のひらをお椀にして、そこにぺっと唾を吐き出す……え?
「飲みなさい」
「……えっ」
二度見した。
「早く。時間は無いから」
「いや、なん……何で?」
「中に私の力が混ぜこんであるわ。これが、あなたの体を巡って、あなたを変異の力から守ってくれる」
差し出された手のひらを見ると、液体は白く澱み……水面が、蠢く小さな何かによって歪む。
「ほら、早く」
「……何か居るんですけど」
「まぁ、寄生虫とかね」
なんで?
「別に、あなたの体に直接力を使って保護してもいいけど。二度と元に戻らないわ」
「……これなら大丈夫なんですか」
「他の生き物の中に私の力を閉じ込めて、あなたの体に入れるの。そうすればあなたはあなたのまま、私の力で守る事が出来る。この子たちがあなたの体の中で生きている間は」
……。
「……どうしても必要、です?」
「あなたじゃあの子の竜脈に耐えられない。死にたいの?」
「これを使えば、耐える事が出来る?」
「……私を舐めてるのかしら」
どっちにしろ舐めるじゃねーか。
「いいから飲みなさい、早くしないと死んじゃうわ、ほら、早く。体液の外では長く生きられないの。……嫌なの?」
彼女の眼をじっと見る。
「……俺が嫌がるのを見て愉しんでません?」
「そんな事ないよ」
「この先が謁見の間よ。すぐそこに居るわ、覚悟なさい」
城の中を進むと、中は伽藍洞だった。城の外で群がるように襲って来た光の群れも、城の中にはピタリと入ってこない。静かな、彼女だけの城の中。
「仲間に会うのに覚悟なんて要りませんよ」
「そこに居るのはあなたの知っている彼女じゃないわ」
城は、不思議な材質で出来ていた。半透明の、青白い、ぼんやりと光を放つ石が積み上がって、壁が出来ている。城内に明かりは無いが、暗くはない。ぼんやりと光る石が薄暗い廊下を照らしている。
「俺の知ってる彼女ですよ」
今、目の前にある、固く閉ざされた、巨大な鉄扉を押して、こじ開けた。
まばゆい、白い光が扉の先から溢れ出す、扉の先に居たのは——
その先にあったのは広い空間だった。見上げるほど高い天井からは、豪華絢爛なシャンデリアが垂れさがる。並ぶ窓ガラスは氷の彫刻の様に白一色で彩られ、段々と上がっていく床の先に置かれた唯一つの大きな玉座。
そこには一人の女性が座っていた。肘をつき、片足を椅子に上げられている。背中は椅子に預けられ、ふてぶてしく、傲慢に。
彼女が声を発する。
「武器を携えて我が前に姿を現すなど、無礼だな」
「これは失礼を。しかしここに来るまでに現れた無法者を切り捨てるのに必要だったので」
「……その声は、はやてか」
彼女は純白の衣を纏う。純白の髪を無造作に靡かせ、目を凝らしたなら、そのまつ毛までもが白く。
彼女の眼窩に嵌る目は無く、黒く落ち窪み。体中からは白い泥が滴り落ち、際限なく白い光が溢れて、行き場なく周囲を渦巻くそれらは、やがて結露し、泥となり、地面に泥だまりを作っていく。
彼女は龍王、退廃の名を冠す竜脈の王。彼女から溢れる光は全てを白く塗りつぶす。
「来たのだな」
「えぇ。貴方に会いに」
彼女の声に驚きは無かった。喜びも、無かった。
「龍王様、僭越ながら、一つ、お聞きしたい事があるのですが」
「なんだ。言ってみろ」
「なぜあなたは世界を脅かすのでしょうか」
「知らんな。私はただ、私の生きやすいように世界を変えているだけだ」
その為に、竜脈の栓を抜き、数多の街を襲わせているというのか。
「しかし龍王様、その過程で大勢の人間が犠牲となりますが」
「そうか」
それに続く言葉は無かった。彼女は自身が生む犠牲を、当然のものとして受け止めた。
俺のよく知る彼女は、そんな事はしなかった。俺の知らない彼女が、そうする事を知っていた。
「龍王様。あなたが世界に仇を為すというのなら、力尽くでも止めさせて頂きますが」
彼女は俺を嘲り笑う。
「やってみろ」
王宮を、光の風が吹き荒れる。