16.転移点「竜脈嵐」
風が吹けば、窓に掛かった白いカーテンが揺れる。彩られた風車が回り、カタカタと音を立てている。
部屋には、二つのベッドが置いてある。二つのベッドに一人ずつ。一人分だけ空いた部屋。
「……どうして」
純白は城へと帰っていった。
「“私のせいで人死にが出た。私が城を出てきたせいだ。私は再び、あの城に籠る事にする”」
「……違う、そんなの」
「“それに、下界での生活にも満足してきた所だ。この体では満足に動けないと分かった事だし、私にはただ城の中でだらだらと過ごしているのが性に合っているから”」
雫が顔を上げる。
「あなたは、あの人に何を言ったの」
……。
「事の顛末が分かったから、全てを話しただけだよ」
「……どうして」
「知るべきだと思ったから」
それが彼女の責務だから。
「……お願い、したのに。おねーさんを、守ってって」
「……それは――」
「うるさい」
「……」
「出て行って」
*
「下着見えてますけど」
宿屋の部屋、仕切りの向こう、彼女の惨状を眺めながら言う。
「……は、はぁ? 勝手に見んなし」
「部屋の右側と左側とを比べて、自分の現状を鑑みてもう一度言ってみな」
「別に散らかってませんけど。高度な配置で整ってるんですけど」
言いながら、雫は下着のみ速やかに回収していく。全部片づけろ。と、仕舞い終わったところで雫の動きが止まる。
「どした?」
ぐぎぎとこちらを向く。
「一枚足り……ない」
俺は取ってないよ。皿屋敷かな?
「何色の?」
「え……ら、ライトブルーの、やつ」
「それなら今履いてるでしょ」
「あぁ、そっか」
「全部あって良かったね」
「うん」
危ない危ない、危うく下着泥棒だと謂れの無い疑いを俺に掛けられる所だった。
「ところで何で今履いてるって知ってるの?」
窓際に置かれた机には、彼女の宝物が並べてある。
引き延ばされた黄緑色の薄片。小さい、透き通った無色の小石。粉々に砕かれた、鮮血のような赤い石。白く濁った、ミルクのように滑らかな石。この世界に来てからの物しか無いから、俺の見知ったものも多い。
彼女は無機質なそれらを見るのが好きなようで、偶に机に突っ伏しては、無為にゴロゴロと眺めている。
「あれ、これ増えたの?」
手に取ると、鮮やかなピンク色、淡く濁った石だ。光が差し込み、机に控えめな桃色の影を作っている。
「綺麗な石だね。どっかの魔石?」
「ううん。純真の体から出てきたの」
置いた。
「ど、どこから」
「しっぽ」
「……純真に異変は」
「無かったよ」
なんだ。
「それ、持ってていい奴かな?」
雫が聞いてくる。
「どういう意味?」
「いや……あの煙みたいな効果、有るのかなって。その石にも」
発情効果?
「無いと思うけど。まぁでも、普通の石ではないかな」
「どんな石?」
それは悪魔の石。
「なんと食べるといくらでも体が再生します」
「便利じゃん。食べてみてもいい?」
「おすすめは、しないかな」
「どーして?」
「いくらでも再生するからね」
「ふーん」
雫が石を取ろうとして、その前に取り上げる。
「かえしてー」
「必要が無ければ、しない方がいいよ」
雫に返すと、光にかざして見ている。
「私の持ってる他の石にも、変な効果がある?」
「どちらにしろ食べない方がいいね、他のは」
「これは?」
「まだマシだけど、だめ」
雫がそれを見つめる。不意に伸びた舌先が、ちろとそれを舐めた。彼女の舌の桜色が鮮やかに映った。
「ダメだよ」
「心配しなくても食べないよ。てー放して」
じっと見ていると、彼女が言い訳のように続ける。
「おいしそうだなーって」
「石が?」
「ふーくんはならない?」
「飴玉とそれが違う事は、知ってるからね」
「飴玉……そっか、だから舐めたくなるんだ」
「何味だった?」
「なんもしない」
雫が石を水で漱ぎ、綺麗に拭った。
「ところで純真の石舐めるとかえっちじゃないですかね」
「ぶっ殺すよ」
「街の外に行きたい」
彼女は既に支度をしている。
「いいけど、何しに行くの?」
「ちょっと見るだけ」
「日帰り?」
「日帰り」
宿を出て、途中で風車をいくつか買って、分厚い門を抜けていく。整備された街道を逸れ、短い緑の草に覆われた一際大きな丘の上。
丘にはいくつもの岩が立っていた。知らされなければ、それが誰の物とも分からない、岩の群れ。雫が岩の前に風車を刺して、手を合わせていく。
最後に残った真っ白な風車を、岩の一つの前に刺す。既に沢山の白い花が咲いていた。全て彼女が刺したのだろうか、それとも、他の誰かが。
「知ってる? この風車の羽、虫の羽とか甲殻とかで作ってるんだって」
「へー。通りで丈夫な訳だ。街の風車も結構そのままだし」
プラスチックではないだろうが、紙でもない、不思議な素材だったから気になっていたのだ。しかし虫か……。盲点だった。
ふふと、彼女が自慢げに笑う。知りたくなかったけど。
「私の方が物知り……!」
あはは。
「エビの尻尾とゴキブリの羽は同じ材質なんだよ」
「ゴキブリの羽って美味しい?」
「あ、そっちに行く? 俺はエビの尻尾も食べないから」
「特に知りたくなかった」
「右に同じだね。この風車、虫由来か……」
まぁ……今が綺麗なら何でもいいか。くるくると軽やかに風に回る風車。
「きゃっ」
と、突風が吹き、辺り一面の風車がカタカタカタと一斉に鳴る。彼女の手を引き、押し倒す。
「な、なに?」
「しばらく静かに」
光の風が草原を撫でつけ、くるくるとその様相を変えていく。通り過ぎるのを確かめ、体を起こした。
「りゅーみゃくらん、ってやつだっけ」
「そう……だけど」
光の風に触れた、素直にまっすぐ伸びていたはずの数多の草々たちが、風に巻かれたようにくるくると捻じれている。風車もいびつに歪み、カラカラと不規則に速度を変える。
「……こんな街の近くで発生するものだっけ」
起き上がって、風上を見ると、ここは丘の上だったから、先の方の景色まで見渡せたのだ。
緩急なだらかな草原の大地は、今まさに目の前で、嵐の海のように凸凹と捻じれていく。
全て塗り潰す鮮烈な変異の光が、風の街へと迫っていた。
「お父さん」
執務室を開けると、いつものようにそこに座っている。
「海が荒れてる」
「んなのいつもの事だろ、心配すんな」
「違う、いつもよりずっと」
「あぁ?」
彼が窓に寄り、島の外を見る。
「……本当だ。風もねーのに波が高」
オオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォ!!!!!
「こ……こいつは海神様か!? ロキが暴れてこんなに海が!」
「海神様はいい子だよ! こんな事しない!」
「……とすると、荒れてんのは……」
彼は窓の外の海を見た。声が鳴りやみ、色濃い残響が頭に残り続ける。
「きらり!! 今すぐ町の皆を集めろ!! ワンチャン島が飲み込まれる、大陸まで非難するぞ!!」
「助けてー!!」
彼が大量の魔物を引き連れ密林の中から現れる。
「バカ兄!! 今度は何したんですか!!」
「ち、違う!! 魔物が勝手に付いてきて!!」
「いつもそう言って——」
と、一目散に足の速い魔物が、駆ける兄を追い抜き、私の隣を過ぎていく。まるで私たちなど眼中にない様に。会敵すれば必ず襲い掛かって来る魔物たちが。ただ一様に、同じ方向へと逃げて行く。
「助かったな」
「助かってませんよ奥で何かあったんです! 私たちも早く逃げますよ!」
「なに……?」
「お姉ちゃんぽけっとしてないで走って!」
「ぽけっと……?」
「さくら様……さくら様!!」
そちらを見れば、よく見る爺が私を揺さぶる。
「何だ爺、作業中は邪魔するなと言ったろ」
「緊急事態でございます! あなたも早く安全な所へ!」
「何があった」
「分かりません……ただ! バケツをひっくり返したように、街の外に魔物が溢れかえっておりまして!」
「魔物は虚空から湧くわけじゃない。本流近くのが一斉に来たんだろ」
「そ、そうなのですか? ……とにかくお逃げください!万が一壁の中まで魔物が入って来れば――」
「やかましい。私は作業の最中だ、後にしろ」
鳴り響く鐘の音と振り下ろす鎚の音が重なる。
「さくら様!!」
「これが……世界の終わり……」
恐怖で体が動けなかった。
目の前で、変異の光は今も吹き荒れ、大地を、世界を歪ませる。それが少しでも腕の中の彼女に及んでしまったらと恐れ、地面に蹲り、彼女を強く抱きしめ、ただ風が止むのを待っていた。
けれど一刻も早く立ち去るべきだった。
太陽が雲に翳る今日の日に、けれど世界は明るかった。塗り潰すような黄緑色の光の風は、視界の全てを、世界を歪ませ、眩ませながら俺たちへと迫り来る。
膨大な力の本流が俺たちを呑み込んだ。
*
「さぁ、始まるぞ“幻想の鍵”! 間もなく世界を竜の息吹が飲み込み、遍く全てを捻じ曲げるだろう! 元凶はただ一つ、暴走した龍王だ! 今から世界の為に彼女は僕らの犠牲になるだろう! もしくは今一度世界は滅ぶだろう!
そして! いつか切った君の啖呵は覚えているな! 君にその意志があるのなら、僕たちと純白を相手に、それでも君の大事なモノを救って見せろ! ここからが正念場、ここからが本番だ! これより災厄報告書“退廃の龍王”は最終段階に入る! 頼んだぞ! 君こそが“幻想を救う鍵”となる!」
「緊急集令っ!! 否定が無ければ今すぐ呼ぶぞっ!! 三、二、一!!」
勾玉が強い輝きを放ち、世界を眩ませ、俺の体が空間を飛ぶ。