13.「邪悪な風」
「すぅ……すぅ……」
安らかな寝息を立て、雫はお姉さまのベッドに伏せている。
「一晩中泣きついて来てな。もう、どこにも行かないでと」
「……愛されてますね」
「君もそうしていいぞ。今、私の胸はあいている事だし」
「邪な感情が混じってしまうので、今は」
すやすやと眠る彼女を抱え、隣のベッドに運ぶ。
「君は落ち着いているな」
「……薄々は、気づいていたので」
泥のように消えた竜、いやに軽い彼女の体、肌に付着した落ちない泥、“この体は出来が良い”。思い返せばヒントはいくらでもあった。彼女の体は元からこうだったのだ。今までが、ただ調子が良かっただけなのだ。
白いカーテンの隙間から朝日が差し込み、ベッドの上の純白の体を照らす。冷たく爽やかな風が流れてくる。
お姉さまは全身が白い泥に覆われ、ベッドを溶かし、沈み込んでいた。
「そんなに、私の体に興味があるか」
「綺麗な体ですよね」
お姉さまがそっぽを向いた、見れば少し顔が赤い。
「触っていいぞ」
「では遠慮なく」
「ひゃっ」
泥に手を突っ込み、体の感触を確かめていく。……良かった、泥はまだ、皮膚を覆うだけのようだ。……もちろん、だけと言える状態では無いのだけど。
「……汚れる、ぞ」
「今はお姉さまに触れたいのでいいんです、後で拭けば」
「そうか。胸は触らないのか?」
「……それは、いつかの機会にとっておくことに」
「ほう、来ると思うか。そんな機会が」
「……えぇ。きっと来ますね」
「無礼だぞ」
「今触りますよ」
お姉さまは呆れたような、笑っているような。
「相変わらず君は口ばかりだな」
「お姉さまに言われたくないんですけど」
「偶には雄々しい所も見せたらどうだ、衝動的に襲い、責任ならいくらでも取ると」
「残念ながら、未だ自分の身を支えるのが精いっぱいでして、女性を背中に負う覚悟も、子どもの手を引く力もありませんので」
「甲斐性なし。意気地なし。ビビり泣き虫弱虫骨なしチキン」
……前回手を出してビビったのはそっちなのに!
「あぁん!? そこまで言うなら襲ってやらぁ! 文句言うなよお姉さまが煽って来たんだからな、雫にまた襲われたとか言い付けるんじゃねーぞ!」
「あぁ、何も言わないぞ。私はな」
ぐいと肩を引かれる、振り向くと、起きて来た彼女の顔があった。
「あはは違うんですよしずくさん」
「ねぇ、純真は今、どこに居るの?」
「さー」
「連れて来て。ふーくんが知ってること、全部知ってるから」
「……」
こわ。頭の中の知識まで覗けたっけこの子。
自称家出中はその辺で見つかり、運ぶ道中襲われたので手と尻尾を縛って連れてきた。窓を全開にして窓際に転がす。
「やー久しぶりの再会ですね、お姉さま。気分はどうです?」
「少し臭うが、随分楽しそうな状態だな」
「一緒のベッドに寝かせてあげましょうか?」
「臭いからやだ」
「お姉さまも泥だらけですしね」
顔を伏せたまま芋虫のように動かないので、体を起こして壁にもたれさせる。今も、彼女の頭から桃色の煙が出ている。
純真が、顔を逸らしたままぽろぽろと涙を零し、
「何で連れて来たの……こんな姿、見られたくなかった……」
「だとさ、しずく」
「めんどくさ」
びくっと、純真の体が震える。
「そんな理由で姿を隠してたの?」
「だ、だって……」
「うるさい。勝手にどっか行くな。今は純真に構ってる暇ない」
雫は純真の尻尾を掴んで手を突っ込み、
「えっ!? ひゃっ! ななにするの!?」
「へ、変な声出すな。石探してるの」
「い、石? 私の尻尾にそんなの隠してたの?」
「違うよ、勝手に出てくるの……あれ? どこ?」
「ね、ねぇ……しずく……んっ……」
二人の会話が微妙にすれ違っている。
「そこに無ければ無いんじゃないですかね」
「……ふーくん?(知ってる事は聞かれる前に吐け)」
「石なら、夜空ちゃんなら持ってるかもよ」
「な……何よこれ……」
部屋を訪れた夜空ちゃんが言葉を失う。視線の先には、縛られ桃煙を漂わせた純真、ベッドを白い沼に変え沈み込んだ純白。
「あ、昨日事件の犯人見つけて無力化しといたんで後で対応お願いしますね」
「体が再生する石ください!」
「待って、一回待ってね」
小休止。
落ち着いた夜空ちゃんが聞いてくる。
「その……縛られてる子が、犯人っていう?」
「あぁ、いえ。こっちはうちのバカで」
「……じゃあ何で縛られてるの?」
純真はそっぽを向いて何も言わない。
「そういう日もあるんです」
「……そう。その、なんか出てるけど、色々」
「尻尾はデフォルトですね。ピンクの煙の方は媚毒成分があるので触れないように」
「そいつが犯人じゃない」
「違います、こっちはただのバカです。危ない方の淫魔は後で連れてきますね」
「……そう。……それで、そっちの彼女は」
「……こっちも、気になさらず」
俺の顔を見て、夜空ちゃんは言及を止めた。と、抑えていた雫が会話に入る。
「あ、あの! 夜空ちゃんが、体が治る石、持ってるって」
「……えぇ。持ってると言えば、持ってるけど」
「くれませんか、おねーさんの体を治したいんです」
夜空ちゃんが首を傾げる。やっぱりそれが目的か。
「無理よ」
雫が、伸ばしかけた手を下げる。
「私の体質の事は知ってる?」
「いくらでも体が再生するって……だから!」
「そうね。再生の魔石って言う、特殊な魔石があって、それを体内に取り込むとそうなるの」
幻想体質“不死”というやつだ。
「私はもう体の中に入れちゃってるから。取り出す方法はないのよ」
「……余りは」
「ごめんなさい。私が手に入れた物は一つで」
「そう……ですか」
石自体は、そのうち純真から採れるのかもしれないけれど。
「あっても、使わない方がいいと思うよ」
「……どうして」
「お姉さまの体を治す為に、欲しいんでしょ?」
「そう……だけど」
んー、雫にどう説明すればいいかな。
「彼女はここら辺に」
寝ている彼女のお腹をぽんぽんと叩く。
「おっきな魔石が入っている筈。お姉さまも、同じような石を取り込み、代償としてこうなったんだ」
説明を続ける。
「夜空ちゃんが食べたのは恐らく汚染結晶、それで獲得できるのは幻想体質“不死”。お姉さまの石は竜脈結晶、獲得できるのは幻想体質“魔物”。“魔物”は魔法に極めて秀でる、代わりに、体が異なる生き物のそれへと変異していく。その変異は極めて不可逆的なものであり――」
「……えっと」
かびた知識を片端から引っ張り出していると、雫が呆けている。……あー、つまりは、
「結論から言えば、夜空ちゃんの石じゃ、お姉さまは治せないよ」
「……じゃあ、どうやって治すの」
「俺は知らないかな」
役立たず、と、彼女の言葉が宙に浮く。
ばっと立ち上がる。
「ふーくんは知らなくても、他の誰かは知ってるかもしれないから」
「隔離病棟かなんかですかここ?」
「ぶっ飛ばすよ」
開口一番にこれだよ。雫がまた一人引っ張って来た。
「ねぇ天勁ちゃん、おねーさんを治す方法、知らない?」
「はぁ。とりあえずばっちいので洗ってきたらどうでしょう」
お姉さまが拗ねたように言う。
「触れる端から泥に変わる、焼け石に水だ」
「毎日汚れるからと、風呂には入らないタイプですか?」
「寒いからやだ」
「寒いから嫌だそうです」
ほんまこいつ。
「いいから体を流してきてください、私はその辺で魔織布を調達してきますから」
「……魔織布?」
「空の魔石という、魔力を吸収する魔石が糸に織り込まれた特殊な布の事です。竜脈避けや魔道具なんかに使われたりしますが、まぁ彼女の魔力漏れも吸収して——」
……?
「……とりあえずその人を洗って来て下さい。私が準備をしておくので」
俺がお姉さまを連れて水場で洗浄、雫がベッドを片付け、純真は窓辺で日向ぼっこ、そして天勁ちゃんが準備をしてくれていたらしい。ベッドに、絨毯のような布が敷いてある。
「柄が気に入らない」
「柄が気に入らないだそうです」
「ぶっ飛ばしますよ」
お姉さまをその上に下ろすと……へぇ、本当だ。純白が触れても大丈夫、触れても泥に変わりなどせず、彼女の体を受け入れる。すげぇ、魔織布か。覚えておこう。
お姉さまは綺麗になった体を、綺麗な布の上で体を横たえる。
「ん、悪くないな。よくやった」
「はぁ、ありがとうございます」
雫が天勁ちゃんの袖を引く。
「ねぇねぇ、おねーさんの体を元に戻す方法は、知らない?」
天勁ちゃんがお姉さまを見下ろす。すでに肌を覆い始めている白い泥を見る。
「酷く珍しいタイプですが……魔物化ですよね」
「おそらく」
「無いですね」
雫の肩が落ちる。
「魔物は極めて魔法に秀でる、魔物には簡単になれる、簡単に強くなれる。しかし代わりに竜脈に縛られる。そんな簡単に元に戻す方法があるのなら、我々騎士王隊は皆喜び勇んで魔物と化すでしょう。だからこそ我々は魔物にはならない、永く、強く戦い続けるために」
騎士王隊が剣術重視な理由だ。
「……で、でも」
「冒険者の中に、たまに事故で魔物となる人間が居ますが、元に戻ったという話は聞いた事がありません。彼らも出来るなら人間に戻りたかったでしょうが、いくらでも方法を模索したでしょうが、今まで見つかった例はありません。彼女を助ける方法が、その辺に転がっているとは思わない事ですね」
俺は知らない。俺が知らないという事は師匠も知らない。師匠が知らないという事は……まぁ。
「でも……」
「見たところ、彼女はずいぶんと幸運なようです。これだけ竜脈から離れていても魔力が枯渇せず、理性を保ち、人としての姿を保ち、あなた方のような仲間にも恵まれる。魔力漏れは重大な欠陥ですが、あなた方はそれを忌避していない。分かっていても中々そうはいかない、素晴らしいと思います」
「……そんなの」
俺は耐性あるしね。天勁ちゃんはまだ続ける。
「あと私から言えることは、彼女の最期は覚悟しておくことですね。魔物の最期は概して魔獣化という理性の無い獣に成り下がる事が多い、もしそうなった時は、人を襲う前に、止めを刺してあげる事」
「わたしはそぅな……ふあぁ……」
「私はそんな凡百のような惨めな最期にはならないから安心しろ、だそうです」
「彼女の欠伸面からそこまで読み取れるのですか」
疲れたらしい、お姉さまはまたお休みモードに。
「また何かあったら呼んでください、街に居る間は力に成りますから」
「天勁ちゃん、意外と物知りだね」
「知識は力ですから。力になる知識は、少ないですけど」
「ありがとう、天勁ちゃん」
「いえ。ではまた」
「ごめんなさい……力には、成れそうにないわ」
藍鉄さんも部屋に来てくれた。
「何か、珍しい秘跡とか知ってたりしません?」
「治癒系統は、さっぱりで」
彼は申し訳なさそうに言う。
こちらこそ無理言ってすみません。
「オネエはヒーラーか脳筋かのイメージがありますが、藍鉄さんは後者なんですね」
「うちの“灰”みたいな事言うじゃない」
逆だった。雫が、力なく彼の裾を引っ張る。
「……ごめんなさい。人の力では、治せないものも、あるのよ」
アイガちゃんに聞いても、やはり何も知らず。
騎士王隊三人、禍津鬼一人。龍王悪魔学生賢者の弟子。三人寄れば文殊の知恵、とは言え八人が集まって出来た事と言えば、彼女の寝床が少し良くなったくらい。
予想通りと言えば予想通り、期待外れと言えば、まぁ。
期待はしていなかったけれど。
「私復活!!」
翌朝、扉を開けると、お姉さまの姿があった。朝日に照らされ、ベッドの上に両の足で立っている、お姉さまの姿が。
「……」
「どうした、何を呆けた顔をしている」
「……なにが、何で」
「昨日のあれなら風邪を引いていたらしいな。寝たら良くなったぞ!」
「それは……よかったですねぇ……」
………………風邪、か。
「お前明日から絶対に厚着させるからな」
「絶対に断る」
目を覚まし、元気なその姿を見つけた彼女たちは、お姉さまに抱き着く。余りに嬉しそうな皆の様子に、俺も混ざっていいですかと聞いたら殴られた。解せぬ。