エピローグ その目が再び開く時
グアノは深呼吸し、体の力を抜いた。そして前方に意識を集中させる。
何もない空間に、唐突に炎が生まれる。それはゆっくりと、グアノを警戒するようにゆらゆらと左右に揺れた後、グアノに向かって直進する。
グアノはそれを冷静に見つめ、分析する。
(炎…ヴァナスか?いや、にしては小さい。これはおそらく、高出力の火の粉…!)
「火の粉!」
グアノは唱え、飛んでくる火の玉に向かってそれを投げつけた。二つの魔法が打ち消し合い、弾けるように炎が消える。
「違う。」
すぐそばで声がした。グアノはそれを振り返る。そこに立っていたのはエルナンだ。喉に絡みついていたイバラの呪いはキリヤによって取り除かれ、今では問題なく声が出せるようになっている。
「確かに火の粉でも似た現象は起こせるが、今回使ったのは灼熱だ。」
「灼熱…ああ、なるほど。」
グアノは納得し、ふぅとため息をついた。
グアノがセキガの領地に来てから、十日ほどが経過した。あの時、グアノは結界の合成魔法で魔力を使いすぎて、再び倒れてしまったのだ。幸いにも意識はすぐに戻ったが、それでもグアノはここに留まっていた。
「初めの頃に比べれば応用ができるようになってきたが、それでもまだ機転が利かないな。」
「見た魔法の呪文を推測し、即座に同じ呪文で打ち消す…。これが、セキガ族の子供は自然とできるようになるそうですね。」
「そういう大人たちを見て育つからな。完全に打ち消すことはできなくても、呪文の推測を間違えることはほぼない。」
少し休もうか、と言ってエルナンはその場に腰を下ろした。グアノもその隣に座る。
「…キリヤと王子の様子はどうですか?」
グアノは尋ねる。
「キリヤはかなり落ち着いている。精神的な疲弊が大きかったのか、あまり外に出ることはないけどな。倒れていた時は、正直どうなるかと思ったが…。キリヤ一人に今まで背負わせた分、今度は一族のみんなで支えてやらなきゃいけない。」
そう呟くエルナンは、これから先の事に不安を感じているようだったが、それでもどこか安堵したような表情をしていた。
「王子は体力も回復して、元気そうだ。でも、領地にいた時間が長かったから、もうじき王都へ帰るらしい。もちろん、これきりで関係を終わらせるつもりはないと言っていたが、これからどうなることやら。…でも。」
エルナンは空を見上げた。
「これからはいい方向へ向かっていくさ。今までは…本当にひどい状態だったから。」
「カイサレオ、のことですか?」
「ああ…。酷い事を言うようだが、今回の件であいつが死んで、本当に良かった。」
エルナンは顔をしかめた。
「あいつは突然領地に現れたんだ。力に溺れていたあいつを、どういうわけかキリヤは受け入れて…それに振り回されるように一族は変わっていった。今考えれば、キリヤは王子に被害が及ぶのを防ごうとしたんだろうな。下手に抵抗すれば、王子は殺されていたかもしれない。あの時はまだ、僕たちに王子のことは知らされていなかったから、キリヤは一人で背負い込んでしまったんだ。」
「現れた…?カイサレオはセキガ族なのでしょう?」
「いいや。」
エルナンは首を横に振った。
「あいつは赤い髪をしていたが、セキガ族じゃない。なんで自分がセキガ族だと思っていたのか、今となっては分からないが、あいつには一族の血は一滴も流れていない。僕からすれば、魔力の質の差ですぐにわかる事なんだけどな。」
「そんな事が…。」
「まあ、お前にとっては異国の、見ず知らずの種族の問題さ。お前が気に病む必要なんてない。ああ、そう言えば…」
エルナンはグアノを振り返った。
「お前には、ずいぶん迷惑をかけたらしいな。」
そう言うエルナンは、本当に申し訳なさそうにグアノに視線を向けていた。それを見て、グアノは苦笑する。
「ああ、魔導国でのことですか。」
「…本当にすまない。カイサレオには警戒していたつもりなんだが、まさか操られて利用されるなんて…。僕には当時の記憶すら無い。セキガ族として、本当に恥ずかしい話だ。どうお詫びをすればいいか…。」
「そんな、お詫びなんて。意図したことではありませんし、こうして稽古に付き合ってもらえるだけでもありがたい事です。」
「そうか。そう言ってもらえるなら、ありがたい。」
そう言って、エルナンは視線を戻す。
「それで、お前はいつまでここにいる予定なんだ?」
エルナンが尋ねる。グアノは苦笑した。
「そう…ですね。ここにいても私にできることは無いでしょうし、いつまでもお世話になるわけにはいかないと分かっているのですが…。」
セキガの領地は巨大な魔力の波に飲み込まれたが、幸いにも被害は魔道具の破損だけにとどまっていた。そのため、セキガ族が元の生活に戻るのにはそれほど時間はかからなかったのだ。
「せめて…セクエが目覚めるまでは待っていたいのです。」
エルナンは思案するように少し黙った。
セクエとバリューガは、魔力の波が通り過ぎた後、領地の境界付近で倒れているのが発見された。奇跡的に二人とも息をしており、その後バリューガは目覚めたのだが、セクエは未だ目覚めないままだ。
「残酷な事を言うようだが、セクエは…。」
「分かっています。」
言いかけたエルナンをグアノは遮った。
「セクエには今…魔力が無い。」
グアノは呟くように言った。それがどんな意味を持つのか、グアノは痛いほどに分かっていた。
「魔法使いは、魔力が無ければ生きられない。今はまだ息をしていますが、事切れてしまうのも…時間の問題かもしれません。」
「……。」
エルナンは気まずそうに黙り込む。
「それでも私は、セクエを諦めるわけにはいかない。たとえ私に、何もできないとしても。」
「…その理由を聞いても?」
「様々ですね。彼女には尋ねたい事があるのですよ。なぜ魔導国を飛び出したのか、彼女の魔法が他と何が違うのか。ですがそれ以上に…。」
グアノは視線を落とした。
「今の私は…セクエの主ですから。」
「ああ…黒い蜂の。」
「あれがある以上、私は彼女を見捨てることなどできません。あの呪いを取り除くまでは。」
「呪い、ねぇ。」
エルナンは考え込むように顎に手を当てた。
「魔導国ではもう廃れた技術らしいが、セキガはまだそれを活用する例もある。…呪いをかけた者の死後、第三者の手によって呪いを取り除く方法も、一応は存在するんだ。」
「……!」
グアノは驚いてエルナンを見た。しかしエルナンはどこか納得がいかないように考え込んでいる。
「呪いは、他者に移す事が可能なんだ。その方法を使えば、解けなくなった呪いを実質的に消し去る事ができる。」
「では…呪いを移された者は?」
「移された者は、新しくその呪いを背負うことになる。だから、本当の意味で呪いが解けるわけじゃない。」
「それでは…何の意味も…。」
グアノは少しがっかりして視線を落とした。それを見て、エルナンはふふっと笑う。
「お前なら、そう言って否定すると思ったよ。呪いをかけた本人がいない以上、その呪いはもう解くことはできない。まだ、な。」
「まだ?」
グアノはエルナンを見る。エルナンは面白がるように、口元に笑みを浮かべていた。
「『魔法に不可能などない』というのがセキガの教えでね。今は不可能でも、いつかその方法は発見される。だから、探してみればいいさ。セキガ族の歴史の中で発見できなかった技術でも、案外お前なら見つけられるような気がしてるよ。」
「なぜ、そこまで…。」
「だってお前は、罪悪感に弱そうだから。」
グアノは言っている意味が分からずに首を傾げる。それを見て、エルナンはまた笑った。
「罪をうやむやにして無かったことにするくらいなら、お前は必死になって解決策を探す事を選ぶだろう?新しい魔法や技術っていうのは、そういう奴が見つける事が多い。」
「私に…できるでしょうか。」
「未来のことは分からないさ。でも、そんな未来だってあり得るだろう?」
グアノは励まされているのか、あるいはからかわれているのか、よく分からなかった。
「さて、と。僕はキリヤの様子を見てくる。あの状態じゃ、まだ一人にするのは不安だからな。」
そう言って、エルナンは立ち上がった。
「ああそうだ、それからもう一つ。」
「まだ、何か?」
エルナンはグアノを見下ろして言った。その目は、もうからかいを含んでいるようには見えなかった。
「お前たちは呪いで被害を被ったのかもしれないが、呪いは、決して悪い魔法じゃない。…呪いが呪いとも呼ばれる理由を、どうか忘れないでくれよ。」
それだけ言って、エルナンは去っていった。残されたグアノは、最後の言葉の意味を考える。
「呪いと…呪い…、か。」
グアノは呟く。そして、思わずフッと笑った。
(うまく丸め込まれてしまったか…?)
グアノは空を見上げた。
セキガ族は、かつて栄華を極め、最強と謳われた一族。その高い技術と知識は、勢力を失った今でもなお他の種族の追随を許さない。そして彼らの力で最も脅威となる点は、催眠や幻覚といった、相手を操り翻弄する事を得意としていること。対峙した相手は気付かぬうちに操られ、負かされるという。
エルナンは魔法を使わなかったから、これは単純にエルナンの話術の問題だが、何にしても、他者を操るに長けた一族であることは間違いないようだ。
(これも、エルナンの策なのかもしれない。私を使って呪いの研究を進めようと考えている可能性はある。実際、きっかけを与えた彼らに何の報告もしないということは、自分は決してしないだろう。だが…)
まあ、それでもいいのかもしれない。結果やきっかけはどうあれ、自分がそれを知りたいと思っているのは、紛れもない事実なのだから。
(…私もセクエの様子を見に行こう。)
グアノは立ち上がった。
ーーーーーー
小さな小屋の中で、バリューガは眠ったままのセクエの隣に座り、その様子を見ていた。この小屋には窓がなく、開いたままの入り口から光が入ってきて、小屋の中をうっすらと照らしていた。
バリューガの表情は決して険しくはなく、ただ穏やかに、その寝顔を見つめていた。
セクエはもう目覚めないかもしれないと、キリヤやエルナンはそう言っていた。しかしバリューガはセクエがいつか目覚めると確信していた。今はきっと、少し休んでいるだけだ。
バリューガはそっと、セクエの胸元に手をかざした。セクエの中にある魔力は全て無くなっていたが、それでも魂を作っている魔力は、確かにここにある。
(セクエ…怒るかな…。)
バリューガは少し不安になり、表情を曇らせた。
セクエに生きてほしかった。セクエと一緒に生きていたかった。だからバリューガは、セクエの魂の消滅を受け入れることができなかった。あの時、あの巨大な魔力の波に飲み込まれた時、バリューガはその魔力の全てをセクエの新たな魂へと作り替えたのだ。
身勝手な事だとは分かっている。セクエがそれを望まないかもしれないという事も。だから、もしかしたらセクエは怒るかもしれない。それとも、この結果を喜んでくれるのだろうか。
あれだけ大きかった魔力が、今はこの小柄なセクエの体に収まっている。小さく圧縮された魔力の塊が、少しずつ、溶け出るように全身へと広がっているのが分かった。
(きっとこれは…血液と同じだ。)
バリューガはそう考えていた。心臓から全身に血液が巡るように、魔力が全身へと広がっていく。魂が体を動かすために、全身に魔力を行き渡らせている。だから、準備が整えば、セクエは目を覚ますはずだ。
謝りたいことが、話したい事が、沢山ある。一人でカロストに行かせた事、大きなものを背負わせた事、セクエがいない間の村の事、ティレアの事、そしてもちろん、自分の事も。
「……?」
ふと気配を感じて、バリューガは視線を上げた。魔力が一つ、こちらに近づいて来る。
「グアノさんだ…。セクエの様子を見に来たのかな。」
小屋の入り口で出迎えようと立ち上がった時、視線を感じた。バリューガは今まで座っていた場所を振り返る。
「なんだ、もう起きたのか…。おはよう、セクエ。」
そう言って、バリューガは微笑んだ。その視線の先で、セクエは驚いたような表情で、バリューガを見つめていた。
「……?」
「もうすぐ、グアノさんがここに来る。そしたら、全部話すよ。」
バリューガはそう答え、再び腰を下ろした。
「…ねえ…バリューガ。」
「うん?」
セクエはバリューガから視線を逸らさずに言った。その声は少しだけ掠れていて、ゆっくりと、まるで一つ一つの言葉を初めて話すようにたどたどしかった。
「夢を見たの。神様が…、ナダレが、いる夢。」
「……。」
ナダレ。前に聞いたことがある。確か、学舎にいた頃、セクエに宿っていた神の名前。神は全員、メトに作られた偽物で、自分たちは彼らに利用された。でも、セクエにとってはどうだろう。もしかしたら、兄弟のように大切なものだったのかもしれない。
「ナダレが…頭を撫でてくれてた。すごく優しい顔で…温かい、手だった…。」
「…そっか。」
セクエは幸せそうにそう言って、そして突然、両目から涙をこぼした。
「でも、…すぐにどこかに行っちゃって。追いかけようとしたけど、体が動かなくて、できなくて…。誰もいなくて、真っ暗な場所で、一人ぼっちで、残されて…。」
ぽろぽろと涙をこぼしながら言うセクエを見て、バリューガは何を言えばいいのか分からなかった。
「だからね。」
ぐしゃぐしゃになった顔を焦ったように両手で拭って、真っ赤に腫れた目で、セクエはまた笑った。
「目が覚めた時、バリューガが目の前にいてくれて…、すごく、すごく嬉しかった。」
(ああ、そうか。セクエは…。)
安心した。セクエが目覚めてくれて。また笑ってくれて。身勝手な自分に、そんな言葉を投げかけてくれて。
バリューガはにっこりと笑った。嬉しくて、涙が出そうなくらいだった。
「そりゃあ…嬉しいなぁ…。」
小屋の入り口から差し込む光が、まるで一筋の道のように、二人に向かって伸びていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
これで赤と白の魔法使いは完結となります。ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。
シリーズ管理ではなく章管理にして一作品にまとめた方がいいのか、一話を短くして更新ペースを上げた方がいいのか等、色々とこれからも模索しつつ、執筆を続けていこうかと思います。次の作品がもしお目にかかることがあれば、その時もぜひよろしくお願い致します。