#5 過去に秘めた願い
アルダが監禁されている小屋は全体を魔道具の結界で覆われている。その結界は出入りはもちろん、気配までも遮断する。その結界の向こうからわずかに感じる魔力の乱れに、グアノは眉をひそめた。
(結界で隔てられているが、確かに感じる。なぜそれほどの強い乱れが…?)
グアノが不審に思っていることに気づいたのか、アルダが声をかける。
「グアノ、どうし…。」
アルダが言い終えるよりも早く、激しい音を立てて小屋が崩れ落ちた。土煙が上がり、周囲が見えなくなる。
「アルダ様、お怪我は?」
「…あ、ああ。大丈夫だ。」
アルダは驚きながら答えた。グアノはアルダに覆いかぶさっていたのだ。グアノは無意識のうちに周囲に結界を張り、アルダと自身の身を守ったのだった。自分のその動きにグアノは違和感を感じたが、それを考えるだけの余裕はない。グアノは立ち上がり、風魔法を使って土煙を払うと、小屋を破壊したであろう人影に視線を向けた。
「グアノ…なぜここに…?」
その人は驚いたように目を見開いていた。赤い髪をした男で、浮遊魔法で宙に浮かんでいる。しかし、グアノはその男にも魔力にも覚えがなかった。
(私の容姿と名前を知っている…?)
グアノはなぜこの男が自分を知っているのか分からなかった。
(…セキガ族が私に接触したことがエルナンの独断だというなら、私のことを知るのはエルナンだけのはず。奴はエルナンの協力者とするなら、なぜエルナンの行動は見抜かれ、奴は気付かれなかった?私を知っているということは、領地へ戻ってから一回以上の接触があったはずだ。)
疑問が頭の中を駆け巡る。そもそも、話で聞いただけならば自分をグアノと断定することは難しいはずだ。
(おそらく魔法を使って記憶を共有している。それだけの事が起こっていて、キリヤは本当に気付かなかったのか?)
怪しい。キリヤは自分にかけられた魔法を見ただけで、セクエの考えを見抜いたのだ。それだけの洞察力を持つ者が、領地内の不審な動きに気付かないのか?
(いや、考えている暇はないか。)
今はとにかく、王子の身を守らなければ。グアノは意識を集中させ、相手の魔力に警戒する。
(奴だけじゃない。遠くからもう一つ魔力が来ている。)
グアノはそちらに視線を向けた。その瞬間、地面がひび割れ、そこから黒く太い蔓のようなものが生えて男を絡めとった。
「この時を待っていたわ、カイサレオ。」
蔓は男の体を押し潰すほどに強く締め上げている。その蔓の先端に、いつの間に来ていたのか、キリヤが立っていた。キリヤはカイサレオと呼んだ男を冷ややかに見下ろしている。
「…どういうつもりだ?」
「掟よ。」
短く、キリヤは答えた。
「一族を守り、生き延びることを優先させること。他者との争いを避け、無意味な殺生をしないこと。いかなる脅威と出会おうとも、耐え忍び、それが過ぎ去るのを待つこと。それが、セキガに伝わる掟。」
キリヤは蔓から飛び降りる。それと同時に黒い蔓は勢いよく燃え上がり、瞬く間に灰になった。
「セキガの長として、一族の血を流す王子を手にかけようとしたあなたを許すわけにはいかないわ。」
浮遊魔法でゆっくりと着地したキリヤはカイサレオを振り返ることもなく言う。カイサレオは焼け崩れた灰の中から立ち上がる。怪我をした様子は微塵もない。
「一族の血、ねえ…。なあキリヤ。分かっているだろう?こいつは所詮混ざり物だ。セキガ族じゃない。俺と違って、こいつは仲間じゃない。」
「……!」
グアノの後ろで、アルダが息を飲むのが分かった。
「仲間……。仲間…?」
キリヤはカイサレオを振り返る。その表情を見て、グアノは驚いた。見たことがないほど、暗く沈んだ顔をしていたからだ。今までキリヤが表情らしいものを見せたことはほとんどなかった。常に淡々とした物言いをして、何事にも無関心なように表情は硬かったというのに。
ゾワリと鳥肌が立つ。その瞬間、グアノは再び無意識に結界を張ってアルダの身を守った。それと同時に、光り輝く大きな針が空から降り注いだ。パリパリという高い音を立てて結界が針を防ぐ。
一方で、カイサレオは突然のキリヤの反撃に対応できなかった。すぐに結界を張ったが、何回か避けきれずに当たってしまったらしく、服は少し破け、あちこちから出血していた。
「残念だったわね。カイサレオ。私はあなたを仲間と思ったことは一度もないわ。」
「何…?」
キリヤは歩いてカイサレオに近づく。当然キリヤにも光の針が降りかかるが、針はキリヤの体をすり抜けてしまい、体には刺さらなかった。
「なぜだキリヤ。お前は、女王に…。」
「馬鹿なことを言わないでちょうだい。私は女王にはなれない。女王ははるか昔に…消えたのよ。」
諦めるような、悔しがるような口調でキリヤは言う。
「あなたの馬鹿らしい演技に付き合うのは終わりよ。これ以上一族を傷つけるのなら、私は…。」
キリヤはカイサレオの結界に触れられるほど近づいて足を止めた。その様子を見て、グアノは疑問を感じる。
(キリヤ…何か妙だ。)
感情的になり過ぎている。これはアルダが危険にさらされたためなのだろうか。それとも、カイサレオへの怒りが爆発してしまった状態なのだろうか。どちらにせよ、この状況では全力は発揮できないだろう。キリヤは大丈夫なのか?
不意に、キリヤが手を上げる。地面に散らばった光の針が一つに集まり、大きな槍へと変わった。そしてその手が振り下ろされると同時に、槍はカイサレオの結界を破ってその体に迫った。
しかし、感情的になっていたせいなのか、槍はカイサレオには当たらず、その頬をかすめただけだった。カイサレオはその機に乗じて浮遊魔法で上へと逃げ、そのままどこかへ飛び去った。
キリヤは片膝をついて、カイサレオのいた場所を見つめていた。ハァハァという荒い呼吸を繰り返している。
「逃した…?そんな…私は……。」
呆然とした様子でそう呟いて、キリヤは頭を抱えた。
「間違いだった…。」
そう吐き捨てるように言って、キリヤはゆらりと立ち上がる。その様子を見て、グアノはアルダに小声で話しかける。
「アルダ様。」
「どうした?」
「御身を確実にお守りするために二つ、ご了承いただきたいことがございます。」
グアノは視線をキリヤから逸らさずに言う。
「…何だ。」
「これこら、アルダ様の聴覚を封じます。ですから、アルダ様は目を閉じ、じっと動かず、できるだけ心を落ち着けて、ただ待っていていただきたいのです。」
「何もしなくていいのか?」
「はい。この状況では難しいかと思いますが、不安や動揺は出来るだけ押し殺してください。」
「分かった。もう一つは?」
「私はこれからキリヤと戦うことになります。ですので、キリヤを傷つけることをお許しいただきたいのです。」
グアノがそう言った瞬間、アルダは語気を強めた。
「待て、なぜお前がキリヤと戦う?キリヤが私の死を願うなら、私はそれで…。」
「今のキリヤに理性はありません。この判断は、彼女の望むものではないでしょう。キリヤの本当の意思を尊重するためにも、アルダ様を殺させる事はできません。」
グアノはアルダの声を遮るようにして答える。キリヤは何かに取り憑かれたように、じっとしたまま動かない。キリヤがいつ動きをみせるか、グアノは警戒し続けていた。
「…分かった。だが一つ条件がある。」
「何でしょう。」
「キリヤを殺すな。キリヤが死ねば、セキガに未来は無い。」
「…最善を尽くします。」
アルダを振り返ることなく、グアノはそう答え、聴覚を遮断する魔法をかけた。アルダがその場で動かずにいることを魔力の位置で確認してから、両手に握った剣を構え直す。
ふと、揺らぐようにキリヤが動いた、と思った瞬間、目の前が真っ白になる。ゆっくりとした歌声のような音が耳の奥で鳴り、立っている地面の感触が分からなくなる。グアノはすぐに、構えた剣で空を切り裂いた。すると、真っ白な空間に裂け目ができて、幻は空気に溶けるように消え失せた。キリヤはすぐそばまで迫ってきている。グアノはキリヤに向けて剣を振り下ろす。キリヤはそれを後ろに飛んで避け、再びグアノと距離を取った。
(今のはおそらく、幻覚を用いた束縛魔法。さすがはセキガ族。幻覚魔法を得意とするだけのことはある。わずかにでも隙を見せれば、操られてしまう。)
「なぜ邪魔をするの、グアノ。」
キリヤが口を開く。
「王子の身を守れと言ったのは、お前だったはずだが。」
「その私が殺そうとしているのよ?もうあなたの役目は終わっているわ。」
「お前が殺そうとするときは守らなくてもいいという話は聞いていない。残念だが、私は役目を果たさせてもらう。」
「あなたを殺すことになるわよ。」
フッ、とグアノは笑う。
「出来るものならやってみるといい。今のお前では、私は絶対に倒せない。」
そう言った直後、パァンと弾けるような音がして、グアノの周囲に光が飛び散った。
(速い…!)
キリヤが魔法を使ったのだということはすぐに分かった。だが、それを予測できるだけの動作がほとんどない。今自分に当たったのが何の魔法なのかさえ、グアノは分からなかった。
(だが、まだ勝算はある。)
今飛び散った光は、おそらくキリヤが自分にかけた相殺の呪いによるものだろう。この呪いは自分に向けられた魔法を一定回数無効化するものだ。
普通に考えて、この効果が残っている状態での戦闘は無謀だ。自分の攻撃はほとんど通用しなくなり、無駄に魔力を消耗してしまう。この呪いをかけたのはキリヤなのだから、この呪いを解いてから魔法を使えば、呪いによって魔法が弾かれる心配はない。だが、キリヤはそうしなかった。
さらに加えて言うなら、先ほどから感じている自分の行動の違和感はキリヤの魔法の影響だろう。いくら王子の身を守らなければならないとはいえ、無意識のうちにあの反射速度で結界を張ることはできない。呪いによって打ち消されていないことを考えれば、呪いと同時にかけられた可能性が高い。それを解くこともしないのならば、考えられる可能性は二つ。
一つは、キリヤが完全に理性を失っており、魔法を解くという選択肢に気づけていない可能性。そしてもう一つは、キリヤの意思がまだ残っており、魔法を解くのを拒んでいるという可能性。どちらにせよ、ここで王子を殺してしまうのはキリヤの望むところではない。王子の身を守りつつ、キリヤを正気に戻さなければ。
グアノは浮遊魔法を使ってキリヤとの距離を縮める。一瞬だけ、キリヤが魔力を構えたのが分かった。グアノは致命傷を負わないように剣に魔力をまとわせ、それをキリヤに振り下ろした。
しかし、キリヤは人間とは思えないほどの素早い動きでそれを避け、グアノの後方に回り込むと、構えた魔力を氷魔法に変えてグアノに向けた。地面からグアノを突き刺そうとするように氷の塊が迫り出してくる。グアノはとっさに上へ飛んでそれを避けた。しかし、足先から光の粉が飛ぶのが見えた。魔法に当たってしまったらしい。
(この呪いには回数制限がある…。攻撃はできるだけ回避したいところだが、それすらできない。)
攻撃が早すぎる。目で追うどころか、魔力の流れを察知しても避けきれない。
グアノは空中で身をひねってキリヤに向き直る。その瞬間、バリィ、と耳を引き裂くような大きな音が響いた。
見れば、王子の周囲にはグアノと同じように氷が生えている。キリヤはグアノの隙を見て王子の身を狙っていたのだ。
しかし、王子の付近に氷はない。よく見れば、王子の周囲には結界が張られており、それが氷を防いでいるのだった。
(うまくいったか。)
魔法使いは、それぞれに異なった魔力の質を持つ。それにより得手不得手が分かれ、さらには才能の有無さえ分けられる。だが、魔法使いの素質を左右するのは魔力の質だけではない。魔力の制御能力もその一つだ。
グアノは、魔力の質には恵まれなかった。グアノの魔力は不得意とする魔法が無い代わりに、得意とする魔法もない。ただ、制御能力は人一倍優れていた。
グアノは自身の魔力の暴走を一度も起こしたことがない。一度に使用できる魔力の量も他と比べて並外れて多かった。さらに加えて、グアノは他の魔法使いには不可能とされる技術を習得している。それが、他人の魔力を扱うことだ。それは他に秀でた力を持たないグアノの唯一の特技と言えるだろう。
当たり前だが、魔法使いは自身の中にある魔力を使って魔法を使う。他人から魔力をもらってそれを使ったり、ピドルを使う場合もあるが、どちらにせよ扱える魔力は自分の内側、あるいは触れている魔力に限られる。
しかしグアノは、目が届く程度の範囲内であれば、離れた位置にいる他の魔法使いの魔力も扱うことができる。だが、自分の魔力のように扱えるのは魔力が感情による増減の影響を受けていない時だけだ。だからグアノは王子の感情の変化ができるだけ起こらないように対処しておいた。
グアノは着地し、体勢を整える。王子の周囲の結界は、グアノではなく、王子の魔力を利用して張られている。これならば、王子の魔力が尽きるまでは王子の身は守られる。グアノは目の前の戦いだけに集中できるわけだ。
(王子は混血…。保有する魔力の量は少ない。魔力が切れる前に、キリヤを正気に戻せるか?)
キリヤはグアノを睨んでいた。滲み出る怒りを抑えようともしないその様子を見て、グアノは唇を噛む。
(無理だな。そもそも、なぜキリヤが理性を失ったのかが分からない。今はできるだけ時間を稼ぎ、後はキリヤの精神力に賭けるしかない…。)
うまくいくかは分からない。だが、諦めることはできない。グアノはキリヤを睨み返し、いつでも魔法を使えるように魔力を集中させた。
ーーーーーー
「……!」
意識が戻り、目を開く。周囲には誰もいない。ボソリと、メトは呟いた。
「セクエ…お前は…。」
言いかけて、口を閉じる。胸に手を当てて、読心術を使って感情を読み取る。
その瞬間、強い感情が頭の中に流れ込んできた。読心術を使い慣れているメトでさえ、飲み込まれるのではないかと思うほどに強く、悲鳴のようにも聞こえるその感情は、紛れもなくセクエのものだった。
『嫌だ』
『嫌だ』
『嫌だ嫌だ』
『壊したくない』
『殺したくない』
『傷つけたくない』
『苦しめたくない』
『もう、何も…。』
そっと胸から手を離す。途端に声は聞こえなくなった。
「…そうか。お前はそれを望むのか。」
興味があった。魂が消えかけているこの状況で、セクエが最後に何を望むのか。どういう運命の巡り合わせか、セキガの領地には今、セクエと親しくしていた者がいる。メトは、セクエはきっと彼らのもとへ向かうだろうと思っていた。せめて最後は、彼らのそばで終わることを選ぶだろうと。
しかし、セクエはそうしなかった。最後に彼らと会うのではなく、彼らを傷つけないことを優先し、セクエは自ら、親しい者たちと距離を置いたのだ。
今のセクエはまともな精神状態ではない。魂が消滅しかけているため、明確な意思が無いのだ。自分が何をしているのか、何を望むのか、何を思うのかさえ理解できていないだろう。激しい混乱状態に置かれた今は胸の内を引き裂かれるほどに苦しいはずだ。
(それでもなお、自らの意思を強く保てるだけの意識がセクエには宿っていた。)
これはメトが作った意識ではない。後から生まれた意識によるものだ。だが、本来であればこの意識が生まれることはあり得なかった。
そもそも、セクエは魔獣だ。魔獣には例外なく、果たすべき役割が与えられる。それは監視、護衛、戦闘、愛玩など、様々に存在するが、メトがセクエに与えた役割は『生贄』であった。
自分に抵抗の意思を向けないように、命令に従順に従うように、自分が必要とした時、ためらわずにその命を捧げるように。そのためだけにこの魔獣を生み出し、その他の意思や感情を一切与えず、それを外の世界に放した。
通常ならば、意思の弱い魔獣を作ることは望ましいことではない。意思を与えなければ命令に背くことはないが、命令を与えなければ動かず、自分の意思での行動ができなくなるからだ。だがそんなことは問題ではなかった。セクエという他人の、自分とは全く違う質の魔力を完全に自分のものとするには、仲介となる存在が必要だからだ。どうせ仲介者を作り出すのであれば、それにセクエを連れ戻させればいい。意思を持たせる必要などなかった。おそらく、ヘレネから体罰のような仕打ちを受けていた時も、母親が目の前で死んだ時も、後になって思い出して感じるものはあっても、当時は悲しみや恐怖は感じていなかっただろう。
だが、学舎と呼ばれたあの地に来てから、セクエは自ら意思を持つようになった。仲介者であるナダレと言葉を交わし、同じ器である者たちと親しげに会話をし、様々な表情を見せるようになった。そしてついには自分の命令に背き、抵抗し、そして生き延びた。まるで、『生贄』という役目を捨てて、新たな役目を得たかのように。
(それが全てあいつのしたことであるなら…そもそも初めから、あの計画が成功するわけなどなかったのか。)
意思を得たことは、セクエに幸せをもたらしたのだろうか。それとも、どうせすぐに消える命なら、いっそ何も知らないままの方が幸せだったのか。
「あの魂を生み出したことも、あの計画を立てたことも、お前と対立したことも、全てが間違いだった。ならば私は、どうするのが正しかったのだろうな…、ゲイウェル。」
呟くが、返事をくれる者はもういない。メトは一つため息をついて、周囲の魔力を探った。
(遠方から向かってくる魔力が二つ。…いや、すぐそばにもう一つある。)
「お前はまだ、セクエのそばにいるのか、ナダレ。」
かすかに感じる、今にも消え入りそうな魔力に向けてメトは話す。
「セクエの体はここに置いていく。今のお前に何ができるのか、そもそも意識が残っているのかさえ私には分からないが、きっとお前ならば、セクエに何かを残せるのだろうな。」
そう言ってから、メトは再び自分の胸に手を当てた。
(体が重く、そして熱い。これだけの負荷を、消え入りそうな魂で、たった一人で…。)
軽く首を横に振る。今は余計なことは考えない方がいい。これから使う魔法が成功するかどうかは自分の精神力にかかっているのだ。
(セクエが使った魔法は強制合成魔法。通常ならば混ざることのない二つの物を無理矢理に融合させる魔法。本来であれば二度と元には戻らないが、対極の魔法を使えば魔法は打ち消され、体は再び二つに分かれる。原理上は可能なはずだ。)
呪文は確か、ティラーク・ジパル。ティラークには強制や強引の意味があり、ジパルには融合や合成の意味がある。強制的な融合、その対極は…。
「緩やかな解離。」
メトは唱える。本来、この呪文の組み合わせの魔法は存在しない。だが、魔法を使うときと同じように言葉に魔力を込めれば、呪文に込められた力によって合成魔法は無効化される。
ぐっ、と全身を掴まれるような圧力を感じた後、全身が引き裂かれるような激痛が走った。魔法の反動で体は前方に弾かれ、角ばった岩場に体を叩きつけられる。メトはすぐに防御魔法で身を守った。
地面に倒されたメトは体を起こして息を整える。振り返って見てみれば、セクエが倒れているのが見えた。自分の体が問題なく動かせることを確認して、メトは立ち上がる。
「合成魔法の打ち消しは成功…。いや、完全ではなかったか。」
自分の魔力を確認して呟く。肉体は完全に分離できたようだが、魔力は二つが混ざり合ったままだ。
(一度でも打ち消しを行った魔法は、たとえ不完全な状態だとしても加えて打ち消しすることはできない。…これは技量が足りなかった私の責任か。)
分離されなかった魔力がセクエではなく自分の体に移ったことは不幸中の幸いと言うべきだろう。自分は魔力がなければ、何もできないのだから。
(魔力が近づいている。ここを離れなければ。)
メトは浮遊魔法で浮かび上がり、その場を去った。
ーーーーーー
何かが弾ける音とともに、何度も光が飛び散る。はじめはそれを数えていたが、今はそんな余裕は残っていない。荒い呼吸音と耳元で鳴るような心臓の鼓動が絶えず聞こえ続けている。
(何回受けた?あと何回、耐えられる…?)
グアノは必死になって攻撃を避けながら考えていた。キリヤの技術は高すぎる。自分では、どんなに攻撃を読んだとしても三回に一回程度しか避けられない。
そう考えているうちに、また一つ、光が散った。
(くそっ…!何回耐えられるかもそうだが、そろそろ魔力が…。)
グアノは浮遊魔法を使っていたが、着地する隙など一瞬もない。常に浮遊魔法を使えばその分だけ魔力は消費され続ける。グアノの魔力はそろそろ限界だった。
それに加えて、今のグアノはアルダと自分の魔力を同時に使っている。元々、二つの魔力を扱うのは相当に集中力を要する行為なのだ。それなりに長時間この力を使い続けているため、体力的にも限界が近い。
またキリヤの魔力が動く。左側から足に向けて水平に、その後、連続して下から突き上げるようにもう一つ。グアノは浮遊魔法を一時的に解き、落下して右下へと避ける。だがその二つを避けた直後、さらに真上から魔力の塊がグアノに向けて振り下ろされた。
(まずいっ…!)
魔力の消耗を抑えるために浮遊魔法を解いたのが裏目に出た。この状態ではすぐに避けることができない。とっさに頭上に結界を張ったが、魔力が切れかけていて出力が足りないせいなのか、魔法は結界を突き破りグアノに直撃した。
(しまった、もう呪いが…。)
「がっ…!」
全身が引き裂かれるような激痛が走った。叫び声すらまともに上げられず、地面に叩きつけられる。もろに背中を強打し、息が詰まり、視界が揺らぐ。
(駄目だ…意識だけは、まだ…。)
途切れそうになる意識をなんとか繋ぎ止める。だが、体はもう動かない。息を吸うたびに全身が軋むように痛み、魔力が少ないため回復魔法も使えない。アルダに使っている結界もそう長くは保てないだろう。自分がもう動けないと気づいたキリヤが地面に降り、アルダへと向かうのが魔力の位置で分かった。
(…自分は何をしているんだ?)
唐突に馬鹿らしくなる。そもそも自分は、セクエが国を出た理由を知るために、彼女を連れ戻すためにここへきたというのに。それなのに彼女に会うことすら叶わず、今日会ったばかりの異国の王子を守るために死にかけている。
(結局は良いように言いくるめられて、利用されただけ、か。)
そしてその役目すら果たせないのだ。自分には利用する価値すら無かったということか。
(馬鹿らしいな。恩を返すべき人はこの世を去り、国の役目からも解放されて、ようやく…他の誰から与えられるものではない、自分自身の意思を、願いを知ったというのに。私はそのために、何もすることができない。自身の意思を知ろうと、願いに気づこうと、自分は結局、周囲から与えられる役割に縛られる。)
グアノは目を閉じた。
(だが…。)
今でも鮮明に思い出せる。まだ皇太子だった頃、あの方の瞳に宿っていたあの光。美しく、力強く、しかし儚く、脆い光。それと同じ光が、アルダの瞳にも宿っていた。そしてそれがまさに今、失われようとしている。
(私はその光を守りたい。この願いが、私の意思と呼べるのなら。)
グアノは再び両目を開ける。そしてすぐそばにいるキリヤの魔力を、はっきりと捉えた。そして、自分の魔力も、アルダの魔力も手放した。操るべきはただ一つ、キリヤの魔力だけだ。
キリヤの魔力はアルダのものとは違い、感情による強い増減の影響を受けている。その状況でその魔力を使おうとすれば、今の体力では足りず、扱うことができないかもしれない。あるいは、体力を使い果たして死んでしまうかもしれない。だがそれでも。
(私のこの判断に、後悔はない…!)
グアノは最後の力を振り絞って魔力を使った。キリヤの過去を元にした幻覚を見せる催眠魔法を。
ーーーーーー
耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。アルダは驚いて目を開ける。
「キリヤ?」
見れば、すぐ近くでキリヤがうずくまっているのが見えた。慌てて近づき、その背に手をかけようとして、アルダは再び視線を上げる。
少し離れた場所に、グアノが倒れていた。見たところ目立った外傷は無いようだったが、体はピクリとも動かず、呼吸の音も聞こえない。
「グアノ…。」
アルダは唇を噛んだ。何もできない自分がただただ歯痒い。アルダはそっと、小刻みに震えるキリヤの背に手を置いた。
キリヤは泣いているように見えた。アルダがそこにいることすら気付いていないようで、まるで自分一人の世界に閉じこもってしまったように、ただ体を震わせて悲鳴のような泣き声を上げている。
(キリヤもグアノも、苦しんでいる。私は結局、何も償えないのか?剣使いの血は、災いをもたらすだけなのか…?)
何もできないことへの罪悪感や、自分への嫌悪感などが胸の内で湧き上がり、アルダは気持ちが悪くなって胸元を押さえた。
(私は…どうしたらっ…!)
「っ…!」
ズキ、と頭が痛む。唐突な痛みにアルダは顔を歪ませたが、その瞬間、まるで目が覚めたように、何かを感じ取った。
「……?」
(何だ…今のは?)
胸の奥で、先ほどまでの感情とは違う、不安や焦りがこみ上げてくる。鼓動が早まり、嫌な汗が頬を伝う。
『おい、さっきまでの騒動はなんだ?それから、今の悲鳴も!』
誰かの声が聞こえて、アルダは視線を上げた。振り返れば、赤い髪をした男がこちらに走ってきている。男は自分のそばにいるのがキリヤだと気づくと、慌てた様子でそのそばに駆け寄った。
『キリヤ!?大丈夫か?』
そう声をかけ、肩を強く揺らす。だが、キリヤには届いていないように見えた。
『おい、お前っ…。』
男が何か言おうとしてアルダを見る。しかし、そこから先は声にはならなかった。
アルダは男の方を見てはいなかった。何をすればいいのか分からないまま、ただキリヤを見つめていた。耳元で鳴っているのではないかと思うほど、自分の心臓の音がうるさく響いている。背に触れている手から、おぞましいほどに強く、濃い力を感じていた。
(ああ、そうか。キリヤは…。)
ーーーーーー
エルナンはキリヤのそばにいた青年に声をかけたが、しかしそれ以上先を言葉にすることができなかった。青年は驚いたように目を見張り、呼吸が荒くなっている。その視線の先にいるのは、自分ではなくキリヤだ。青年がキリヤに何かしたのだと思ったが、この様子を見る限りではどうやらそうではないらしい。
(何をそんなに驚いている…?いや、そもそも、こいつの魔力は…。)
眉をひそめ、考える。この魔力には覚えがある。だが、どこかで会ったことがあったか?いや、そんな記憶は無い。ならばなぜ、自分はこの魔力を知っている?
(それにこの魔力は、セキガのものだ。多少動揺しているこの状況でも、その程度の判別はつく。それなのにこいつの顔に見覚えがないのはおかしい。こいつは、何者なんだ…?)
しばらくエルナンが動けずにいると、不意に青年はキリヤの背に置いていた手を離し、そして周囲に散らばる小石を拾い上げたと思うと、止める間も無くキリヤの背にそれを突き刺し、切り裂いた。
(こいつ…?!)
とっさに手で掴み、青年の腕を止める。しかし、完全に止めることはできず、布の破ける嫌な音がした。
『おい、お前!何をしてる!』
語気を荒くして、エルナンは青年の腕を強く掴んだ。しかし青年はそれでもエルナンに視線を移さない。ただ驚いたように、呆然としたようにキリヤを見つめるだけだ。
「帰らぬことも、帰らせぬことも罪だというのなら。」
青年が口を開く。
「連れ帰らぬこともまた、罪なのか…?」
(こいつ…正気じゃないな。)
理由は分からないが、今の彼は正気ではない。激しく動揺しているのか、あるいは誰かに操られているか、どちらにせよ、こんな状態の人間をキリヤのそばに置いておくわけにはいかない。
(とにかく、キリヤを安全な場所まで…。)
青年の腕を掴んだまま、エルナンは再びキリヤに視線を向けた。背中には傷ができているだろう。それを癒し、安全な場所まで運ばなくては。しかし、エルナンは動けずにいるキリヤを見て息を呑んだ。
『…なんだ…これは……?』
キリヤの服は首から腰の辺りまで縦に切り裂かれており、背中が見えてしまっている。そしてその背には切り傷と思われる赤い線が走っているのだが、そんなものが気にならないくらいに大きく、血で塗ったように真っ赤な模様が描かれていた。エルナンは青年を押さえることも忘れ、キリヤの服をめくった。
それはどうやら、蛾のようだった。葉の筋のように広がる触角、太く生々しい胴、そして何より、その体を飲み込もうとするほどに大きく広げられた四枚の翅。上の翅は肩に届くほど、下の翅は腰の下の方まで広がっている。翅に描かれた無数の目玉模様が、脅すように、睨むようにこちらを見ていた。
(これは…呪い、なのか?なんて禍々しい…。キリヤはいつからこれを?誰がこんなものを…?)
その効果を読み取ろうとして、模様に触れる。その瞬間、大量の感情が頭の中に流れ込んできた。しかしそれは感情というよりはむしろ、誰かに向けた非難の言葉のように聞こえた。
ー役立たずめー
ーあれほど言っていたというのにー
ー駄目な奴だー
ーまた失敗したというのかー
ー無能がー
ー愚かしいー
ーお前は間違っているー
その言葉は、決してエルナンに向けられたものではないのだろう。だが、それを聞いているだけで気分が悪くなる。隠そうともしない無数の失意が、憎悪が、絶望が、頭の中にこだまする。
ーお前はただ大人しく、我々に従ってさえいればいいー
耐えられなくなって、エルナンはキリヤから手を離した。唾を飲み込み、何度か洗い息を繰り返す。
(落ち着け…慌てるな…。)
何度も自分に言い聞かせるが、恐怖が頭の中から消えない。指先の震えを止めることができない。あの恐ろしい模様から、視線を逸らせない。体が何かに縛られてしまったように動かせないのだ。圧倒的に強い力を持った呪いが、エルナンの精神をも蝕み、飲み込もうとしていた。しかしそこで唐突に、声が聞こえた。
「…赤き蛾よ。見張る視線よ。蔑む眼よ。過去の罪を繰り返さぬための戒めよ。羽を休め、瞳を閉じよ。」
その途端、呪いの模様がぼんやりと光りだす。エルナンはその声に促されるように目を閉じた。
声は淡々と呪文を唱え続ける。その声は先ほどの青年のものだったが、その声はどこかで聞いたことがあるような、懐かしい響きがあった。
「時は過ぎ行き、罪は薄れた。真に許されざる罪は、連れ戻さぬことではなく、帰らぬことを望んだ我が愚行にあり。真に望むべき願いは、失われた過去ではなく、未だ来ぬ汝らの行く末にあり。」
エルナンは体が次第に自由になるのを感じて目を開ける。そして青年を振り返って見た。その視線はキリヤの呪いには向けられていなかった。青年は目を閉じて、静かに呪文を唱えている。その頬に涙が伝うのを、エルナンははっきりと見た。
「女王の血を継ぐ者、アルダの名において、汝らに乞い願う。己が過ちを、どうか汝らが背負わぬことを。どうか汝らの行く末に、過去の罪が影を落とさぬことを。」
女王の血を継ぐ者、という言葉を聞いて、エルナンは驚いた。今一族の中で女王の血を受け継ぐ者はキリヤだけだ。だからこそ、キリヤは一族の長の座を継ぐことになったのだ。ならば彼は一体…?
(いや、もはや疑いようはない。彼もまた、間違いなく女王の血を継ぐ者。)
そうでなければ、彼から感じる安心感や既視感は納得できない。となれば、彼は…。
(剣使いに捕らえられた女王の、直系の子孫…。まさかその血が、まだ途絶えずに残っていたなんて…、そんなことが…。)
エルナンが呆然と考えていると、ぐらりと青年の体が傾いた。倒れそうになるのをとっさに受け止める。体にはほとんど魔力が残っていない。
(くそ…、何がどうなってるんだ?)
状況の理解が追いつかない。エルナンは一つ深呼吸をして心を落ち着けた。
(…状況の整理は後だ。まずは彼とキリヤと、そこで倒れている男に応急手当が必要だ。となれば、僕一人では人手が足りない。)
エルナンは目を閉じて意識を集中させた。
(みんながすぐそばまで来ている。騒動を感じ取って、様子を見に来たんだろう。これなら魔力も十分に足りる。)
あとは、三人の状態を確認して治療方法を指示すればいい。
「エルナン様、何事ですか!」
「キリヤ様の魔力を感じました。何があったんですか?」
「そこにいる異種族はいったい…。」
駆け寄ってきた一族の者たちは口々にエルナンに尋ねる。皆動揺しているようで、隠しきれない不安がエルナンに伝わってくる。それに対して、エルナンはあくまで冷静に指示する。
『みんな落ち着け。説明は後だ。今はとにかく、この三人の治療を優先する。キリヤは催眠魔法による精神の錯乱、ここにいる彼は魔力の枯渇、向こうの男は体力、魔力ともに限界寸前だ。処置の仕方が分かる者はできない者に指示して、できるだけ効率よく処置を行え。手が空いた者は領地内全ての一族をここに集めろ。分かったか!』
「はい!」
エルナンの指示に、先ほどまで落ち着きのなかった一族は声を揃えて返事をした。そして流れるような動作でそれぞれの役目をこなしていく。エルナンはそれを見ながら考える。
(この様子なら三人とも大丈夫そうだな。…だが、どうにも嫌な予感がする。奴は、カイサレオはどこにいる?さっきの剣使いは無事だと良いが…。)
ーーーーーー
セキガの領地は、作物の育ちにくい荒れた岩場だ。しかし、カルム山脈は決して荒地だけの山ではない。かつて剣使いから追われた過去を持つセキガは、人の寄り付かない岩山に住むようになったが、カルム山脈にも草木の生えた緑の土地が存在する。
セキガの領地の境界付近、岩場も少なくなり草木が目立ってくる場所まで来て、メトは足を止めた。
「随分と様変わりしたものだな。」
メトは呟くようにそう言った。メトはこの地に何があったのかを知っていた。だが、それが変わってしまうのも仕方のないことだ。かつてこの地を領地として暮らしていた一族が滅んだことは、自分がまだゲイウェルに封印される前、二人で旅をしていた頃に噂で聞いていた。
(不思議なものだ。こうして自分の目で見たとしても、後悔も悲しみも、何も感じないものなのか。)
メトはここで生まれ育った。この地にはかつて、セキガ族と並ぶ最強の一族と謳われた、白の一族が住んでいたのだ。だが、もはや思い入れなど残っていなかったのだろう。自分は一族と決別し、一人領地を飛び出したのだから。
オオオオォ…と、低く唸るような声が聞こえた。それを聞いて、メトは顔をしかめる。
(お前たちはいつまで、ここに囚われ続けるつもりなのだろうな。)
禍々しいまでに剥き出しにされた感情が、そこには渦巻いていた。だがこれは、読心術を扱えるメトにしか感じ取れないものだろう。
『くるしい。』
『なぜだ。』
『欲しい。』
『力だ。』
『もっと、もっと力が…』
『力さえあれば…』
(…愚かしい。その力が身に余るものと知ってもなお、その執着を振り払うことができないのか。お前たちは死に、かろうじて残っているのは魔力と、そこに宿った感情の断片だけだというのに。)
メトは呆れて、やれやれと首を横に振る。しかし、どれだけ意識を逸らしても、その声は消えなかった。どれだけ意識しても、それを感じずにいることができないのだ。
そもそも読心術は『魔法』ではない。魔法使いの、個々によって異なる魔力の質。感情による魔力の増減はそれに影響を受ける。喜ぶ時に大きくなる者、怒る時に大きくなる者、あるいは小さくなる者もいる。読心術はそれらを加味し、相手の魔力の質と量から感情を推測する『技術』だ。これを自在に扱うには、相手の魔力の質を見抜くだけではなく、年齢などに影響される魔力の保有量なども把握しなければならない。
読心術には当然、それ相応の能力が必要になるわけだが、これは魔力を使って意識的に行う魔法とは違い、むしろ魔力を感知するときのように、無意識に行っていることの方が多い。そのため、抑えることが難しい。強い魔力が近づいて来た時、反射的にそれを感じ取るように、強い感情の前では無意識にそれを読み取ってしまうのだ。
メトにすがるような、あるいは飲み込もうとするような大きな感情の波を感じないように、できるだけ意識を逸らす。そうしているうちに過去のことを思い出し、胸の奥から怒りや嫌悪が込み上げてきた。
(掟を破るからこうなったのだ。私はあれほど反対したというのに。…そして、今度は赤の一族が掟を破ろうとしている。一族が滅んだ時のことが、少しは教訓になったかと思っていたが、あのような奴を野放しにしておくとは、呆れたものだ。)
メトは目を閉じる。すぐ後ろまで迫っている魔力を感じながら、自分の考えが正しいと確信する。
(赤の一族は臆病で狡猾。自ら危険を冒すはずがない…。)
「となれば、貴様の独断と考えるのが妥当だろうな。」
メトは振り返り、やって来た男、カイサレオに向かって言った。
「お前はどこかで私の、白の一族の生き残りの存在を知り、赤の一族と接触させようとしたわけだ。」
「…ああ、そうだ。」
カイサレオは答えた。
「セキガの歴史に残っている。赤と白の一族が交わる時、膨大な力が生まれる、とな。その力があれば、セキガは過去の栄光を取り戻せる。」
「…ああ、確かに、その歴史は正しい。」
メトはそう答えて、ため息をついた。
「しかし、その膨大な力の扱いを誤ったために、白の一族は滅んだ。赤の一族にも甚大な被害を与えた上で、な。お前のことだ、その程度の事は分かっているだろう。」
「もちろん。だがな、そんなのは昔の話だ。かつて、まだ十分な制御の技術がなかった頃の話。今はそうじゃない。技術は昔よりも格段に上がっている。今なら、すべての魔力を暴走させずに抑え切れる。」
「ほう、随分と自信過剰なことだ。」
メトはカイサレオを睨みつける。
「それで?貴様ごときの命令に、私が大人しく従うとでも思っているのか?」
メトは挑発するようにそう言った。カイサレオはわずかに顔をしかめる。
「蜂の印は、セクエの体に残した。今のお前は私を思い通りにすることなどできない。」
「チッ…!」
小さく舌打ちする音が聞こえて、カイサレオがメトを指差す。その直後、体が動かなくなる。
「黒き蜂よ、服従の象徴よ…!」
その呪文を聞いて、メトは内心ため息をついた。
(服従の呪いか…。よりによって同じ魔法を使ってくるとは…愚か者め。)
メトは目を閉じ、カイサレオの呪文に合わせて唱えた。
「黒き蜂よ、服従の象徴よ。」
頭に血が上って冷静さを欠いている今のカイサレオに気づかれないように、かつ、呪文が確かに意味を持つように。メトは小さな声で、しかしはっきりと唱える。
「その者の内に潜み、主と同じ痛みを伝えよ…!」
「かの者の命に、汝はいかなる意味を見出だすか。」
「その者が我が命令に背く時、お前の針をその心臓に突き刺せ!」
「かの者の名に、汝はいかなる誓いを見出だすか。」
カイサレオは思惑通り、メトが唱える呪文に気づかない。
「赤髪の魔法使い、カイサレオの名において、我に服従のっ……?!」
カイサレオは驚いたように言葉を詰まらせた。メトの胸元、呪いの印が浮かび上がった辺りから、子供ほどの大きさの黒い影が飛び出したからだ。メトはそれには構わず、呪文を唱えた。
「黒き蜂よ、白き一族、メトの名において、汝に与えられた誓いを破棄する。」
その黒い影は蜂のような姿に変わり、カイサレオに向かって飛びかかった。カイサレオは瞬時に結界を張って身を守ったが、蜂はその結界すらすり抜けて、カイサレオの体に染み込むように溶けて消えた。カイサレオは自分の体を確認して、不思議そうに呟く。
「何だ…?何がどうなって…。」
「ふん、呪いを弾く方法も知らないか。」
「弾く…?」
メトはなおも理解できていない様子のカイサレオを鼻で笑った。
「そんな単純な魔法は、私には通用しない。『この程度』の技術した持たない貴様があの魔力を抑え込もうとは…片腹痛いな。身の程知らずとはこのことだ。」
「何だと…!」
メトはあからさまに挑発する。カイサレオは怒りを隠そうともしなかった。
「白の一族は野蛮で傲慢と聞いていたが、その通りだな。お前程度、俺一人でも…!」
カイサレオは威嚇するように、全身の魔力を構えた。メトは堪えきれなくなって、笑い声をこぼした。
「フッ…フハハハッ…!」
「何を笑っている!」
カイサレオはメトを睨みつける。メトはひとしきり笑うと、カイサレオを嘲笑うように言った。
「滑稽だな。貴様がやろうとしていることは、根本から間違っている。」
「さっきから、何を偉そうに!力さえあれば、セキガは元の勢力を取り戻せる。他の種族の力を借りるのではダメなんだ。一族が、セキガが力を得なければ…!」
「それ以前の問題だ、愚か者め。」
カイサレオの言葉を遮って、メトは言い放った。
「貴様は何も分かっていない。いや、きっと忘れたのだろうな。それらは全て、力を得たいがための口実に過ぎないということさえ。」
「忘れた?口実?何を馬鹿げたことを。」
「馬鹿げているのは貴様の方だ。…禁忌を犯したんだろう?」
「っ……!」
不意をつかれたように、カイサレオが黙り込む。
「気付かないとでも思っていたか?貴様がどれだけ私を甘く見下していたのかよく分かるな。全く腹立たしいことだ。」
カイサレオは何も言えずにいた。メトはさらにたたみかけるように続けた。
「『体内の魔力の一部をピドルに変える』。どの国でも、どの種族でも、魔法使いならば皆、それがいかなる結果をもたらすか、どれほど危険なことかを知っている。ピドルの影響で魔力は爆発的に増え、魔法使いとしての力は格段に上がる。体の自然治癒の速度も早まり、さらには老いることもなくなるという。しかし、膨れ上がる魔力の制御が間に合わなくなり、暴走を引き起こして人格が変化する。貴様はその際に、もともと根底にあった『力を得たい理由』を忘れたのだろうな。」
黙り込み、動くことすらできずにいるカイサレオに一歩ずつ近付きながら、メトは言った。
「『赤と白、二つの力が再び交わる時、強大な魔力が世界を覆った。その魔力は世界を変えうる光かのように思われた。しかしその魔力はやがて世界を滅ぼす闇へと変わった。強すぎる魔力は、人を惑わし、魅了し、狂わせる。その魔力を求める者も、持つ者も、やがては魔力に心を呑まれてしまう。一度目覚めた欲望は、魔力をどれほど求め、手に入れたところで、決して止まることはない。欲はさらなる欲を生み、人はさらなる魔力を求めて破滅の道を突き進む。力の源となった赤と白の力は砕け散り、二度と世界に姿を現さない。』…白の一族が滅んだこの世界で、いつの間にか語られるようになった伝承。そしてこれはおそらく、過ちを繰り返さないために赤の一族が残した、過去の事実。分かるだろう?白の一族は、魔力の制御ができていた。彼らは膨大な量の魔力に魅了され、狂い、そして死んでいった。」
「何が…言いたい…。」
フッ、とメトは口元に笑みを浮かべた。
「貴様は先ほど、魔力の制御は可能だと言っていたな。ならばそれを示してみせろ。」
そう言って、メトは懐から小瓶を取り出す。セキガ族のピドルが入った瓶だ。
「セキガのピドルと私の全魔力、二つがぶつかって生まれた魔力を、お前が全て押さえ込んでみせろ。…かつて全一族の魔力がぶつかった時と比べれば、ごく僅かな量だろう?」
挑発するようにそう言って、メトは瓶をカイサレオに向けて放った。それがカイサレオに届くより早く、メトは自身の全ての魔力を集め、その小瓶に向けて放った。瓶は割れ、中のピドルとメトの魔力がぶつかる。魔力を使い果たしたメトは立つことすらできなくなり、その場に崩れ落ちる。
その瞬間、メトは時が止まったように思った。自分が倒れる様も、瓶にひびが入り散らばる様も、とてもゆっくりに見えていた。
(力に溺れたのは…私も同じか。)
メトは考えた。
(奴の行いは、過去の私と同じだ。力さえあれば、と魔力を求め禁忌を犯し、その結果、本当の目的さえ失って、それに気づくこともないまま、力を振るう快楽に酔いしれた。)
自分の行いは間違っていないのだと、なんの確証もなく信じ込んでいるカイサレオは、まるで過去の自分をそのまま映し出したかのようだった。
(…皮肉なことだな。周りから見れば、私はこうも滑稽で、愚かだったのか。奴はこの程度の技量しか持っていないからこの程度で済んでいるものの、それが私だったのだから、ゲイウェルが私を封じたのも納得だな。)
ゆっくりと流れる時間の中で、それでもはっきりと、カイサレオが動揺しているのが見てとれた。メトの急な行動に対応しきれなかったのか、それとも初めから、魔力を抑え込めないと分かっていたのか、その表情には余裕がない。魔力を抑えようとするどころか、結界を張って身を守ろうとしている。当然、そんなものは無意味だ。
(さて、赤の一族はどうなるか。赤の女王が失われた今、赤の一族が滅ぶのは時間の問題。奴らが今ここで滅ぶか、それとも足掻いて生き延びるか…見物だな。)
メトは目を閉じた。すぐ目の前で、爆発のように魔力が膨れ上がり、メトとカイサレオを飲み込んだ。
ーーーーーー
(……っ!)
エルナンは驚いて顔を上げた。嫌な汗が流れて、心臓の鼓動が速くなったのを感じる。
(何だ、これは。魔力の波…?こんな…こんなにも巨大なものが?)
焦る心を出来るだけ落ち着けて、エルナンはその位置を深く探った。
(…まだ遠いな。領地の境界付近か。速度もそれほど速くない。ここにあの波が来る前に、全員で防御すれば何とかなるか…?全員をここに集めておいてよかった。)
エルナンは辺りを見回した。ここにいる全員、この膨大な魔力の存在に気付いているようだった。これならいちいち説明する手間も省ける。
『全員よく聞け!出来るだけ身を寄せ合うんだ。ここにいる全員でできるだけ小さな結界を張り、それを何重にも重ねて…』
「待て…、それでは駄目だ。」
エルナンの声を遮って、男の声が聞こえた。見れば、それは先ほどまで倒れていた男だった。異種族の、仮面をつけた男だ。男はまだ体力が回復しきっていないらしく、一族の者に支えてもらって上体を起こしていた。
『…お前、まだ万全な状態じゃないだろう。お前は休んでいろ。このくらいなら、全員でかかれば何とかなる。』
「本気で…そう思っているのか?」
不意をつかれて、エルナンは思わず黙り込んだ。
「…たとえ百、二百と結界を重ねたとしても、一枚の強度はたかが知れている。あれだけ大きな魔力の波だ、すぐに全て砕かれてしまうだろう。」
男は淡々と答えた。その様子に、周りにいた一族たちは少し動揺したように見えた。
『…ならば、お前はどうしろというんだ。』
「……。」
男は黙り込み、しばらく考えるように視線を逸らした。
「…全員で、一つの強固な結界を作ることはできないか。難易度は高いが、ここにいる者たちならば、それも不可能ではないはずだ。」
『結界を重ねるのが無駄というなら、それもおそらく無駄だろうな。』
エルナンは答える。
『複数の魔力で一つの魔法を作る場合、必ず魔力の継ぎ目が生まれる。そこからひび割れるように破壊されてしまうだろう。』
「……。」
男はしばらく思案するように黙った。
「それなら…、継ぎ目がなければいいんだな?」
『どうするつもりだ?』
「魔力を複数扱うことが問題なら、全てを同じにする。合成魔法を使えばいい。」
『正気か?ここにいる全員分の魔力だぞ。複数人で合成魔法を使ったところで意味がない。一人だけでこの量の魔力を扱わないといけないんだ。そんなことができる奴がどこにいる?』
「私がやる。」
『お前…っ!』
エルナンは声を荒げた。そんなこと、できるわけがない。あまりにも無謀だ。
『僕たちが異種族でお前に関係無いから、いい加減なことを言ってるんじゃないだろうな。』
男は何も言わず、ただエルナンを睨みつけた。その気迫にエルナンは黙り込む。
「どうするんだ。もうすぐそばまで魔力が来ている。」
『…分かった。お前を信じよう。』
エルナンは全体を見回し、指示を出した。
『話は聞いていたな?全員で一つの結界を作る。結界魔法が苦手な者は無理をせず、その男の魔力及び体力の回復に回れ。全員で、何がなんでもこの状況を乗り切るんだ!』
ーーーーーー
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…!」
走っていた。いや、逃げていた。だが、どこを目指しているのか、どこへ行けば逃げられるのか、そもそも何から逃げようとしているのか、何も分かっていなかった。ただひたすらに怖くて、いてもたってもいられなかった。
逃げても逃げても、恐怖は消えない。視線がどこまでも追いかけてくる。他のみんなが当たり前に受け入れている現実が、あの優しい瞳の奥にある暗闇が、ただただ恐ろしい。そして何より、その違和感に自分以外が気づいていないことが恐ろしい。
どうしてこんなことになっているんだろう。なぜここへ来たんだろう。いつからここにいたんだろう。分からない。思い出せない。気がついたらここにいて、無数の違和感に取り囲まれていた。どうして忘れているんだろう。どうして逃げ出せないんだろう。
「はぁっ、はぁっ…はぁっ…。」
息が切れて、走り疲れて、駆け足はやがて遅くなり、そして止まった。
無理なのかもしれない。
唐突に、諦めが胸の内に湧いた。何から逃げているのかも分からないのに、逃げきれるわけがない。
帰ろうと思った。だが、どこを走ってきたのか、もう覚えていない。ただ、目の前に扉が見えていた。何を思ったのか、自分はその扉を開けた。ひたすらに走り続けていた間、扉を通った記憶はなかったのに。だがなぜか、その扉が帰る場所へ繋がっていると、そう信じて疑わなかったのだ。
扉の向こうは、当然ながら自分の部屋ではなかった。そこは、およそ人が生活しているとは思えない、ありえないほど整えられた部屋だった。その部屋の真ん中で、場違いなようにぽつんと、床に座り込んでいる少女がいた。
「あ…、えっと…。」
自分は口籠もった。少女は静かにこちらを見ていた。だが、その瞳が自分を見ているとは思えなかった。たまたまそちらに視線を向けていただけで、少女は周りの全てが見えていないかのように、静かで、驚くことも怒ることもなかった。
真っ暗な瞳がこちらに向いている。その目を見てなぜか、自分は強くそれに惹かれた。その瞳は無機質なガラス玉のようだったが、その代わり、自分が恐れ続けていた、あの違和感に染められてもいなかったのだ。
(ああ、この子と友達になりたいな…。)
そう思った。その瞬間、先ほどまで虚ろだった少女の目が、初めてこちらを見たような気がした。
ーーーーーー
「いって…!」
全身を地面に叩きつけられた痛みで、バリューガの意識は戻った。
(さっきのは…夢…?あれ、オレ今…どうなってた?)
記憶がはっきりしない。セクエに会うために、ナオと一緒に山道を走っていたはずだ。
「ナオ?」
振り返るが、気配はない。
(思い出せない…。いつから一人だったんだ?なんで…?)
ゾワリ、と全身に鳥肌が立った。バリューガは再び前方に視線を向ける。
(何だこれ?すごく大きくて強い…。全部、魔力なのか…?)
今まで感じたことがないほどの、強力で大きな魔力の波だった。それに巻き込まれれば、それだけで死んでしまうのではないかと思うほどだ。
急いで向かわないと、セクエもあの波に巻き込まれるかもしれない。なのになぜか、体が動かない。呼吸が荒くなり、鼓動が早まるのを感じる。胸の奥が何かに掴まれたように苦しくなって、視線を前方から逸らせない。バリューガはハッと我に返り、首を横に大きく振った。
(もしかして…飲み込まれてた…?)
視線を地面に落とす。途端に全身が震えだした。怖い。このまま先に進んで大丈夫なんだろうか。あの波に飲まれるより早く、自分が自分でなくなってしまうのではないだろうか。
「いや、ダメだ…!」
バリューガはゆっくりと立ち上がり、視線を前に向けた。正面からやってくる魔力が、強く自分を誘っているのが分かった。今すぐに駆けて行ってそれに触れたいと思っている自分がいる。バリューガは歯を食いしばった。
「オレは、ここを進む。でも、それは魔力に触れるためじゃない。」
自分に言い聞かせるように、バリューガは呟き、そして走り出した。
「オレはセクエに会わなきゃならない。会って、謝らなきゃ、ダメなんだ…!」
さっきまで見ていた夢を思い出す。どうしてずっと忘れていたんだろう。きっと、あれが全ての始まりだったのに。
足が震える。それはあの波に近づきたくない恐怖なのか、それとも近づいている歓喜なのか、自分でも分からない。ただ、絶対に立ち止まってはいけない。止まってしまったら、足がすくんで進めなくなってしまう。
道も方向も分からない。ただ、馴染みのある魔力に向かって走っていた。きっとあと少し、あと少しだ。
「はぁっ、はぁっ…セクエっ…!」
見えた。
自分よりも少し小柄な少女の姿。しかし、長く美しい白髪も、溢れ出るような膨大な魔力も、それらは全て失われていた。それはまるで別人であったが、それでも、バリューガはそれがセクエであると確信していた。
「セクエ…!」
呼びかけながら、倒れた体を抱き上げる。セクエはぐったりと横たわったまま、眠っているように動かなかった。内側にあるはずの魔力が、消え入りそうなほどに小さい。何が起こっているのか、痛いほどに理解できた。
「ああっ…くそっ!なんで…。」
バリューガはその小さな体を抱きしめる。まだ温かい。生きているはずだ。なら、せめてもう一度だけ。
「なあ、セクエっ…目を…開けてくれ…。」
涙で視界が霞む。全身が震える。今腕の中にあるこの命が、消えてしまう。その現実が、何よりも重くバリューガにのしかかっていた。
「ごめんな、セクエ。」
気づけばバリューガは呟いていた。もう届かないかもしれないが、それでも、伝えなければならないことがあるのだ。
「オレが、お前を変えたんだ。メトの生贄だったお前を、オレが、自分の都合のいいように狂わせたんだ。お前を無理矢理、オレのわがままに付き合わせてただけだったんだ。」
ポタリと涙が落ちた。まだ学舎にいた頃、おそらく自分は無意識に、セクエを作り替えてしまった。メトの『生贄』から、自分の『友達』に。
「それなのに、苦しいことは全部お前に押し付けて、お前を止めないとか、友達だからとか、偉そうなことばっかり言って…。」
自分は剣使いで、魔法が使えないから、魔力が扱えないから、セクエを助けられない。それどころか、セクエは魔法を扱うのが上手くて、強いから、いつかセクエが全部を解決してくれるんだと、心のどこかで甘えていた。
「本当は全部オレのせいなのに。お前がこんなに苦しむ必要なんか、無かったのにっ…!」
(いっそ変わらないまま、何も知らない方が、お前は幸せだったのかもしれない…。)
今更そんな事を伝えて、何になるんだろう。セクエが生き返るわけじゃない。苦しんだ過去が消えるわけでもない。自分の罪が許されることも、無いのに。
「…しかしお前がいなければ、セクエは自由を知ることはなかった。セクエが本当の意味で『生きる』ことなどできなかった。違うか?」
すぐそばで声が聞こえて、バリューガはハッと顔を上げた。すぐ目の前に男が立っていた。しかし、彼が人間では無いことはすぐに分かった。体全体が透けていて、ぼんやりと光っていたからだ。
「間違いだったと思うのか?セクエが人間に近づいたことが。お前たちが生き延びたことが。お前たちが出会ったことが。」
「オレは…。」
何も言えなかった。間違いだったなんて思いたくない。でも、セクエのあり方を変えてしまったことは事実だ。それは、許されていいことだったんだろうか。
男は何も言わずにいるバリューガを責めるわけでもなく、答えを催促するわけでもなく、ただ視線を合わせるように、その場にしゃがみ込んだ。そして、そっと手を伸ばしてセクエの頭を撫でた。
フッ、とセクエが愛おしいように柔らかい笑みを浮かべた顔は、まるでずっと昔から、セクエのことを知っているように見えた。それどころか、セクエの魂が消えてしまうことさえ、とうの昔から知っていて、それをもう受け入れているような、そんな落ち着きさえ感じさせた。
「オレは…どうすればいい…?」
男はセクエから手を離し、バリューガを見据えた。
「どうすればいいかではない。お前がどうしたいかだ。」
「っ……。」
バリューガは再び視線を落とし、セクエの顔を見つめた。その答えはもう出ている。だが、セクエはそれを許すだろうか。それは許されていいことなんだろうか。
「大丈夫だ。それが本当にお前の意思ならば、セクエはそれを否定することはない。たとえ、セクエがお前の友でなかったとしても。」
まるで心の内が読めているように男はそう言って、立ち上がった。そして遠くへと目をやる。その視線の先は、こちらに確実に迫ってきているあの魔力の波がある。
「もう時間がない。お前はどうする。」
「オレは…。」
すぐそばまで、波が押し寄せて来ている。体が震える。心臓がはち切れそうなほどうるさく鳴っていて、全身が熱い。魔力が近づいているせいで、体に負担がかかっているのだと分かる。今すぐに逃げなければ、自分は死んでしまうのかもしれない。
だが、バリューガはセクエの体を強く抱きしめた。
「オレはっ……!」
バリューガは叫んだ。そしてそれと同時に、魔力の波がその場にいた者を飲み込んだ。瞬間、全ての音が、色が、光が、消えたように感じた。自分が叫んだ言葉さえ、耳には届かず、目の前は何も見えなくなり、抱きしめたセクエの体さえ感じられない。
だがなぜか、最後にはっきりと、男の声が聞こえた。
「…良い友を、持ったな。」
その言葉は、遺言のように聞こえた。