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#4 二つの種族

目を開けると、見覚えのない天井が見えた。なにが起こったのかはっきりと思い出せないまま、ゆっくりと体を起こす。


「んーと…ここは?」


そう呟きながら、バリューガは頭を押さえた。頭が痛い。自分はどうしてここに?


「ナーン」

「うん?」


何か聴き慣れない音が聞こえてバリューガは顔を上げる。さっきは気付かなかったが、目の前にフワフワの毛玉のような生き物が座り込んでいた。猫くらいの大きさで、三角の大きな耳が特徴的だった。毛並みは真っ白で、座り込んでいる姿は本当に毛玉みたいだ。バリューガが見ていることに気がつくと、四本の足で立ち上がってトコトコとバリューガに近寄ってきた。


「ナーン」


どうやらさっき聞こえた音は鳴き声だったらしい。だが、不思議な鳴き声だ。猫に似ているが、金属音というか、高く響くような音が声に混じっている。白い毛玉はバリューガの膝に上がり込んで顔を見上げてくる。その仕草が可愛らしくて、バリューガは微笑んで毛玉を撫でた。


この毛玉はどうやら魔力を持っているらしい。だが、魔法使いや魔道具とは魔力の感じが少し違う。この毛玉はフィレヌと同じで、きっと魔獣なのだろう。


「あれ。」


撫でていると、硬いものが手に触れた。毛をかき分けて見てみると、金属でできた首輪のようだった。白い毛に似つかわしくない、無機質で冷たい灰色の首輪だ。


(…これ、魔道具だ。)


魔獣の魔力とは違う魔力を首輪から感じる。毛玉は触られることを嫌がる様子もなく、その目からは感情らしいものは読み取れない。


(もしかして、これ、枷…?)


確かフィレヌが言っていた。フィレヌの国では行動や思考を制限する魔道具の枷を魔獣につけていたらしい。もしそうなら、壊さなければ。


(えっと…確かセクエからもらった魔道具が…。)


周りを見渡して、気付く。魔道具がない。おかしい。森に入った時からずっと持っていたはずなのに。


(いやでも…直前まで、何してたんだっけ…?)


思い出そうとするとまた頭が痛くなる。バリューガは顔をしかめて、ひとまず考えるのをやめた。


「…ごめんな。」


毛玉を撫でながらバリューガは呟いた。


「オレじゃ、お前を助けられない…。」


そう呟いて、首輪にそっと手を添える。フィレヌと約束したのに。この魔獣だって苦しんでるかもしれないのに。それなのに、自分は何もできないのだ。悔しくなって、バリューガは俯いた。


「ごめんなぁ…。」


情けなくなって思わず涙が出そうになる。それをなんとか止めようとして、ぐっと目を閉じた。その瞬間。


「っ…!」


針で突かれたような、僅かな痛みが手首に走った。驚いて目を開けるが、手首には何もない。右の手首には、セクエと魔力を繋ぐための魔道具の腕輪が付いているだけだ。だが、バリューガは怖くなり、左手で腕輪を強く握りしめた。


呼吸が自然と荒くなる。嫌な汗が頬を伝った。何かがおかしい。腕輪は確かにそこにあるはずなのに、まるで何も無いような気がする。まるで、魔道具でなくなってしまったように。


(腕輪の効果が…無くなった…?)


それが何を意味するのか、理解するだけの時間はなかった。突然、全身を引きちぎられるような痛みが襲ったのだ。


「うっ…ぐあ…ぁ……!」


体を起こしていられなくなる。前に倒れそうになったが、とっさに魔獣を避けて横に倒れた。


「がっ…あっ…。」


全身が燃えるように熱い。それなのに、凍えそうなほど寒い。血液の代わりに溶岩が流れているようで、しかし全身が凍り付いているような感覚だった。視界は歪んでいて、グルグル回っている。自分が何を見ているかさえ分からない。世界がぐちゃぐちゃに混ぜられているようだ。


それに加えてさらに、全身に激痛が走っている。心臓が脈打つたびに、内側から引き裂かれるような、何かに食い破られるような痛みが止まらない。


息が思うように吸えない。何度も意識が飛びそうになるが、激痛がそれを許してはくれなかった。もはやどの感覚が正常に働いているのかなど分からなかったが、一度だけ、硬いものが砕けるような金属音が聞こえた。


ーーーーーー


「ナーン」


猫の鳴き声に高い金属音を混ぜたような独特な声が聞こえて、キリヤは徒歩での移動を浮遊魔法に切り替えた。


(見張りの魔獣の声…。もう目覚めたというの?カイサレオったら、対処が甘いったらないわ…!)


腹立たしいが、今はとにかく急がなければ。対処が遅れるほど自分にとって不利になる。


(目が覚めているなら、記憶操作はほぼ不可能。抵抗されることも考えるなら、手荒なやり方をすると後が怖いわ…。力で脅す?嘘をついて騙す?それともいっそ…。)


ゴクリと唾を飲み込む。どれが最善かは、彼の様子を見てから決める方がいいだろう。怒りに任せて抵抗してくるか、怯えきって言いなりになるか、それとも平静を保ってこちらの出方を伺ってくるか、会ってみなければ分からない。


「ナーン」


急かすように魔獣の声が響く。キリヤは速度をさらに上げた。


岩が少なくなり、少しひらけた場所に出た。そこに土を固めて作った小さな小屋がある。キリヤはその入り口に着地すると、中の様子を伺った。


(魔力が乱れている…?)


キリヤは中へ入る。彼は魔力を持っていたはずだ。ここへ連れてこられた影響で精神的に不安定になり、魔力が暴走を起こしてしまったのかもしれない。


中では少年が苦しそうに息をしながら倒れていた。右手首を強く押さえているが、顔は汗で濡れ、目の焦点が合っていない。


(早く制御を。)


キリヤは少年に近づき、その頭に触れた。体に直接触れれば、相手の魔力に干渉できる。それなりの技術を要するが、体内で暴れる魔力を制御することも可能だ。魔力が落ち着けば、魔力を相手から奪うことも、ピドルとして体外に出すこともできる。しかし。


「…っ!」


バチンと耳障りな音を立て、指が弾かれた。魔力の暴走が激しすぎて、自分の魔力が弾かれてしまうのだ。


(触れて干渉することはできない。それなら、やむを得ないわね。)


キリヤは素早く呪文を唱え、風の刃を作り出すと、少年の腕を切りつけた。


切り口からドロリと血が流れる。しかし、少年は何も感じないかのように荒い息を繰り返すだけだった。キリヤは流れ出た血液に触れてみたが、やはり指が弾かれてしまう。


干渉できないのなら、血液とともに魔力を体外へ出すしかない。この調子では制御用魔道具も弾かれてしまうだろう。


(見ているしかない…?いえ、まだできることはあるはず。)


魔力が暴走を起こせば、体には大きな負荷がかかる。いくら剣使いとはいえ、暴走が長引けば体力は消耗するし、下手をすれば死に至ることもある。今ここでこの少年を失うわけにはいかない。


(…落ち着いて。状況を整理するのよ。触れての制御は不可能。魔道具も弾かれる。血液を抜くとしても、これだけの魔力が落ち着くまでとなると、失血死の恐れがある。それなら…直接触れるのではなく、遠距離から魔法を使って魔力を誘導することは?)


キリヤは立ち上がり、少年に手をかざした。普通であれば、相手に触れずに魔力を抜き取るのは難しい。だが、彼には傷をつけてある。血液(魔力)が体外に出ているこの状態ならば、魔力の操作はそう難しくはない。


キリヤの掌に小さな黒い雫が現れる。少年の魔力から作られたピドルだ。


(これなら大丈夫のようね。)


「ナオーン」


魔獣の声が聞こえて、キリヤは視線を向ける。魔獣は少年に寄り添うようにそばに座り込み、傷口を舐めていた。キリヤが見ていることに気づくと、魔獣は舐めるのをやめ、キリヤを睨むような冷たい視線を向けた。


(何も命令していないのに…どうして…?それに、この視線…。)


魔獣には行動と思考を制限する枷の魔道具を付けてある。命令しない限りは勝手な行動をすることはないはずだ。キリヤは目を細めて枷の効果を確認する。


(何、この効果は…?こんな魔道具、作った覚えはないわ…。)


効果が全く違う。一体なぜこんな魔道具が付けられているのだろう。


(まさか…?)


一つ、思い当たることがあった。だが、本当にこれが『そう』なのだとしたら、今までに考えていた計画をほぼ全て変えなければならなくなる。


「…とにかく、彼が目覚めなければ話は進まないわね。」


キリヤは少年に視線を戻し、魔力の抜き取りを加速させた。掌のピドルは増え続け、雫と言うよりは水の玉と呼んだ方がいい大きさになっている。


(相当な量の魔力…。今までこれだけの魔力を制御し続けていたなんて考えられないし、もしそうだったのだとしても、感情の変化だけでこれだけ強い暴走が起こるのは考えにくいわ。暴走には他の要因が考えられるわね。)


少年の呼吸は落ち着いてきている。キリヤは少年が握っている手首に目をやった。


(腕輪の魔道具…のようね。でも壊れているわ。暴走はそれが原因…?)


キリヤは魔力を抜くのをやめる。懐から小さな瓶を取り出すと、浮いたままのピドルを中に入れて栓をした。これはピドルに触れずに管理するための物で、魔力を通さないようになっている。


キリヤは姿勢を低くして少年の顔を覗く。


「大丈夫かしら?魔力はだいぶ抜き取ったけれど。」

「ん……ああ…。」


少年は返事をして体を起こす。キリヤはすぐに回復魔法で腕の傷を塞いだ。少年は汗を手で拭うと呼吸を整えた。そして右手首を見て、残念そうに呟く。


「腕輪…。」

「壊れているわね。私が来るまでに何があったのか聞いてもいいかしら。」

「…っ!」


少年はキリヤを睨みつけた。思いのほか鋭いその視線にキリヤは驚く。


「何だよ…。何も知らないって言うのか?」

「落ち着いてちょうだい。ここへ来るまでに無礼があったのなら、詫びるわ。正直、こんなにひどい状況になるなんて思っていなかったの。こうなると分かっていたなら、私はこの件を彼には絶対に任せなかったわ。」


キリヤは少年と目を合わせて、真剣な口調で言った。それを見てどう思ったのか、少年はキリヤから視線をそらした。


「考えられるとすれば、ただ気を失わせれば良かったものを、あなたに攻撃を仕掛け、不必要に怪我を負わせたといったところかしら?」


少年は頷くこともなく、ただ黙っている。


「…ごめんなさいね。初めから全て私が、一人でやっていれば良かったわ。」

「……。」


少年は黙ったまま、すぐそばにいる魔獣を撫でていた。魔獣は心なしか嬉しそうに目を細めている。少年はしばらくそれを眺めていたが、やがて口を開く。


「…なんで、連れてきたんだ。」

「知りたいの。あなたの『力』を。」

「力?」

「そう。」

「オレには…。」


少年は撫でる手を止め、悔しそうに唇を噛んだ。


「力なんてない。」

「……。」

「いつもそうだ。オレは見てることしかできない。何も守れない。コイツの枷だって…。」

「魔獣につけられた枷のことを知っているのね。」

「カロストから来た魔獣に聞いたことがあるんだ。自由を奪う枷があるって。もしその魔獣を見つけたら、助けてやってほしいって。約束したんだ。それなのに…何もできない。オレは剣使いだから、魔道具がなきゃ、何もできない…!」


少年は両手を握りしめた。この少年の過去に何があったのか、キリヤは知らない。分かっているのは、この少年には他の剣使いにはない力が備わっているということ。そして、もうその力にほとんど目覚めているということだ。


「良かったわ。あなたに『守りたい』という明確な意思があって。」

「オレに、守れるのか?」

「ええ。あなたがそう望むなら、きっと。現にあなたは、この魔獣を既に救っているわ。」

「…何言ってんだよ。」


キリヤは魔獣に目を向ける。魔獣は少年のそばに座り込んだまま、少年とキリヤを交互に眺めていた。


「正しく枷の効果が現れているなら、こんな風に誰かに寄り添うことも、心地よさに目を細めることもないわ。」

「でも、オレは何も…。」

「過去に経験はないかしら?受けた魔法や魔道具の効果では起こり得ない現象を確認したことがあると思うの。見えるはずのないものが見えたり、あるいは聞こえたり。」

「……。」


少年はしばらく黙って考えていた。


「…もしかしたら、あるかもしれない。景色が歪んで、見たことない場所に行ったことがある。多分、カロストのどこかだと思う。その時は、その後すぐ元の場所に戻ったけど…。」

「その時、魔法か魔道具を使っていなかった?」

「魔道具を持ってた。壊れたけど、この腕輪…。」


そう言って、少年は手首の腕輪を大切そうに握った。


「友達と、同じ腕輪を付けてるんだ。オレの魔力を安定させるために必要らしくて…。」

「少し見せてもらえるかしら?」


少年は手首から腕輪を取ってキリヤに渡す。壊れてしまったためもう効果は発動できないが、魔力に込められた命令はまだ読み取ることができる。その効果を確認し、自分の考えが正しいことを確信した。


「なるほど。間違いないわね。」

「何か、おかしいのか?」

「この魔道具、単に魔力を安定させるためなら必要のない命令が加えられているわ。おそらく、後から『書き加えられた』のでしょうね。」

「えっと…。」


少年は困ったような顔をする。魔法について詳しい知識がないのだろう。


「あなたには、『魔力に与えられた命令を書き換える』力があるのよ。簡単に言うなら、魔法を別の魔法に変える力。私はその力を『変換』と呼んでいるわ。剣使いの中でもごく少数に現れる珍しい能力よ。私はその力を調べるために、あなたをここへ連れてきたの。」


少年は驚いてるようだった。目を丸くして何も言えないでいる。キリヤはさらに続けた。


「あなたは、枷の効果を書き換えて魔獣を助けた。さっき、何も守れないと言っていたわね。本当に守りたいものがあるのなら、あなたにその力の使い方を教えてあげるわ。」

「オレに…魔法が使えるのか?」

「魔法じゃないわ。」


少年の問いをキリヤは否定する。


「魔法使いが持ち得ない、魔法をも凌駕する力よ。」


ーーーーーー


目を開ける。目を開けるとは目覚めるということであり、目覚めるということは意識が戻るということだ。つまり自分は今、意識を取り戻したということになる。


(…なぜ?)


疑問だった。自分の意識が戻るはずはないのだ。なぜなら自分は、もう、すでに…。


「目が覚めたようだな。」


聞き覚えのない声。その魔力にも覚えは無い。だが、周囲から感じられる魔力から、自分の置かれた状況は推測できた。なるほど、これはかなりの面倒事に巻き込まれたらしい。


「自分が置かれた状況は分かっているか?」


言われるまでもない。まったく、愚かしく、くだらない事だ。


「まあ、整理に時間はかかるだろう。しばらくは一人にさせてやる。」


自分は何も言わないが、それを相手は混乱とみなしたらしい。思い上がりも甚だしいことだ。腹立たしい事この上ない。


「お前の力…、期待しているよ。メト。」


メト。そうだ。それが私の名だ。相手もそれだけは正しく理解しているらしい。


奴の気配が遠のく。自分は体を起こし、自由に動かせることを確認した。体を巡る魔力も量が膨大であることを除けば正常だ。問題なく使用できる。周囲を見れば、おそらく身に付けていたであろう魔道具が破壊されて散らばっているのが確認できた。


自分は一度死んだ。だが、こうして肉体を持ち活動ができている。蘇生魔法を使われたのだということはすぐに分かった。魔道具が壊されたのはその魔法を使う際に邪魔になったからだろう。


蘇生というのは、魔法の中では禁忌とされている。正しく言うなら、禁じられているのではなく、使用できる条件が揃わないため、使用された前例が無いのだ。


一度死んだ者を蘇らせるのに必要なのは、本人の魂と健康的な肉体。その両方が揃って初めて、蘇生魔法は使用可能となる。だが、死んだということは、肉体が限界を迎えたということであり、たとえ魂に干渉できたとしてもその肉体には戻すことができない。死んだ者には回復魔法が効かないため、肉体を健康的な状態に戻すことも不可能だ。そのため、蘇生魔法の実現は不可能とされていた。


だが、自分の場合は違った。自分はセクエの合成魔法によって、肉体は生きた状態のまま死を迎えた。だから、魂に干渉することさえできれば、蘇生魔法は完成する。だが本来、一つの肉体に二つの魂は宿らない。となれば、セクエの魂は…。


(いや、消えてはいないか。だがかなり弱っている。)


当然だろう。セクエは元々、ここまで長く生かすつもりなどなかったのだ。時が来れば贄として殺し、その魔力を自分のものとする。そのためだけに、この魂は作られたのだから。


自分が作り出したこの魂は、本物の魂の性質を参考として作った、実体を持たない魔獣だ。魔獣であれば当然、定期的な魔力の供給が必要になるが、セクエには一度も魔力の供給をしたことはない。むしろ今まで生きていただけでも驚くべきことだ。まあ、限界が近づくに連れて感情や意思は不安定になっていったようだが。


(さて…どうするか。)


立ち上がり、辺りを見回す。どうやら倉庫らしいこの小屋は、壁に沿って立てられた棚に様々な道具が無造作に置かれていた。


(岩をくり抜いて作られた小屋…、小屋を覆う結界の魔道具…。魔力から予想はできていたが、やはりここはセキガの領地か。)


それにしても、監禁場所にここを選ぶとは、つくづく馬鹿な奴だ。ここなら脱出用の道具が揃うかもしれないというのに。もっとも、自分にとってはこの程度の結界など道具がなくとも破壊できるが。


(…試してみるか。)


小屋の中心から壁沿いへ移動する。壁に手をつくと、結界を作る魔力が感じられた。


「消滅せよ。」


かつて幾度となく聞いた、この呪文にも似た言葉を唱える。だが、結界に変化は無い。


(やはりこの体であっても、セクエでなければ使えないか。)


壁から手を離し、距離を取る。結界の破壊は造作もないが、そのために魔法を使うのは避けたいところだ。この小屋の中に、何か使えるものがあればいいが。ぐるりと部屋を見渡してみると、先ほどは気がつかなかったが、人影が壁にもたれているのが見えた。


(あれは…死体?いや、魔獣の残骸か。)


近づいてみたが、魔獣はピクリとも動かない。どうやら完全に死んでしまっているようだ。人間の女性を模した魔獣だった。服はボロボロで、長い髪は乱れている。ふと目をやると、裂けた体からピドルが漏れているのが分かった。


(この魔力はセキガの物か。ちょうどいい。)


ここは倉庫だ。探せばピドル用の瓶もあるだろう。それがあれば、ここから出ることができる。


(その後は…セクエに任せてみるか。)


胸に手を当て、弱りきった魂の魔力を確認する。まだ、体を動かせるだけの力は残っているだろう。奴が何を望みどこへ向かうか、少しだけ興味があった。


ーーーーーー


グアノとアルダは焚き火を挟んで向かい合う。なぜグレーズ王国の王子に魔法使いの血が流れているのか、そして、なぜ彼はセキガ族に捕らえられているのか、グアノは尋ねようかとも思ったが、失礼な気がして口に出せなかった。


「名はグアノと言ったな。グアノ、ようこそグレーズ王国へ。こんな格好で言うのもなんだが、私がグレーズ王国第一王子、アルダだ。さて、いきなりこんなことを問うのは野暮だと思うが、グアノはなぜここへ?」

「…セクエという娘を追って、ここまで来ました。キリヤから、今彼女はここに捕らえられていると聞いて。」


グアノは問いに答える。アルダは少し不思議そうな顔をしていた。


「ということは、その娘はセキガ族ではないのだな。ならば、彼女はなぜここへ来たのだ?」

「さあ。キリヤもそこまでは把握できていないと言っていました。会話がままならず、私が会える状態ではないと。」

「病か?」

「いえ…、そうではないと思うのですが、彼女については私も知らないことが多く、何とも言えないのです。」

「そうか…。せっかく追ってここまで来たというのに会えないというのは、なかなかに辛いものだな。」


アルダは焚き火をじっと見つめている。王子はまだ若く、年齢は二十代前半くらいに見える。背にかかるほどの長い赤髪をしており、それを束ねていた。服装は長旅に使われるような動きやすい生地の物だったが、王族らしい貴重品や装飾は身につけていない。


「そういえば、グアノはどの国から来たのだ?」

「魔導国です。」

「魔導国…?魔導国か!」


アルダが突然大きな声を出す。グアノは驚いて王子を見つめた。


「ああ、つい舞い上がってしまった。すまないな。だが、魔導国にはいつか行ってみたいと思っていたのだ。魔法使いと剣使いが支え合い暮らしている国と聞いている。私も、この国がいつか、そのような国になればいいと思っているのだ。」


嬉々とした表情でそう言った後、アルダはふと我に返ったように表情を曇らせた。


「…もっとも、私がこの国の外へ出ることは、決して起こり得ないことだろうがな。」

「どこか、ご病気でも?」

「いや、そうではない。だが…私は国外に、本当ならば城の敷地の外に出ることすら、許されないのだ。」


グアノは疑問を感じた。第一王子ということは、やがて王位を継ぐことになるはず。そのような立場にある者は、普通であれば見聞を広めるために国中を視察して回ることも珍しくない。それが城から出ることもできないとはどういうことなのだろう。


「驚いたか?一国の王子が生涯城の外へ出られないなど、他の国ではあり得ないことだろう。」

「何か理由があるのですか?アルダ様は第一王子であられるのに…。」


アルダは上を見上げ、言葉を選ぶようにしばらく黙ってから口を開いた。


「グレーズ王家には、他の王家には無い独特な風習があってな。驚くかもしれないが、王位は女性も継ぐことができるのだ。今は、長子である姉上が次期女王としての教育を受けている。」

「しかし、それと城から出られない事には繋がりが…。」


そう言ってから、しまったと思った。あまり深く知りすぎるのは良くないかと思ったのだ。それが古くから伝わる王家の風習であるのなら、何か深い意味があるのかもしれない。だが、それが部外者の自分が知っていい事とは限らない。


「ふむ、グアノはなかなか鋭いな。」

「…申し訳ありません。差し出がましい質問をいたしました。」

「気にするな。王族とはいえ今は囚われの身。偉そうに振る舞うつもりはない。」


そう言って、アルダはまた視線を上げる。天井は高いため魔道具の明かりが届かず、小窓から差し込む光が小さな白い円になって見えているだけだ。炉に焚かれた小さな火が王子の顔を揺らめきながら照らしている。


「…私は、王家の罪が産んだ罰なのだ。話すと長くなるが、聞いてくれるか。」


ーーーーーー


昔、セキガ族は今よりはるかに栄えていた。その魔法の技術は極めて優れており、領地も広く、カロスト最強の魔法使いとして周辺諸国に恐れられるほどだった。


だがある時、セキガ族は急激に勢力を失った。何か大きな災いが起こり、一族の半数以上が死んだのだという。広大な領地は日を追うごとに縮小していき、さらに周辺の国々からの侵略が重なり、彼らは人の寄り付かない荒れた山奥へと追いやられた。


最強と謳われた一族の急激な勢力の縮小。その事態を好機と捉えた剣使いの王がいた。勢力を失ったとはいえ、個々の力が凄まじいことは変わらない。王はセキガ族を従え、その力を利用することで他国を侵略し、やがてはカロスト全土を支配しようと目論んだ。


セキガ族には女王がいた。女王の下に一族は平等であり、女王が統率することで一族は他国からの侵略を退けていた。王はそれを知っていた。セキガの住む山奥に多くの兵を向かわせ、そして次期女王となる娘を誘拐した。


その時、セキガ族はほとんど無抵抗だったと伝えられている。その日を生き抜くのに精一杯だった彼らは、剣使いの侵略にただ逃げ惑うばかりだった。


かくして娘は捕らえられ、王の住む城の牢に幽閉された。王は娘を人質として、セキガ族に国への服従を要求した。しかし驚くべき事に、セキガ族はその要求を断った。異種族に支配されて生きながらえるより、一族の誇りを守り抜いて滅ぶ事を彼らは選んだのだ。


王はセキガ族のその回答に怒り、娘を拷問にかけた。しかし、娘がどれだけ苦しめられようとも、セキガ族が王に従うことはなかった。娘は奴隷のように扱われたが、やがて王はセキガ族に関心を持たなくなり、娘は忘れ去られた存在となった。


時は流れ、王は死に、王子が新たな王となった。新たな王は娘に、先王による残忍な仕打ちを深く詫びた。そして娘をセキガの領地へ返すことを決めた。


しかし、娘は長い間酷い扱いを受けていたために衰弱しており、自らの命が長く持たないことを分かっていた。そのため娘は、領地へ帰ることを拒み、かわりに王に誓わせた。


王家が犯した罪を認め、それを忘れぬように語り継ぐこと。これ以上一族に危害を加えないこと。そして、自分の女王の血を決して絶やさぬこと。


王はいつかこの罪を償い、全てが許される時まで、この誓いを守り続けることを娘に誓った。


ーーーーーー


「そして娘は王との間に一人の子を生み、その血が今まで途絶えることなく私の代まで続いてきたのだ。」

「遥か昔の時代から、ずっと?」


「そうだ。…昔の時代は、領地を侵さぬよう、セキガとの交流こそ無かったものの、他の魔法使いの国とは交流があったらしい。魔獣や魔道具も、普通に使われていたと聞く。だが、時は流れ、時代は変わった。今では民は皆、魔法や魔法使いを恐れるようになった。そんな中で剣使いの王家に魔法使いの血が流れているなどと知れ渡れば、民の反感を買うのは避けられない。この歴史は今や、王家にのみ語り継がれる伝承になった。」


アルダは残念そうにため息をつく。


「私が生まれた時、私のことを民に伝えるかどうか、父上は悩んだらしい。私が生まれるまで、魔力を持つ者は歴史上一人も生まれた事がなかったのだ。だが結局、私は隠される事になった。民は誰一人として私のことを知らず、城の外に出ることすら許されない。罪を償うと言っても、何が償いになるのかも分からない。私に女王の血が流れているとしても、剣使いと交わってしまった今、純血の女王はもう望めない。私は、この罪は決して償えないのだと自覚した。」

「……。」

「キリヤと出会ったのはそう思い始めた頃だった。今思えば、なぜキリヤが城に現れたのかは分からないが。…なあグアノ、私を初めて見たとき、キリヤはどうしたと思う?」


ふっ、と面白がるような笑みを浮かべて、アルダはグアノに視線を向けた。


「跪いて、私を女王と呼んだのだ。」

「女王…?」

「笑ってしまうだろう?剣使いの王族であり、男である私を女王と呼ぶなど。だがな、その時私はようやく、自分が生まれた意味を知った。私ならば、王家の罪を償えると、そう思ったのだ。」


そう言って、アルダは視線を戻した。瞳には彼の髪と同じ色の炎が映っている。それはまるで、彼自身の胸に秘めた想いを表しているように見えた。


「父上と何度も話を重ね、今ようやく、私はセキガの地に立っている。この行動は、きっと国の未来を変えてくれるだろう。」

「…アルダ様は魔法を、魔法使いを恐れないのですか。」


グアノは尋ねる。魔法使いと剣使いが互いに歩み寄れない理由の一つは、剣使いが魔法というものを恐れるからだ。剣使いにとって、魔法というのは得体の知れない力。王子が混血であるとはいえ、異種族に歩み寄るのは難しいはずだ。


「魔法というものは、剣使いが一般に使う武器とは違い目に見えません。その威力も、使い方次第で町一つを滅ぼせるだけの力になることもあります。それに、アルダ様の信頼を疑うようで申し訳ありませんが、キリヤがあなたを騙している可能性もあるはずです。…無礼を承知で申し上げますが、アルダ様は自身の血とセキガ族を過信しているように思われます。もっと警戒をすべきではないでしょうか。」

「そんな事は分かっている。」

「ならば、なぜ…。」

「私は女王の血やセキガ族を信じているのではない。私はキリヤを信じているのだ。少し話せば分かる。キリヤは聡い娘だ。キリヤなら、一族のための判断を間違うことなどあるまい。私を生かそうが殺そうが、それがキリヤの選んだ答えなら、それはセキガにとって正しい選択なのだろう。…どのような形であれ、過去の罪を償えるのなら、私はこの命も惜しくはない。」


グアノを見つめ返すその眼差しに曇りはなく、ただ真っ直ぐに、強い光をたたえていた。その姿が、かつての自分の主人と重なる。


(この方は、どんな未来を選ぶだろう。)


剣使いの王族として、女王の血を継ぐ者として、過去の罪を背負った罪人として、王子は何を望むだろう。キリヤはこの王子に、どうあることを望むだろう。


(瞳に宿るこの光を、私は守ることができなかった。キリヤならば…守れるのだろうか。)


ーーーーーー


左手につけられた腕輪にそっと手を添えて、目を閉じる。一つ深呼吸してから目を開け、腕輪を体の前にかざした。瞬間、腕輪から光が飛び散り、冷気を含んだ空気が風となって前方に噴射する。


腕輪を使っていた少年、バリューガはその様子を驚いたように見つめていた。


(…恐ろしい力ね。)


キリヤはバリューガが魔道具を使う様をまじまじと眺めながら、その力を確かめていた。


今彼が使っている魔道具は、変換の力を扱える者の使用に特化した魔道具だ。本来、魔道具に込めることのできる魔法の数は限られている。例えば、セキガ族の中で一般に用いられている小屋の補強用魔道具は、補強の魔法と効果を切り替えた際の結界魔法の二種類の魔法が込められている。


だが、多くの魔法を込めるほど、一つの魔法の効果が他の魔法によってかき消され、魔道具として効力を発揮しなくなってしまう。そのため、一つの魔道具に込める魔法の数は多くても三つまでだ。


しかし、キリヤがバリューガに渡した魔道具は光、炎、音、天候、回復、探知など、数十種類の魔法が込められている。もちろん、通常はその魔道具を使う事は不可能だ。


だが、変換の力を持つ者ならば、多くの魔法の中から一つを選び、その他の魔法を全て書き換える事により、魔法の力を引き出すことが可能だ。さらにこの魔道具は書き換えられた命令が元に戻るようにしてある。変換の力を使いこなせるなら、魔道具に込められた数十の魔法を使用でき、さらに複数の魔法の組み合わせを考えるなら百を超える魔法を扱うこともできるだろう。


(つまり、この魔道具を使っている間、彼の力は魔法使いとほぼ同等。いえ、それ以上になる。)


魔法の命令を書き換えるという事は、魔道具に込められた魔法だけでなく、魔法使いが使った魔法も書き換えられるという事だ。使った魔法が全て無害な魔法に変えられてしまえば、魔法使いは彼に勝てない。


(…これはやはり脅威と断定すべきね。敵対を避けるのは当然として、研究が終わり次第処分を検討する必要があるわ。『彼女』と同じように。)


変換の力を持つ剣使いがセキガの地に来たのは、これが初めてではなかった。まだキリヤが幼かった頃だが、同じような力を持った剣使いの娘が領地内で発見されたことがある。


彼女は記憶を失っており、そして優れた魔力の察知能力を持っていた。セキガ族は介抱を条件に彼女の力を研究した。最終的に彼女は脅威とみなされ処刑された。


それだけならまだ良かったのだ。だが、彼女が処刑される瞬間、周囲にあった魔道具が突然誤作動を起こして爆発した。粉々になった魔道具を確認してみると、魔法の命令が書き換えられていることが分かった。その時すでに彼女は息絶えていたが、それを彼女がしたという事は疑いようのない事実だった。


探知能力とは違う、まだ見ぬ力がある。その力がいずれ脅威になることを想定して、セキガ族は同じ力を持つ剣使いを探すようになった。その力を知り、その脅威に対抗するために。


セキガ族は、優れた探知能力は変換の力の素質を持つ者のみに現れると考えた。素質を持つ剣使いを見つけるため、特別な探知魔法が開発され、素質を持つ者を世界中から集めた。だが、探知能力を持っている者は見つかっても、変換の力を持つ者は今まで一人も発見できなかった。


そして、キリヤが長の座を継ぐ数年前に、大きな変化が起こった。その探知魔法を使っても、剣使いの存在を探知することができなくなったのだ。まるで世界から彼らが全て消えてしまったように。


(バリューガの年齢を考えるなら、探知ができなくなった時には生まれていたはず。なぜ探知できなくなったのかも調べる必要があるかしら…?)


もしも彼らが探知から逃れる方法を持っているなら、それの対策も考えなければならない。何せ彼らは、魔法使いを遥かに凌駕する力を持っているのだから。


(何としても、一族を彼らの脅威から守らなければならないわ。一族の長として、危険をみすみす見逃すわけにはいかない。彼らの力を完全に理解した上で、完璧な対策を講じて、その後は…。)


バリューガを殺す。その考えが頭に浮かんだ途端、胸の奥を強く掴まれるような息苦しさを感じた。


(…いいのかしら。そんな事をして。私はまた、彼女に犯した罪を繰り返す事になる。彼に罪は無いのに、身勝手な理由で殺すだなんて…。)


ー何を迷っている?ー


また、声が聞こえた。この声がバリューガには届いていないという事は分かっている。キリヤは目を閉じた。


ーお前の考えは正しい。迷うことなどないだろう。危険な存在ならば排除しなければならない。一族の敵となる存在に、容赦をする必要などない。ー


声が響く。キリヤは小さく頷いた。


(そうね。未来のことを考えるなら、この判断は仕方のないこと。一族を守るためなら、私は何だって…。)


「キリヤさん?」


不意に名前を呼ばれて、キリヤは目を開けた。バリューガが不安そうな表情でこちらを見ている。


(魔道具に不調は見られないし、怪我をした様子も無い。どうしたのかしら?)


「何?どうし…」

「キリヤさんっ!」


バリューガが急に近づいてきて、キリヤの手を握った。嫌がるような、怖がるような、驚いているような目をしていた。


「…どうしたのかしら?」

「今、違う魔力が…キリヤさんに…。」


呆然とした様子で、呟くようにバリューガは答えた。


「なんて言うのか分からないけど、濃くて気持ち悪い魔力が、キリヤさんのこと、飲み込んでるような感じがして…。」


キリヤは表情には出さなかったものの、内心驚いていた。


(彼の探知能力は『これ』の存在すら嗅ぎ分けてしまうのね。私の魔力とよく似ていて、その上ごくわずかしか魔力は残っていないはずなのに。)


以前この地にいた彼女と同じように、バリューガもまた魔力の探知能力に優れている。しかし、魔力の存在を感じ取ることができても、どんな魔法なのかを読み取る事はできない。今回はそれに助けられたと言うべきだろうか。『これ』については、誰にも知られてはならないと母にずっと言われてきたのだ。


「私は大丈夫よ。」

「でも、確かにさっき…。」

「これは、一族を守るためのまじないなの。あなたが心配するような事ではないわ。」

「それなら…いいけど…。」


まだ何か納得できない様子だったが、バリューガはキリヤから手を離した。そしてキリヤから少し距離をとって、再び魔道具を使い始めた。


(魔力が私を飲み込んでいる、という表現が正しいなら、私は確実に『これ』に蝕まれている。)


キリヤはバリューガから視線を逸らした。どんなわずかな動揺も、今は彼に気づかれたくない。


(…私は抗っているつもりだけれど、実際はどうなのかしら。私の理性は、決意は、意志は、本当に私の物?『抗っている』というこの思いさえ、植え付けられたものなのだとしたら…私がすでに操られているのだとしたら…。)


心臓の鼓動が速まるのを感じる。自分は判断を誤ってはいないだろうか。それとも既に、自分の心は自分のものではなくなってしまったのだろうか。今の自分は、本当に自分自身なのだろうか。


(…分からない。この魔法はあまりにも技術が高すぎるわ。セキガ族の長であるこの私が、抗うどころか自覚することすらできないなんて。)


ふと、魔力の動く気配を感じて物思いから覚める。魔力の質、動く向きから考えて、誰が何をしようとしているのかはすぐに分かった。それと同時に、怒りや憎しみのような感情が胸の奥に湧き上がる。


(ようやく…ようやく動き出したというわけね。わざわざ見張りを置かなくてもバリューガは変な行動はしないでしょうし、王子はグアノが守っているわ。一族の中で邪魔をする可能性があるのはエルナンくらいだし、その動きは封じてある。計画が失敗する可能性は最小限に抑えてあるはずよ。あとは私がしくじらなければ…それでいい。)


誰にも邪魔させず、誰も巻き込まず、終わらせてみせる。たとえ何を失おうと、一族の未来は守ってみせる。愚かな異種族ごときに、一族を脅かさせはしない。


ーーーーーー


「バリューガ。私は少しここを離れるわ。分かっているとは思うけれど、あなたは剣使い。魔法使いである一族の者に見つかれば何をされるか分からないわ。くれぐれも、この小屋から離れないでちょうだい。」


キリヤが唐突に口を開いた。返事をする間もなく、キリヤは浮遊魔法でどこかへ行ってしまう。バリューガは一つため息をつき、その場に腰を下ろした。


「ナオーン」

「ん?」


あの毛玉の魔獣が鳴きながらバリューガにすり寄ってくる。バリューガはこの魔獣を鳴き声から取ってナオと呼んでいた。その頭を優しく撫でる。ナオは嬉しそうに目を細めていた。随分と懐かれたものだ。その様子を見て思わず微笑むが、しかし気持ちは暗いままだった。


バリューガは少し考えていた。自分が持つ力について、そして、セクエのことについて。


(ここにはセクエがいる。分かってる。でも…。)


以前のバリューガであれば、多少の無茶をしてでも会いに行っていただろう。だが、今はその考えが正しいのか分からなくなってしまった。


力が無いから、セクエを守れないのだと思っていた。そのせいで、肝心な時にそばにいることができなくて、見ていることしかできないのだと。だが、仮に自分の変換の力を使えるようになったとして、セクエはそれを喜ぶのだろうか。


とてもそうは思えなかった。むしろ、セクエは泣いて悲しむのではないか。理由は分からないが、そんな気がした。


(オレはただ…あいつと対等でいたいんだ。)


ただ守られるだけでなく、相手を守れるように。隣り合って、支え合って、手を引いていけるように。そんな関係になりたかった。


その差は力でなければ埋まらないのだろうか。剣使いと魔法使いが対等になるために、本当に必要な物は何なのだろう。今セクエに会いにいったところで、自分に何ができるというのか。


それだけじゃない。セクエには今、何かよくないことが起こっているはずなのだ。


腕輪が壊れた原因は、バリューガが無理やり連れてこられたからではないだろう。腕輪の効果が消えた時、まだ腕輪は壊れていなかったからだ。二つの腕輪は繋がっている。片方が壊れればもう片方も壊れるのだとすれば、セクエの腕輪が先に壊れたことになる。事故で壊れたのか、それとも誰かに壊されたのか、セクエの周囲に感じる魔力でなんとなく想像はついていた。


(…この気配はセクエとよく似てるけど、少しだけ違う。この気配はきっと…メトだ。)


メトは剣使いを憎んでいる。それが今も変わらないのなら、会いに行くのは危険すぎる。


セクエは合成魔法を使って二人の体を混ぜた。それ以来、メトの気配を感じた事はない。それなのに今メトの気配がするという事は、今あの体を支配しているのはメトなのだろう。それなら、セクエはどうなってしまったのだろう。


(消えちゃった…のかな。)


セクエの魂は作り物だ。今まではずっと、そんな事は気にしたこともなかった。セクエはあくまで人間で、普通の人間と何も変わらないのだと。でも、魔獣というものを知り、魔法を深く知るにつれて、不安は大きくなっていった。


セクエの魂が魔法で作られた物なら、いつか必ず終わりが来る。きっと、セクエは普通の人間ほど長くは生きられない。その終わりがいつになるかまでは分からないけれど、きっとそれは間違いないことだろう。


(オレは…どうしたらいい?)


バリューガは空を見上げた。いてもたってもいられないのに、何をすればいいのか分からない。


「ナオーン」


ナオが寂しそうに鳴く。素っ気ない態度をとるバリューガに飽きたように、バリューガから離れ、そのまま岩山の向こうに駆けて行ってしまう。


「おい!」


バリューガは慌てて立ち上がった。ナオの魔道具が変わっていることがもし他の人に知られたらまずいかもしれない。


幸いなことに、灰色の岩が目立つここではナオの白い毛がよく目立つ。しかし、大きな岩がいくつも転がっているここでは全力で走れない。足元に気をつけながら追いかけているため、なかなか追いつけなかった。進み続けると岩が少なくなった場所に出て、一際大きな岩が一つ場違いなようにそびえていた。


「シャオーン」


ナオはいつもの鳴き声とは違う、唸るような低い声を上げている。見れば、岩のそばに何か魔道具が置いてある。ナオはそれに向かって吠えているようだ。


「ナオ、どうしたんだ?」

「シャオォーン…!」


ナオは姿勢を低くして構えると、魔道具に飛びかかった。耳障りな高い音が響く。


「あっ…!」


壊れたのだとすぐに分かった。慌てて近づいて拾い上げるが、バラバラになっていて直せそうもない。


「おい…どうすんだよ、これ…。」

「ナオーン」

「そんな得意げな顔されてもなぁ…。」


思わずため息が出る。後でキリヤに謝っておかなければ。


(もしかしたら魔道具が嫌だったのかも。ずっと枷で縛られてたんだし、それもまあ、当然なんだけど…。)


それにしても壊す事はないだろう。壊れたかけらを拾い集めていると、すぐそばに小さな天幕が張られているのに気付いた。中に誰かいるのかと思って思わず覗き込むと、中で誰かがうずくまるようにして倒れているのが見えた。


(あれって…!)


バリューガは中に入り、人影に駆け寄った。その男は吐き気を堪えるように口元に手を当てていて、苦しそうな息を繰り返している。


「おい!大丈夫か?」


バリューガは男の背に手を当てようとするが、男は身をよじってそれを拒んだ。


「ふれっ……、ぐっ、がはっ!」


男は咳き込むようにしてまた口元を押さえる。その指の隙間から赤いものが垂れているのが見えた。それが何か分かった瞬間、鳥肌が立つのがはっきりと分かった。


恐怖からではない。これと同じような事は前に何度か経験があった。その血がとても綺麗に見えて、一瞬見入ってしまったのだ。


(ダメだ!今はそんな事言ってる場合じゃない!)


バリューガは首を小さく横に振って、男にもう一度手を伸ばした。また拒まれそうになるが、その手を取って強く握る。瞬間、大きな声が響いた。


『触れるなっ!』


男は驚いたようにまた口元を押さえる。だが、咳き込んで血を吐くことはなかった。バリューガは安心してほっと息をついた。


「良かった…うまくいったみたいだ。」


男はまだ不思議そうにバリューガを見ていた。バリューガはキリヤからもらった魔道具を男の手にはめた。その動作を見て男は何が起こったのか察したらしく、腕輪をしばらく眺めた後、再び話しだした。


『こんな物で、借りを作ったつもりか?』

「えっ…?」

『残念だったな。見返りを求めたのなら、こんな物はいらない。こんな物でセキガが異種族に…剣使いに膝を折ると思うな。』


そう言うと、男は腕輪を外してバリューガに投げてよこした。その冷たい態度に、バリューガは思わず黙り込んで俯いた。


「…違う。」


魔法使いが、一般に剣使いを憎んでいることは知っている。メトがそうであったように、二つの種族にはきっと大きな溝があるのだろう。だが、今は違う。バリューガはそんなことを思って魔道具を渡したわけではなかった。


「そんな…見返りとか、借りとか、そんな事は考えてない。」


バリューガはそう言って、男のそばに魔道具を置いた。


「オレは…ただ…、苦しんでるなら助けたいし、悲しんでるなら寄り添いたいし、…楽しいなら、一緒に笑っていたい。それだけなんだ。」


男はしばらく動かなかったが、やがて諦めたように腕輪を受け取り、再び腕にはめた。


『…お前は、キリヤが言っていた剣使いか。』

「えっと…多分。」

『この魔道具を見れば分かる。こんな物、普通の魔法使いならまず作らない。』

「魔法使いが作る物と、同じじゃないのか?」

『…自覚がないのか。まあそれも、剣使いなら仕方ないのかもしれないが。』


男は少し考えるように黙ってから、再び話しだす。


『魔法は組み合わせなんだ。どんなに複雑な魔法でも、細かく分けて考えれば基礎的な魔法の組み合わせに過ぎない。でも、基礎になる魔法は決まっているから、どんなに複雑な魔法を作っても、その性能には限度がある。理想とする魔法そのものを作ることはできず、それに近づけることしかできない。』


男は手首にはめられた腕輪をまじまじと眺めた。


『だが、これは違う。複雑な魔法にも関わらず、基礎的な魔法が含まれていない。お前はおそらく、基礎の組み合わせで理想に近い魔法を作ったのではなく、理想に沿った魔法を作るために、既存の魔法とは違う全く新しい魔法を作っている。』


男はバリューガと目を合わせる。そして、自分の首元を指差した。そこには赤い蔓を這わせたような模様が刻まれている。


『お前、僕が話せない原因が、病や怪我ではなくこの魔法にあることが分かっていたんだろう?』

「ああ。そこから、別の魔力を感じたから。」

『だからお前は、声を出す魔法ではなく、意識を声に変える魔法を作った。おかげで僕は何の問題もなく話せているわけだが、これを従来のやり方で作ろうとするなら、胸の内で考えたことが全て言葉になる魔法がせいぜいだ。こんな風に言いたい言葉だけを話すことなんてできない。』

「でも、そう言うくらいなら、いつも一から魔法を作ればいいじゃないか。」

『そうできたらいいんだけどな。そのやり方だと時間も労力もかかりすぎる。それをこの一瞬でやってのけるなんていうのは、才能のなせる技だよ。剣使いに持たせるには惜しいくらいの、凄まじい才能だ。』


そう言って、男は立ち上がり、服に着いた砂を手で払った。


『はっきり言って、僕は今、お前を恐れている。お前の力はそれだけ強いものだ。うまく使えば、魔法使いなんてお前の敵じゃないだろう。』

「オレはそんな事しない…!」


バリューガは歯向かうようにそう答え、立ち上がった。


「傷つけたりなんかしない!戦うなんてまっぴらだ!魔法使いと剣使いだって、きっと仲良くできるはずだ!」

『…お前、さっき僕の血を見て、それに見入っていただろう?』

「えっ?」


いきなり違う話をされて、バリューガは困惑する。


『魔法使いでも、たまにそう言う奴がいる。強い魔力を見ると、魅了されたように目が離せなくなり、動けなくなるんだ。そういう奴は、決まってそれを綺麗だと言う。お前もそうなんだろう?』

「ああ…たまにそういうことがある。」

『それを何度も繰り返すうちに、お前の精神は他の魔力によって蝕まれていく。見るだけでは足りず、近づきたくなり、触れたくなり…そうしていつか、お前の心は自我を手放す。意思も感情もなく、ただ強い魔力に引かれて動くだけの人形になるだろう。』

「……。」

『魔法使いがそばにいれば、お前はいつもその危険にさらされる。お前は自分を失ってまで、魔法使いと共にいたいと願うのか?』


バリューガは俯いて、右手首を握る。ここに腕輪はもう無い。だけど、その冷たい感触だけはまだ覚えていた。意を決して、バリューガは口を開く。


「ずっと一緒にはいられなくても、それでも謝りたいんだ。」

『謝る?』

「オレはきっと、わがままを押し通してただけなんだ。二度と会えなくなったって、アイツには謝りたい。謝らなきゃ…ダメなんだ。」


呟くようなその言葉を、男は何を思って聞いたのだろう。しばらく黙ってから、男はバリューガに背を向け、小屋の出口へ歩き出す。


「おい、どこ行くんだよ?」


男は立ち止まり、振り返った。


『僕も…謝らなければいけない相手がいる。剣使いが身の危険を分かった上で魔法使いと仲良くなろうって言ってるのに、その魔法使い同士がいがみ合ってたら、示しがつかないだろ。』


それだけ答えて、男は再び出口に向かって歩き出す。そしてちょうど出口に差し掛かったところで立ち止まった。


『どれほど強い魔力に惑わされようとも、自分の内に芯を持つことができれば、自我が魔力に飲まれることはない。』


振り返ることなく、男は言う。


『変わらぬ思い、揺らがぬ信念、真に望む願い。それを手離すな。』

「えっと…!」


バリューガが何を言うより早く、男はさらに続けた。


『この腕輪はもらっていく。さっきの情報と魔道具を壊したことに関しては、これで貸し借りなしだ。』


それだけ言って、男は小屋から出ていった。残されたバリューガは一人、呆然としながら出口を見ていた。


「ナオーン」


いつの間に近づいていたのか、ナオがすり寄ってくる。バリューガを見上げ、どうするの、と問いかけるような視線を向けていた。


「…あんなこと言ったんだ。ちゃんと会いに行かないとな。」

「ナオーン」


ナオは嬉しそうに鳴いて小屋から飛び出した。バリューガもそれに続いて外へ出る。頬を撫でる風が心地よかった。目を閉じ、セクエの魔力を探す。


「周囲に他の魔力は…無いな。でも、さっきより離れてる。」


急いで行きたいところだが、ここは足場が悪い。転んでしまえば大怪我をするだろう。


「ナオーン」


ナオが鳴く。見れば、枷が白く光っていた。ナオが足を一歩前に踏み出すと、その光が体を伝って足元に広がる。ナオはバリューガ見上げて、得意そうにまた鳴き声をあげた。


「もしかして、足場になるのか?」

「ナオーン」


そういえば、ナオの枷の効果も書き換えられていたはずだ。あの時はセクエからもらった魔道具が無かったから、とっさに光の個体を作る魔道具を作ったのかもしれない。バリューガはその上に乗り、地面を蹴る。コン、と砂利とは違う硬い音が鳴った。これだけ硬ければ、壊れることもないだろう。


「よし、これなら走って行けるな!」


バリューガはそう言って、ナオと一緒に駆け出した。

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