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#2 グアノの決断

「なぜ分かってくださらないのです、父上!」


もう何度目になるか分からない怒鳴り声を聞いて、ビクリと肩をすくませる。父と呼ばれた相手はやれやれとため息をついて答えた。


「リガル。何度同じことを言われようと、私の答えは変わらない。貧困街出身の者を王子の、ましてや皇太子の側近とするなど、異例にもほどがある。皇太子たるものがあまり早まった考えをするな。一度頭を冷やし、冷静になってもう一度考えてみろ。相応しい人材ならば他にもいるはずだ。」

「私は皇太子として、この国の未来を考えて、彼を選んだのです。この国にある経済的な格差。その解決にはもはや一刻の猶予もありません。出身に関わらず能力のある者をより多く雇用し、民の意識を変えなければ、格差は広がる一方です。私は皇太子として、その先駆けとならなければならない…!」


語気を荒げていう皇太子に対し、国王は呆れたように言う。


「考えは分かるが、リガル。この問題は、民の心の奥深くに根付いているのだ。民の心を無視して急な対応を取れば、やがて民は王から離れていくだろう。」

「それを理由に、対応を先延ばしにし続けるのですか?」

「そうではない。お前も国王になれば分かる。民は急な変化を嫌うものだ。民の理解を得ながら、少しずつ進めていく他にはない。」

「……。」


皇太子は黙り込む。さらに追い討ちをかけるように国王は言った。


「お前がしようとしているのは先駆けなどではなく、ただの先走りだ。民の声に耳を貸さぬ王は、やがて滅びをもたらすぞ。お前はまだ若く、学ぶべきことも多い。急ぐ必要はないのだ。落ち着いてからもう一度考えろ。」


皇太子は悔しそうに俯いていたが、結局何も言うことはなく、くるりと振り返って部屋から出て行ってしまった。自分は国王に深く一礼し、部屋を後にする。


皇太子は人気のない廊下で一人、難しい顔をして立っていた。


「…皇太子殿下。」


できるだけ自然に振る舞うのが礼儀だと分かっていたが、態度は腫れ物に触るようなものになってしまった。


「もう、お止めください。」

「お前まで何を言う?あんな言い方をされて悔しいとは思わないのか。」

「それは…その通りですが…。」


分かっていた。国王が頑なに自分を側近にするのを拒むのは、ただ単純に、自分が貧困街の出身であるからというだけなのだ。国王はもっともらしい理由をつけたが、どこまで本心かは分からない。この国では身分が高い者ほど、低い者を差別するという風潮がある。もっとも、それはどの国でも同じかもしれないが。


悔しいと、そう思わないわけではない。だがそれ以上に、自分のせいでこの親子の仲が険悪になるのは嫌だった。


自分には、血の繋がった家族がいない。物心ついた時にはすでに一人だった。だから、親とどう接するのが正しいかなど分からないし、子を思う親の気持ちも分からない。だが、それが失うべきものではないことは分かっている。


皇太子にはもう一度、国王の、父親の言うことに耳を傾けてほしいと思う。どちらの言い分も、明らかに間違っているわけではないのだから、話し合えばきっと、妥協点は見つかるはずだ。


だがそれを口に出すことができず、自分は口ごもるばかりだった。


「お前が引け目を感じる必要などない。最近またお前の話を聞いた。剣術の稽古で、自分より三つ年上の兵を負かしたというではないか。お前は誰より頑張っている。ならば、それ相応の評価を受けるべきだ。」


皇太子からお褒めの言葉をもらうたび、嬉しく思う反面、自分は間違っているのではないかという思いに駆られる。自分のせいで、若き皇太子の視野は狭まり、広い世界を見ることができなくなっていくのではないかと。


自分がこの親子の仲を引き裂いてしまうのなら、輝かしくあるべき皇太子の未来に影を落としてしまうのなら、いっそこの城を出ていくべきなのかもしれない。しかし、そう思っていても、それを実行に移すだけの勇気が、自分には無かった。


「大丈夫だ。必ず父上を説得してみせる。だからその時まで、お前も自分の腕を磨いていてくれ。側近として、胸を張って私の隣に立てるように。」

「皇太子、殿下…。」


言いたいことを言えないのが悔しい。言葉を濁す自分をどう見たのか、皇太子は微笑んで続けた。


「名前で呼んではくれないか。」

「……は?」


予想外の一言に、思わず間抜けな声を出してしまう。自分は慌てて言った。


「そ、そんなっ…!殿下を名前でお呼びするなど、そんな……恐れ多くて…私には…。」

「そうか、それもそうだな。無理を言ってすまない。」


皇太子は少し寂しそうに視線を自分から逸らし、窓の外を眺めた。その横顔を見ながら、どうしようもなく不安になる。


皇太子は心優しいお方だ。王族でありながら、身分の低い自分に手を差し伸べてくださる。しかし、その優しさは危うさを孕んでいる。差し伸べられた手に必死に縋り付こうとする者の、あの身が竦み上がるほどの力の強さを、皇太子は知らないのだ。


自分は他者に手を差し伸べたことなどないが、差し伸べられた手を取れなかったことは何度もある。ある時は女が、ある時は男が、ある時は子供が、自分に向けられたはずの救いをさも自分の物のように横取りしていくさまを、何度も見てきた。


少なくとも、国王は分かっておられるのだろう。どこまでも付け上がろうとする人間の汚さ、醜さを。相手が優しいと分かると、人はそれを利用しようとする。しかも身分の低い人ほどその傾向は強い。それが分からない皇太子は、まだまだ未熟と言わざるをえない。自分はこの国の情勢など何も知らない見習い兵士だが、貧困街の現実を知る者として、今の皇太子には不安を感じていた。


このお方がこの国の頂点に立った時、この国はどうなっているのだろう。その時自分は、何をしているのだろう。そんな遠い未来のことなど、自分には想像もできない。


皇太子の瞳は一点の曇りもなく、ただ真っ直ぐに目の前を見つめている。その瞳は美しいと、素直にそう思う。だが、人の心というものを知れば、その醜さを知れば、その美しさは失われ、やがて汚くくすんでいくのだろう。国王がそうであるように。そして、自分がそうであるように。


もしも本当に、神というものがあるのなら。自分が神に祈ることを許されるなら。どうかこの皇太子に、幸せな未来を。


ーーーーーー


「タンザ。来ていたのか。具合はもう大丈夫なのか。」


治療室から出てきたギシトアは、部屋の前に彼の姿を見つけて声をかけた。


「はい。ずいぶん良くなりました。ただ、彼のことが心配で…。」


不安げな表情を隠そうとする様子もなく、タンザは呟くように答えた。


第四番警備部隊副隊長、タンザ。彼には感謝している。セクエが本性を現し、グアノが意識を失った時点で、自分一人での応戦は難しかった。たまたま近くにいたタンザとその他の兵たちが異常を感じて応援に入っていなければ、どうなっていたか分からない。


セクエには逃げられてしまった。驚くべきことに、彼女に向けた魔法はほぼ全て無効化されてしまったのだ。物理的な攻撃をしようにも、彼女は魔法が使えるため、距離を詰めることができず、反撃することはできなかった。セクエは催眠魔法を使ってグアノをまだ利用しようとしていたようだったが、タンザはそれに気づき、それを阻止することができた。


もっとも、今のグアノが『無事』と言っていい状態なのかは分からないが。


「グアノの意識はまだ戻らない。私は魔法の扱いは得意なのだが、読み取りはどうも苦手でな。はっきりとした効果を確認することができないのだ。グアノがいつ目覚めるかは分からない。」

「……。」


タンザは悔しそうに唇を噛んでいたが、やがて意を決したように口を開いた。


「…自分に、彼の看病をさせてもらえませんか。」

「お前が?」

「自分に副隊長としての仕事があることは分かっています。それをおろそかにするつもりはありません。ただ…今は彼の友人として、そばにいてやりたいんです。」

「……。」


ギシトアはしばらく考えた。そうか。そういえばグアノとタンザは同期だったはずだ。今は立場上それを意識することは少なくなったとしても、その時に何かしらの交流があった可能性はある。


「…分かった。お前の仕事はしばらく休みにしよう。」

「総隊長!そんな、自分はそんなことは…!」


慌てるタンザをなだめるようにギシトアは言う。


「いいのだ。あいつについて、何か思うこともあるだろう。この際だから、お前にも色々と考える時間を与える。お前は部下の指導はうまいからな。お前がいなくともしばらくは部隊はうまく回るだろう。隊長のトイセルにも私から話を通しておく。」

「総隊長…。分かりました。ありがとうございます!」

「ただし、一つ条件がある。条件というより、ついでに頼みたいことなのだが…。」


目を輝かせるタンザに向かってそう前置きして、ギシトアは続けた。


「グアノにかけられた催眠魔法はまだ残っている。お前は魔法は得意だったな。その効果について調べておいてほしい。分かったことは私に報告し、必要であれば主治医と相談して適切な治療を行うように。分かったな?」


そう言うと、タンザは目の輝きこそ変えなかったものの、真剣な顔つきになった。そして力強く答える。


「はい、分かりました…!」


ーーーーーー


横になったままのグアノの体に手をかざす。体に残ったセクエの魔法は、わずかではあるがまだ感じ取れた。


「完全に消えるまでは、まだまだかかりそうだな…。気を失ってる間に、出来るだけ消えてくれればありがたいんだが…。」


タンザはグアノから手を離して考え込む。グアノの介抱を任されてから、二日が過ぎた。グアノはまだ目覚めない。だが、かけられている魔法はすでに調べ終えている。この国では一般的に周知されていない、それどころか、タンザも初めて見る魔法だったが、魔力から読み取れる大まかな効果はだいたい理解していた。


不思議なことに、その魔法は意識を奪うものではなかった。にもかかわらずこれだけ長い間目覚めないのは、それだけ体に強い負荷がかかっているということなのだ、と主治医の男、スオンが教えてくれた。それを思い出して、タンザは顔をしかめる。


(確かに、あんな魔法をかけられれば、体には相当な負荷がかかり続けるだろうな。ましてや、グアノのこの性格じゃ…。)


それを分かっていて、セクエはこの魔法を使ったのだろう。タンザにとっては、それが一番不可解だ。


「なぜ、セクエはグアノにこんなことを…?」


タンザは呟く。もう彼女をさん付けで呼ぶことはできない。この国で彼女は罪人になってしまったからだ。彼女は元国王補佐の男を言いくるめて城にとどまり、第一突撃部隊長のギシトアを殺そうとした。少なくとも、それだけの罪を犯したことになっている。だが、おそらくこのままだと前国王の不審死も彼女のせいにされてしまうだろう。その真相を知るのは王城の中でも限られた人だけで、タンザも真実は知らないままなのだ。おそらくギシトアはこの機に乗じてセクエに濡れ衣を着せ、すべての罪をなすりつけるつもりだろう。


(もっとも、セクエが本当にグアノを利用していた可能性は否定しきれないけど…。)


セクエが何を考えていたのかは、本人にしか分からない。ギシトアが考えていた通り、国王を殺してグアノを利用しようとしていたのかもしれない。だがどうしても、タンザにはそう思えなかった。


自分がセクエと一緒にいた時間はそう長くない。だから、セクエが本当に心優しい人だったのか、確証を持てるものは何もない。だが、グアノは違うはずだ。グアノは随分と長い間、セクエのそばにいた。国王補佐を任されるくらいなのだ、洞察力は優れているだろう。もしセクエが何か良くないことを考えていたのなら、グアノが何も気づかずにセクエを放置するはずがないのだ。


(まあ、何を話したところで、総隊長も陛下も聞く耳を持つとは思えないな。彼女がこの国にいる理由は一般には知られていないし、根も葉もない噂も流れ始めていた。むしろちょうどいい厄介払いができたと喜んでいるかもしれない。)


そう考えると、悔しかった。上下関係に縛られるのを嫌う自分が、大事な時に限って彼らの言いなりになっているのだ。皮肉なことだ。


だが、今はその話に乗るしかない。もしグアノにこの意見を話せば、グアノはセクエを追ってこの国を出ていくかもしれない。そうなれば、今度こそグアノは助からないかもしれない。グアノがセクエの何にそこまで入れ込んでいるのかは分からないが、それでもグアノを失いたくない。それは友人として当然の思いだった。


ガチャリと扉が開く音が聞こえた。振り返れば、若い細身の男が立っていた。主治医のスオンだ。


「タンザさん。言われていた薬ができました。」

「そうか、助かる。」


そう言って彼から液体の入った小瓶を受け取った。彼には読み取れた魔法の効果と命令を書き残した書類を渡してある。その魔法に効果的な薬の調合を頼んでいたのだ。


「倍量の水で薄めて、飲んで服用してください。ただ、飲み薬ですので、やはり効果が出るまで時間がかかります。」

「ああ、そうだな…。でも、最初に俺が提案した塗り薬よりもずっといい。痛みがどこに出るか分からない以上、全身に効果が出る飲み薬の方がいいっていうスオンさんの提案には助かったよ。」

「いえ、それが僕の役目ですから。自分はタンザさんほど魔法の読み取りはできませんし、医学に関することなら得意分野です。早く良くなってもらうためにも、医師として最善を尽くしますよ。」


そう言って彼はニコリと微笑む。そしてグアノの額に手を当てた。


「熱はありませんね。呼吸も落ち着いている。この分なら、もうじき目覚めるでしょう。」

「そうか、良かった。」


その言葉を聞いて安心する。と言っても、目覚めてからの対応の方が大変だろう。スオンは険しい顔で言った。


「タンザさんの推測では、彼はこの魔法によってかなり衰弱しているだろうとのことでしたね。」

「ああ。グアノの性格を考えるなら、ほぼ間違いない。目覚めてからすぐに強い症状が出る可能性もある。」

「そうですね。意識が戻れば、それだけ精神的に不安定になりやすくなりますから。」


そう言ってスオンは立ち上がる。


「薬は薄めた状態で準備しておきましょう。目が覚めたら、水分補給も兼ねて薬をすぐに飲ませてください。」

「どこかへ行くのか?」

「ええ、実はこの薬はまだ試作段階で、効果が十分でないかもしれないんです。タンザさんからもらった魔法の効果や命令を読み取る限り、別の調合でなら、より効果の強い薬が作れるかもしれません。」

「そうか、分かった。グアノは俺が見ているから、スオンさんは薬の開発を急いでくれ。」


スオンは頷くと、手早く薬の準備を整えて部屋から出ていった。


タンザは再びその体に手をかざした。魔法は弱まってはいるものの、その効果はまだ残っている。この魔法はいつまで残るだろう。グアノはどれだけ、苦しめられることになるだろう。


ーーーーーー


タンザが異変を感じてギシトアの所へ駆けつけた時、グアノはすでに意識を失っていた。タンザはその事に気づいた時点で、セクエと戦うことを諦めた。理由は簡単だ。グアノと戦うことになるのが、怖かったのだ。


セクエがグアノを操っているのなら、セクエは自分で戦おうとはせず、グアノを使って戦わせるだろう。そうなった時、友人であるグアノを傷つけることは、タンザにはできない。だから、そうなってしまうより早く、グアノの目を覚まさなければならなかった。


「大丈夫か、グアノ!」


タンザはすぐに駆け寄って肩を揺すり、声をかけたが、当然のように反応は無く、仮面越しに見える瞳は虚ろだった。優秀な兵士だったグアノがここまで深く催眠魔法にかかっているのは、今まで見たことがなかった。


タンザはセクエの方を振り返って見た。セクエはギシトアとその他の兵士から魔法を受けていたが、その全てがセクエの体に触れた瞬間に掻き消えてしまうようだった。なぜ距離を詰めないのかと思ったが、よく見れば全員足が震えている。恐怖によるものなのか、それとも動きを制限する魔法を使われたのかは分からない。だが、少なくとも彼女がこの状況に全く危機感を感じていないことだけは明らかだった。


怖い、と思った。まるで何事も無いかのように、向けられている魔法を無視し、冷ややかにグアノを見つめるその視線は、タンザが知っているものとはまるで違っていたのだ。


「セクエさん…何で…。」


そう呟いた声は、あまりにも情けなく、弱々しかった。彼女は面倒そうにタンザを睨んだ。そして次の瞬間には、タンザは動けなくなっていた。


体に力が入らなくなったのだ。グアノの肩にかけていた手はだらりと下がり、上げることはできなかった。セクエに少し押されただけで体は倒れてしまい、受け身を取ることもできずに床に崩れ落ちた。体は動かなかったが、思考だけははっきりしており、何とか視線だけを動かしてセクエを睨んだが、セクエはすでにタンザのことなど見ていなかった。


セクエはタンザを気にかける様子もなく、グアノに向けて柔らかな笑みを浮かべて話しかけた。


「グアノ様。」


自分が呼びかけても答えなかったグアノが、セクエのその一言に反応を示したのが、はっきりと見て取れた。グアノはゆっくりと顔を上げ、セクエを見た。


「……陛下。」


かすれた声でグアノがそう呟いたのを聞いた瞬間、最悪の事態が頭をよぎった。


グアノが完全に操られている。このままでは、セクエに連れて行かれてしまう。利用されてしまう。駄目だ。それだけは、それだけは止めなければならない。


「う……が…。」


声が出せない。体も動かせない。どうあがいても、このまま見ていることしかできないのかもしれない。だが、それでも諦めるわけにはいかなかった。諦めることなど、できなかった。


セクエはグアノに手を差し伸べる。グアノがそれにゆっくりと手を伸ばす。


「ぐ…あの……。」


駄目だ、足りない。もっと強く、はっきりと呼びかけなければ、グアノは目を覚まさない。分かっている。分かっているのに、体は思うように動いてくれない。


グアノの手は、もうずいぶんセクエの手に近づいていた。まるでその瞬間を見せつけるかのように、グアノの動きはゆっくりのまま、セクエに近づいていく。


すぐ目の前にいるのに、届かない。助けられない。悔しい。歯痒い。恨めしい。自分が今まで感じたことがないような感情で頭がいっぱいになり、気がつけばタンザは叫んでいた。


「駄目だ、グアノ…!」


ーーーーーー


その後のことは、タンザ自身もよく覚えていない。ただ、抑えきれなくなった感情が波のように押し寄せてきて、話すこともままならずぼろぼろと涙をこぼしていたことだけは記憶している。その後はしばらく養生を命じられていた。とても仕事ができるような精神状態ではなかった。


タンザは横になったままのグアノを見下ろした。あの時はそれどころではなかったので考えなかったが、おそらくセクエは催眠魔法が効かないと分かった時点で、すぐにその魔法を消し、今の魔法にかけなおしたのだろう。今彼にかかっている魔法は、催眠魔法とはまったく違うものだ。


「ん……う…。」


小さな呻き声を上げてグアノがわずかに動いのが分かった。タンザは考え事をやめ、じっとその様子を見つめる。


目を開けたかどうかは、仮面のせいで見ることができない。だが、グアノは目を覚ましたようで、ゆっくりと首を動かしてタンザに顔を向けた。


「タンザ……?」


その声を聞いて安心する。小さな声ではあったものの、声はしっかりしている。思っていたほどは衰弱していないようだった。


「喋るな。ひとまず、薬を持ってくる。待っててくれ。」


そう言って、タンザは立ち上がり薬を取りにいく。瓶の中に入れられていたそれを水飲みに注いでグアノの元へ戻った。


「飲めるか?」


そう声をかけると、グアノはもぞもぞと体を動かし、起き上がろうとした。だが、体を起こすことができない。タンザは薬を一度置き、グアノの体をゆっくりと起こした。グアノはほとんど全体重をタンザに任せていたが、それでも体を動かすのは負担になるらしく、体を起こしただけだというのに軽く息切れしていた。


息切れがおさまるのを待ってから、薬を口元まで持っていく。グアノはそれに軽く手を添えたが、自分では持たなかった。起き上がる時もそうだったが、体に力が入らないのだろう。


グアノが薬を飲み終えると、タンザはグアノを再び横にした。


「…タンザ。」


少しためらうような口調でグアノが口を開く。


「私は…なぜここに?」

「なぜって…。」


(まさか、何も覚えていないのか?いや、色々あって記憶が混乱しているだけかもしれない。だが、今全てを話せば、きっとグアノは…。)


言葉を詰まらせるタンザをよそに、グアノは色々と考え込んでいるようだった。


「確か…セクエの様子がおかしくなり、それで…部屋に運んで……それから…。」


言葉にするうちに、だんだんと思い出していったのだろう。不意に語気を強めてタンザに尋ねた。


「そうだ。セクエは、今どこに?」

「…逃げた。」

「逃げた?」

「ああ。転移魔法を使ったから、追うこともできなかった。今どこにいるかも…。」


それを聞いたグアノはしばらく黙っていた。


「そう、ですか…。でもなぜ、そんな…。」


タンザは自分の鼓動が速まるのを感じていた。グアノにかけられた魔法の効果がいつ現れるか分からない。常に気を配り、必要に応じて魔法を使うことも考えていた。いつ、どんな効果が現れるのか、タンザも完全に理解できているわけではなかったのだ。


「そんな…セク、エが……。」


グアノの口調がだんだんと苦しげなものになる。タンザは慌てて声をかけた。


「グアノ、大丈夫か?」

「う……ぐっ…。」


グアノは苦しそうな呻き声を上げ、しばらく荒く息を繰り返していたが、やがて少しずつ落ち着いていった。薬が聞いているのだろう。タンザは少し安心して肩の力を抜いた。


「……今、のは…?」

「魔法だ。お前にかけられている。」

「……。」


グアノは、誰が?と問いかけることはなかった。もう察しているのだろう。


「セクエ、ですか。」

「そうだ。」


グアノはしばらく考え込むような間を開けて、再び口を開いた。


「どういう効果の魔法なのですか。」

「精神的な苦痛を肉体的な苦痛に置き換える魔法だ。」

「…随分と特殊な魔法ですね。」

「ああ。でもこの魔法は、変換魔法の一種だ。魔法の構造自体はそれほど難しくない。」


タンザは答える。変換魔法とは、物質をそれとは異なる別のものに変えるための魔法で、戦闘で使われることもたまにある。しかし、効果の継続時間はかなりの個人差があり、魔力消費も大きいため、あまり実戦で使われることはない。


「ただ、厄介なのが、変換された痛みがどこに現れるか、まったく分からないんだ。さっき、どこにどんな痛みがあった?」

「両腕全体に、痺れるような痛みがありました。突然のことだったので驚きましたが、痛みはそれほど強くはありません。今はもう平気です。」

「そうか…一回ごとの継続時間は短いのかもしれないな。」


魔法の元々の効果がそうなのか、薬が効いているからそうなっているのか、それはタンザには判断できなかった。このことはスオンに話しておくべきだろう。新しい薬を作ると言っていたし、情報はできるだけ共有すべきだ。


「悪いな。お前が目覚める前に、この魔法をなんとかできていれば良かったんだが。」


申し訳なくなってそう言うと、グアノは少し驚いたように口を開け、そして微笑んだ。


「そう、ですね…。たしかに不都合は多いかもしれませんが、それでも私は、タンザとこうして話す時間は、楽しいと思っていますよ。」


その言葉に、今度はタンザが驚いた。そして同じように笑みを浮かべる。


(楽しい、か。そう思ってくれているのか。お前が王子の側近になってから、言葉を交わすどころか、会うことすらほとんど無かったっていうのに。)


「お気楽な奴だな。自然に解けるのを待つしかない魔法がかけられてるっていうのに。」

「この魔法だって、タンザが解いてくれるのでしょう?」

「お前なぁ…。」


タンザは苦笑する。それが面白かったのか、グアノは小さく声を上げて笑った。


たしかにそうなのかもしれない。王子の側近として、国王補佐として、セクエの監視役として、今まで多くを背負ってきたグアノは、今ようやく自由になったのだ。こんな何気ない会話でさえ、楽しいと思えるのだろう。そう考えると切なさが込み上げてきたが、それは決して顔には出さなかった。今は少しでも、気持ちを楽にしてやりたかった。


ーーーーーー


「それじゃあ、ちゃんと休めよ。」

「ええ、分かっています。」


軽く手を振って、タンザが部屋を後にする。魔力が遠ざかっていくのを確認して、グアノは一つため息をついた。


痺れるような痛みが、まだ引かない。タンザと話した時間を考えれば、継続時間はかなり長い。タンザと話をして気が紛れれば痛みが引くのではないかと思ったが、そううまくはいかなかった。不安や迷い、恐れ、後悔が少しでもある限り、魔法は継続するのだろう。


(セクエに裏切られたことが、ここまで大きな負荷になるとは…。)


そんなにも、彼女を守ることに必死になっていたのだろうか。彼女の魔法に魅せられていたのだろうか。


(いや、それもそうだが、それだけじゃない。)


夢を見た。それも原因の一つだろう。随分と古い記憶だ。まだ皇太子だった頃の、前王との記憶。この世の理不尽を知り、国の将来を憂いたあの時の記憶。今更になってあんなことを思い出すとは思いもしなかった。


(思えば、陛下の死を思う時間の余裕さえ無かった。)


腕の痛みが強くなる。腕だけではなく、両足にも痺れが出始めた。グアノは顔をしかめたが、それでも考えるのをやめようとは思わなかった。


(あの時、もし私がその名を呼んでいたら、陛下はどんな顔でそれを聞いただろう。ただの主従関係ではなく、もう少し別の……寄り添い、手を取り合えるような関係になれていたら。)


痺れと痛みは広がり続け、腕と足の感覚がじわじわと消えていく。グアノは荒く息を繰り返しながら、強く目を閉じる。


(嘆くのも、悔やむのも、今更だ。こんなに後になって思うことではない。どんなに嘆こうと、悔やもうと、もう…。)


もう、あの日々は戻ってこない。自分が恩を感じ、それに報いるために仕えた、ただ一人の自分の主人は、もういないのだ。その現実が、今更になって胸を締めつけた。


そうか、自分は悲しいのか。ふと、そう思った。自分よりも悲しむべき人間はいる。やるべきことがまだ残っている。貧民である自分が国王に対して抱いていい感情ではない。そんな思いの中で、自分でも気づかないうちに、自分はこの感情を隠し、見ないふりをし続けていたのだ。


グアノはうっすらと目を開ける。視界は滲んでいた。四肢の痛みに顔を歪めながら、グアノは声もなく泣いた。


ーーーーーー


部屋の中で、一組の男女が話をしていた。男は短髪で少し背が高く、いつも面白がるような笑みを口元に浮かべている。腕を組み自信ありげにたたずむ姿は、一種の威厳さえ感じるほどだ。女は背まで届く長い髪をしており、目つきは冷たく、鋭い刃のようだ。何かを睨みつけるような厳しい表情は、周囲を威嚇しているようにも見えた。


二人とも髪は燃えるように赤い。それは二人に限ったことではなく、彼らの一族は皆、赤い髪をしているのだ。


「それで?話とは何だ。」


男が口を開く。女は答えた。


「見つかったわ。」


女は短く、簡潔に答えた。何がとは言わなかったが、男はそれだけで納得した表情になり、意外そうに言った。


「ほう、アレのことか?」

「そうよ。」


女は最低限の短い言葉で会話を繋いでいた。


「ある時突然見つからなくなったと言っていたな。まるで世界から消えたように。」

「ええ。」

「その原因については何か分かったのか?」

「それはまだね。でも、今はどうでもいいの。私の用件は…。」


女がそう口を開くと、男は小さく笑って言葉を継いだ。


「わざわざ言うまでもない。迎えにいく、ということだろう。」

「そう。分かっているなら話が早いわ。それだけ伝えておきなかったの。それじゃ…。」

「待て。」


立ち去ろうとする女を止めて男は言う。女は足を止め、表情を変えることもなく、男が続けるのを待った。


「俺が行こう。」

「あなたが?」

「何か問題か?」

「いいえ、別に。初めてとはいえ、あなたならそう時間はかからないでしょうし。場所を教えるわ。」

「探知に使った魔法、教えてくれないのか?通常の探知魔法とは違うんだろう。」

「すべきことは分かっているはずよ。それを知る必要がある?」


冷たい女の反応に、男はつまらなそうにため息をついた。


「言いたいことは分かるわ。一族の上に立つ者として、情報は共有しておきたいんでしょう。心配しなくても、必要と思えば私からあなたに教えるわ。」


女は男に向き直り、淡々と続けた。


「今この件を任されているのは私。いくら相手があなたとはいえ、必要以上の情報共有は危険だわ。知恵は力よ。それは私たちにとってもそうだけど、いずれ現れるかもしれない反逆者にとってもそう。情報は必要な者だけが知っていればいいわ。」

「そういうところは、相変わらずだな。」

「一族の未来を思ってのことよ。私は…。」

「『女王を継ぐ者』、だからな。」


女は頷いた。男はニヤリと笑って続ける。


「そうだ。情報共有といえば、お前に伝えておきたいことがある。」


女は黙って男の言葉を待った。


「さっき言っていた反逆者、もしかしたらもう現れているかもしれない。」

「見当はついているのかしら?」

「エルナンだ。」


女は表情こそ変えなかったものの、少し動揺したように黙った。


「…あなたがそう思う、根拠は?」

「具体的なことは何もない。だが少し前に、奴の気配が一族の領地の中から消えたことがある。魔法の練習として気配を消してみただけかもしれないが、もし領地の外に出ていたなら、何をしていたか分からない。」

「…あなたはやけに彼を目の敵にしているわね。気配が消えたなんて、日頃から注意していなければ気づけないでしょう。」


女は呆れて言う。男は憎らしげに地面を睨みつけて答えた。


「それはあいつの方だ。俺に対してやけに反抗的な態度を取ってくる。だからこっちだって目を離していられないのさ。放っておいたら何をしでかすか分からない。」

「お互い様、というわけね。」


女はくだらない、とでも言いたげにため息をついた。


「でも、気配が消えたというのは気になるわね。私からも探りを入れてみるわ。判断はその後よ。」

「悠長にしていていいのか?反逆者であれば、早々に手を打った方が…。」

「少ない情報だけで判断するわけにはいかないわ。あなたの気にしすぎという可能性もある。もちろん、反逆者ではないという確証もないけれど。」

「…そうか、その通りだな。だが、別に奴に限ったことじゃないが、妙な行動を起こす前には手を打てよ。」

「分かっているわ。一族は今、別れ道の前にいる。我が一族は一枚岩となって、同じ道に進まなければいけないの。異分子は邪魔になる。危険の芽はできるだけ早く摘み取らなければならないわ。」


それを聞いて、男はまた口元に笑みを浮かべる。


「分かっているならそれでいい。まあ、奴は隠し事はできない性格だ。すぐにボロを出すさ。」

「その処理は私が進めておくわ。この件も、私に一任するということでいいのかしら?」

「構わない。一族をまとめるのはお前だからな…。」


フフフッ、と笑い声をこぼして男は言う。


「『女王を継ぐ者』というその肩書きも、もうじき役目を終える。その時こそ一族…セキガ族が復活を遂げる時。なあ、分かるだろう?そうすればお前は女王になれる。」

「そうね…。」


女は男から視線を逸らし、わずかに微笑んだ。


「この肩書きが消える未来が来るなら…それはきっと、素敵な未来に違いないわ。」


ーーーーーー


グアノは両手に剣を握り、軽く構えた。小さく深呼吸をして、感覚を確かめる。何度か小さく振った後、徐々に動作を大きくしていく。目の前に相手がいることを想像し、素早く接近して剣を振り下ろし、かと思えば即座に下がって相手の攻撃を受け止める。踊っているというよりはむしろ見えない敵と戦っているような、そんな練習だった。


「おい、グアノ。」


タンザの声でグアノは我に返る。そして動きを止めてタンザを振り返った。セクエから受けた魔法がだいぶ弱まってきたので、腕が鈍らないうちに稽古をしておきたいと思い、それに付き合ってもらっていたのだ。


「何でしょう。何か変なところでも?」

「そうじゃない。いきなりそんなに動いて平気なのか?怪我はしてないとはいえ、かなり長い間寝たままだったんだ。初日からそんなに激しく動いたら倒れるぞ。」


心配そうにタンザは言う。グアノは反応に困って言葉を濁す。


「そう…でしょうか。怪我などでしばらく稽古ができなかった時は、いつもこのくらいの稽古をしているのですが…。」

「それはまあ、見たことがあるから分かる。でも、それと比べても動きが激しい。いつもなら、もう少し基本的な動きを確かめているじゃないか。」


そう言われても、グアノ自身には自覚がない。久しぶりに剣を握ったことで気持ちが昂っているのだろうか。グアノは大きく深呼吸をし、剣を鞘に収めた。


(いや、焦っているのかもしれない。自分がこれから何をすべきか、見失ってしまったから…。)


自分は補佐の座を降り、セクエは姿を消した。自分が果たすべき役目は、もう無い。その状況が、安心できないのだろう。兵士に戻ろうかとも考えたのだが、どうもその選択に納得することができない。もう少し落ち着いて時間をかけて考えようと思い、決定は先送りにしていた。


「大丈夫か…?」


俯きがちに黙り込むグアノを心配して、タンザが近づいてくる。グアノは顔を上げ、軽く微笑んだ。


「別に平気ですよ。無理をするつもりはありません。休憩もこまめに挟むつもりでいましたから。」

「だったらいいんだが…。」

「感覚も戻ってきたところですし、少し手伝いを頼めますか?」


そのグアノの提案にタンザがため息をつく。


「…人の話、聞いてたか?」

「私は本当に平気ですよ。それに一つ、試しておきたいことがあるのです。」

「ふうん…何だ?」

「セクエから受けた魔法のことです。と言うより、私自身の感情の問題なのですが…。」

「その魔法は、もうだいぶ効果も薄れてきたんだろう?」

「そうなのですが、ふとした拍子にまだ強い効果が出ることがあるのです。いつ効果が現れるかは大体自分で分かっているので出来るだけ避けているのですが、戦闘や稽古の最中に効果が現れる可能性もありますし、その条件の把握が出来ていれば、今後の稽古にも役立ちます。魔法がいつまで継続するか分からない以上、そういうことは自分で分かっていた方がいいでしょう。」

「それは確かにその通りだが…つまりは効果が出る可能性があるんだろう?お前自身が耐えられるか?」

「大丈夫です。非常時用に薬は常備していますし、異変を感じたら私も無理はしませんから。」

「そうか…まあ、そこまで言うなら分かった。俺もできるだけ早く気付けるようにしよう。本当に、無理はするなよ?」

「はい。」


タンザはグアノの正面に回り、二人は向かい合った。タンザを正面に見据えて、グアノは一つ深呼吸をする。目の前に相手がいるというだけで、一人での稽古の時よりもずっと引き締まる思いがした。


(いつ魔法の効果が現れるか…、およその予想はついているが、どうなるか。)


グアノは鞘に収めた剣を再び抜く。タンザもそれに合わせるように自身の魔力を集中させて構えた。


タンザは実際の戦闘の時でも、グアノのように剣を構えることはない。剣術が苦手だからだ。見習いの頃は少しでも苦手を克服しようと剣術の稽古にも励んでいたが、今は得意とする魔法の稽古を中心にしており、剣術はほとんど稽古をしなくなったらしい。


(魔法…か。)


グアノは小さく首を振る。今は余計なことは考えず、この稽古に集中しよう。


「まずは回避訓練からだ。いくぞ。」

「はい。」


グアノは身構える。回避訓練とは、相手からの攻撃を反撃せずに全て避ける稽古だ。この稽古を魔法で行う場合は、前後左右のどこから攻撃が来るか読みにくいため、接近戦での稽古より難度が上がる。


タンザは右手を肩の高さまで上げ、指先に炎を作り出す。そしてそれに呼応するように空中にいくつか火の玉が現れた。


この魔法は通常の火炎魔法ではない。定数生成魔法という少し特殊な魔法だ。一定時間が経過するかタンザが魔法を解いて手元の炎が消えない限り、常に一定数の炎が作られ続ける。今回は炎を使ったが、風や氷などその他の系統でも使うことができ、回避訓練ではよく使われる魔法だ。


現れた火の玉は三個。それほど多くはない。タンザが手加減してくれているのだろう。グアノは小さく息を吐き、気持ちを落ち着ける。神経を集中させて火の玉の魔力を追い、それを的確に避けるためだ。


何の前触れもなく、火の玉が動く。グアノはその魔力を全身で感じ取りながら身をひねってそれを避けた。


だが、火の玉は一つではない。続けて上から迫ってくる火を今度は浮遊魔法で斜め上に飛んで避ける。


(この程度なら問題ない、か。)


グアノは火の位置を確認し、それを避けながら冷静に考える。セクエから受けた魔法の効果はまだ現れない。心配する必要はなかったか?


「タンザ。魔法の種類を増やしてください。この程度であれば大丈夫です。」

「そうか、分かった。」


タンザがそう返事するのと、さらに複数の別の魔法が現れたのがほぼ同時だった。新しく作られたのはやや小さな氷の欠片が三つ。


(数だけを考えるなら、まだ余裕はあるはずだ。)


この稽古では、グアノは複数種類の魔法であっても同時に八つまでなら安定して避け続けることができる。合わせて六つしかないこの状態なら、普段通りのグアノであれば何の問題もない。グアノはさらに神経を集中させ、魔力の位置を把握して避け続けた。


魔法の種類によって、動き方はだいたい決まっている。火の玉は滑らかに曲線を描いて動き、氷の欠片は素早く直線的な動きをする。それが分かっているだけで避けるのは随分と楽になる。その上、数が増えれば増えるほど操るのが難しくなるため、動きが単調になりやすい。タンザは操るのが上手いが、それでも増える前よりも動きが鈍っている。これならば問題ない。


そろそろ休憩を挟もうかと思い、そう声をかけようとした時だった。タンザもさすがに疲れていたのだろう、操っていた氷の欠片と火の玉がぶつかった。二つの魔法は砕け散り、氷の粒と火の粉がキラキラと光りながら宙を舞った。それを見て、自分は一体何を思ったのだろう。


「…っ!?」


声さえ出なかった。頭を強く殴られるような衝撃とともに、視界が揺らぐ。体から力が抜け、立っていられなくなりその場に倒れ込む。頭を押さえ、身をよじってその痛みに耐えた。


(薬を…早く…。)


それは分かっているのだが、体が思うように動かない。心臓が脈打つたびに頭を砕かれるような痛みが走る。


感情抑制魔法オルバス・デンソル!」


タンザの声が聞こえた。瞬間、痛みが消える。


「大丈夫か?」

「……。」


ハァハァと荒く息を繰り返す。痛みは消え、タンザから何を言われたかも分かっている。だが、返事をすることはない。できないのだ。


感情抑制魔法とは、相手の心の動きを最低限に抑える魔法だ。一般に使われることはほぼ無いが、相手が激しく動揺していてすぐにでも落ち着けなければならない状況や、凶悪な犯罪を犯した者を捕らえる場合など、一次的にその場を乗り切る時に使われる。受けた者は自力で思考することがほとんどできなくなり、簡単な命令には従うが、自ら意思を持って行動することができなくなる。


体の痛みが精神的な苦痛から来ているのであれば、その精神面を麻痺させれば痛みは消える。だが、この魔法は繰り返して使うと精神障害が残る場合がある。使うとしても、できるだけ早く解かなければならない。


「薬を持っているだろう。すぐにそれを飲め。」


タンザの声が聞こえる。グアノは体を起こし、懐から薬の瓶を取り出すと、無造作にその蓋を取り、中身をぐいと飲み干した。


薬の効果が現れる頃を見計らって、タンザが魔法を解く。その瞬間、止まっていた思考と感情が再び動き出し、グアノは頭を押さえた。


「うっ…。」

「悪い、まだ薬が効いてないか…?」

「いえ…、効果は十分に、出ています。ただ、これは…。」


グアノは言葉を濁す。先程までと比べれば痛みはかなり弱まったが、それでもめまいがするほどに頭が痛い。


(まさか…そんな。そんなにも、私は失いたくなかったのか?魔法が弱まってもなお、これほどの効果が出るほどに?)


自分でも気付けなかったこの感情に、驚くしかない。


「…当分の間は、まともに稽古ができそうにありませんね。」

「大丈夫か?部屋まで送るぞ?」

「いえ、しばらくここで休ませてください。少し…疲れました。」


タンザはしばらく心配そうにグアノを見つめていた。だが、やがて立ち上がり、言った。


「俺はスオンさんのところに行って薬をもらってくる。常備してたのは一つだけだろう?予備を持ってくるよ。」

「ありがとうございます。」


グアノは深呼吸をして目を閉じる。タンザの足音が遠ざかるのを感じながら、今の自分の状況を、ぼんやりと他人事のように考えた。


セクエの魔法は美しかった。タンザの魔法を見て、それを思い出してしまったのだ。その美しさの中に、魔導師に繋がる何かがあるはずだということも、もう二度と、その魔法を見ることはできないということも。


(何を今さら。そんなことは、とうにけじめをつけたはずなのに。)


グアノはため息をつき、首を横に振った。


「もう、忘れてしまうべきなんだ…。」

「あらそう。残念だわ。」


すぐそばで聞き馴染みのない声が聞こえて、グアノは驚いて目を開けた。目の前に、見覚えのない女性が立っている。グアノは反射的に身構えた。


「その髪…。」


思わず呟く。彼女の長い髪は燃えるような赤色だった。


(気配に全く気づかなかった。一体いつから?なぜここに?)


赤髪の魔法使いがセクエを狙っているとしても、ここにはもうセクエはいない。これだけの技術を持つ者が、それに気付かないはずがない。


「…何をしに来た。」

「私が何者かは尋ねないのね。この髪に見覚えがあるようだし、彼がここへ来たのは確かなようね。」


女はグアノの質問に答えることもなく、ほとんど抑揚のない声で言った。


「こちらの質問に答えろ。」

「……。」


女は思案するように黙ったが、すぐにまた口を開いた。


「いい提案があるわ。セクエという娘に、あなたがまた会いたいと思っているならね。」

「……。」


グアノの回答を待たずに女は続けて言った。


「セクエがいる場所へ連れて行ってあげる。」

「…知っているのか。」

「彼女はグレーズ王国北部、私たちの住む領地にいるわ。でも細かい話は後にしてちょうだい。あまり時間の余裕がないの。」


女はグアノの問いにそう答えると、さらに続けた。


「それと、あなたにかけられているその魔法も、ほとんど無効化してあげるわ。そのかわり、あなたは私の言う通りに動いてもらう。この条件をのめるかしら。」

「…無理だ。」


グアノは答える。


「お前の言う条件が曖昧すぎる。もう少し明確に提示してもらえなければ条件はのめない。」

「あなたに頼むことはただ一つ。王子の保護、あるいは監視。」

「『あるいは』?」

「どちらの意味合いもあるということよ。あなたは王子の命を守ればそれでいいの。監視と言ったけれど、王子の命の保証ができるなら側に付き添う必要はない。」

「…王子にもしものことがあった場合は?」

「罰は免れないわ。処刑は確定。でも、ただ殺されるだけで済むとは思わないほうがいいわね。」


女はほとんど表情を変えず、淡々と話を続けた。


「それほど大切な人物なら、部外者の私を頼らずに自分たちで守ればいいだろう。なぜ私に頼む?」

「込み入った事情があってね。人手が足りないの。信頼できる者が少ないと言ったほうが分かりやすいかしら。それに…」


ここで女は初めて表情らしいものを見せた。口の端にニヤリと笑みを浮かべたのだ。


「セクエを探す協力者かもしれない私にそんなひどい仕打ちをするほど、あなたは非情な人ではないわ。」

「なぜそう言い切れる?」

「あなたの稽古を見させてもらったからよ。」

「それだけで、なぜそんなことが言える?」

「あなたなら分からないのでしょうね。でも私なら分かるわ。あなたとは有している技術の格が違うのよ。」


女はそれを鼻にかける様子もなく、グアノを嘲笑う様子もなく、そう言い切った。


「さて、そろそろ答えをもらえるかしら。私が提示したこの条件、あなたは受けてくれるのかしら?」

「……。」


グアノは考える。悪い提案ではない。少なくとも、このまま受けた魔法に苦しみながら、彼女を思い出さないように時を過ごすよりはずっといい。だが、罪人であるセクエを追って国を出れば、もうこの国には戻れない。自分はこの国に、まだ恩が残っているのに。


だが、この機会を逃せば、二度と好機は巡ってこないだろう。彼女がなぜこの国から去ったのかすら分からないまま、彼女のことを忘れてこの国での生活を続けることなど、自分にできるのだろうか。


「…分かった。条件をのもう。」


グアノは口を開く。女は頷いた。


「それなら今すぐに移動を始めましょう。時間がないの。それに、あなたの仲間もそろそろ戻ってくる頃でしょうし。」


グアノは頷く。瞬間、二人の姿は消えた。

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