お誘い
朝、私はとても機嫌が良かった。昨日は久しぶりに気持ちよく眠れたからかもしれないし、それともお兄さまと久々にお会いできたからかもしれない。とにかく、さっきまで私は本当に機嫌が良かった。いつもより大分早く学校に登校してしまうぐらいには。それなのに、今、目の前にいる人物のせいで、私の朝のご機嫌は急降下どころではなく、もはや墜落した。
「ごきげんよう」
そう言って、とても綺麗に笑う野々宮さまは、いっそ清々しいほどに自然体だった。
朝早いこの時間、教室にいるのは私と野々宮さまの2人だけだった。教室に降り注ぐ朝日が、野々宮さまを讃えるように照らす。自分の席に着いていた私は、彼女を見上げる羽目になり、先程まで私にも降り注いでいた朝日は、彼女に遮られ、代わりに彼女の影が私を襲う。
机の横に立つにしろ、わざわざ窓側に立つなんて嫌味に思える。というか、正面じゃダメだったのか。机に挟まれて物理的な距離が取れて、私たちの関係からしたら1番良い形だと思うのだけど。そもそも、挨拶を交わすような仲ですらない。
「ごきげんよう。私に、何か御用でしょうか?」
少々対応が冷たくなるのはしょうがないと思う。せっかくの気持ちの良い朝が潰されたのだ。というのに、彼女は何故かさらに笑顔になるのだから意味がわからない。
「私、お友達と数人で、試験対策も兼ねて勉強会をしようとお話しているのですけど、そこに凛城さまも参加しないかとお誘いにきましたの」
いや、意味がわからないし、唐突すぎる。きらきらと、その無駄に大きい目を輝かせているのは何故だ。そして、私の手を取らないでほしい。手を振りほどきたいのに、力が思いの外強くて、私の手を取り戻せない。返せ。私の手だ。あと、顔近い。
「勉強会、ですか。なぜ私を誘おうと?こう言っては何ですが、私たちあまりお話したことありませんでしょう?私、こう見えて人見知りする質なので、とても緊張してしまって勉強に集中できそうにありませんわ」
遠回しに「友達でも何でもない貴方達との勉強会なんて参加するわけないだろう」と、これでもかと張り付けた笑顔で伝える。
野々宮さまとそのご友人達との勉強会なんて死んでもごめんだ。何がどうなったら私を誘うことになるのか。そこのところをよくお聞きしたい。いや、別に知らなくても良い。どんな理由であれ、お断りなものはお断りだ。
私の嫌味(と書いてこたえと読む)を聞いた野々宮さまが、目を見開くと同時に漸く私の手を返してくれる。そして、わざとらしく居住まいを正すと、何か思案げに考え出した。
「それも、そうですよね。その...凛城さまって頭がよろしいから、ぜひとも勉強を教えていただきたいと、その、お友達とお話していたら盛り上がったものだから、つい、その勢いのままお誘いしたのですけど...やっぱり...無茶でしたよね...」
何がどうなったら勢いのまま私を誘うことになるのか。というか、お友達も私を誘うのを止めなさいよ。いや、それとも野々宮さまに合わせただけで、本当に私を誘うとは思ってないかもしれない。そうなると、野々宮さまが勝手に1人で暴走しているに違いない。
思考を混乱したままにぐるぐるさせながら、野々宮さまの様子を伺うと、頬をほんの少し赤らめた。今のどこに恥じらう要素があったのか切実に問いたい。頼むから手をモジモジさせないでほしい。
ふと、性格が違いすぎて、野々宮さまの思考回路がいまいち読めないのも、今までの嫌がらせに手応えが見えない一つの要因なのではないかと思い当たる。
「2人で随分と楽しそうにしてるね」
「雪音、ここにいたのか」
私が改めてお断りの返事をしようとしたその時、前方の扉から入ってくる人影に声をかけられた。
「葵、眞人!今、凛城さまにも勉強会に参加してもらえないかお聞きしてたの」
野々宮さまが近づいてくる彼らに、無駄に輝いた笑顔で言う。彼らの突然の登場に、慌てて断ろうと開いた口を閉ざす。
それにしても東堂さまは、また野々宮さまを探していたのか。いつでも側にいたいということだろうか。胸の奥に小さな針が一瞬、刺さった気がした。
「凛城を?」
東堂さまが怪訝そうに眉間にシワを寄せた。それに、妙にテンションの高い野々宮さまが元気よく「そうよ!」と答える。微妙に会話が噛み合ってない気がするのは私だけだろうか。
「凛城さんを誘ったのは分かったけど、眞人が聞きたいのは、その理由だと思うよ」
私だけではなかったみたいで、すかさずフォローをいれる奈月さまはさすがだと思う。それとも、慣れているのか。野々宮さまは頭のネジが1本足りない感じだし、東堂さまは会話のズレに気づいても余程の限り、訂正せずに流れに身を任せるところがある。将来、上に立つ者としてそれでいいのか。もしくは、野々宮さま限定で甘いのか。あ、ちょっと腹が立ってきたわ。
「凛城さまにお勉強を教えてもらおうと思って!ほら、いつも試験の成績で上の方にいるでしょう?」
野々宮さまが「ね?」と言いながら私に笑いかける。この場合、私は何で答えれば正解なのだろう。同意するにも鼻にかけてるように思われそうだし、否定するにも謙虚が過ぎる。結果、肯定も否定もせず、いかにも困りましたという顔で微笑むことにした。
東堂さまは、この何だか理由になっているようでなっていない理由に納得したようで、満足そうに頷いていた。納得できてしまうのは、彼が私の彼女への感情も行為も知らないからだろう。
では、それらを知っているもう1人はどう思うのだろうかと、気づかれないように、そっと奈月さまを窺う。でも、その顔は相変わらずの優しそうな微笑みを携えていて、何を考えているのかは分からなかった。