毒
お兄さま以外で初めてだ、と思った。なぜそんなに怒っているのか、よく分からないけれど、ただ私のために怒ってくれたのが少しだけ、胸をギュッとさせた。
「すみません。晴...咲夜は、別に悪い人ではない...はず...で、その、私を昔から心配してくれて、たぶん、今回も、私を守ろうと、して...」
引っ張っていた私の手を、「すみません」と言いながら離す水野さまは、心配そうに気まずげに私の様子を伺う。
「...水野さまのせいではないのですから、謝ることなんてないですわ。それに、私のために怒ってくれたこと、寧ろお礼を言いたいくらいです」
素直に嬉しかった、そう言えたら私もあの子みたいに、みんなから愛されただろうか。ふと、そんな事を考える。...いけない。少し、感情が乱れている。
「それでも、咲夜にちゃんと前もって話とくべきでした。これは、私の失態です。しかも、あんなに騒いでしまっては、戻るに戻れないです...よね?すみません。せっかくの機会だったのに...この埋め合わせは必ずしますから!」
「...ええ、ありがとう」
気づかれないように、数回だけ小さく深呼吸して、何度も謝る水野さまを宥める。なんて、真面目で義理堅い子なんだろう。この子は、私の側にいてはいけない子だ。そんな確信が、胸をよぎる。
「...水野さまは、心がとても温かくていい子ですわ。なぜあの子があなたを捨てたのか、とても不思議です」
「そ、それは...どうしたんですか?急に...」
水野さまの瞳が、苦しそうに揺れたのが分かった。私を守ってくれようとした優しい子に、私は毒を与える。心が優しければ優しいほど、その心が深く傷ついた時の絶望は苦しくて、その憎しみはとても深くなるから。忘れないで。あなたを知らずに傷つけて笑ってるあの子を。あなたを利用する私を許さないで。
「別に、ふとそう思っただけですわ。今日はありがとうございます。私はもう帰りますわ。それでは、また会いましょう」
水野さまからの返事は聞かずに、彼女に背を向ける。遠くで、私を呼ぶ声を無視して歩く。携帯を開き、迎えにきてくれるように運転手に連絡する。すると、すぐに返事が返ってきて、30分ぐらいかかるときた。そういえば、来る途中に、楽器店を見かけたのを思い出す。確か、近くで見かけたはずだ。そこで待っていよう。...こういう時は、何か新しい楽譜でも見つけよう。そうでないと、何かが崩れてしまいそうだ。今だけは、もう何も考えたくない。私は、耳にイヤホンをさして携帯の再生ボタンを押した。本当は、イヤホンなんて耳が悪くなると、お母さまが顔を顰めるけれど、でも、お母さまは別に私を心配してるわけではないから。耳に、静かにピアノの音が流れ込んでくる。それはまるで、私をこの世界から切り離す線が描かれたようだった。




