代償
あの異様な光景を見てから1週間後、雫先生は楸瑛学園を去っていった。新しく担任になった先生はおじいちゃんで、生徒にはとても無関心だった。
ストッパーのいなくなったあの子の行動は、ますますエスカレートしていった。奈月さまの登下校にまで付き纏うようなり、その度に奈月家の運転手やお手伝いさんにうまく言いくるめて追い払われているらしかった。
更に問題だったのは学校内、特に教室内であの子を止める人がいなくなったことだった。頼みの雫先生は去り、周りの生徒もあの子と関わり合いを持ちたくないからと、奈月さまごと避けるようになった。新たな頼みになるはずの担任は無関心で、とても助けてくれそうにはなかった。
その頃になると、頻繁に東堂さまが私たちのクラスに顔を見せるようになった。東堂さまがいる間は、あの子もおとなしかった。一度だけ近づこうとしたことがあったけれど、絶対零度のあの眼差しで彼に拒絶されるのは、さすがのあの子にも効いたようだった。
その頃からだろうか。時々、奈月さまから視線を感じるようになった。その視線の意味もなんとなく分かっていた。あの子を止められる力を持っているクラスメイトは私だけだった。別に、私だって何もしなかったわけではない。以前から何度かあの子に忠告したり、それとなくあの子の邪魔をしたり、私にできる範囲で動いてはいた。私は確かに凛城家の娘で力も持っているけれど、その力を使える資格を私は持ち合わせていなかった。
「ねぇ、奈月さまに付き纏うのはよした方がいいわよ。どうなるか分かっていらっしゃらないの?」
そう優しく私は諭してあげたのに、あの子は馬鹿にしたように笑って、
「あら、私を心配してくださってるの?一応、お礼だけは言うわ。だけど、余計なお世話よ。だって、彼も私のこと好いてくれているもの」
と、一蹴されただけだった。盲目なのか気づかないフリをしているのか、あの子は完全に前者だった。
あの頃の教室は、とてもピリピリしていた。張り詰めていた。周りも気づいていた。奈月さまから表情が無くなったことを。限界が近づいていることをヒシヒシとみんな感じ取っていた。
あの頃の奈月さまは、まだ優しかったように思う。今のようにあっさりと他人を切り捨てるような冷たい人ではなかった。確かに、あの頃から既に少し他人との間に壁は作る傾向にあったけれど、他人に対してもう少し情を持っていた。あの子のこともなかなか切り捨てられなくて、自分が我慢をすれば良いと表情をなくしてしまうまで頑張ってしまうほどには優しかった。そして、本人が何も言わないことをいいことに、あの子がますます調子づいてしまった。
奈月さまは、繊細な撫子の細工が施されたピンクゴールドのロケットペンダントをいつも身につけていた。明らかに女性のものとわかるそれは、とても美しく可憐で、女の子なら誰もが憧れるようなアクセサリーだった。
ある日、あの子は「それが欲しい」と言った。その日は、外は土砂降りの雨で、昼休みだった教室には多くの生徒が思い思いに過ごしていた。
「ごめんね。これはとても大切なもので、他人に渡せるようなものじゃないんだ」
奈月さまは、いつも見せる困ったような笑みで、でも、いつもとは違ってはっきりと拒絶を示した。彼からの初めての拒絶にショックを受け、また混乱したのだろう。あの子はひどく取り乱して、得意の癇癪を引き起こした。
「嫌よ、それが欲しいわ!!何で?どうして?嫌よ?嫌っ!!!」
そう喚いて、奈月さまに詰め寄る姿は異常で恐ろしかった。私も周りも、その余りの剣幕に呆然と見ている事しか出来なくて、止めようと思った時には遅かった。
どうにかペンダントを奪いとったあの子はどうせ自分のものにならないならと、あろうことか思い切り踏みつけた。
「ガシャン、ガジャッ、ガジャガシャ」
誰もが驚いて当の本人である奈月さまさえもあまりのショックに固まった。
「はぁ、はぁ、はぁ...」
あの子の息遣いだけが教室の静寂の中を響かせていた。ゆっくりと顔をあげたあの子は、黙って壊れたペンダントを見つめていた奈月さまと目が合うと、顔を一気に真っ青にさせた。
「どけよ」
彼の口から出たとは思えない冷たい声だった。思わず後ろに下がったあの子を押し出し、彼はとても大切そうに壊れたペンダントを抱く。
「もう我慢の限界だよ。君のことなんかほんの少しも好きなんかじゃないし、寧ろ、大嫌いだよ」
彼にしては乱れた口調で、その感情を押し殺したような声からは怒りと悲しみが溢れていた。それからすぐに彼は教室から去り、取り残された者たちは暫くその場から動けなかった。
それから数週間してあの子は雫先生と同じようにこの学園から去っていた。誰も口にしないけれど、誰が追い出したかなんて分かっていた。
奈月さまはこの事件があって以来、本当に笑わなくなった。あのよく見せていた困ったような微笑みさえ、今では便利な道具のように使っている。みんな、彼の逆鱗に触れるのが怖かった。その微笑み一つで、彼は他人を思い通りに動かせるようになった。それは、彼の負った代償にしてはとても哀しく、とてもつまらない物のように思えた。