契約地域のイコマ
イコマに会ったのは三ヶ月ぶりだった。彼は執務室に入ってくると、アタッシュケースを足元に 置いて、ソファにどかっと座った。
「一体どこに行ってたんだ?」
カシハラは厳しい口調で尋ねた。 「何度連絡しても折り返しもない。また仕事か?」 「違います。調度品を探しに行ってたんですよ」
ジャケットにさしてあったペンを取ると、片手で回した。
茶色の柔らかい髪に、白い肌。背はすらりと高く、白のインナーにチェックのジャケットに青い ジーパン姿。ソファにゆったりと寄りかかり、足を組んでいた。今年で二十五のはずだが、二、 三歳は若く見えた。
「調度品を? 君たちの民族が昔、作っていたものか」
カシハラは言った。イコマのの民族は変わっていた。薬を作るのを得意としていたのだが、その 材料を調度品に塗り込めておいたのだ。植物なら天候により発育の差異があるが、調度品なら天 気に左右されずに調達できると考えたらしい。
イコマは楽しそうに答えた。 「ええ。契約地域の中にばらばらに散らばってますから、回収に時間がかかるんですよ」
「また危険な場所に行ったのか?」 「そこそこ。でも、心配かけるほどのことは何もなかったですよ」 「それなら電話にくらい出ろ。何かあったのかと気が気ではなかった」 「だいたい、自分の立場がわかっているのか?」 「契約地域に何百年も前から住んでいた先住民で、最後の生き残りですよ。ついでに、あなた方の 知らない薬の作り方を知っている小市民です」
イコマはおどけて言った。目がせわしなく動き、いたずらっ子のようだ。実際、人をひっかける
のが趣味だった。
「そうだ、そのせいで何度も捕まって拷問にかけられてる」
「殺されるわけじゃないけど」
回していたペンを止め、カシハラの方を見た。 「死人に口なしですから。そんなことになったら、かける側が困りますよ?」 「物事に絶対はない!」
カシハラは柄にもなく大声を出した。
声の調子が変わったのを気にしたのか、イコマはペンを回すのをやめた。テーブルの上にある写 真立ての方を見た。そこに、カシハラの死んだ息子の写真が飾ってある。 「息子さんのこと、気にしてるんですか?」
「ああ」
声が震えてくる。十年も経つのに悲しみは癒えない。 「好奇心旺盛で、よく外を飛び回っていた。生き生きしていたんだ。嬉しくもあった。だが、心 配でもあった。無鉄砲なところがあったからな」
イコマによく似ていた。顔ではなく性格が。彼の死を伝えられた日から、よく眠れなくなった。 そして、息子同然に思っているイコマの行動にも必要以上に口を出す。余計なお節介だとわかって いた。自分は彼の父親ではないのだから、とやかく言う筋合いなどどこにもないのだ。
「心配しなくても大丈夫ですよ」 「どこに保証があるんだ」
カシハラは声のトーンを落とした。かなり凄みのある声だなと自分で思って苦々しく思った。契 約地域の中で、最大の犯罪シンジゲートの長になってしまってから、クセになってしまった。詰問 しているわけではないのに、誤解を受けることは一度や二度のことではなかった。
イコマはいつの間にか真剣な顔をしている。
イコマはなにも言わなかった。まるで吸い込まれるようにきれいな緑色の目がこちらを見つめて
いた。だんだんと落ち着いてきた。不思議な目だ。まったく似ていないのに、どこか息子を思わ
せる。
「君がどこに行ってしまったのか心配になるのは、息子のことだけが原因じゃない」
カシハラは言った。 「初めて会ったときに、死んでいたからだ」
イコマは少しだけ肩をすぼめた。それだけで、あとは何も言わなかった。部屋の中に沈黙が流れ た。それでようやく冷静になった。叱りとばすために呼んだわけではない。カシハラは咳払いし た。
「電話でも言ったが、頼みたいことがある」
イコマは身体を乗り出してきた。目がヒスイの宝石のように輝いた。 「だから飛んできたんですよ。窃盗? 脱税? それとも、不法侵入?」 「人聞きの悪い言い方をするな」
カシハラは苦笑いした。ことの善悪よりどれだけ自分の好奇心を刺激するかを重要視しているの だ。
「残念ながら違う。大して危険でもないが、重要な仕事だ」
イコマがなんだ、と言いたげにソファに寄りかかった。
「なんだ、つまらない......なにをしろっていうんです」 目の輝きが消え、曇りガラスのようになる。興味が失せたのだ。再びペンを回し始めた。 「重要はいいけど、危険がないなんて」 「ぜいたくを言うな。わざわざおあつらえ向きの仕事を作ってやったんだぞ。放っておくと、妙 な連中にケンカを売りかねないからな。内容は簡単だ。少女を牢獄から助け出して家に送ってい くんだ」
「どこの犯罪者から?」
「わたしだよ」
イコマが回していたペンを手から落とした。床にコン! と音が響いた。それを拾いもせずに、 「俺の聞き違いじゃないですかね? カシハラさんからって聞こえたんですけど」
「そうだ」
「女の子なんて誘拐したんですか? らしくないな。そこまで極悪人とは思ってなかったんですけ ど」
「だが事実だ。実行したのは部下だが」
「なんで? わけもなくそんなことしないでしょ?」
カシハラはうなずいた。 「当たり前だ」
それを聞くと、イコマは安心したような顔をして、床に落ちたペンを拾った。身体をあげながら、
「あー良かった。とうとう、堕ちるとこまで堕ちたかと震えましたよ」 「わたしをなんだと思っている? 君の思っているような人間じゃないぞ」 「だけど根っからの悪人じゃない」
イコマはにやっとした。あなたは命の恩人ですよ。とでも言うように。
「わけを聞かせてくださいよ」
「部下の頼みでやった。だが、誰にも迷惑はかけていない」
「誰の?」
「ミヤツだ」
「ミヤツには娘が一人いる」 カシハラは机の上に写真をおいて説明した。ブロンドの髪に、透き通るような白い肌をした少女
で、顔立ちは東洋系だった。しかし、決して派手な雰囲気ではなく、むしろ上品に見えた。 イコマはそれを取り上げ、しばらく頭の上にかざしてまじまじと見ていたが、
「似てないなあ」 率直な感想を述べた。それから、カシハラの方を向いて、
「養子じゃなくて、実の娘なんですか」
「正真正銘のな」
「へえ......じゃあ母親似なんでしょうね。ミヤツさんの顔は東洋系だけど、髪は黒いし、融通が
きかない。まさかこんなきれいな娘さんがいるなんて」
メガネをかけ、眉間にしわを寄せたミヤツの顔がカシハラの頭に浮かんできた。言い得て妙だ。
イコマが言った。
「子供がいるってことも初耳ですけど」
「隠してるんだ。わたしの部下ということをな」
父親が犯罪者の部下と聞いたら、ショックで卒倒してしまうくらいの箱入り娘なのだとカシハラ は説明した。
「わたしが誘拐したのは彼女だ、ミヤツに頼まれてな」 「何でわざわざ娘の誘拐なんて頼むんです?」
イコマが不思議そうに聞いた。 「君の疑問ももっともだよ。私も聞いた時は驚いたから。本人が言うには誕生日プレゼントらし い」
「怖い目にあうのが?」 「スリルを味わうのが。彼女は、冒険小説が好きでよく読んでるんだ」 「『鷲は舞い降りた』とか、『樹海戦線』とか?」
イコマが楽しそうに言った。 「俺も読んだけど。あれは面白かったな、へえ。女性もそういうのが好きなんですか?」 「違う。王子様がお姫様を牢獄から助け出すような話だ」 「ならどちらかというとファンタジーじゃないですか」 「かもな。だが、冒険はある。とにかく、そんな世界に憧れている。で、彼女の記念すべき十五 歳の誕生日にものではなく状況をプレゼントすることにしたんだ。つまり、彼女がお姫様だ。牢 獄に閉じ込められ、王子様に助けられるというわけだ」
「なるほど」
イコマがパチンと指を鳴らした。
「つまり、俺は王子様になればいいんですね」
「察しがいいな。適役だろ?」
カシハラはにっこりした。イコマは、兄に女性に優しくするように教え込まれているらしい。顔 立ちも決して悪くはない。ボディーガードの仕事も何度か行っていた。 「精一杯やらせていただきますよ。でも、敵はどうするんです? まさか、送って行くだけじゃな いでしょう。それじゃつまらない」
「だから、部下に君を追いかけさせるんだよ」 「それなら怪しまれることもないか。助けだしたら、追っ手がいないと嘘ですからね」 「計画はこうだ。まず、君が娘を地下の牢獄から助け出す。で、そのままアジトから抜け、ミヤツ の家に戻る」
「徒歩でいいんですよね。電車を使ったらすぐ着いちゃうから」 「もちろん。それでも三日ほどの距離だからな」
カシハラは、スーツのポケットからスマートフォンを取り出し、イコマに見せた。そこに、アジ トの地図が映っている。それを イコマに手渡しながら、 「極秘のファイルだから、ここで覚えてくれ。牢獄までの地図だ」 「地図って...つまり、ふつうに入り口から入って、鍵を開けるわけだ。ハッキングするんじゃな く」
その言葉にカシハラは呆れかえってしまった。 「それじゃあ泥棒だろう。いつものように破天荒なやり方は控えてくれないか」 「普通に開けた方が、言い訳がめんどくさくなるんじゃないかなあ......」
イコマは首をかしげたが、 「ま、いいや。受け取るものはそれだけですか」 「あとはスマートフォンだ」
「二台持ちになりますよ? 三ヶ月前ももらってるから」 「予備だ。すぐ壊すじゃないか」
イコマは決まり悪そうに下を向いたが、すぐに顔を上げた。はきはきした声で、
「話はわかりました。いつ決行します?」
「私はいつでも構わない。部下に話はつけてあるし、娘はすでに閉じ込めてあるんだ」
「何日くらい?」
「三日ほど」 「なら今日の夜に決行で。何日も閉じ込めてるのはかわいそうだし、昼に助けるのはムードが出 ない。いま時間は」
そういうと、イコマは壁にかかっている丸い時計をちらりと見た。
「午後四時。ちょうどいいな。カシハラさん。このあと、射撃場でこいつの試し撃ちをしたいん
ですけどできます?」
腰のホルスターを叩いた。そこに、スミス&ウエッソンの三十八口径の銃がある。カシハラから 以前、格安で買ったものだ。もちろん、不良品というわけではなく、友人だから、赤字になる値 段で譲ったのだ。どうやら、まだ無くしてはいないらしかった。 「もちろん。君はフリーパスだからな」 「で、その後に、いつものようにカシハラさんとトランプでひと勝負だ。その後に、決行。簡単 です」
勢いよくソファから立ち上がった。アタッシュケースは置きっ放しにして、ドアの方に歩いて行 く。どうせあとで戻ってくるし、撃つには邪魔だから置いておくのだろう。若者はいいなと微笑 ましく思う。自分も昔は、飛びまわっていたものだ。
イコマは部屋を出ようと、ドアノブに手をかけ、カシハラの方を向いた。
「何してるんですか? くるでしょう」 「いや......いいよ」
カシハラは顔の前で手を振った。 「どうせ、見ているだけだ」 「俺の腕を把握しといたほうがいいと思うなあ」
イコマはドアに寄りかかり、腕を組む。挑発するように、 「この三ヶ月で腕を上げましたからね。若い時のあなたと引けを取らないと思いますよ」 「言ってくれるじゃないか」
カシハラは思わずソファから立ち上がり、自分の予想外の行動に驚いた。たしかに、若い頃の自 分は、なかなかの腕前だったと自負している。が、他人に指摘されると、苦く笑うだけで、反応 はしない。昔のことだから。しかし、 イコマに挑発されると、なにくそという気持ちになる。こ いつはどういうわけだ。
イコマはこちらを人差し指でさすと、にやりと笑った。
「やる気になってきたじゃないですか。じゃ、行きましょう」
そのまま勢いよくドアを開けた。
射撃場は、カシハラのアジトを出て、十分ほど歩いたところにある。二人が入った時には、部下 たちが何人か的を撃っていた。
イコマは腕を上げていた。彼はまっすぐに右手を伸ばすと、十五メートルほど先の動いている的 に一発撃った。次々と流れていく的に素早く。
確認してみると、全て中心に命中している。
「見事だな」
カシハラは賞賛した。拳銃というのは見た目より当てるのが難しい。銃撃戦は至近距離でないと 相手には当たらないのだ。七メートル先の動いている相手に銃弾を当てられれば、御の字。だが、 イコマは十五メートル。一般的にいえば、凄腕といえる。以前は十メートルまでだったから、練 習したのだろう。
彼は得意そうに眉を動かした。
「でしょう? あなたの若い頃に比べたらどうです?」 「残念だが」
カシハラはにやりと笑った。 「わたしには敵わないよ」
イコマはぎょっとしたように目を見開いた。だが、それはすぐに疑わしげなものに変わった。 「嘘ですよ、俺は確かめるすべがないんだからなんとでもいえる」 「私が嘘をついていると?」
「そこまでは言いませんけど」
見栄を張っていると思っている。カシハラは心の中で イコマの思っていることを引き取った。 だろう? 顔に出ているぞ。
「だが、今のわたしと比べることならできる」
そういうと、さっさと的から離れた。イコマが後ろから追いかけて、横に並んだ。
「銃を貸してくれ」
「撃つんですか」
驚くのは無理もない。彼の前で見せたことはない。若者にいいところを譲れないほどカシハラの 器は小さくはない。だが、今回は見せたほうがいいと思ったのだ。
イコマはバカではないが、少々、調子に乗りすぎる。カシハラを超えたと思い込めば、努力をし なくなる。彼は、いつでも撃てなければならない。向上心を忘れてはいけない。そうでなければ、 また死ぬ羽目になる。
イコマが尋ねた。
「何メートル?」
「二十五だ」
短くいうと、的に向かう。イコマは横に立っていた。当たらないということは念頭に入れていな
い目でこちらを見ながら。だが、的確に当てられるとも思ってはいない。
二十五メートルか。目の端で彼を見ながら思った。たいした距離だと思っているだろうが、若い 頃よりは射程が短い。昔は、五十メートル先の動く相手を走り回りながら撃っていたものだが、 瞬発力と集中力が必要だ。瞬発力は年により年々衰えてきているし、昔ほど頭が冴えているわけ でもない。それでも、この距離なら。いける。
自分の周りから音が消えた。自身の息づかいが聞こえてくるのみ。目の前には的しか見えない。 照準を合わせ、息を止めると、引き金を絞る。
イコマが口笛を吹いた。それで、カシハラは満足した。
イコマはこちらにかけてくると、 「真ん中にぴったり命中ですよ。俺のうぬぼれでした」
素直に頭を下げた。彼のいい点は、人をうらやむのではなく、自分の実力を認めることができる
ところだ。頭をあげると、
「何かコツでもあるんですか?」
「何も。無心になって、引き金を引くだけだ。逆に、君はどうやってるんだ?」
「観覧車ですかね」
銃をイコマに返しながら、 「今度はこっちが聞くんだがな。なぜ、いつもスミス&ウエッソンなんだ? ずっとモデルを変え ないが、こだわりがあるのか?」
「兄貴が持ってたんですよ」
イコマは言った。 「優しかったんですけどね。俺が十歳の頃に目の前で死んでしまいました」 「事故か?」
カシハラは鋭い声で尋ねた。 イコマの一族は冒険好きだから、死因としてはそれが一番多かっ た。
イコマは、首を少し横に振ると思い直したように頷いた。 「そうなるかな......ちょっと説明しづらいんです。自殺になるかもしれないし」 「どういうことだ?」
「人には事情があるんですよ」
声が暗かった。いつものような明るい表情が消えている。しまった、触れてはいけなかったか? 彼の兄の話を聞くのは一度目ではないが、その時の話はいかに兄を尊敬しているかという話だっ た。しかも、自分から話し出した時のみ。突っ込んで聞いたことはなかったのに。
なんと言えばいいのかわからなかった。イコマはしばらく目をぎゅっとつぶっていたが、顔を上 げた。先ほどよりは明るい表情に戻っていた。 「尊敬してたから、同じものを使いたいんです。しっくりもくるしね」
そのまま大事そうに、銃をホルスターにおさめた。
この男は......。タチの悪いイタズラか。カシハラは不機嫌になりながら、サルミアッキ入りの酒 をチビチビとやっていた。流してしまうのも気が引けた。イコマ以外の人間からの贈り物なら喜 んでそうするだろうが。わたしの弱点だな。カシハラは苦笑いした。他の人間ならともかく、イコ マの前では全く警戒しないのだ。
イコマが、トランプの札を引いた。ちえっと言いながら、テーブルの下にそれを隠して、シャッ フルしているようだ。カシハラが引き、イコマがまた引いた。グラスの上を大きく経由するように して。へんな手の回し方をするなと思ったが、彼がおかしな行動を取るのは今に始まったことで はないので、すぐに忘れてしまった。
やはり殺さなくて正解だったな。目の前でやけに楽しそうにトランプをしているイコマを見なが
ら思った。障害も残らなかったし、年の離れた友人としても最高だ。息子のいない寂しさを埋め
てくれる。そっくりなのだから。
飲んだ瞬間、ぐらりと目の前が揺れた。地震かと思い、声を上げようとしたが口が開かなかった。 体に力が入らない。まぶたが強制的に閉じ、テーブルにゆっくりと倒れこむ。
イコマが見えた。表情はよくわからないが、笑っていないことだけは確かだった。 「薬の材料になる調度品を探しに行っていたんですよ」
という言葉が頭にこだました。そして、彼がおかしな軌道でトランプを引いていたことも。隙を 見て私に薬をもったのか? 瞬時に分かった。サルミアッキは薬が溶けるのを隠すカモフラージュ か? 味もそうだ。元がひどいから気がつかなかった。一体、何のために......。
体から力が抜け、何も分からなくなった。