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第八話:看護学生と哀れな痴漢

 極楽安楽病院第二内科病棟九号室の窓辺に、曼殊沙華まんじゅしゃげの怪しげな香りをのせて秋風が舞う。中庭に咲くコスモスが微笑むように、淡くそよいでおぼろげな夢をいざなう。


「おい、麗子!」

 ベッドの中から鉄仮面虎蔵が、検温の準備に忙しく立ち回る看護師の早乙女麗子に声をかけた。

「何ですか?」


「また研修生がやって来るって噂じゃねえか」

「それがどうかしましたか」


「俺がしっかり教育してやるから任せとけ」

「エッ……?」


「何が、エッ、だよ。面倒見てやるってのに不平でもあるのかよ」


「いい加減な事を教育するのはやめて下さいよ。前期の研修生たちが実習を終えて看護学校に戻った際に、内科病棟で研修生たちに何を教えたんだって教官の先生方が師長室に凄い剣幕で怒鳴り込んで来た事を忘れたんですか。お陰で私たちは師長さんに叱られて大変な思いをしたんですから」


「俺たちは間違った教育なんかしちゃあいねえよ。ねえ、親分」

 鉄仮面はタバコの紫煙を天井に噴き上げながら、とぼけた素振りで羅生門親分に話を振った。


「おう、また学生研修の季節が来たんだのう。いいねえ、パッと病棟が華やいで」

 羅生門親分が、お猪口をクイッと空けて一声上げた。それを咎めるように麗子が口をとがらせた。

「親分さん、研修生にお酌なんかさせないで下さいよ、絶対に。猿ぐつわの仕方やワッパの掛け方も教えないで下さいよ」


「心配は無用だぜ。大船に乗ったつもりでいてくれ。ナイチンゲールになり代わり、しっかと看護の基本を教え込んでやろうじゃねえか。人生の掟も教えてやろう。渡世の義理も看護の心得としては必須だしな。おう、なんだったらこの部屋に四、五日泊めてやってもいいんだぜ」


「いったい何を考えているんですか、あなたたちは。新人の研修生たちは看護の現場を勉強するために実習に来るんですから、余計な邪魔をしないで下さいよ。分かったわね健太郎も。ガキのくせに体温計で学生のオッパイなんか突っつくんじゃないよ。朝比奈さんもラブレターを乱発するのはやめて下さい。学生寮の風紀が突然乱れて、手に負えなくなったって寮長が辞表を出したのを知ってますわよね、皆様方よ」

 羅生門親分が窓外を見上げてお猪口をなめてたそがれる。


「いやあ満月じゃのう。望月の欠けたる事のなしと思えばって、誰か言ってたなあ」


「あれは太陽です! 日食でもないのに欠ける訳がないでしょうが。今、何時だと思ってるんですか親分。真赤な太陽が東の空から上がってるのが分かりますか。朝っぱらからベロベロに酔っ払って。気が狂いそうですわ、私はもう。お願いしますよ本当に全く」

 

 

 数日後、爽やかな秋風に乗って新人を含めた十名の看護研修生たちが第二内科病棟にやって来た。ナースステーションに初々しくも清々しい、はちきれんばかりの熱気がみなぎっていた。


「はーい皆さん、申し送りの前に藤巻師長から研修生に訓示がありますので全員集まって下さい」

 麗子がざわめく中で声を張り上げた。


「はい、静かに、静かに」

 全員が揃ったことを確認して、看護師長の藤巻竜子がテーブル席から立ち上がった。


「コホン、藤巻です。お早うございます。さて研修生の皆様方、あなたたちは、世間から白衣の天使と呼ばれて尊敬される看護の聖職に憧れて看護学校に入学された。そして、すでに厳粛な載帽式の感動の中で、ナイチンゲールの献身看護の魂と、奉仕の精神を体感して来られたものと思います。だけどねえ、勘違いしちゃあいけないよ。ナイチンゲールは、戦場に転がる無残な死体や負傷兵の激烈な痛ましさに接して、愛と奉仕の心が火の玉となり、大砲の弾が飛び交う中を命を張って看護したんだ。だけどあんたたちは、親のすねをかじって学校へ行って、教科書もノートも宛てがわれて先生から丁寧に教えを受けて、看護師の資格を取って将来の生活の安定を図る為だけに国家試験に挑もうとしている。しょせん、動機も根性もナイチンゲールの爪の垢ほども無いんだよ。息の詰まる受験勉強の息抜きと、たまの気晴らしを兼ねて病棟で実習でもして来るかと、ままごと気分に考えている奴はいないだろうねえ。とぼけて知らん振りしてうつむいても誤魔化せないよ、私がそうだったんだから」

 

 本音を突かれた学生たちは、他の病棟の師長たちとはまるで異なる、容赦のない藤巻の訓示に緊張を覚えた。


「いいかい、良くお聞き。この病棟に転がっている患者はみんな生身の身体なんだよ。教室の人体模型じゃないんだよ。ここに一歩踏み込んだ以上は甘ったれた学生根性を捨ててもらうよ。医者も看護師も命を張った現場なんだよ。わずかな手違いで患者の命を奪いかねない。ちょっとした気の緩みであんたたち自身が感染症に犯されてしまうんだ。気合を入れて勝負をするしかないんだという事を、肝に銘じて忘れるんじゃないよ」

 

 新人の学生たちは殊勝な顔で頷き、二度目の研修生たちも新たな覚悟に身を引き締める。


「いいかい、患者の中には色んな職業の人がいる。傲慢な政治家もいれば売り出し中のタレントもいる。一流企業の重役もいれば救急車で運び込まれた野垂れ死に寸前の浮浪者もいる。だけど、振り回されちゃいけないよ。患者はみんな平等なんだ。偉そうな相手だからと思って卑屈な態度をとってはならない。貧乏ヅラしてるからって侮ってはいけない。流行りの役者だからってサインなんか催促するんじゃないよ。いい男がいたからってお尻を振って媚を売るな。醜い老人がうんこ漏らしたからって下の世話の手を抜くんじゃない。特別室だからってビビるんじゃないよ。病院の中はどこでも全て公の場だ。医療の現場だ。患者に勝手な真似はさせられないのさ。大部屋だって個室だって看護の目線を緩める訳にはいかないのさ。どこの病棟にだって気の抜けない患者や我が儘な奴がいるけれど、学生らしく瑞々しく清らかに、且つ看護師として毅然とした態度を貫いて、先輩の指示に従い実技をしっかり身に付けて頂きたい」

 師長の口がつぐんで挨拶は終わったかに思えたが、わずかに戸惑いの表情で忠告の言葉が添えられた。


「最後に一つだけ忠告します。九号室の患者にだけは気を許さないように。入室したならば、なるべく短時間のうちに用事を済ませ、すみやかに退室することをお勧めします。いかなる誘惑があったとしても、決して関わり合いにならないことを忠告します。皆さんの栄えある乙女の将来が傷物にならないために、人生の価値観に破綻をきたさないために忠告します。以上」

 



<九号室での研修>


 藤巻師長の訓示が終わって申し送りを済ませると、麗子が研修生たちを引き連れて各病室を回って顔見せをした。

 

 最後に九号室の扉を開けて中に入ると、麗子は研修生たちを背中で隠すようにして紹介を終え、そそくさと引き揚げようとしたら鉄仮面の声が飛んできた。


「ちょっと待った、こら。何でそんなに慌てて出て行こうとするんだ麗子。一人づつ自己紹介でもしてもらわなくっちゃあ、患者としては納得がいかねえじゃねえか、あん」


「何の納得がいかないんですか」

 麗子の反発をさらりと流しながら、鉄仮面が研修生の一人を指差して声をかけた。


「あ、オメエは春の研修にも来ていた鱈子たらこじゃねえか。嬉しいねえ、また会えて。こっちへ来い、こっちへ。しかし相変わらずブスだねえお前の顔は。冗談ばっかしだって? 冗談は言わねえから心配するな。何、俺に言われた通りスイカを皮ごと丸かじりしたら前歯がへし折れて、奥歯から血が出たって? バカだね、丸かじりするのはバナナだって言っただろ。ぶどうの丸かじりは美味かったってか。そりゃあそうだ。何しろ皮から赤ワインが出来るんだから、上等のワインを飲みながら種を摘みにぶどう食ってるみたいなもんだからなあ。風呂にキャベツを浮かべてどうするんだ、アホだねえ、ニンニクだって教えたじゃあねえか。あかがしみ込んでふやけた頃合に胡椒を振りかけて食べるのがつうってもんだ」

 顔の向きを変えた鉄仮面は、別の学生を指差した。


「あー、そっちの新人さんよ、ちょいと注射針を一本貸してくれねえか。バカ、そんな点滴用の太い針をくれてどうするんだ。もっと小さいのをくれ。何に使うのかって? 爪楊枝に決まってるじゃないか、気が利かねえなあ。よその病棟に行ってそんなこと訊いたらバカにされちまうぜ、先輩たちに」


「注射針で歯クソなんかほじくったりして、歯茎から血が出ませんか?」

 あきれた風に首をかしげる研修生に、鉄仮面は追い討ちをかけてほざいた。


「経験が足らないねえ、今どきの学生さんは。そんなヘマをする患者なんか居ねえよここには。あんた初めてだから教えてあげるけどね、廊下を歩く時には気を付けなきゃいけねえよ。たまに立ちションしてる奴がいるからねえ」


「エッ、な、内科病棟の廊下でですか?」


「内科病棟を見くびっちゃあいけないよ。泥酔したあげくにゲロしたり、千鳥足で徘徊するのは常識だと思ってかからないと。この前なんか、ベテランの看護師が犬の糞を踏んづけて転んで肋骨を二、三本へし折って入院しちまったって話だぜ」


「アハハ、面白い冗談ばっかし」

「アハハ、アハハ、面白いだろう。それが冗談じゃねえから驚くなよ」



「おうおうおう、そっちのお嬢、こっちへ来なよ」

 阿修羅連合会千葉獄門組組長の羅生門源五郎がベッドの上から手招きをしながら研修生の一人に声をかけた。


「なかなか別嬪さんじゃねえか、あん。おう、ワシの名は羅生門だが。何、芥川龍之介の羅生門とどういう関わりがあるかだと。どこのスジの者だ、そいつは。いいから酌をしろ。お前も飲め。何、その顔で彼氏が欲しいって言うのかい。よっしゃ、うちの若い者を見つくろってやろうじゃねえか。真面目な男だ。チャカを持たせりゃ日本一で、ドスの扱いなんぞ、そこいらの外科医にゃ負けねえよ。ツラの皮だって臓物だってバッサリやるぜ。おおそうか、そうか、嬉しいか。それじゃあ折角だから見合いの仁義の切り方でも教えてやるか。三寸前屈みで左の手を膝に置いて右手を差し出せ。おお上手いもんじゃねえか、スジがいいねえ。早速のお控え有難うござんすと言ったら生まれを言うんだ、名前もな。何、清水港の生まれかい。本家じゃねえか、血筋がいいねえ。顔に赤味が差して美人に見えるぜ。まあ一杯やれ。なあに構うこたあねえ、ここらの看護師はみんな朝からやっているんだ。そうやって皆一人前に成長するのさ。栄養剤に焼酎混ぜて注射をすりゃあ、たいがいの病気は治るらしいぜ。何、知らなかったって? 試験に出るらしいからメモしとけ。詰所の看護師には言うんじゃねえぞ。ひねくれ者が多いからな。何だって? 注射を打つ際に右腕か左腕かいつも迷うって言うのか。そんな時には患者にさいを振らせるのさ。丁の目が出たら右の腕、半が出たら左の腕と決まっているらしいじゃねえか。注射の要領はなあ、わら人形の心臓に五寸釘を打ち込む感覚だ。満月の夜なら効き目が早いと師長が言ってたぞ」

 

 向きを変えて親分が指をさす。


「おい、そこの姉さん、なかなかの器量好しじゃねえか。看護師にしておくには勿体無いぜ。どうだ、芸者になってみる気はないか。話によっちゃあワシが口を利いてやってもいいぜ、あん。若いうちから女の道を誤っちゃあいけねえよ。その柔な手に注射器だの尿瓶しびんだの野暮な持ち物は似合わねえ。舞の扇か三味のばち、さもなけりゃあ口を結んで酌をしてりゃあ銭になる。受験勉強だの国家試験だの、しち面倒臭いご法度なんぞありゃあしねえ。ワシの顔が免状だ。おうそうか、さっそく寮長さんに相談してみるか。いい心掛けだ。素直だねえ」

 

 さらに向きを変えて親分が指差す。


「おうおう、そっちの姉さんはなかなか色気があるじゃねえか。白衣の恰好のままキャバレーにでも行ってみねえか。スチュワーデスやウエイトレスのコスチュームと戦うんだ。なあに、お前さんなら負けはしねえ。何、変な客に絡まれたらどうするかって? そんな時はドスを抜いて脅してやりゃあ腰を抜かして言うことをきく。おおそうだ、ドスの握り方の一つも教えとかにゃあならねえなあ。おっと片手で構えちゃあいけねえよ。両手でしっかと握るんだ。この体温計でやってみろ。あ、折れた。オメエ、ダメだなあ、あーあ、水銀が床に散らばっちまったぜ」

 

 九号室はにわかに宴会場と化して盛り上がり、新宿末広亭の野暮な落語を聞くよりも、新鮮な刺激に満ち溢れていると言って研修生たちの目が輝いていた。


「キャッ」

 突然、研修生の一人が朝比奈の顔を真正面から指差して、恐怖に顔を引きつらせて悲鳴を上げた。

「ち、痴漢」


「お、何だ、何だ。おい朝比奈、お前、とうとうやっちまったのか。発情したな。よりによってピチピチの看護学生を狙うとは見上げた根性だ」

 鉄仮面が二人の顔を交互に見ながら揶揄して言った。


「ち、違いますよ。知りませんよ。なぜ僕が痴漢呼ばわりされるのですか。僕がどこで何をしたと言うのですか。人違いですよ」

 朝比奈は研修生の顔を見据えて反駁したのだが、罪人を咎める口調で研修生は言い張った。


「学生寮で下着を盗むところを何度も目撃しましたわ。先週の日曜日の真夜中に、二階の窓をこじ開けて部屋に入ろうとしたでしょう。その物音で目を覚ました私は恐くなって寮長室に助けを求め、寮長さんにヌンチャクで撃退されて、二階から転がり落ちてびっこを引きずり逃走したではありませんか。変なラブレターを塀の向こうから紙飛行機で飛ばすのはやめて下さい。返して下さいな、私のイヴ・サンローランの新作シルクの赤紫色の下着一式を」


「お前、随分と派手な事をやらかしてるじゃねえか。返してやれよ、シルクの赤紫色の下着を。それにしても何だって寮長がヌンチャクなんか持っていやがるんだ。お前ちょっと見せてみろ、ヌンチャクでやられたびっこの脚を」


「だから人違いだって言ってるでしょう。先週の日曜日の真夜中だったら、皆で花札をやっていたではありませんか。鉄仮面さんのベッドの上で。百パーセント鉄壁なアリバイですよ」


「そういえばそうだなあ。確かに明け方までやっていたなあ。おい、姉さん、どうやらこいつに良く似たタチの悪いストーカーに取りつかれてしまったようだなあ。詳しく話してみなよ、力になってやろうじゃねえか」

 鉄仮面が仕切るように取り成して言った。


「は、はい。ご免なさい。その物欲しそうな嫌らしい目付きと、目尻の泣きぼくろがそっくりだったものですから。いえ、冗談ではありませんわ、オホホホホ」

 看護学生は真剣な表情に戻り、これまでの事情を語り始めた。


「はい、その男は毎週末になりますと、夜陰に紛れて黒装束で私の部屋の窓を覗きに来るのです。おかげで不眠症になって五キロも痩せてしまいましたわ。時には真昼間から現われてピンクや赤の下着を狙ってうろついているし、自分の醜い顔写真を貼り付けた紙飛行機を塀の向こうから飛ばしてきます。今世紀に稀な私の美貌が罪作りなのは充分承知しておりますし、マリリン・モンローを彷彿とさせるコケティッシュなセクシーウォークに魅了されるのも当然ですわ。でも、私にも男を選ぶ権利がありますわ」


「おおそれは気の毒な。泥棒にもブスにも三分の道理とは良くいったものだ。その身体で五キロも痩せたと言うのかい。奇特なストーカーもいたものだ。羅生門親分、聞きましたかい。ここは一つ餅肌脱いで、いや諸肌脱いで、白衣の天使の貞操のためにも、看護の未来、国家国民の幸福のためにも、勝負を賭ける時ではありますまいか」

 

 鉄仮面の昂揚に応じて、羅生門親分はベッドの上で片肘をつき啖呵を切った。


「お嬢、ワシの懐に飛び込んでくるが良い。極楽安楽病院を代表して阿修羅連合会千葉獄門組が乗り出した以上、最新兵器を駆使してでもそいつを串刺しにせずにはおかん。おう、朝比奈のう、携帯電話とやらを貸してくれ。何だとテメエ、院内で携帯は禁止だとう。そんな安物はこのワルサーP38でぶっ壊して、ああそうか、最初から素直に貸せ。そもそも事の発端は、お前の物欲しそうな嫌らしい目付きと醜い顔から始まった事じゃあねえか、あん。ピーピッピのツーツー、おうワシじゃ。何だとテメエ、ワシの声が分からねえだとこの野郎、ぶち殺して、おおそうじゃ、ようやく分かったか。良く聞けよ、時は今週の日曜日の夕刻だ。チャカとマシンガンと無線機とお化粧道具一式を用意しろ。お前、女装して来い。ガチャン、ピッ」


「あ、あのう、いったい何が起こるのでしょうか」

 只ならぬ事態の雲行きを察して、不安そうに自称モンローウォークの看護研修生は問いかけた。


「心配するこたあねえ。こういう事はプロに任せておけばええのだ。きっぱり片あ付けてみせるから安心しな。さあ、戦の前の前祝いだ。こっちへ来て一杯やりな。さあさあ」


「ちょいと、いい加減にして下さいよ鉄仮面さんも親分さんも。日曜日に何をしでかすつもりですか学生寮で。手荒な事はやめて下さいよ絶対に。師長さんに言い付けますよ」

 麗子が研修生たちを九号室からそそくさと連れ出して避難させた。

 



<日曜日>


 麗子の心配をよそに、日曜日は勝手にやって来た。

 晩飯を食いっぱぐれたカラスが数羽、病院食の残飯を狙って極楽安楽病院の厨房の裏手に集まりバリケードを張って騒いでいた。


 どこの病院でも夕食の時刻は早い。しかも、腹八分にも満たないくらいの量なので、寝たきりといえども夜の七時を過ぎれば、若い患者にとって空腹を抑えられない時がある。

 

 鉄仮面と健太郎が浅草ノリとピーナッツをサリサリ、ポリポリかじりながら将棋を指していると、入口の扉が開いて麗子が消灯前の検温の準備に入って来た。


「検温ですよ。消灯ですから将棋はもうやめて下さい。はい健太郎、体温計だよ。きちんと横になって検温しなさい。はい鉄仮面さんもお願いしますよ。あら、親分さんがいませんねえ。どうしたのかしら。はい善右衛門さん。あら、朝比奈さんもいないわ。そういえば夕食後の投薬の確認で覗いた時もいなかったわねえ。おかしいわねえ。鉄仮面さん知りませんか、二人がどこへ行ったか」


「そういえば夕食のブリのろっ骨が胃に突き刺さったみたいで、横になると痛むから、しばらくトイレに腰掛けてるからよろしくって出て行ったなあ親分さんは」


「どうやったらそんな器用に突き刺さるんですか。ブリのどの部分がろっ骨ですか。そんなものが突き刺さるようなヤワな胃じゃあないでしょうが。朝比奈さんはどうしたんですか」


「あいつはねえ、豚肉と鶏肉の食い合わせが悪かったらしくてねえ、腹の中で豚とニワトリが闘争を始めてチクチク痛むから、しばらくトイレに腰掛けてるって出て行ったぜ。なにしろ突発性慢性胃炎だから気の毒だねえ」

 鉄仮面の言葉のどこを切り取っても、きな臭い事件の前触れをプンプンと漂わせている。危険な予感を機敏に察知した麗子が隣のベッドへ視線を移すと、健太郎は頭からタオルケットを被って背中を向けて丸まっていた。


「健太郎、ちょっとおいで」

 麗子が声をかけた。

「ダメだよ」


「何でダメなのよ」

「絶対安静だって、主治医の先生からきつく言われているから」


「都合のいい時だけ絶対安静かい。さっきまで詰所の冷蔵庫をあさって大田原にビンタ食らっていたくせに」


「おう、麗子ちゃん」

 鉄仮面が、やけに猫なで声で麗子を呼んだ。


「何ですか、ちゃんなんかつけて」

「どうも寝苦しくていけねえや。こっちへ来て膝枕してくれねえか、頼むよ」


「いい加減にして下さいよ、本当にもう。何が起こっても知りませんから」

 不吉な思いを振り切るように、ぺチンと照明を落として麗子は九号室から出て行った。




<看護学生寮>

 

 その頃、看護学生寮の屋根の上には、どんよりと流れる泥雲を透かして三日月が凛々と輝いていた。そこに一人の黒装束の影が浮かび上がった。

 

 学生寮の一室の窓から明かりが消されると、屋根の上にひそんでいた黒装束の男が音も立てずにススーと降りてきた。

 ベランダにストンと降り立つと、ヤモリのように壁に張り付いて部屋の様子をうかがっている。

 懐中電灯をポケットにひそませて、しばらく暗闇に目をなじませていると、部屋の中からコトリと小さな物音がする。

 黒装束は一瞬たじろいで息をひそめたのだが、おやっと思って窓枠に触れるとぐらついている。思い切って横にずらすと窓は造作もなく開け放たれた。鍵はかけられていなかったのだ。


 黒装束はいかにも納得したように大きく頷いた。彼女は自分が来るのを待っていたのだ。窓の鍵をかけずに忍んで来るのを待ちわびていたのだ。

 その証拠に、今日も赤紫色の下着が天井からぶら下げて干してある。待ったいるよと合図のしるしだ。自分の愛が彼女に通じ、互いの恋慕が一重となって、今夜のしのび合いを心ときめかして待ちわびている乙女の祈りに頷いた。

 はやる心に火が付いて、窓から部屋の中に飛び込んだ黒装束は、恋しい彼女の眠る布団の端を引っ剥がして馬乗りになると、迷いもなく彼女の紅色の唇を奪って吸い付いた。


「うぐぐぐぐ、く、苦しい」

 いきなり布団の中から出てきた両の腕で、首を締め付けられてうめき声を上げたのは黒装束の男であった。

 

 眼をひんむいて苦悶のうめき声を発した黒装束が、とっさに唇を離して彼女の顔に懐中電灯を照らして驚愕して仰天した。

 何と、自分の顔が自分の首を絞めているではないか。鏡を見ている訳でもないのに、あるべきはずの愛しい彼女の顔が、なぜか自分の顔に化けてしまった。どこの世界にこんな理不尽な事実があるであろうか。


「う、くくく、苦しい。ぐぐ、ぐるじい」

 思わず黒装束の男は、自分と同じ顔の脳天めがけて、手に持っていた懐中電灯でバコンと強烈な一撃を食らわせた。


「イデッ」

 布団の中の自分の顔が悲鳴を上げて、自分の首を絞めていた手が離された。とっさに黒装束の男は後方に飛びすさった。

 その瞬間、部屋の電灯がパッと灯され、押入れのふすまがパタリと前に倒された。

 

 見よ、押入れの下段には、マシンガンを構えて正座する屈強な黒メガネのお兄さんが三人。上段には、立て膝に腕組みをした羅生門親分と、その脇には、相思相愛のいとしの彼女がニッコリ笑って正座していた。

 そして布団の上では、紅色の口紅を塗りたくった朝比奈が、黒装束と瓜二つの顔をして鼻血を噴き出しながらゲロをしていた。


 恐怖と戦慄に背筋が凍った黒装束は、失禁しそうな股間を必死で踏ん張り、プルプルと震える足取りで窓辺の方へにじり寄った。

 

 何とかベランダにたどり着いて、屋根から垂れ下がしておいたロープをたぐり寄せると、掴んだロープに体重を乗せた。そして、階下へ飛び出そうとして身体を持ち上げたその瞬間、ロープがブツリと切られて男はベランダの上に尻から転がった。

 

 いつの間に現われたのか、毒蛇の眼をした黒スーツのお兄さんが、銀色に磨きこまれたドスの刃先を黒装束の喉仏にピタリと押し当てた。

 押入れの上段から羅生門親分が声を放った。


「やいテメエ、逃げようとしやがったらこの三機のマシンガンが一斉に火を噴くぜ。嘘だと思ったら逃げてみろ。おい、ドスを放して逃がしてやれ。早く逃げろ、この野郎」


「あ、無理に押さないで下さい。い、嫌です。逃げません。な、何ですかあなたたちは。どうしてこんな仕打ちを。僕が何をしたって言うのですか」


「貴様、己の犯した罪の深さが良く分かってねえな。うら若き乙女の眠る看護学生寮にそんな不気味な恰好で、しかもこんな夜中に忍び込むのは泥棒か痴漢しかねえじゃねえか。テメエの目玉をくり貫いて、一物をぶち切ってやるから覚悟しろ」


「ご、誤解です。久美子さんと僕とは相思相愛の仲ですから。燃える思いを胸に抱いて籠の鳥に会いに来たのです」


「ゲッ、どうして私の名を知っているのかしら」

 久美子と呼ばれた看護学生は、愕然と男の顔を観察して言った。


「ヤイ、こら、オンドレ、何で彼女の名前を知っていやがる。きっちり答えろ。何で痴漢の真似をしやがった。でたらめ抜かしやがったらマシンガンが火を噴くぜ。きっちり答えやがれ、このドチンピラ」


「答えますからマシンガンの筒先を僕の顔に向けないで下さい。僕が久美子さんの名を知ったのは、看護学生寮の前のコンビニのおにぎり売場の前でした。プルコギとちりめんじゃこ入りツナキムチおにぎりと、納豆明太子おにぎりを彼女が買い物籠に入れようとしたら、一緒にいた寮生が、いつものカムチャッカ産紅鮭おにぎりは売り切れね。残念ね、久美子さん。と、言ったではありませんか。そうしたら久美子さんは、豚キムチおにぎりも美味しそうね。と答えました。そうしたら寮生は、アハハ、それじゃあ共食いだわよ、久美子さん。と言いました」


「やめて下さい。だからって、どうして下着を盗んだり窓から覗き見するんですか。相思相愛の仲だなんて嘘をつかないで下さい。口を利いたことも無いのに」


「何を言うのですか、久美子さん」

 痴漢の男は、名優レオナルド・ディカプリオが永遠の名画「タイタニック」で演じたように両手を広げ、肩をすぼめながら語り始めた。


「コンビニの中で天使を見つけたのです。久美子さんは、僕の初恋のミヨちゃんに瓜二つだったのですよ。僕のミヨちゃんは僕を捨てて東京へ旅立ってしまいました。一言も言葉を交わすチャンスの無いまま大都会の霧の彼方へ消えてしまった。僕は悲しくて、切なくて、寂しくて、苦悶の余り喉が渇いて炭酸入りミネラルウォーターを買いにコンビニへ行ったら、久美子さんが僕の目の前に現われたのです。これは宿命だと直感しました。神が恵みたもうた運命の赤い糸だと知りました。だからせめて祝言の日まで、久美子さんの赤い下着を抱きしめながら神の託宣を待っていたのです。これが罪と言えましょうか」


「ボケ、勝手に神など引きずり出すんじゃねえぞこの変態野郎。東京だの大都会だの抜かしやがって、千葉駅からJR総武線の鈍行に乗ったって一時間で行き着くじゃねえかドアホウが。京葉道路をポルシェ・カレラに乗って時速二百キロで飛ばしゃあ十五分で東京駅に到着だろうがバカ。よし、ワシがその神様の赤い糸とやらをぶち切ってやる。おい、そのマシンガンをワシに寄越せ」


「や、やめて下さい。も、もう切れました。プチッと音を立てて今切れました。もう二度とやりませんから許して下さい。お願いですから」


「今ひとつ態度に反省の色が見えねえなあ。生コンクリートに片足突っ込んで、東京湾の底でじっくり反省してみてはどうだろうか、あん」


「お願いです。久美子さんもミヨちゃんもすっかり忘れてしまいました。マシンガンで股ぐらを突付くのは止めて下さい」


「おい、こいつを麻酔薬で眠らせろ。猿ぐつわを噛ませてヒノキの棺桶に入れて特別養護老人ホームに宅急便で送り届けろ。慰みのオモチャ代わりに、どうでも好きなようにご使用下さいと一筆入れとけ。ついでに棺桶も宜しかったらご利用下さいと付け加えとけ。何い、送り主の欄はどうするかだと。千葉市立極楽安楽病院第二内科病棟一同より愛を込めてと書いておけ。謝礼は規則により固くお断りしますと追伸に入れとけよ」

 

 

 三日後に、宅急便のトラックが返送の荷物を載せて、パトカーに付き添われて送り主のもとへやって来た。

 朦朧もうろうとして横たわる黒装束の男が、ヒノキの棺桶から出されて救急ベッドに移されて、気付けのリンゲルとブドウ糖を点滴されている間に、第二内科病棟看護師長の藤巻が院長室に呼び出された。

 

 お巡りさんに調書を取られ、院長に散々油を絞られた藤巻師長は、院長室を退室すると手術室に立ち寄って、頭蓋骨切断用のおののこぎりをわしづかみにして出て行くところを、心臓手術中の執刀医と助手が見つけて血相を変えて、必死になって師長の背中を羽交い絞めにして押し止めていた。

 

 屋根の上で餌をついばんでいたカラスが、九号室の窓越しに聞こえる絶叫に驚いて、足を滑らせ転がり落ちて、アホバカヤローと鳴いていた。


次の話は、早乙女麗子の苦悶と鮮やかな結末

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