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第七話:終戦記念日の追憶

 末期胃ガンの松本清吉は、自分の叫び声に驚いて夢から醒めた。

 今日もまた同じ夢を見てしまったなと思いながら、動きの鈍くなった右の手の甲で首筋の汗をそっとなぞった。


「随分と、うなされていましたけれど、大丈夫ですか」

 妻のトメが気づかって、清吉の額の脂汗を濡れタオルできれいに拭った。ベッドの脇から覗き込むトメの顔を認めて清吉は眉をしかめた。

 

 末期の胃ガンであることを、八十五歳の清吉は知らされていない。しかし、この夢を見るようになって、清吉は自らの死期が近いことを悟るようになった。

 見るごとに夢の場面や背景は微妙に異なるけれども、底に潜む陰惨な地獄の業は深く極印されて変わることはない。

 

 妻にも子にもそして孫にも、決して語れぬ戒めとして、記憶の結界に閉じ込め続けてきた冒瀆の彷徨が、六十年を経て死を目前にした慚愧の心にフラッシュバックとなってよみがえる。

 英米鬼畜と教えられ、艦砲射撃も機銃の掃射も断じて恐いとは思わなかった。皇国の御旗の元に命を捨てる覚悟はできていた。父へ母へ、先に散り行く不孝を詫びた。弟へ妹へ、自分の分も生きてくれよと祈った。

 しかし、遠く南海の島に送られ戦況の悪化と共に援軍も補給も断たれ、部隊を撤退させてジャングルの奥地へと彷徨を始めた時に、見えざる敵の本当の怖さを知らされた。

 それから先は戦う為の戦争ではなかった。生きる為の自分自身との闘いだった。清吉はそのとき初めて生きるという言葉を知った。当たり前のように生きていた時には水も空気も当たり前に存在し、生きることが当たり前の権利だと思い込んで生きていた。


 人が極限の死線を越えた時、初めて生きることの意味をかみしめ、生きる為に人であることを忘失する。

 動物も木の実も水も無い熱帯の密林と土漠の中をさまよい歩き、生きる為にトカゲやミミズやアリを食べた。草の葉、木の根、枯れ枝の皮をかじった。栄養失調で熱病に襲われ多くの戦友が死んで行く。死した友の傷口に湧くウジ虫を食べた。

 そして、決して、決して口にしてはならない肉片を口にした。魂を悪魔に売り渡し、神も仏も慙愧も理性もかなぐり捨てて畜生となり鬼と化して、死した友の肉片を咀嚼そしゃくした。

 そうして死の崖っぷちから生き延びた。気の狂いそうな程おぞましく、悲惨な記憶が拭えぬ染みとなって脳裏にへばり付き、時を止め、固く封印をして今日まで生きた。

 

 敗戦を知らされ捕虜となり、本土を目指す引き揚げ船に乗った時、清吉はガダルカナルの全ての記憶を固く結界として封じ込めた。その幾重にも幾重にも包みこんで封印をしたはずの糸がほつれて、死の洗礼を前に脳裏の底から解き放たれたことを悟ったのだ。



「うーむ、感慨無量じゃのう……」

 鳥兜善右衛門は胡坐あぐらをかいて腕組みをして、テレビの画面を見ながら一声うなった。

 どの放送局でも終戦記念日の特別番組が組まれており、画面には靖国神社への参拝風景や空襲、被爆、敗戦時の実録などが放映されていた。

 天皇陛下の玉音放送が流されて、神風特攻隊や人間魚雷で若き命を犠牲にした英霊たちを弔う靖国の拝殿の画面が映されると、善右衛門はじっと黙祷を捧げるように手を合わせていると思いきや、二葉百合子の「岸壁の母」を、喘息の喉でハミングしているのであった。


「善さんは戦争体験者だからねえ。俺は終戦直後の生まれだから良く分からんが、何となく雰囲気だけは感じるなあ」

 鉄仮面が横から顔を覗かせて言った。


「ワシだとて戦争に召集された訳じゃあねえぞ。まだ小学生だったからのう。しかしのう、B29の爆音だけは怖かったぞ。岩手の山村に爆撃なんぞされるはずは無いんじゃが、それでも空襲警報が鳴らされるたびに、お袋が裸電球の明かりを消して皆で防空壕へ飛び込んだ。うちの親父も近所の男たちもみんな戦争に駆り出されて、村は女子供と老いぼればかりだったのう」

 

 二人の会話を耳にして、羅生門親分がムックリとベッドの上に半身を起こした。


「おうおう、ワシの親父はのう、やくざ衆の先陣を切り、お国の為に自ら志願して、二等兵で満州へ乗り込んだと自慢しておったぞ。千人針を腹に巻き、義理人情を御旗の印しに軍曹も上等兵も子分に従え、中国人からヤクとチャカを仕入れて横流し、極道の模範として励んでおったと口癖のように自慢しておった」

「マジですかね……」

 鉄仮面がうさん臭そうに眉をしかめる。


「おうよ、素手で水牛と戦いタランチュラを殺し雪男を倒した。満州一円の流血事件や謎の凶悪事件にはたいがい首を突っ込んでおったそうだ。何よりも自慢は、万里の長城の楼閣で若いクーニャンをはべらして、東郷平八郎元帥と山本五十六司令長官を相手に酒を酌み交わして日本の将来を語り合ったということだ。貫禄じゃのう」

 はす向かいのベッドから朝比奈が、親分を小馬鹿にするような言い回しで口を挟んだ。


「親分、日清日露の戦争と第二次世界大戦をクソ味噌にしていませんか。しかも、陸軍の二等兵がどうして海軍の元帥と語り合えるんですか。第一、万里の長城に楼閣なんてありませんよ。あれはね、山の峰に沿って張り巡らされた土塁の壁なんですよ、壁」


「テメエ、見てきたような知ったかぶりでほざきやがって。お前さんの勤める小学校の教科書にはそんな風に書いてあるのかい。心して聞けよ、突発性慢性胃炎の小学教師。終戦後、ソ連軍に捕らえられた親父はなあ、無理矢理乗せられたシベリア送りの囚人列車から脱走し、何とかオホーツクの海まで逃げ延びて、そこから流氷に乗り、偶然通り合わせた白熊に導かれて日本海を泳いで渡り、ようやく生まれ故郷の千葉栄町へたどり着いたんだ。焦土と化した街中を、腹を空かせて徘徊する愚連隊の若者たちに渡世の仁義を教え込んで配下に従え、市民のために進駐軍の物資を片っ端からかっぱらって闇市を開き、千葉市復興の礎となったのは親父の恐るべき人徳と義侠の精神だという美談を知らんのか」


「千葉のどこの図書館を探したって見つかりませんよ、そんなでたらめな歴史の記述された書物なんて。あこぎな所業を重ねて庶民から愛想を着かされ、石をぶつけられ鼻血を流しながら村八分にされて、進駐軍からはりつけの刑にされるというストーリーの方が納得がいくように思いますね、僕は」


「羅生門一家を百点満点のコケにしてくれたな小学教師。テメエの慢性胃炎を一瞬にして楽にしてやろう。嬉しいだろう」


「あ、やめて下さい。な、何をするんですか。拳銃の筒をこっちへ向けないで下さい。暴発したらどうするんですか。あ、わ、ひ、引き金を引くのはやめて下さい。あ、わわ、わ……」


 

 健太郎少年がベッドから起き出して、清吉のそばに来て耳元でささやいた。

「じいちゃん、随分うなされていたけどさあ、何かつらい事でもあるのなら話してみなよ。大人には聞かせられない内緒の話でも、僕になら平気だろ。楽になるかもしれないよ」


「ありがとうよ、健坊。気丈な男でも死期が近付くと気弱になるものでなあ。記憶の戒めの紐がゆるんで夢の中で暴れ出すのじゃ」


「ふーん、どんな夢だか話してみなよ」


「夢は霞じゃ。もう戦争が終わって五十年以上にもなる。ワシらが死ねば悪い夢も消えてしまう。健坊は新しい夢を見れば良いのじゃ」


「消えちまったら誰にも分からなくなるじゃないか。消える前に話してみなよ」


「世の中には誰にも知られずに消さねばならぬものがあるのじゃ。神はその戒めを解き放ち、三途の川でみそぎをせよと夢寐むびのさばきを課しているのじゃよ」


「じいちゃん、三途の川は神じゃなくて、仏の世界じゃないのかい。神の親分はゼウスだって聞いたけど、あいつらはギリシャ神話の世界のでっちあげだろ。日本の神の親分は天照大神なんだろ、違うのかい。本当の神って何者なんだよ。キリストは神のパシリだって教わったよ」

 清吉老人は頬をゆるめて目を細め、健太郎の純な瞳をやさしく見つめて己の苦悶でも吐き出すように、穏やかな口調でゆっくりと語って聞かせた。


「世俗の神のありようは、宗教という幻像に心をゆだねて苦しみを投げ出そうとする他力本願の逃避に過ぎぬ。本当の神さまはな、それぞれの人間の背中に取り付いて、運命をつかさどる魂のコアなのじゃ。健坊の背中にも神がおる。健坊の病気も神の仕業じゃ。今は苦しんでも、後悔の無い世界へと必ず導いてくれる。その時になってようやく、己の神の存在に気付くのじゃ」


「ふーん」


「仏さまはのう、人間が苦しまぎれに作り上げた、浄土という架空の世界の象徴なのじゃ。だからのう、神の教えでも仏の諭しでも、天国や極楽や地獄があって、悪事を働けば地獄へ落ちると戒められる。だがのう、そんなものなんかありゃあせん。救われると思うならば信じれば良いのじゃ。だがのう、三途の川は誰もが渡らにゃならぬ、この世の運命を洗い流す為のみそぎの川なのじゃ。気にするな、健坊。どれ程うなされていても、ワシにはもはや苦悶は無い。諸行無常の習いに身を任せるのじゃ」

 清吉は静かに目をつむり、トメは桃の皮をむいて、一切れを健太郎少年に差し出した。


 消灯の刻限を過ぎて、病棟の廊下には物音ひとつ聞こえない。だから余計にスリッパの音がパタンパタンと響き渡る。


「麗子……」

「私の名を呼び捨てにするなって言ってるでしょう。ガキの眠る時間はとっくに過ぎているのに、なんでこんな所をほっつき歩いてるのさ」

 ナースステーションのカウンターから顔を突き出す健太郎に、看護師の早乙女麗子はいつもの厳しい口調で言い放った。


「モルヒネ一本打ってくれよ」

「脳味噌出しなよ、踏みつけて蹴飛ばして眠らせてやるから」

 麗子の暴言にひるむことなく健太郎は、詰所のテーブルイスに座り込んだ。


「看護師の痴話ばなしでも聞かせてくれよ。ブドウ糖でも飲みながら」

「どうします師長さん、このバカを」


「そこのメロンパンでも食わせてやりなよ。腹がふくれりゃあ眠くなるさ」

「師長さんも、誰にも話せない事ってあるのかい?」

 健太郎が師長の藤巻に問いかけた。


「どうしたね、健坊。何かあったのかい?」

「松本のじいさんが、昼間、夢を見てうなされていたよ。五十年以上も前の出来事を夢に見てうなされていたんだよ。何があったのかを聞いても教えてくれないのさ」


「そうかい。五十年以上も前といえば戦時中だねえ」

「戦争か……」


「うなされるほど辛い記憶があるんだねえ」

「どんなに辛い記憶だって、月日が経てば忘れてしまうんじゃないのかい」


「あの年代の人たちはねえ、それぞれの戦争の傷あとを背負って生きているのさ。国のメンツで人殺しを教えられ、生きて国へ帰れなかった人たちに詫びながら、業の面影に苦しみながら生きている人たちもいるんだろうさ。私は終戦直後の生まれだから戦争の残酷さをじかには知らないけど、それでも周囲の空気で幼い肌にも感じるものがあったねえ。そう言えばあの事件も、終戦記念日の数日前のことだったねえ。戦争が終わって二十五年も後のことだったよ」

 師長の藤巻は、はるか遠くを見詰めるように目を細めて独りごちた。


「あの出来事って何だい。気を持たせずに聞かせてくれよ」

 健太郎は興味津々に師長の顔を覗き込んだ。


「私がまだ二十三歳の看護師の駆け出しでね、九州の看護学校を優秀な成績で卒業し、大学病院の内科病棟に勤務して一年も経たない頃のことだったねえ。蒸し暑い夏の夜だった」

 藤巻は遠い過去の記憶をたぐり寄せ、出来事の一つ一つを噛み砕くように目を閉じていた。

 真一文字に結んでいた唇を次第にゆるめ、誰に聞かせる風でもなく、記憶をさかのぼるように語り始めた師長の話は次の通りだった。




<急患>


 準夜勤からの申し送りが終わり、深夜勤に入って二時間くらい経って、私が一人で看護記録を書いていた時だよ。

 夜勤はねえ、特別に具合の悪い患者さえ居なければ楽なのさ。放っておいても患者は朝までおとなしく眠っているからねえ。救急車がサイレン鳴らして飛び込んで来るのも準夜勤までさ。特別な事件でもない限り急患なんてめったに無いよ。


 その日の深夜勤務は私を入れて四人だった。簡単な夜食を済ませて特に急務も無いので、いつもの通り二人が仮眠室に入ったのさ。   

 セミの声が近くの公園から聞こえてくるだけで、廊下も病室も静まり返り、うっかりすると深い睡魔に引きずり込まれ、手にしたボールペンをノートに転がり落としてしまいそうな気だるい夜だった。


 そんな時だったよ、詰所の内線電話がジリジリと鳴ったのは。受話器を取ったら救急センターからでさ、救急車で運ばれた患者を内科病棟に緊急入院させるからと言われて慌てたよ。

 空きの個室を調べたら九号室しかないのでね、私は急いでシーツを敷いたり準備を整えて一階の救急センターへ行ったのさ。


 だけどね、救急車から担架で運ばれた患者を見た瞬間に、私は凄くためらったよ。この急患を入院させるのは、内科じゃなくて外科ではないかってね。

 まだあどけない五歳くらいの女の子だった。その顔色は紫色に変色して、皮膚はただれて体中に散らばるどす黒い斑点が印象的だった。髪の毛は掻きむしられたように半分くらいが抜け落ちていた。

 車の事故にあったか崖から転がり落ちたか、それとも火事の中から助け出されたか、いずれにしても外科の治療が緊急ではないのかと私は判断したんだよ。


 だけど、救急センターのベテラン医師が落ち着き払ってさ、内科へ運べと指示をするから私は急いで少女を乗せた台車をエレベーターで内科病棟の九号室へ運び込んだのさ。

 経験も判断も及ばない新米の私にはね、流行はやりの皮膚病にでも感染してさ、ただならぬ高熱に苦しんでいるに違いないと思ったんだよ。


 台車から少女をベッドに移そうとした時に、人の気配がしたので振り返ると、少女の母親らしき女性が立っていたんだ。

 一階の救急センターでは少女の他に誰もいないと思ったんだけど、救急車の中にでもいたのかしらねえ、救急隊員の男性と入れ替わりに病室に入って来たらしい。

 その女性はベッドに覆い被さるようにして、少女を抱きしめたまま離そうとしない。何を聞いてもただ泣き叫ぶだけで答えてくれない。叫んでいるのは少女の名のようだったけど、良くは聞き取れなかった。


 その女性の衣服も随分と乱れていたよ。いや服装だけじゃない、顔も腕も傷だらけなのさ。彼女たちに一体何が起こったのか、私は呆然と立ち尽くしているしかなかった。そしたらね、うつろな少女の瞳が私を見詰めて、喉が渇いた、水が欲しいって、か細い声で訴えるんだよ。


 私はハッと我に返って、部屋を飛び出し大急ぎで詰所に戻ったよ。先輩の指示を仰いでどうにかしなくちゃいけないと思ってさ。

 だけど、どこへ行ったか詰所に先輩はいなかった。かといって、仮眠中の先輩を起こすのも気が引けるから、当直の医師に電話を入れたのさ。

 電話はツーツー鳴るだけで通じやしない。酒喰らって熟睡してやがるんじゃないだろうかと思ってイラついたけど、仕方が無いから私は混乱する頭の中で必死に思考を巡らしたよ。看護学校やこれまでの実習で学んできた事例をもとに、どのように緊急対処しなければならないかをね。


 とりあえず少女に水を飲ませてやろうと思った。焼けただれたような顔面の小さな口から、水を飲みたいと私に訴えていたからね。

 私が吸い口の水飲み器に冷水を入れて病室に戻ると、母親だと思われる女性は相変わらず少女に覆い被さるようにしてむせび泣いていた。

 私は少女の唇に吸い口を当てて、ゆっくり水を飲ませてあげた。見えているのかいないのか、か細い少女の瞳がわずかに開いてにっこり微笑んだ。


 美味しいかいと訊いたら小さく頷いた。一口飲んで小さな喉をゴクンと鳴らすと、突然放心したように深い眠りに落ちてベッドのシーツに身体が沈んだ。

 母親の嗚咽が叫びに変わった。私は心臓が止まる思いで急いで病室を飛び出し詰所に駆け込んだ。先輩がいた。

 

 私の形相がよほど異常に見えたんでしょうよ、何があったのかと目をむいて問いただされたよ。私は急いで経緯を話して緊急の指示を仰いだら、さらに大きな目をむいて、とにかく座れと言われたわよ。


 のんきに座っている場合ではないからと焦って、私は先輩の腕を取り、少女のいる病室にむりやり連れて行こうとしたら、いきなり私の頬に張り手が飛んで来たよ。

 あんた正気か、目を覚ませって言われて往復ビンタが飛んできたのさ。暑さのあまり脳味噌が目玉焼きになったか、睡魔に溺れてろくでもない夢でも見たんだろうって怒鳴られたのさ。


 この病院に九号室なんてありはしないし、急患の知らせも受けていないって。だから落ち着けって言うんだよ。

 私は言われてハッとなり、九号室へ駆け出した。やっぱり無かったんだよ。九号室なんてその病棟には無かったのさ。

 その日から二十五年前に、長崎に原子爆弾が落とされたのが八月の九日だったんだよ。私にはね、か弱く微笑んで小さく頷いた少女がとても夢や幻だとは思えなかったよ。



 師長の話は他愛もないようだったが、どこか胸を締め付けられるものがあった。

「病院に九号室なんてあるはずないのに」


「そうだねえ健坊。あのいたいけな少女の苦しむ姿が、私を幻想の世界へ引きずり込んだのかもしれないねえ」

「それ本当の話なのかい、師長さん」


「幻さ。この世の中の出来事なんて、時の流れと共にみんな幻になってしまうのさ。一分前の私と健坊が、今の私と健坊じゃあないようにね」

 師長の話に眠気はますます遠のいて、ぱくついていたメロンパンが喉に詰まり、そこの消毒液を飲ませろよとせがんだら、麗子に張り倒されて病室に戻った。




<トメさんの涙>


 お盆が過ぎると夏の気配は秋の静寂になじんでしまい、空の青さも夕焼けの紅もなぜか愁いを帯びて寂しく感じる。病室の窓から吹き込む風も、秋色に染められているのか憂いがこもる。


 一斗樽のように膨らんだ清吉の腹部に太い針が突き刺され、パイプを通してバケツに腹水が抜き取られていた。

 妻のトメはベッドの下床に布団を持ち込み、ずっと病院で寝泊りしてかいがいしく清吉の世話を続けていた。

 おだやかだが些事に動じることのない小柄なトメは、誰が煩わしくしていても気に留める素振りもなく微笑んでいるだけで、時々見舞いの客から届けられる果実の皮をむいては健太郎や部屋の皆にふるまっていた。


「かわいそうだが胃ガンというのはなあ、痛くて苦しいそうだぜ。それにな、皮膚の下がかゆくて堪らなくなるっていう話だ。だからといって皮膚の上から掻いてもかゆみは取れねえからどうしようもない。だから辛いって話だぜ」と、鉄仮面はまたぐらを爪でポリポリ引っ掻きながら、朝比奈に小声で話しかけていた。

 

 第二内科病棟突き当りの窓は西の空に向けて開け放たれている。瓦屋根の谷間に暮れなずむ夕陽の名残が、うろこ雲の薄墨を今にも奪い取って朱に染める。

 

 おっくうなだけで我慢していた小便も、そろそろ限界に達したと膀胱がぐずっているので、健太郎は往生おうじょうを決めてトイレに行くことにした。

 ベッドから抜け出して病室の扉を開けて廊下を覗くと、西の端の窓から夕焼けを見詰めるトメ婆さんの後姿がシルエットとなっているのがまばゆく見えた。

 窓辺に佇むトメさんに声をかけようと思って近付いたその刹那、健太郎は呪縛にあったように全身が凝固した。トメさんは夕日を眺めてはいなかったのだ。健太郎は膀胱の刺激も忘れて慟哭の念に心臓がしびれた。

 

 年輪を刻まれたトメさんの手の平には、いくつもの涙の粒がこぼれ落ちていた。滲んで溜った涙の粒が水晶玉となって、夕焼けの血紅の色を屈折させて光っていた。

 トメ婆さんは清吉の命の尽きる日の近いことを知り、お別れをしなければならない時が近付いたことを覚悟して耐えられず、たそがれの廊下の窓の敷居にもたれて一人しのび泣いていたのだ。

 

 夫婦のきずなも慈愛も知らず、人生の悲哀も喜びも生きることの価値も知らず、ささやかな過去と大きな未来だけを肩に背負った少年にとって、涙を浮かべて夕影に埋もれた老女の姿は、虚ろな命の名残のように痛ましくまた愛おしく思えるだけだった。陽炎のようにはかない命との惜別にあらがい、人は涙を流してその苦しみに耐える。

 腎臓病という大病を患っていながらも十三歳の少年が、ワイングラスのように薄っぺらな命の脆さや果ての見えない人生の苦悶に気付けるはずもない。自分よりも数倍長く生きた老女の涙する姿をかいま見て、ただ胸を締め付けられる思いで立ちすくむだけだった。


 数日後、清吉は苦しんだ様子もなく静かに逝った。ベッドの周囲は衝立ついたてで閉ざされて、看護師たちが慌ただしく動いていた。

 鼻や口や肛門に脱脂綿が手際よく詰め込まれ、死後の処置は僅かな時間で片付いた。そして、そこには清吉もトメもいない白いベッドだけが取り残された。

 残された五人の住人は、各々のベッドの上に正座して、白いベッドに向かって黙祷を捧げた。


 塩分を制限された腎臓病食の不味まずさに辛抱できず、健太郎は清吉老人に愚痴ったことがある。

「醤油の無い冷奴なんて不味くて食えやしないよ。刺身だって大根おろしだって味気なくて食えやしないよ」

 健太郎が顔をしかめて愚痴った。そうしたら清吉老人は言った。


「平和な日本に不味い食い物なんてありはしない。あるとすれば人の心だよ」

 おだやかな口調で清吉は健太郎にさとした。


「人の心が何で不味い食い物なんだよ」

 健太郎が問いただすと、清吉は答えた。


「冨を得る者は金の価値を見失い、飽食に飽く者は生きている事を忘れる。美味いか不味いかは客観的なものではなくて、人の心が決めるものなのだよ」

 

 ガダルカナルには紺碧の空があったけれども、その時は空を見ているゆとりなどなかった。病室の窓から見える四角に切り取られた小さな空ではなくて、本当の空を見たいと清吉は言っていた。とうとう紺碧の空を見ることができずに死んでしまった。

 人は誰もが死を迎える事の無常を、過去も未来も判別できない少年の健太郎が知るよしもなかった。


次の話は、看護学生たちの研修と痴漢の話

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