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第六話:少年の嫉妬

 野球少年だった山内健太郎は、学校検尿の際に蛋白が検出されて、極楽安楽病院で検査を受けて入院を始めてすでに三か月が経過する。

 

 初めて病院の外来を訪れた時、冷ややかな異空間に紛れ込むような印象を受けて吐き気を覚えた。診察や投薬の支給を待つ人たちの表情は一様に陰鬱で、あたかも獄に繋がれてゆく犯罪者のようでさえあった。

 

 時折、入院患者らしきパジャマ姿のやつれた人が外来に姿を現して、獄門にでも引き立てられるかのように頭をたれて外来の廊下を通り過ぎる。

 病におかされて病室に閉じ込められるのは、罪を犯して獄舎に拘束される刑務所と同じだと思う。ただ違うのは、鼻腔をくすぐる消毒薬のいやな臭いと、白衣の看護師の天使のような優しさだった。


 三か月前、第二内科病棟九号室のベッドで仮入院することになった健太郎は、連日終日の検査に辟易とさせられていた。

 採血の為に注射針を突き刺されるのは仕方ないとしても、胃病でもないのに胃カメラを飲まされたり、肺炎でもないのにレントゲンを撮られたり、イボ痔でもないのに検便なんて納得がいかない。

 

 時には研修の医学生たちがやって来て、発病のきっかけや自覚症状などについてしつこく問われる。偏食がなかったかとか、手足にむくみは出なかったかとか、酒やタバコをやっていないかとか、中学生なら彼女の一人くらいはいるのかとか、まさか童貞じゃないでしょうねとか、あれこれ質問を浴びてモルモット代わりにいたぶられていた。


 尿検査や血液検査を何度も繰り返した仮入院で、最後に運命を決したのは腎生検であった。

 手術台のようなベッドの上でうつぶせにされ、裸の背中に大きな注射器で麻酔を打たれた。医師の冷たい手の平が、背中に触れるたびにピクリと筋肉が震えて身体がよじれる。

 背骨を挟んで対称にぶら下がっている腎臓は、呼吸をするだけでゴム風船のようにプルプルと揺れるので、じっとしていないと針が臓器に命中しませんよと、看護師に注意されればなおさら緊張に身体がこわばる。

 針が皮膚をつらぬいて、ぐんぐん肉に食い込んでいく感触が伝わってきたけれど、麻酔の効果で痛みを感じることはなかった。

 

 腎臓に命中した針の筒に、極細の鉄心が差し込まれて細胞が採取される。針が一旦臓器から引き抜かれてまた別の場所に突き刺さる。痛くはないがくすぐられるような不気味な感触に、じっと身動きもできずに目を閉じていた。

 検査が終わって麻酔が切れても少しの痛みも感じなかったが、トイレに行って便器に血尿がにじむのを目にして身震いがした。


 一週間の検査入院の最後の日、健太郎は精密検査の結果を聞くために主治医の回診をベッドの上で待ち受けていた。

 早く結果を聞いて退院して、学校に戻って一週間分の勉強の遅れを取り戻さなければと健太郎は考えていた。それよりももっと、野球の仲間たちと再会してプレーをしたかった。


 やがて主治医がやって来た。聴診器を首にぶら下げてブラブラもてあそびながらルンルンと、聖者の行進をハミングしながらスキップを踏んでやって来た。


「やあ、山内くん。いやさ健太郎くん。お待ちかねの精密検査の結果は大吉と出た。君の腎臓病は必ず完治できると八卦に出たぞ。仮入院は本日を持っておしまいだ。明日からは正式に入院してもらい、完全看護をもって共に病魔と闘おう。必ずや君の腎機能を完全に回復させて見せましょう。いやいや心配は無用です。病室もベッドも今のままでよろしい」

 健太郎はたじろいだ。医者は入院と言った。信じられないが確かに正式に入院と言った。その言葉が受け入れられずに呆然とした。


「どうしたんだね、健太郎くん。そんな悲壮な目をして顔を歪めて涙を流して。君にとって、今、徹底治療すれば完治できるということが大吉なのだよ。長い人生の中で半年や一年の闘病生活なんぞ、大宇宙の夜空の流れ星を見るが如く、一瞬の間に過ぎないのだから」

 

 死刑の宣告にも似た主治医の診断に、健太郎少年は眼前蒼白となり、血の涙が視界を奪って怒涛の憤怒が火を噴いた。

 ふざけんなよ、ヤブ医者。半年も一年も入院しろとはどういう事だ。学校を休んで一学年留年しろって事じゃないか。そんなことが許されるものか。


 留年とはどういう事か。お前らは先輩の言うことが聞けないのかと、啖呵を切って蹴飛ばしていた下級生たちと同じ学年になってしまうという事だ。昨日まで兄貴ヅラをして見下していた小太郎や治郎吉と席を並べて同級生になるという事なのだ。

 それだけではない。いつか隣り合わせの席になって、仲良しになりたいと憧れていた真理ちゃんとも、上級生と下級生という惨めな関係になってしまい、席を同じくするどころか、永遠の別れとなってしまうのだ。

 何と、想像することさえ恐ろしくおぞましい。多感な思春期の少年にとって、これ以上耐えるに辛すぎる恥辱、屈辱、生き地獄が他にあるであろうか。このクソヤブ医者のせいで、自分の人生を狂わされてたまるものかとギリギリと拳を握りしめる。


「いやだ。入院なんていやだ。留年なんて絶対にいやだ。何で入院なんだよ。何で大吉なんだよ。僕の人生を勝手に決めつけるなよ。退院させてくれよ。一週間の検査だって言ったじゃないか。横暴じゃないか。医者なんて嫌いだよ。お前なんか嫌いだよう」

 どうすることも出来ない悔しさが怒りとなって込み上げる。地中からマグマが噴き上げるように、涙があふれて頬を伝って枕を濡らす。


「健太郎くん、泣きたまえ。その涙は決して無駄にはなりはせぬ。君の輝ける未来のために、憂いの禍根を断つ惜別の涙だから。腎臓の病は自覚症状が無い。成人となって発見された時には、再起不能の状態まで悪化している場合があるのだよ。社会人となり会社の定期健診で病を知らされた時には既に慢性の腎不全となって、やがて人工透析を繰り返すか、腎臓を移植する大手術を受けなければならなくなる。多くの患者がそのようにして、本当に苦しい涙を流しているのだよ」

 多感な時期を迎えてもがく健太郎の苦しみを承知して、諭すように丁寧に主治医は説得する。


「君は今、成長期を迎えて肉体的に最も充実した年齢なのだ。今の君には病魔と闘える不屈のエネルギーと回復力があるのだよ。今、病気が発見されたことを喜び、健全な臓器を取り戻すために病魔と闘い将来の禍根を拭い去るのだ。運命の女神は君にエールを送ってくれたのだよ。どうだ、聞こえるだろう。耳を澄まして聞いてごらん、天使の声を」

 健太郎はしゃくり上げながら耳を澄ますと、第二内科病棟の窓の外に見える風見鶏に止まったカラスが、アホー、アホーと鳴いていた。


 死刑の宣告を無事に済ませた主治医は、聴診器を頭の上でクルクルと回しながら九号室を出て行った。


「健坊、あの白衣のうしろ姿に、これを投げつけてやれ」

 そう言って隣のベッドの鉄仮面が、五寸釘を突き刺した呪いのワラ人形を渡してくれた。いつの間に、何の目的でこんな物を作っていたのだろうかと健太郎は瞬時の疑問を抱いたが、やけくそになってぶつけてやった。

 ウルウルと涙を流す健太郎を哀れんで、善衛門と朝比奈が新聞紙で大きな鶴を折ってくれた。羅生門親分は茶碗にビールを注いで、義兄弟の契りを交わしてくれた。

 

 健太郎少年にとって、自分の未来が輝けようが真っ暗闇だろうが、もはやどうでも良いと考えるしかなかった。

 はるか彼方の運命よりも、目先の些事の方が重要だと思考の矛先を転じるしかなかった。そう考えながら、主治医の宣告が自分の定めと往生を決めた。泣く事も恨む事も無駄な事だと承知した。そして涙と共に、クラスの仲間たちと決別の覚悟を決めたのだった。


 腎臓は血液の濾過装置だと主治医が言っていた。水を飲み、飯を食うと栄養分が体内に吸収されて血液となり筋肉となる。血液中の老廃物や毒素が腎臓を通過する際に分離されて、膀胱に送られ尿として排泄される。この機能が損なわれて慢性化するとネフローゼになり腎不全となり、最後には体中の血液を入れ替えるために、人工透析を一生続けなければ命が無くなるのだと脅された。

 呼吸をするだけで振動する腎臓、これを微動すらさせないように、絶対安静にしている事が最善の治療法だと諭された。

 

 だが、考えても見よ。社会に疲弊しきった倦怠末期の中年男か、棺桶に片足を突っ込んだ死に損ないの老人ならばともかく、成長期まっただ中の少年にとって、絶対安静などという理不尽が通用するはずもない。

 よりにもよって第二内科病棟の九号室という、超過度な刺激と危険をはらみ、著しく常軌を逸した面々に囲まれて安静に寝ていることなど、手錠を掛けられても足かせを嵌められてもでき得る事が奇跡であった。


 


十文字じゅうもんじ隼人はやと


 気象庁によって九州地方の梅雨入りが宣言された。袖机に置かれた携帯ラジオから、今年は空梅雨になりそうだとニュースキャスターの解説が流れていた。

 衣替えの季節を迎えて看護師さんたちの白衣も半袖になり、病室の空気も心なしか爽やかになったような気がする。


 第二内科病棟個室の十五号室には、健太郎と同年齢の十文字隼人が入院していた。

 彼はいつもカラフルで奇抜なデザインのパジャマを着ていた。ピエロのような着衣で病院の外来や病棟を闊歩していても、決して不自然さを感じさせない着こなしのセンスの良さを隼人は備えていた。

 

 昼食の配膳を終えて空になった台車が、ガラガラと廊下を転がされてエレベーターの中へ消えて行く。健太郎はぬるめのお茶をガブリと飲んで、ご飯に箸をつけようとしたところに隼人が九号室の扉を開けて入って来た。


「オッス」

 隼人が健太郎にいつもの挨拶をした。


「なんだ隼人、もう昼飯を食っちまったのか」


「病院食なんて食べる気がしないんだよ。まずくてさ。それにしても何だよ、お前の食事は。豚の餌みたいじゃないか。毎日こんなものばかり食わされてるのか」

 隼人は健太郎に配膳された色気の乏しい惣菜を見て、あきれるように言い放った。


「腎臓食には刺激物や塩分が無いから、味気も色気も無いんだよ。食ってみるかい」

 やけくそに健太郎は応じた。


「その小瓶に入っている黒いものは何だよ」

 膳の隅に置かれた親指ほどの小瓶を指差して隼人は尋ねた。


「無塩醤油だよ。冷奴に二滴、生野菜に一滴垂らしたらもうおしまいだよ。どうだ、美味しそうだろう」

「よくそんな食事で生きてられるな、お前」


「仕方が無いだろう。食事だって菓子だって何だって塩分の入ったものは食えないんだよ。腎臓が壊れて死ぬかもしれないって脅かしやがるから、人目を盗んで食べることも出来ないよ。そういえばお前の袖机にはいつも美味そうな物が置かれているけど、食い物に制限は無いのかよ。それにさあ、お前いつも病院内を歩き回っているけど、安静にして寝ていなくてもいいのかよ。医者や看護師に叱られないのかよ」

「平気さ。これ食べなよ」

 隼人はふたの開いた缶詰を健太郎の食膳の横にポンと置いた。


「何だい、それは」

「ドリアンの缶詰だよ」


「ドリアンだって? 聞いたことねえぞ。何だ、そりゃあ」


「熱帯の果物の王様だよ。珍しいだろう。お中元で届けられたからって親父が持って来てくれたんだ。臭くて不味くて微妙な味だぜ。お前にも食わせてやろうと思って残しておいたんだ」


「お前んちの親父はどんな商売やってんだ。南洋のフルーツやら外国のチョコやら、見たこともないような食べ物ばかり差し入れて来るけど。身体が腐っちまうぞ、そんな物ばかり口にしてると」


「ハハハ、どうせ俺の身体はとうに腐っているんだから気にするなよ。ところで健太郎、お前、最近小児科病棟を覗きに行ったことがあるかい」


「行かないよ。あんなガキばかりの所へ行ったって面白くも何ともないじゃないか。そうか、お前は一人っ子だから、弟や妹代わりに遊びたいのか」


「そんなんじゃないよ。昨日、外来をうろついてから新館の小児科病棟の前を通りかかったらさあ、病室がやけに賑わしいので覗いてみたんだ。そしたら、俺たちと同じ年頃の女の子がいてさあ、子供たちを相手にはしゃいでいたのさ」


「何だいそいつは。見舞いの客か」

「ノン、ノン、ノン」

 大袈裟な素振りでキザっぽく、人差し指を鼻先で左右に振りながら口をすぼめて隼人は言った。


「ピンクのパジャマを着ていたのさ。だから入院患者だろ」

「フーン、気になるのか、その女の子が」


「気にならないのか、健太郎は」

「どうせブスなんだろ」


「自分の目で確かめろよ」

「よし、昼飯を済ませたら偵察に行こう」


「よし、じゃあ後でな」

 

 

 午後の検温を終えて看護師が出て行くと、健太郎は迎えに来た隼人と連れ立ってそっと病室を抜け出した。

 階段で一階に下りると第一内科病棟のナースステーションがある。旧館の裏廊下を通って新館へ行くこともできるが、二人は本館の外来を通って新館へ抜けた。

 

 健太郎が初めて病院の外来を訪れた時には、陰鬱な雰囲気と消毒薬の異臭に不安と畏怖を抱いて臆したけれども、入院する側の立場になってすっかり病棟に慣れてしまうと、逆に日常的な世間との接点でもある外来が気になるのだった。

 人込みの一人一人の表情は一様に暗く、魑魅魍魎ちみもうりょうの特異な冥界にでもさまよい込んだ気にもなるが、消毒液の臭いを露店の綿菓子のプンと焦げ付く匂いに交換すれば、お祭りの縁日のように思えて気に入っていた。外来のざわざわとした雰囲気が嫌いではなくなったのだ。

 大部屋といえども陰気な病室に幾日も閉じ込められていると、人の流れや表情が、幾ばくかの気晴らしになるのであった。


「おい健太郎、もっとゆっくり歩けよ」

 隼人は、大股で歩く健太郎をなじるように声をかけた。


「ゆっくり歩いてるじゃないか」


「自分が病人だって自覚があるのか、お前は。絶対安静だって言われてるんじゃないのかよ」

 新館に入るとすぐに小児科病棟がある。造花や折り紙などで賑やかに飾り付けられた病室には遊戯用の道具が置かれていたりして、陰鬱な一般病棟とは違う明るさと和らぎを感じる。

 ナースステーションに看護師の出入は無く、病室の扉は全て閉ざされているので内の様子をうかがうことができなかった。


「おい、どの部屋なんだ」

 健太郎が小声で尋ねた。


「三号室だったと思う」

「扉を開けてみろよ」


「いやだ。恥ずかしいよ」

「何が恥ずかしいんだ。ジャリンコばかりの部屋じゃないか」


「なら、お前が入れ」

「俺だって気がひけるよ」


「そうだ、窓側に回ってみようぜ」

 裏手の細長い花壇越しに、爪先立ちで病室の中をうかがうことができた。


「ほら、あれだよ」

 隼人が指差す角部屋から三番目の病室に、子供たちの手を取って話しかけている淡いピンクのパジャマ姿の少女が見えた。

 二人が窓辺に近付くと、子供の一人が窓を開けて二人に手を振った。ピンクの少女は窓辺に顔を向けて怪訝そうに二人を見詰めた。エアコンの冷気が健太郎と隼人の鼻ヅラをかすめる。


「あ、お、オッス」

 健太郎は少女の瞳に気圧されながら、うつむくようにか細く声をかけた。


「こんにちは」

 柔和な表情にしては歯切れの良い、しっかりした口調の挨拶が返されてきた。


「君はいつから入院しているんだい?」

 健太郎が問いかけた。


「一週間ほど前からよ。あなたたちはどこに?」

「俺たちは第二内科病棟だよ。君は中学生じゃないのかい。年はいくつ?」


「十三歳。一年生だよ」

「俺たちと同じじゃないか。どうして君は小児科にいるんだよ」


「あなたたちこそどうして内科にいるの。内科は大人が入院する所でしょう」

 思いがけない反問に、答えを見付けられない健太郎と隼人は目を見合わせて、それを無視して少女に尋ねた。

「君の名は?」


悦子えつこ……」

「あっ、俺は健太郎。こいつは隼人」


「あなたたちは病室で安静に寝ていなくてもいいの? 看護師さんに叱られないの?」

「だってさあ、毎日毎日陰湿な病室に閉じ込められていたんじゃさあ、うっとうしくて退屈だろう。君だってそうだろ。そうだ、気晴らしに俺たちと一緒に散歩に行かないか。川の向こうの原っぱにさあ、カスミソウがいっぱい咲いていて、とても綺麗だからさ」


「ダメよ。病院の外になんか出たら看護師さんに怒られちゃうよ」

「いいじゃないか、一回くらい怒られたって。それだけの価値はあると思うんだけどな」


「まあ、不良なのね、あなたたちったら」

 とがめるような悦子の表情には嫌みもけれんさも無く、年長の女性か母親のような温かい優しさを健太郎は無意識に感じていた。

 ベッドから起き出した子供たちが悦子の足元にまとわり着いて、一人の女の子が窓から顔を覗かせて声をかけてきた。


「お兄ちゃんたち、どこから来たの? お姉ちゃんと何を話しているのさ。お兄ちゃんたちもこっちへおいでよ」

 窓際に甲高い子供たちの声が喧騒になり、隼人が眉をしかめて健太郎に囁いた。


「健太郎、行こうぜ。看護師が来るかもしれないぜ」

「うん、そうだな。あのさあ、俺たちまた来るよ」

 悦子の大きな瞳に別れを告げて、二人は窓際に背を向けた。



「おい健太郎、お前、気に入ったのか、あの女の子」

 さっそく、隼人が健太郎のハートに探りを入れた。


「別に。どうってことはないけど、ブスではなかったよなあ。大きな瞳がきつそうだったけどさ、溌剌として素直そうだったじゃないか」


「どこが素直なんだよ。俺たちの誘いを断ったじゃないか。俺はどうも気に入らないなあ。こましゃくれた感じが妙に鼻についてさあ、顔色も蒼白で病弱そうだし」


「手きびしいなあ。要するに隼人の好みのタイプではないってことか」

 隼人は左手の小指でほじくっていた鼻クソを、廊下の隅に弾き飛ばした。

 


 翌日の朝、昼食の時間にはまだ早い午前十一時前、健太郎は隼人の個室を訪れた。

 ドアをノックして中に入ると、突然の来訪者に驚いたオカメインコが鳥籠の金網に跳び付いて、かぎ状のくちばしで餌の容器をガチガチと掻き鳴らして威嚇した。

 窓辺には胡蝶蘭や白百合の新鮮な生花がシックな洋風の花瓶に生けられており、壁際のフックにはいつでも退院できるようにと新品の学生服が掛けられていた。


「お袋さんはいないのかい?」

 ベッドでラジオを聞いている隼人に声をかけた。


「午後から来るさ。座れよ。どうしたんだい、浮かない顔して」


「朝ご飯食ってから昼飯までの時間が短いからさあ、運動不足もあって食欲が出ないんだよ」


「一日中寝てるんだから仕方ないだろ」


「お前はいいさ。自由にふらつき回ってどこへでも行けるんだから。俺は絶対安静だから気ままに歩くこともできないよ」


「お前、絶対安静の意味が良く理解できてないんじゃないのか。夜中になったら病室からさまよい出て、詰所の冷蔵庫を荒らしてるって話じゃないか。ババロアのアイスに名前を書いても封印しておいても無駄だって看護師の大田原が怒っていたぜ」

 

 健太郎は隼人のなじりを無視して散歩に誘った。ベッドに横たわっているのが退屈だからというだけの理由ではなかった。

 胸中を霞めるモヤモヤを、原っぱの風で吹き飛ばしたかった。別に一人でも良かったのだが、もやる気持ちをごまかす為には隼人と一緒が好都合に思えたからだ。


「久しぶりにさあ、川向こうの原っぱまで散歩に行かないか」


「へえ、珍しいじゃないか。無精者のお前があんな所まで行こうと誘うなんて、どんな心境の変化なんでしょうねえ。まあいいや。出かけるか」

 隼人はおもむろにベッドから起き出してサンダルを引っ掛けると、保冷庫のペットボトルを袋に納めて肩に吊るした。

「行こうぜ」

 

 階段で一階に下りて内科病棟の裏口に回り、渡り廊下からリハビリテーションや研究室などの入っている建物の中を抜けて裏庭に抜ける。

 サンダル履きのまま病院の裏門を出ると、通行人に出くわすことなどほとんど無い民家のまばらな細い路地に出る。

 空き地を抜けて土手に掛かる小さな木橋を渡れば、緑の夏草に覆われた畑地が広がる。畑地を仕切るように畦道が走り、梅雨の合間の鮮やかな陽光を浴びながらクローバーの葉が背伸びをして地面を覆う。さわやかな微風が立ちのぼり、草いきれの香水の飛沫が頬をくすぐる。

 その向こうに、白と薄紅のカスミソウが幾重にも重なり合って、清楚な可憐さを競い合うように咲いていた。

 

 二人は土手の上に腰を下ろした。ふと見ると、夏草の中から一羽の白ウサギがピョンと跳ねた。ウサギを追って来たのか、畑地の向こうから四、五人の子供たちが野球のバットや虫かごを手にして駆けて来た。

 ウサギが目を赤くして草を食んでいる様子を眺めていた子供たちは、じきに飽きてしまうと畑地の上を駆け回り、各々の遊びに夢中になって興じ始めた。


 七歳くらいのやんちゃそうな男の子が、虫取りの網を空に向けて振り回しながらトンボを追って駆け出した。中でもひときわ大きな銀ヤンマを追っているうちに、雑草のツルに足を取られてドタリと転んだ。身をかばおうと、とっさに差し出した左肘を小石にガツンとぶつけてしまった。


「痛い」と、叫んで持ち上げた上腕に、一筋の血がツツッと流れた。その刹那、隼人はブルッと全身を痙攣させて、あたかも自分の傷であるかのごとく右の手の平で左の肘をギュッと押さえた。


「どうしたんだい、隼人」

 その瞬間の、発作的とも思える動作の機敏さと、怯えるように引きつる隼人の表情を見て健太郎は思わず叫んだ。


「いや、何でもない」

 隼人はハッと我に戻ると、両手を下ろして平静を装った。尋常とは思えない機敏な動作の理由を問いただしたかった健太郎だが、かたくなな隼人の気色に気まずさを感じて余計な詮索をとどまった。

 

 男の子の泣き声に子供たちの視線が集まった。年長らしい男の子が駆け寄ってポケットからハンカチを取り出すと、血のにじむ傷口の上にかぶせて縛り付けた。

 それをきっかけにして子供たちは、カスミソウの向こうに駆け出して行った。一番小さな男の子が、草を食み続けていた白ウサギを大切そうに胸で抱えるようにして皆の後を追いかけた。


「お前、小児科の悦子って女の子に、カスミソウが綺麗だよって言ったよなあ。花束にして届けてやればいいじゃないか」

 本気か冗談か分からない口調で隼人が言った。


「そんなキザなこと俺にはできないよ。隼人ならカッコ良く出来るかもな」

「俺のタイプじゃないって言っただろ、あんな女の子は」

 悦子のことを好みのタイプではないと言い張る隼人の言い草に、健太郎は鼻先を指で弾かれたような不快さを覚えたが、奇妙な安堵感に満足もしていた。

 白と薄紅の入り混じるカスミソウの花弁の合間に、とがめるように唇を結んだ悦子の大きな黒い瞳が陽炎のように揺れ動いていた。

 

 病室に戻り、一人になってベッドに潜る。生まれて初めて感じるほのかな胸のときめきが、甘美な香りとなって夢をいざなう。夢かうつつの見さかいも無く、妄想に憔悴しきった健太郎は、恍惚とした曖昧さにほうけてしまい動く気力を失っていた。

 初恋かな、と考えて否定する。好きかと自問して、かぶりを振る。不確実な煩悩が影絵となって実写され、虚ろな脳細胞を矢継ぎ早に駆け巡る。死人となってただうつ伏せのまま、絶対安静を装うしかない。


 小学生の頃、同じ年の女の子が近所の商店街に住んでいて、いつも健太郎と一緒に遊んでいた。

 その子の名は加代子といって、笑顔がたまらなく可愛い一重瞼の切れ長で、近所では一番の美少女ではないかと健太郎は子供心に自慢げであった。

 

 豆腐屋の一人娘だった加代子は、たまに朝早く起きて父親の豆腐作りの手伝いをしていた。健太郎が店頭に行くと加代子が出て来て、出来立ての豆腐を茶碗に一丁入れて醤油をかけ、仲良くスプーンですくってクチュクチュ食べた。

 加代子と一緒の時は絵本を読んだり、貝殻を拾い集めておはじきをしたり、自然と女の子の遊びになっていた。それをやっかむ悪童たちが、健太郎に罵声を浴びせたり、ちょっかいを出したりすることがあった。そんな時、気丈にも加代子は彼らを睨みつけて追いやった。おさげ髪の良く似合う加代子のことを好きだった。

 

 ところが中学生に進学したとたん、お互いに男女の違いを意識したのか、加代子との仲が疎遠になった。健太郎の入院が決まった時も、母親と一緒に一度だけ見舞いに来てくれたけど、なぜか気恥ずかしくて少しも言葉を交わすこともなく互いにうつむいているだけだった。

 

 いかにも下町育ちの勝気な加代子を可愛いと思ったし、好きだとも思った。だけど、胸を焦がすような恋とはいえず、しょせん幼馴染みの憧憬に過ぎなかった。ところが、悦子と出会った時に感じた胸のときめきは何だったのか。

 彼女の何気ない素振りや表情には、都会の香りを振りまく艶やかさを感じた。その黒い瞳から放たれた青いレモンの蜜の飛沫が、キューピッドの矢であることを自覚できずに煩悶していた。


「健太郎、死んでいるのかい。おい、どうした」

 検温に回ってきた看護師の早乙女麗子が、あじの開きのようにうつぶせに寝ている健太郎の横腹を指で突付いた。


「うるさい。あっちへ行け」

「おや、ご機嫌斜めだこと。モルヒネでも一本打ってみるかい。それとも気付けにリンゲルでも注射してやろうか」


「うるさいなあ。絶対安静にしているんだから放っといてくれよ」

「はい、はい」

 軽くいなされた看護師の麗子に、健太郎が蚊の泣くような声で呼びかけた。


「麗子……」

「私の名を呼び捨てにするなって言ってるでしょう。放っといてくれと言ったくせに何か用かい」

「カスミソウの花束もらったら嬉しいかい?」


「へえ、私にカスミソウの花束をくれるの。偉いわねえ。じゃあ教えてあげるよ、私の誕生日はねえ……」


「もういいよ、あっちへ行け」

「あらまあ、どうしたんでしょうねえ」

 

 すねているようでもなし、怒っているようでもない。病気のせいとも思われず、すっかり意気消沈している健太郎を心配して隣のベッドから鉄仮面が声をかけた。


「おい健坊、どうしたい。本当に具合でも悪くなったんじゃないのかい」

 はす向かいのベッドから朝比奈も気づかって声をかけた。


「健ちゃん、主治医から何かシビアな事でも言われたのかい」

 羅生門親分からも声がかかった。


「おう健坊、こっちへ来てビールでも飲めや。花街から芸者でも呼んで、一発気勢を上げてドパーとやるか」

「おお、芸者とは何と嬉しい。まさに掃き溜めに鶴、九号室に芸者とはよく言ったものじゃ、ゲホホ」


「そんなこと誰が言ったんじゃい」

 感涙にのけぞる善右衛門に鉄仮面があきれて言った。末期胃ガンの松本清吉に付き添うトメ婆さんが、桃の皮をむいて皆に回した。


「親分さん、ちょっとのあいだ、ドスを貸してよ」

 健太郎は意を決したように、ベッドに半身を起こして羅生門親分に言った。


「おうおう健坊、堅気かたぎの者が滅多なことを考えちゃあいけねえよ。よほどの訳がありそうだなあ。ようし、ワシに話してみな。うちの若いもんが綺麗にカタをつけてくれるぜ」


「そんなんじゃないよ。川向こうに咲いているカスミソウを切り取って花束を作りたいんだ」


「健ちゃん、その花束をどうする気なんだい」

 朝比奈が口を挟んだ。


「小児科の三号室にプレゼントするのさ」


「ははあ、さてはその三号室に素敵なマドンナを見付けたんだね。その子のことを考えて、ずっと物思いにふけっていたんだね。健ちゃんの初恋だな」

 朝比奈の言葉に鉄仮面が乗ってきた。


「よう、その娘の名は何て言うんだ。なに、悦子。いい名じゃないか。年が同じか、そりゃあいいや。ようし、そういう事なら任せとけ。俺が一肌脱いでやるぜ」


「ダメだよ。一肌脱がなくていいよ。おかしな具合になっちまうから」


「そうかい。そいつは残念だが、まあいいだろう。とにかく、その悦子ちゃんに花束を贈ろうてえ魂胆だな。いい心掛けだ。それでは早速みんなでカスミソウ刈りに行こうじゃないか」


「ダメだよ。隼人と二人で行くからいいんだ。だからドスを貸して欲しいのさ」


「健坊、それならこのハサミを使うといいよ」と言って、トメ婆さんが裁ちばさみを差し出した。

 



<嫉妬>

 

 裁ちばさみと切花を束ねるリボンの紐をトメ婆さんから受け取ると、健太郎はいそいそと病室を出て十五号室の隼人の個室の扉をノックした。

 返事が無いのでドアを開けると隼人の姿は見当たらず、ボタンインコが餌箱をくわえてゴチゴチ鳴らしているだけだった。

 

 外来か外科か婦人科か精神科か、病院のどこかの廊下をうろついているに違いない。隼人の帰りを待つかどうかを逡巡したが、どうせ隼人は悦子のことに冷淡だから、所詮は自分ひとりでけじめを付けなければならない事だと決意を固めた。

  

 健太郎は隼人の個室のドアを閉めると、ナースステーションの前を足早に通り過ぎて一階に下りて裏口に向かった。

 病院の裏門を出て小さな木橋を渡って土手に上がれば畑地が広がり、夏草の向こう一面にカスミソウの可憐な花群の列が見えるはずだ。

 はやる思いを馳せながら、木橋の手前で小高い土手の上を見上げた時に、はずんでいた健太郎の呼吸がピタリと止まった。全身が金縛りに凝固してすくんでしまった。

 

 ピエロのようにカラフルなパジャマ姿と、淡いピンクのパジャマの組み合わせを傍目はためから望めば異様な光景に映るかもしれないが、これほどマッチングした逢引の姿は他にあり得ないだろうと健太郎の瞳に見せつけられた。

 

 ムクムクと盛り上がる入道雲の中に、隼人と悦子のうしろ姿が雛人形のようにピタリとおさまっている。眼球に焼きごてを当てられたかのように健太郎の心は焦げ付いて、激しい羨望の嫉妬が身を焼いた。

 さらに、悦子の襟髪に添えられた薄紅色のカスミソウの一輪が、鋭い矢尻となって心臓を一突きにつらぬいた。


「なぜだ」と、健太郎は声にならない呻きを発した。

 悦子のような女は好みのタイプではないと言い張っていたのは嘘だったのか。隼人は僕を騙したのか。なぜ僕を出し抜いたのか。嫉妬の炎が憎悪の疾風をあおり、恋慕の情が焼け火箸を押し付けられた肉片のようにジリジリと焼け焦げて舞い上がった。

 

 健太郎は握り締めていた裁ちばさみとリボンの紐を、入道雲に向けて投げつけてやりたいという衝動を必死にこらえ、二人の残像をくっきりと瞼に刻み付けて背を向けた。


「あ、健太郎じゃないか、おい」

 気配を感じた隼人が振り向いて、土手の上から健太郎の背中に声をかけたが、走るような早足で健太郎は路地の向こうへ消えてしまった。

 

 部屋に戻るやいなや健太郎は何も言わずにベッドに潜り込んだ。その様子をいぶかしく眺めやった鉄仮面と朝比奈は、互いに顔を見合わせ頷き合って目を閉じた。

 羅生門親分が盃を唇から離して声をかけようとしたが、口をへの字に歪め、しかめっ面に考え込む鉄仮面の表情を見て口をつぐんだ。

 しばらく時間を置いて隼人がやって来た。


「おい健太郎、どうして帰ってしまったんだよ」

 健太郎は頭から毛布をかぶり、背を向けたまま答えなかった。


「おい健太郎」

「向こうへ行ってくれ」

 素っ気のない健太郎の返事に返す言葉も無く、肩をすくめて隼人は自分の部屋へと戻ってしまった。


 通夜のように静まり返った九号室のベッドの上で、頭から毛布をかぶった健太郎は悲愴な思いで隼人の心を詮索していた。

 

 好きではないと隼人は言った。僕を騙して出し抜いた。裏切りの一言では済まされない行為だという事を隼人は知っているのだろうか。

 土手の上から僕の背中に声をかけた。悦子の前で僕に当て付けあざ笑おうと思っていたのか。その裏切り行為が快感なのか。絶対に許せない。絶対に許せるはずがないと歯ぎしりをした。

 ちょっとキザで小生意気な強情さが隼人の魅力だと惹かれていた。全てが裏目に見えて腹が立つ。お前なんか死んでしまえと呪詛の呪文がほとばしり出た。お前なんか地獄へ落ちろと罵っていた。

 健太郎はトイレに立つ以外にベッドから降りることはなかった。食事以外に毛布をはぎ取ることもなく、日本海の砂の底で眠るシャコのように、顔も身体もうつぶせに丸くなって死んだように埋もれていた。

 

 

 それから数日過ぎた朝のこと、第二内科病棟の廊下に慌ただしい異変の気配が走り抜けた。血相を変えた看護師の早乙女麗子が九号室に飛び込んできた。


「隼人くんが亡くなったわよ」

 麗子が健太郎の耳にささやいた。思わず見上げた麗子の顔は真剣だった。冗談でも悪ふざけでもない。

 

 健太郎はベッドから飛び出して十五号の個室に走った。扉は開け放たれて、看護師が死後の処置のために慌ただしく出入りしていた。

 すすり泣く母親の脇から、健太郎は隼人の顔を覗き込んだ。血の気の失せた白面の隼人がベッドの上に横たわっていた。


「嘘だろ、隼人。あんなに元気だったお前が、何でそんな簡単に死んでしまうんだよ。僕はお前を恨んで妬んで怒っていたんだぞ。仲直りも出来ないままお前は死んでしまったのか。起きろよ隼人。口をきけよ。死んだ真似なんかやめて起きろよ。許してやるから起きろよ。何でなんだ。何でなんだよ。こんな事ってあるのかよう。お前はいったい何の病気だったんだよう」

 

 健太郎は胸のうちで繰り返しささやき続けていた。

 ついこの間まで、どこが病魔に侵されているのか見当も付かない程に健康そうに振舞っていたではないか。病院を我が家の如く、健太郎と兄弟の如く、共に笑い、ふざけ合っていた隼人が一人ぼっちで旅立った。豊かな表情で憎まれ口をたたいていた隼人の笑顔が、魂を失った無表情の仮面に重なった。

 人はいつか死ぬと知っていた。寿命に逆らえないのが大自然の摂理であることも心得ていた。だけど、十三歳の少年が死ぬなんて、一度だって考えたことは無かった。ついこの前まで言葉を交わし、冗談を言い、口論もして、肌も触れ合っていた同年の友が事故でもないのに死ぬなんて、どうしても得心がいかなかった。

 

 その夜、健太郎は寝付けなかった。何度目かの寝返りをやめてベッドから降りた。

 消灯時間の過ぎた病棟の廊下を、ペタリペタリとスリッパを鳴らしてナースステーションへ行って中を覗くと、看護師長の藤巻竜子がセンターテーブルでペンを走らせていた。


「何だい、健坊じゃないか。眠れないのかい。メロンパンならそこにあるよ」

 返事もしないで夢遊病者のように半眼でふらつく健太郎に、藤巻は心配そうに言葉を継いだ。


「どうしたんだい健坊。お腹がすいただけじゃなさそうだねえ。何か心配事でもあるのかい。聞いてあげるから話してごらんよ」

 

 看護師長の藤巻は、悪事をとがめて怒りを爆発させた時には狂暴になるが、十三歳の少年の健太郎にとっては、肝の据わった母親のように思えて安穏な温もりを感じさせる。


「隼人の病気が何だったのか、教えてくれよ」

 藤巻はゆっくり頷きながら、健太郎の目を見詰めて一言答えた。


「白血病だよ」

「白血病……?」

「そう」


「あんなに元気だったのに、あんなに簡単にあっけなく死んじまうのかい、白血病というのは。隼人は知っていたのかい、自分がそんな病気だってことを」


「知っていたかもしれないね」

 健太郎は、ハッとして思い出した。銀ヤンマを追って駆け出した男の子が転んで血を出したのを見て、隼人は怯えるように自分の肘をギュッと押さえた。隼人の機敏な動作を怪訝に思ったが、あの時は気にもしないでやり過ごした。それは病気に関係があるのかと尋ねたら、師長は小さく頷いて呟いた。


「血小板が少なくなると傷口の血が止まらなくなるから、ケガをしてはいけないって脅かされていたんだね。かわいそうに」


「そうだったのか。知っていたのか、自分の病気を」


「白血病はねえ、血液のガンと言われているけど、必ず死ぬとは限らない。生きるか死ぬかは運命なんだよ」

「運命か」

 

 

 夕刻前、健太郎は自分の気持を整理できずに、隼人を憎んだ胸の内を小学教師である朝比奈に打ち明けてみた。

 健太郎の話から二人の経緯を推察した朝比奈は、思春期の心に揺らぐ隼人少年の、曖昧な行動の分析を語って聞かせた。


「俺のタイプじゃないよと言った隼人くんの言葉に嘘はなかったと僕は思うよ。本当に悦子さんに対して特別な好意を抱いてはいなかったし、健ちゃんに対して焼き餅を焼いた訳でもないし、意地悪をしようという悪意もなかったんだよ。彼は自分の運命を悟りながら、一人で孤独という悪魔と対峙していたのかもしれないね。健ちゃんに嫉妬心を抱いていたとするならば、健全なるせいという宿命に対してかもしれないね」

「宿命か」


「健ちゃんを出し抜こうという意志はあってもあざ笑う気持はなかった。だから、土手の上から健ちゃんの姿を見た時に、別に悪びれる必要もなかったから声をかけたのさ。単なる興味と行動力が、彼の潜在的な嗜虐性に火を付けたんだね」

「そうか……」


 

 翌日、空っぽになった十五号室を覗き見たあと、無性に気になって小児科病棟へと引っ張られるように足が向いた。

 悦子に隼人の死を告げて、自分の心をいじくり確かめてみたかった。彼女の瞳の動揺を期待して、飛行機雲の空を見上げて叫んでみたかった。

 

 小児科病棟三号室の窓の内を花壇越しに覗き見ると、小さな子供たちが戯れていたけれど、悦子の姿はどこにも無かった。

 目をこらして良く見ると、彼女のベッドには布団も枕も無くなって、白いシーツだけが残されていた。


 隼人は運命にあらがえずにあっけなく命を絶たれてしまった。悦子はピンクのパジャマに隠された病気を背負い、強く生きて行けるのだろうかと勘繰りを入れる。待ち受けている運命が、悲愴だろうが幸せだろうが健太郎なんかに分かるはずもない。

 

 いつか大人になって薄紅色のカスミソウの花の咲く頃に、彼女の大きな黒い瞳を思い浮かべることがあるだろうか。簡素な白いベッドの上に、悦子の幻が浮かんで微笑んでいるように思えて消えた。



次の話は、少年に聞かせる師長の話と清吉の戒め

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