第五話:お患者様始末記
六月に入ると早々に梅雨入りが宣言された。
極楽安楽病院旧館二階の第二内科病棟は、壁の隅々にこびりついたカビ臭い湿気が淀んで鬱陶しい。
有効期限が二十年も過ぎたエアコンは、湿気だろうが汗臭い腐臭だろうが、とりあえず攪乱させることが役目だと思い込んで、カラコロ音を立ててファンを回転させていた。
数日続いた雨がようやく上がり、久々の陽光が外階段の欄干を照らして反射する。黒ずみの鉄錆びが蛇のようにいびつな造形を見せていた。
中庭の木々の梢にも雨後のみずみずしさが蘇り、初夏を兆す濃緑のエネルギーが大気にみなぎる。
「みなさん、お早うございまーす」
九号室の扉が開き、看護師の早乙女麗子が検温の準備に体温計と血圧計をたずさえて入室して来た。
「鉄仮面さん!!」
早乙女麗子はいきなり咎めるような厳しい口調で、ステテコ腹巻姿で寝そべる鉄仮面虎蔵に声を浴びせた。
「何だよ、朝っぱらからきつい顔して。何もしてねえぞ俺は」
「あのねえ、雨が降っているからって、二階の窓からオシッコしないで下さいよ。一階の患者さんが、黄色い雨が降ってきたと言っておののいていましたよ。酸性雨がいよいよ放射能を帯びてきたんじゃないかって」
「何で俺のしわざだと分かったんだよ」
ステテコの上から股間を爪先で掻きむしりながら鉄仮面が問いかけた。
「他に誰がいますか、そんな大胆な行為をする人が。いい加減にしないと師長さんに知られて半殺しにされても知りませんよ」
「お陰で血尿を発見されて、命拾いした奴がいるって言うじゃねえか」
「いません、そんなバカは」
「ちょっと、姉さん」
羅生門親分が、窓際のベッドから麗子に声をかけた。
「何ですか」
「こっちへ来て酌をしてくれねえか」
「朝っぱらから一体何を飲んでいるんですか。血圧を測りますよ、血圧を」
「食前酒じゃねえか。いいからお前も飲め。ほれご返杯だ」
「バカ」
「ゲホ……」
「あら、善右衛門さん。またお酒を飲んだのではないでしょうね」
「飲まんよ、夕べは。どうも梅雨どきは陰気でいかんな。喉にカビが生えて菌が気管支をふさぐのじゃ。ゲホ。一度アルコールで消毒せにゃならんと先生が言うとったような気がする。ゲホ」
「言いません、絶対に。お茶か水で洗い流して下さい」
「麗子……」
健太郎が気だるそうに呼びかけた。
「呼び捨てにするなって言ってるでしょう、ガキのくせに。何なのさ。熱でもあるのかい」
「厨房のババアに言っといてくれよ。食欲が無いから昼はソーメンにしてくれって。詰所の冷凍庫でカボチャのシャーベット作っといてくれよ。後で行くからさ」
「来なくていいよ。そんな物作るために冷蔵庫を置いてる訳じゃないんだからね」
「この前はババロアのムースゼリーが入ってたじゃないか」
「あんたが食べたんかい。誰が食べたんだって、大田原がカンカンに怒り狂って騒いでいたわよ。だけど今度は気を付けたがいいよ。おとりにバリウム入りプリンを置いといてやると言ってたから」
「麗子さん」
朝比奈誠がかすれ声で呼びかけた。
「昨日、検査で外来のロビーを通った時に見掛けたんだけどさあ、『患者様へ』って書かれた病院長のメッセージが掲示されていたけど、何ですかあれは。患者に様なんか付けちゃってさあ、冗談にしたって患者をへつらうか愚弄しているような、唐突で不自然なうさん臭さを感じましたよ」
「あら、あれは冗談なんかではありませんことよ。厚生労働省のお達しとやらで、今後は患者の皆様に敬意と尊厳の意を込めて、様を付けて呼ぶことになりましたのよ。私たちも看護の理念や患者様への対応について、師長から厳しい再教育を受けているのですわ。このところ講習会や研修が続いて大変なんですから」
「おっと待ちな。ちょいと聞き捨てならねえなあ、その話は」
鉄仮面が、麗子の説明に疑問を抱いて声を放った。
「聞いてりゃあ何だと、本日から患者に様を付けて患者様と呼ばせて頂きますだと。何だそりゃあ。なめんじゃねえぞ、こら。いや麗子に文句を言ってる訳じゃあねえんだが、医者は《お》と《様》の尾かしら付きでお医者様と呼ばせやがって、患者にようやく《様》付けて、看護師には何も付かないで文句は無いのか看護師は。いや、俺は別に看護師に尾かしら付けろと言ってる訳じゃねえ。医者に尾かしら付けて何で患者に様しか付けないのかと言ってるんだ。いささか了見が珍無類の浅はかさではありませんかと憤っているんだ。ようし、調度いい機会だ。患者をあなどる腐れ権威のバカ脳足りんに、一発ゲキを飛ばしてやろうじゃあないか、皆様方よ」
「おう、良く分からんが、その気合いにワシも乗った」
羅生門親分が同調して気勢を上げた。
「僕も何だか腑に落ちないような、中途半端な違和感を抱かざるを得ない不条理さを感じておりました。檄文を発表すると言うなら僕も協力したいと思います」
朝比奈誠が同調した。
「ゲホ、医者にさからって毒を盛られはせんかのう。ゲホ」
「そうさなあ、善さんはゲキを飛ばす前に酒をやめろと怒鳴られてしまいそうだからなあ」
鉄仮面は善右衛門を軽くいなした。
「ちょっと、何を考えているんですか、あなたたちは。病棟内で過激な行為はご法度ですよ」
異様な空気の盛り上がりに、怪しげな不安と妙な胸騒ぎを残しつつ麗子は九号室を後にした。
<檄文>
つかの間の晴間も二日とは持たず、朝からジメジメ、シトシトと、どんより梅雨前線が千葉の空を圧する中で、第二内科病棟九号室の内だけは湿気を切り裂く殺気がみなぎり、活発な暴言が飛び交っていた。
「おい、朝比奈くん。こんな按配でどうだろうねえ。気になる箇所があれば添削してくれないか」
鉄仮面は一晩かけて練り上げた、檄文の草稿を朝比奈誠に手渡した。
「何と派手な口語調の檄文ですねえ。全文気になり過ぎて、とても添削不能ですよ。まあ、分かり易くて宜しいのではないでしょうか」
「随分投げやりなコメントじゃねえか。付け足す事柄は無いのかい」
「おう、鉄仮面の旦那。ちょいとその檄文とやらを読み上げてみてくれねえか。ワシが理解できりゃあ、世間のどなた様だって皆理解できるってことよ。まあ、リトマス試験紙みたいなもんだなあ。そうだろ朝比奈の若様よう」
「一般世間の常識にうとい割には余計な知識がありますねえ親分。リトマス試験紙って何に使うのか知っていますか」
朝比奈が羅生門親分をあなどるような口調で言った。
「テメエ、ワシの見識をあなどってさらし者にする気かこの野郎。リトマス試験紙ってのはなあ、青が出たら丁、赤が出たら半なんだ。何も変わらねえ時は、イカサマ野郎の小指が付け根から吹っ飛ぶ仕掛けだ。どうだ、いい勉強になっただろう、あん」
「恐ろしい世界をかいま見た気がしますよ」
「それでは読み上げますのでご静粛に。檄文のタイトルは『医者に告ぐ』であります」
鉄仮面がおごそかに、檄文の本文を大声で読み上げ始めた。
『こら、なめんじゃねえぞこの野郎。勝手に患者に様を付けやがって、聞かせてもらおうじゃねえかその魂胆を。いいか良く聞け、この世の中は需要と供給で釣り合っている。需要の側が銭を払うのだから、常に客は偉いに決まっておる。だから、お客様は神様だ。
大工の棟梁だって下請けの社長だって、昔から客には頭が上がらねえんだ。《お》だって《様》だって付けて呼ぶのがスジってもんじゃあねえのかい。何で病院だけが逆なんだ。銭もらってる医者が威張り腐ってテメエの呼び名に尾かしら付けて、いつまでもいい気になって踏ん反り返ってんじゃねえぞ馬鹿野郎。
医者と呼び捨てに綴るのが平成の正しい日本語じゃねえか。それを自分らで勝手に尾かしら付けて呼ばせやがって。どの辞書くったって百科事典めくったって《お医者様》なんて日本語はありゃあしねえぞ。
今頃になって銭の入りが悪くなったからって患者に《お》を省略して《様》だけ付ける中途半端はどういう了見なんだ答えてみろ。
聖域を気取って世間をあざけり民衆を白痴扱いするのも今日で終わりだ。これからは患者が医者を選ぶ時代になったんだ。ちっとは医者も殊勝になって、今後一切、医者に《お》も《様》も付けないで下さいくらい宣言してみろ。医者と呼び捨てにするか、イーさんと呼んで下さいくらい愛想を込めて言ってみろってんだ。言葉ってのはなあ、何度も耳にしているうちに耳慣れしてしまうもんだ。
現状を深く認識して考えろ。少子化が進んで定員に満たなくなった医科大学が、バカでもアホでも高い入学金目当てに入学させて、要領だけで器用に国家試験をパスさせて医者の免状を乱発するから、誤診だの医療ミスだので我々お患者様の命が軽くあしらわれているんじゃねえか。これからはきっちり選ばせてもらうぜ、病院も医者も。鋭い観察眼をもってお前らの実績や能力を徹底的にチェックして、銭の高い安いも言わせてもらうぜ。根性入れて掛かって来いよこの野郎。
見栄を捨てて邪念を忘れて一心不乱にお客に尽くせ。お患者様とすれ違ったら、いらっしゃいませ、お元気ですかと、ニッコリ笑って頭を下げろ。まあ、今日は良いおひよりですから南側のベランダでお布団でも干しましょうかくらい言ってみろ。
もみ手をしながら、寄ってらっしゃい、今日はお安くしときますから胃カメラでもいかがですか、くらいの愛嬌を言ってみろ。レントゲンは本日五割引き特別バーゲンでバリウムをお一人様一袋サービス致しますくらいやってみせろ。
入院費だって黙っちゃいねえぞ。保険屋と結託してよこしまな仕掛けなんぞ考えて、余計な治療費を上乗せするんじゃねえぞ。
処方箋だって高過ぎるぞ、こら。製薬会社からポケットがぶち切れる程の分厚いリベート受け取ってるから、お患者様がそのぶん負担して、研究費だの開発費だのと、途方も無い金額の尻拭いをさせられているんじゃねえかこの野郎。猿回しの猿みたいに製薬会社や医療機器会社におだてられて、しつけられて、居直られて、満足なのか白衣の巨塔の皆様よう。
お患者様の立場に立って、奴らを仕切る事ができないのかお前らは。競合とか、合い見積もりとかは不浄の手段だと寝とぼけてるのか。いつまでも甘い汁に目がくらんでボンクラ頭をふやけさせてるんじゃねえぞ、こら。百年前から積もり積もったおごりと傲慢をかなぐり捨てて、真の医療に目を覚ましやがれ。
まあ、今日のところはこのぐらいで見逃してやる。お患者様代表より。以上』
「うーむ、確かに見事な口語調だのう。よく分からんが気迫だけは心に響く。実に胸を打つ。上下の隙間にチャカとドスのイラストを描いてはどうだろうか」
「親分、出入りの果たし状と勘違いしてやしませんか」
朝比奈が羅生門をたしなめて言った。
「ならば日の丸描いて金粉散らして《魂》の金文字でも入れてみるかい、あん」
「それだけ世間とズレがあってよく生きていられますねえ親分さん。奇跡というよりも幻怪とでも言うべきでしょうか、あたかも猿の惑星にさまよい込んだ末期の人類のような」
「やかましい。おい朝比奈、他人の揚げ足ばかりとってねえでこの原稿を清書しろ。それから隣りのコンビニへ行ってA2サイズに拡大して、夜になったらロビーの掲示板と院長室の扉に貼り付けて来い。さっさとやらねえかこの野郎。さもねえとこのチャカで」
「はいはいはい。分かりましたからこっちへ向けないで下さいよ、銃口を」
<一階ロビーにて>
翌朝、一階ロビーの掲示板に外来の患者がたむろして、何やらガヤガヤと賑わっていた。
肋間神経痛で外来を訪れた患者の一人が、掲示された檄文を見ながら呟いていた。
「んむむむ、私は小学校の先生を務めて二十五年、教頭を務めて早や二年、日本の将来をになう児童たちの為に全身全霊を傾けて教育一筋に邁進してきた。いじめられる子がいれば一緒になって戦った。万引きした子がいれば一緒に出向いて頭を下げた。しかれども、お先生様ともお教頭様とも呼ばれたことは決してないどころか先公とか、時には下賎なアダナで呼ばれたことさえ稀ではなかった。ところがどうだ、銭を支払うガキどもの親をたてまつって、ご父兄様とかご両親様と尾かしら付きで呼んでいるではないか。真にこの檄文は理にかなっているではないか」
その患者のつぶやき声は、周りの患者に聞こえるような唸り声に変わって続いた。
「思えば私は幼少のみぎり、病院をたらい回しにされたあげくに死ぬところであったと母から聞いた。高熱が出て、嘔吐と下痢の症状に不安を抱き、母が私をかついで近所の病院のブザーを鳴らしたところ、こんな夜中に当直医はいませんだの小児科医がいないからと言われて断られ、たらい回しの病院を駆けずり回って何とか脱水症状から脱出できて命だけは救われたけれども、お陰で元気溌剌に勃起していた私の脳味噌のインテリジェントなDNAが乱れてしまい、末は東大の夢もしおれて四流の大学に入学し、競艇、競輪にうつつを抜かし七年かけて卒業し、親父のツテで小学校の教員を務めたけれど、鼻水鼻糞こましゃくれのガキを相手に教頭止まりで定年を迎えることになる。そも、原因は人の命をないがしろにし、仁に背を向けた医者のたらい回しの故ではないか。花の青春と、東大名誉教授への夢を返して欲しい」
その患者の唸り声は、怒りもあらわに激しさを増した。
「いや、それだけではないぞ。妻が腎臓移植手術を受けた一か月後に、どうも体の中でカマキリが跳ねているような、ゴキブリにかじられているような、どうにも具合が悪いと言うので調べてみたら、何と移植した腎臓の上下が逆に取り付けられて、腎臓が怒って喘いでいたというではないか。冗談もたいがいにしろよ。そうだ、私も檄文をしたためて、ここに掲示させてもらうことにしよう」
その隣では、悪性閉所恐怖症で通院する男性患者が興奮した様子で一人ごちていた。
「むむむう、俺は県警の刑事を務めて三十年。暗闇の中でネズミに小便を掛けられ、野良犬に尻を噛み付かれながら張り込みをした。足が棒になるまで聞き込みをして歩いて水虫ができた。往生際の悪い凶悪犯にナイフで心臓を刺されながらもワッパを掛けた。平和な日本のいしずえとして、国民の陰の下僕となって己の生活も命も犠牲にしてまで戦っている。それでも世間の皆様からは、お刑事様と呼ばれることは決してないどころか、デカだの犬だの目付きが悪いだの横暴だのと言われて嫌がられ、正義の味方、民衆の友としてたてまつられたことなどありはしない」
刑事さんの話にみんなが耳を傾けた。
「そういえば、香港マフィアの殺し屋を千葉の埠頭に追い詰めた時、右胸を拳銃で撃たれて病院に運び込まれて、当病院には麻酔科医がおりませんので麻酔無しでやりましょう、刑事さんなら耐えられますよと、物凄いことを事も無げに言われて目をむく俺の口中に、飴玉ですよと言われて睡眠薬を飲まされた。脳天にくさびが打ち込まれるような激痛にたまらず、己の悲鳴で目を覚まし、切れ切れの夢の中で三途の川を渡る船頭さんの顔が引きつっていた。弾が左胸に命中して即死した方が幸せだったと、あの時ばかりは医者を殺してやりたいと思った。あれ以来、俺の脳細胞の右と左とが入れ替わり、痴漢とヤカンの区別がつかなくなったし、証拠と胡椒を間違える。お陰で捜査本部から交通課に回されて、ミニスカートの若い婦警とミニパトに乗って駐車違反を捕まえて、レッカー呼びますぜお客さん、はい請求書ですからと言って罰金を要求している。ああ、俺の栄光を、燃える情熱を返して欲しい」
刑事さんのボヤキはなお止まらない。
「それだけじゃあないぞ。親父が肩の痛みを訴えて、五十肩かもしれないなと言いながら病院に行った。若い担当の医者が出て来て診察をして、昨日の晩飯に何を食ったかと問われ、思い出せなかったからという理由で認知症だと診断された。あの若い医者はなかなか洒落がきいて面白い奴だと親父も面白がっていた。それでボケの真似をしていたら本当にボケになってしまったじゃないか。どうしてくれるんだ、この後始末を。ようし、俺も檄文をしたためてここに掲示してやろう」
その隣には、膀胱炎で通院する初老の婦人がつぶやいていた。
「うううう、私だって若い時分におスチュワーデス様なんて呼ばれたことはありませんでしたわ。黒メガネにパンチパーマご一行のお客様から『アテンション・プリーズってのはどういう意味だい姉ちゃん』と、たずねられた時には『おひかえなすって、御免なすって、早速のおひかえ有難うござんす。今日は良いお日柄で四方八方丸く収まり、よろしゅうござんすねえ。末永く万端よろしゅうお引き立ての程お願い申し上げます。という意味ですよ』と、ていねいに説明しましたらば『そんなに長い意味があるのかい。深いねえ、感動だねえ。さすがは日本の誇るジャルパックだねえ。勉強になるねえ』と、賞賛のお言葉を頂きました。農協パックツアーご一行の皆様から、『焼酎の酔いを醒ましたいから、ちょいとこの丸窓を開けてくれないかいお姉さん。顔を出して新鮮な空気を吸いたいのだ』と、せがまれた時にも『先日のお客様は窓から顔を出されて電信柱に頭をぶつけ、危うく命を落とされるところでした。何しろ時速一億万キロの高速ですから避ける暇もありません。どうかこのうちわの風で我慢されたし』と言いましたら『そんなに早く飛んでるとは知らなかった。さすがジャルは日本一だねえ』と感心して納得されました」
周りの患者は思わず老女の話に引きこまれて、彼女のつぶやきに聞き耳を立てていた。
「突然ハリケーンの乱雲の中に突っ込んで、機体の上下が逆さまになって空中遊泳を始めた時に、『おい、どうしたんだ姉さん』と、ほろ酔いの顔面を蒼白にしてうろたえるお客様に『いえ、ちょいと空中背泳ぎですから、ホホホ。間もなく平泳ぎかバタフライに』と微笑を絶やさず励ましました。私たちは見目うるわしき空の華と自覚して、どんな時でも憧れの制服の胸を張って頑張りました。そんな時、アロハのハワイ航路で成田に向かうフライト中に、酔っ払いを相手にからかっていたところ、突然下腹に激痛が走りました。厨房でうずくまってもトイレで踏ん張っても直ぐに収まるような半端な痛みではありません。私は成田空港に待機していた救急車に乗せられて病院に運ばれ、悪性骨盤内腹膜炎と診断されて緊急の手術を終えました。二度と空を飛べない持病と覚悟した私は、大空の華として輝く乙女の心に涙してスチュワーデスを辞めました。そしたらあなた、後から聞いたら何ですか、スイカの種が茄子のヘタに絡まって、盲腸の壁に突き刺さっただけだと言うじゃありませんか。私の青春はどこへ行ってしまったのでしょう。乙女の夢を返して下さい、お医者様。あら、それだけじゃありませんわ。私の母が食道ガンと診断されて、早期発見だから放射線と抗ガン剤で治療しましょうと言われ、それはもう母は喜びました。手術をしなくて済むのなら、どんな薬でも飲みましょうと応じて新開発だの特注だの特売だのと、それはもう多種多様な抗ガン剤を服用したお陰で、病名も分からぬ複雑怪奇な副作用に見舞われ、挙句の果てにはガンより先に抗ガン剤で死んじまったじゃありませんか。一体どうして頂けるのでしょうかこの落とし前を、お医者様。おおそうですわ、私も檄文をしたためて、この掲示板に貼りましょう」
<対策会議>
「健太郎、ちょっとおいで」
ナースステーションの前を徘徊していた健太郎に、看護師の麗子が声をかけた。
「あの檄文の下手人は鉄仮面さんでしょう。鉄仮面さん一人のしわざなのかい」
「知らないよ」
「何よ! 私にシラを切るつもりなの、あんた」
「だって、そんなことゲロしたら親分さんに小指を詰められちゃうよ」
「おや、親分さんも絡んでいたのね」
「知らないよ」
「私にそんな態度でいいのかねえ。大田原が懸賞金を掛けていたわよ、ババロアの犯人捜査で。私には隠し通せる自信がないわ」
脅しに負けてゲロしたところで、鉄仮面も羅生門親分もヘタれるような生き物ではない。たかをくくって健太郎は事実を伝えた。
「鉄仮面さんが草稿を書いて、朝比奈さんが清書した」
「やっぱりそうか」
「プリン食わせろよ」
「昼間は忙しいんだから、詰所の中をうろつかないでちょうだい」
「夜中に来るからさあ」
「今日の夜勤は大田原だよ。ババロア食わせろって言ってごらんよ」
極楽安楽病院五階の大会議室では、院長、理事長、各医科の部長、看護師長、その他の主たる面々が勢揃いして、けんけんごうごうの議論が交わされ、波乱と狂気に白熱の渦を巻いていた。
「あー静粛に。それでは皆さんの意見を一旦整理してみましょう」
議長を務める副院長が、とめどもない議論の蛇行に制止をかけるように声を放った。
「そも、騒動の発端は、院長室の扉と外来ロビーの掲示板に張り出された一枚の檄文からであります。その一枚の檄文に刺激を受けた幾人かの患者が、過去の体験と各々の主張をもってみずからの檄文を発表し、その影響を受けてまた別の患者が掲示する。まさにロビーの掲示板は檄文発表会の場と化してしまいました」
副院長は、議案の方向性を定めるべく状況説明を行った。
「檄文の訴求ポイントは何かと申しますと、病院のたらい回しだの診療ミスだの医療に関する様々な問題提起、さらに医師の対応やサービスの向上等、細かな対策案件が指摘されております。ところが要求事項は実に単純にして素朴な話でありまして、お医者様という呼称から《お》と《様》を省略して謙虚な姿勢を示せ。そして患者に尊厳の意を表して《お》と《様》を付けてお患者様と呼べ。という趣旨であります。えー、議長の見解としましては、この議場で医療全般に関わる本質的な問題にメスを入れて、抜本的な病院運営の対策を講じるというシビアな問題を討議する積もりはありません。檄文に指摘された医療診療の諸問題については目をつむり、要求項目に対してのみ、どのように対処するかに絞りたいと考えます」
いったん息を継いだ副院長は、議場の面々の表情を確かめるようにグルリと見回して、結論を急ぐようにまとめに入った。
「先程からの皆さんの意見を集約しますと、二つの方向に大別できます。まず第一案ですが、医者に尾かしらを付けて呼ぶのは患者の勝手、今後とも付けようが付けまいが放っておけば良い。医者の方からわざわざへりくだる必要は無い。厚生労働省の指導に基づき国立病院が患者に様を付けるのだから、我々も逆らうことなく当初の趣旨に沿って貫けば良い。たとえ患者が何を言おうと、聞かぬ振りしてやり過ごす。と、こういう考えですね」
確認するように議場を見渡し、院長と理事長の顔をチラリ見して続けた。
「次に第二の意見ですが、檄文の論理にも一理あると認めざるを得ない。当病院に於けるシステム及びサービスについて検討すると共に、患者を客と認識してお患者様と呼称する。別に損得勘定が生じる訳でもないし、それで患者が満足するのであれば、特にこだわる事も抵抗する事もないではないか。という案ですね。さて皆さん、どうでしょう。どちらとも言えない詳細な意見も多々ありますが、これ以上議論を継続しても堂々巡りになると思います。ここらで多数決ということにしたいと考えますが」
「異議なし」
院長と理事長が口を揃えて賛意を表した。当然ながら逆らう者は一人もいなかった。
「それでは決を採ります。まず、第一の意見に賛同される方の挙手をお願い致します」
さみだれに逡巡しながらの挙手が確定した。
「おお、これは約半数ですな。えーと、はい、確認しましたところ十五名です。それでは念の為に、第二の意見の方の挙手をお願いします。あー、えっ、十五名ですな。出席者三十一名の内三十名が挙手されました。そうしますと挙手をされなかった方が一名おられます。その方の意見で決まることになりますが、さあ、どなたでしょうか、さあ、さあ、さあ」
楕円の大テーブルのはしっこに、黙って着席していた巨体の白衣がゆっくりと起立した。その一点に全員の視線が集中してざわめきが起こった。
「おい、藤巻だぜ」
「ヤバイぞ。波乱万丈に会議が踊るぞ」
「あいつは妥協というものを知らんからなあ」
「俺は午後の手術の為にしばらく眠るぞ」
医局の先生方一同のざわめきを無視して、第二内科病棟看護師長、藤巻竜子の演述が始まった。
「ちょいと皆さまがた、何か勘違いしてやしませんかねえ。患者の本分をないがしろにして、尾かしらだけ付けて半殺しにするというのはねえ、イワシを生き造りの刺身にして口から酒を流し込むのと同然じゃありませんか。議論すべきは医療の本質、病院のあるべき姿じゃありませんかい。当病院だって麻酔科医が足らないから緊急手術で資格の無い医師が代行している有様だし、臨床結果の定かでない抗ガン剤や新薬を使用するのは当たり前。幸いにして事故には至らずとも冷や汗まがいの事例は数え切れない程にあるではありませんか。看護の態勢だってそうだ。患者百床に対して一体何人の看護師が対応していると思っているのですか先生がたは。私ら師長だって三交替に加わって五人分以上の業務をこなしているんですよ。病院の経営が切迫していると言うなら、看護師の数を減らすよりも医者の給料を減らしなさいよ。耳ふさいでんじゃないよ、こら。患者の病気を治すのは医者だけの手柄じゃないんだよ。看護師だって身体を張って頑張ってるんだ。だのに何でいつまでも雑用係のあしらいで、医者の百万分の一の給料なんだよ。ナイチンゲールだって呆れてメスを投げ飛ばしちまうよ」
楕円大テーブルの一角を占める看護師長たちから、一斉に拍手と歓声の渦が巻き上がった。藤巻の熱弁は更に続いた。
「患者に尾かしら付けてお患者様と呼べだって。ふざけるんじゃないよ患者のくせに。その思い上がりを九十九里の海水で顔を洗って出直して来いってんだ。どこの世界に患者に尾かしら付けて呼ぶバカ病院がありますか。アメリカだってドイツだって、患者におクランケ様とカルテに書くかって言うんだよ。医者だって看護師だって、患者の為に医療介護の粋を尽くして健闘しているではありませんか。この病院の一体誰が患者に後ろ指を差されるような事をしたって言うのですか。そりゃあ生身の人間だから、一生に一度か二度のミスはあるでしょうよ。だけど、それをリカバリーできる二重三重の対策を病院の体制として確立してきたではありませんか。それなのに、何で私らが患者にへりくだる必要がありますか。患者だって医者や看護師の言う事をきかないで、自ら病状を悪化させている奴もいる。飲めと言う処方の薬をきちんと飲まないで、薬の代わりにタバコや酒を浴びるほどたしなんで良い気になっているバカ患者に、《お》だの《様》だの付けられますか。会議で多数決で決めますだって、あたしゃ承服しませんよ。雁首揃えてふざけたこと言ってんじゃないよ」
「えー、あー、コホン。それでは藤巻師長としましては、具体的にどのように対処すべきだと考えますか」
議長である副院長が、藤巻に対応すべき方策を求めた。
「この一件の後始末、私に一任させて頂きたいのですが、よろしいですか」
院長をはじめ理事も医師も、一人として異を唱える者などいなかった。とりあえず全員がホッとして、後の始末を藤巻師長に委任した。
くだらない会議に区切りをつけた藤巻は、ナースステーションに戻るとペンを握り、檄文の激文を一瞬にして書き上げた。
『謹んでお患者の皆様へ告ぐ
皆様の苦情、ご意見、身を正して拝聴させて頂きました。他病院にて診療ミス、医者の傲慢、看護の不行き届き等を体験された患者の皆様方には深くお悔やみ申し上げます。
当病院に於きましては、患者の皆様方の病気の治療と完全なる社会復帰を目指し、医師、看護師共に一体となり、身体を張って、命を賭して、全身全霊を打ち込んで闘っております。
よって患者の皆様方に於かれましても完全治癒を目指して、医者の処方、看護師の指示、病院の掟に命がけで従って頂きます。
院内に於ける禁酒、禁煙、禁賭博は当然のこと、打上げ花火、銃器凶器の持ち込み、集団無断外出、看護師への痴漢行為、院内徘徊、検温拒否等、更に一層厳しく監視制裁させて頂きます。
なお、意義、申し立てにつきましては、第二内科病棟看護師長の藤巻竜子が承りますので、なにとぞよろしくご了承願います』
第二内科病棟九号室の天井には、藤巻師長似顔絵入りの檄の檄文が注射針を押しピン代わりにして貼られていた。
ガーゼと包帯で猿ぐつわをされた鉄仮面と羅生門親分と朝比奈は、ベッドで仰向けになり天井の檄文を見上げて、感涙にむせび泣いているようであった。
次の話は、少年の淡い恋と病気の儚さ