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第四話:花見の宴

 ナースステーションの掛け時計の針が縦一本に重なった。午前零時となって日付が替わったことを示している。


 その時、壁面に設置されている小さな豆ランプが青色に点灯して、ビビーン、ビビーンとブザーが鳴った。

 煎餅をボリボリかじりながらペンを弄んでいた深夜勤の早乙女麗子は、壁面のボードを見上げてランプのナンバーを確認した。呼び出しボタンが押されていたのは九号室の四号ベッド、鳥兜善右衛門であった。


 内科病棟では生死に関わる深夜の緊急な呼び出しなど滅多にない。

 深夜に腹を空かせた老患者が、こっそり餅など食べて喉に詰まらせ死に物狂いでもがいているか、さもなければ死を目前に控えた重病患者が夢を見て、三途の川に引きずり込まれそこなって目覚めた時くらいのものであろうか。

 それにしても呼び出しランプが九号室だとすれば、また誰かが何かを企んでいるのか、粗相でもやらかしたのかといぶかりながらも麗子はおもむろに腰を上げた。


 九号室の扉をそっと開けて入ると、ゼイゼイゼイゼイと悶絶寸前の息づかいが聞こえる。窓際のベッドで喘息患者の善右衛門が寝返りを打ったり、背骨を丸めたり、うつ伏せになったり、のた打ち回って悶え苦しんでいる。

 思わず麗子は駆け寄った。


「今夜は随分発作がひどいわねえ。どうしたんでしょう。当直の先生にお願いして応急処置をしてもらいましょうか善右衛門さん」

「グフェ、グフェフェッフェ、ゼイゼイ」


「歩けますか善右衛門さん。車イスに乗りますか」

「ゼイゼイゼゼイ」


「はいはい、では歩いて行きましょうね」

 麗子はナースステーションに戻って当直の医師に連絡を取った。そして九号室に引き返し、死に損ないの死神のようにヨタヨタとよろめく善右衛門を介助して一階の処置室へと向かった。


 善右衛門は開けっぴろげな性格の上に饒舌で、昼間の検温の際にも九号室の患者を相手に大きな声で自慢話をしていた。

 ワシは日本酒も焼酎も大好きじゃから、飲み過ぎて持病の喘息をこじらせてしまったんだと部屋の全員に聞かせるように吠えていた。

 

 喘息患者の多くは昼間おだやかな症状でも、夜中になって発作の激しさに苦しめられる。夜の静寂に精神が弛緩してしまうのか、気管のはりと緊張のたががゆるみ、しなびたゴムホースのようにペタリと吸気の道を塞いでしまう。

 それにしても、今夜の善右衛門の発作の激しさは尋常ではないと判断した麗子は、当直の医師に相談して処置室へ運び込んだ。酸素吸入器で強制的に吸気を送り込んで注射を一本打ち込むと、ようやく発作も治まっておだやかな呼吸を取り戻すまでに回復できた。

 


 翌朝の回診の時間、春の陽気に誘われて病院の上空をクルクルクルリと機嫌よく飛翔していたトンビが、九号室の窓から突然の怒声にあやうく墜落するところであった。


「養命酒ならキャップ一杯くらいなら良いでしょうと、私は確かに言いましたよ」

 第二内科病棟九号室では、善右衛門の主治医が怒りもあらわに声を荒らげて叱咤していた。


「キャップというのはねえ、善右衛門さん、コップでもなけりゃあドンブリでもないんですよ。喘息持ちの重症患者が一日で、それも昼間に一本空けたら、いくらなんでも飲み過ぎだってことぐらい、誰が考えたって分かるでしょうよ。夜中に発作が出ない方が奇跡というものですよ。しかも何ですと、養命酒に焼酎を薄めて飲んで焼酎まで一本空にしたって。あなたねえ、まるで薄めたことにならんでしょうが。何を考えとるんですか善右衛門さん、えー。死んでも知りませんよ、死んでも。ここは病院ですぞ、病院。赤提灯ぶら下げたガード下の焼き鳥屋ではありませんぞ。本気で治す気があんのかね、治す気が、あーん。だいたい病室に焼酎の一升瓶など、いったい誰が持ち込んで来るんでしょうねえ」

 

 主治医は怒鳴って後方のベッドを横目で睨むと、羅生門親分は背中を向けて狸寝入りの寝息をスースー上げていた。

 

 こうべを垂れて神妙に正座して聞き入っている善右衛門のベッドのかたわらで、質素な普段着姿の小柄なかみさんは、養命酒と焼酎の空瓶を両手に抱きしめて、すいません、すいませんと、囁くような小さな声で反復していた。

 

 主治医が部屋を出て行くと、鉄仮面虎蔵が落花生とミネラルウォーターのペットボトルを持って善右衛門のベッドの傍にやって来て声をかけた。



<武勇伝>


「よお善さん、随分と絞られたねえ。ゆうべの発作はひどくて、気の毒で見ていられなかったけどさあ、やっぱり酒が原因なのかい、持病の喘息は」

「あん時の酒が悪かったんだ。あん時以来、ワシの気管支は腐ったゴムホースみたいにイカれちまったんだ」

 遠い記憶を蘇らせるように、善右衛門は目をつむって呟いた。


「ほう、武勇伝がありそうだねえ。聞かせてくんなよ、善さん。ほい、ピーナッツとミネラルで景気付けてくれ」

「武勇伝と言えるような格好の良い話じゃねえが、若い時分にやらかした、間の抜けた話を聞いてくれるかい鉄仮面さんよ」


「おうおう、聞こうじゃないか、話してみなよ」

 鉄仮面が身を乗り出してあおるように言うと、おもむろに善右衛門は語り始めた。


「ワシはこう見えても東京の大学の土木工学科を卒業してな、東京大学じゃねえよ、東京の大学だからな、ゲホ。それで小さな建築会社に入社して、末は社長か大重役を目指しておった。下請けの仕事が多くてなあ、営業のワシらは接待麻雀、接待ゴルフが必須だった。まだゴルフなど庶民の娯楽としては高額過ぎて手が出せん時代だったが、営業の部課長クラスなんぞはみんなシングル級の腕前だった。5番アイアンを部屋の中でブンブン振り回して、天井にぶら下がる蛍光灯の二つや三つ、こっぱ微塵にぶち壊したって驚く奴なんか一人もいなかった。九階の社長室で素振りのグリップを滑らせて、窓から勢い良く三番ウッドが飛び出した時なんぞは、秘書室長の目玉が飛び出して驚愕のあまり卒倒しやがったぞ。下の歩道で通行人の頭蓋骨が割れたと誰かが騒いでおった。ワシも給料の一年分を前借りさせられて、御徒町のゴルフショップでハーフセットを購入させられたよ。それから一生懸命練習に励み、手に血豆ができるまでクラブを振り、目をつぶってもカップインするまでパターでボールを転がした」


「確かにねえ、今でこそ気楽にコースに行けるけど、善さんの時代じゃあ金持ちの遊びだったろうからねえ」

 鉄仮面が相槌を入れながら落花生をポリポリ頬張る。


「会社ではなあ、年に二回のゴルフコンペが定例として開催されておった。気の狂いそうな炎天極暑の夏の盛りと、北風吹きすさぶ極寒の真冬にコンペは開催された。夏は賞与に合わせ、冬は社員旅行を兼ねていた都合でそうなったらしい。ゴルフをやらない女性社員たちは、近場の観光名所を見学した後に合流し、旅館で大宴会が催されるのじゃ。その年の冬のコンペは群馬県の伊香保にある著名なゴルフコースでの開催と決まって、全員が前日からクラブハウスに泊り込んだ。新入社員のワシは筆おろしだったから、打ったボールがどこへ飛んで行くのか誰も分からん。ベテランのキャディーさんでさえも、ワシがドライバーを握ってティーアップしたら、カートの後ろへ身を隠しておったもんじゃ」


「まあ、新人のうちは誰だって同じさ、ポリポリ」


「ワシは一日掛けてプレーして、一歩としてフェアウエーを真っ直ぐ歩けなかった。鳥のさえずりを聞くゆとりは無いし、池の鯉さえも見た覚えが無いぞ。見事にスライスしたドライバーショットは右手のラフに深く沈むかオービーで、森の木々の間をようやく抜けると巨大なバンカーの目玉に深く埋もれる。ショートコースでは池越えのショットで買ったばかりのボールを沈め、ロングコースでは十指に余るスコアを重ねて汗と涙で眼はかすむ。よれよれの足腰でハーフを終わり、それでも午後のハーフを回り終えた頃には半死半生の重体だった」


「ほう、ポリポリ」


「ワシは伊香保の旅館に着くと頭から温泉に突っ込んで、何とか精気を取り戻して浴衣に着替えて宴会場の末席に座した。新入社員のたしなみでお膳の箸も遠慮がちに、コップのビールをお猪口ですするように飲んでいた。そうしたらな、ワシの前に先輩たちが次々にお酌にやって来たんじゃ。いずれ建築土木の現場で手荒な連中を相手に采配を振るうには、酒が飲めなきゃ恰好がつかないだろうと鼓舞されてビールを散々飲まされた。ろれつが狂い始めて、暴言を吐き始めたワシの対応を見ていた三人の営業部長が面白がってな、先輩たちを押しのけてワシの前にドッカ、ドッカと座り込んだんじゃよ」


「おい新人、オレの酌を受けろ」

 最初に座った部長がワシのコップにビールを注ぐ。部長命令を断る訳にはいかねえもんだから一気に飲み干す。


「おー、いい飲みっぷりだ。オレの酌も受けろ」

 次に座った部長がビールを注ぐ。


「はい。頂きます」

「おいおい、コップにビールが残っていたんじゃあ注ぎがいが無いぞ。一気に空けちまいなよ」


「はい」

「おう、いい飲みっぷりだねえ。オレのお酌も受けろよ」

 次の部長がビールを注ぐ。


「は、はい」

 次々に三人分飲まされて、また繰り返す。ビールばかりじゃ身体に毒だと言われ、茶碗に日本酒を注がれて三人分飲まされる。


「部長どの、私だけ飲んでいたのでは恐縮であります。私にも注がせて下さい」

「おうそうか、なかなか良い心がけじゃ。一杯もらおう。グビリ、グビリ。よし返杯じゃ、飲め」

「はい、有り難き幸せ。グビリ、グビグビ」

 

 三人の部長が一杯づつ飲むごとに、ワシは三杯飲むことになる。ウイスキーも焼酎もあるから口直しに飲めと言われて三人分の三倍返しが来る。もう五臓六腑に染み渡るどころじゃねえよ、体中の血と水分がアルコールに変わってしもうた。

 

 調子に乗って飲まされているうちに、自制の縛りがポロリとほどけ、部長の顔も先輩も、誰も彼も白も黒も判別の機能を失ってきたワシは、三人の部長に絡み始めたんじゃ。

 その絡み方が気に入ったと言われて、焼酎をウイスキーで割ったり、日本酒を焼酎で割ったり無茶苦茶な酒を飲まされた。


「ほれ社長さん、特製ハイボールだぞ。一気にいきな」

「へい」


「おう、こっちは芋とホップで割った珍しい日本酒だ」

「へい」


「これはどうだい、ウイスキーにすき焼きの残りとワサビを入れて掻き混ぜた伊香保の銘酒だ」

「へ、へい」

 

 散々あおられ飲まされて、完璧に脳天が踊り始めた。勢いに乗ってワシは三人の部長に向かって叫び始めたんじゃ。


「おいテメエら、俺ばっか飲ましてんじゃねえぞデクの坊。俺の杯が受けられねえってのか、こら。いつまでも部長ヅラしてそっくり返ってんじゃねえぞ、アホウ」

「おう、何と勇ましい、鳥兜社長どの。ほい、ご返杯、ご返杯」


「やかましい。何だ、そのクソ生意気にへりくだった態度は。グタグタほざいてると、群馬警察呼んで逮捕させるぞこの野郎ども。そこのウイスキーで顔消毒してツラ付け替えて出直して来いよ、お前らは」

「まあまあ、社長、群馬警察は勘弁してくれ」


「社長じゃねえ、こん畜生。人に売上だのノルマだの言う前に、テメエで仕事取って稼いで来いってんだ脳天気の役立たずが。おい、俺の目の前で鼻クソほじくるな、ボケ野郎」

「おう、これは手きびしい」


「仕事も取って来れねえ部長なんかいらねえんだよ、うちは。明日からお前らの給料は歩合の時給にするから覚悟して営業しろよ。下手なゴルフばっかやりやがって無駄メシ食らってんじゃねえぞいつまでも。働きのねえ穀つぶしを飼い殺しにしてる余裕はねえんだ、うちには。分かってんのかよ、あーん」

 

 酔いに任せて言いたい放題のくだを巻き、訳も分からず弄ばれて、酩酊のうちに宴会は終わった。背骨も骨盤も軟体動物のようになってしまった意識朦朧もうろうのワシを、先輩が背負って部屋まで運んでくれた。その途中の廊下でゲロゲロゲロリと先輩の浴衣の背中に吐き出して、そのままワシの瞼は開かなかった。

 

 フッと目覚めると天井に節穴の模様が見えた。天井からぶら下がる電灯には豆電球だけが点灯されていた。頭を持ち上げて周囲を見回すと、ふすまで囲まれた大部屋に数人の男性社員が布団を被って眠っていた。

 

 ワシは不意に嘔吐に襲われた。慌てて立ち上がろうとしたのだが、地震体験車で震度七の揺れに襲われたように、天井と床がグルグル回って平衡感覚がまるで無いんじゃ。それでもトイレに行かなければと思って立ち上がりざまによろめいて、安らかな寝息を立てて眠っていた先輩諸兄の顔面や胴体を思い切り踏み付けた。

 

 何とか敷居までたどり着いたものの、ふすまに体重を預けてふすまごと土間に倒れ込んで額を打って血が滲んだ。

 気を持ち直し、先輩たちのうめき声を聞き流しながら、這うようにして洗面所にたどり着き、洋式便器に顔を突っ込んで吐いた。いや、吐こうと思ったが吐けなかった。物凄い嘔吐感に胃腸がしびれるのだが、吐こうとしても吐くものが無い。

 なけなしの力を腹筋に込めて歯磨きの搾り出しチューブのように十二指腸から腸液を絞る。黄色いゼリーが喉から出てきた。生まれて初めて胆汁を見た。

 

 部屋まで這って布団に入った。入る間もなく嘔吐感に襲われて、またまた先輩諸氏の人体の海を踏み越えながら洋式便所に這って行く。また布団に入ってトイレに行って、夜が明けるまで繰り返す。

 ワシはもう死にそうに疲れた。ようやく朝になって医者を呼ばれて、でっかい注射を一本尻に打たれた。


「群馬警察を呼ばずに医者を呼びやがったな、おメエは」と、部長に揶揄された。一生忘れることのできない伝説の社員旅行となって、後々までも社内の語り草とされてしもうた。

 それから二日間、お粥と生卵と野菜ジュースだけで命をつなぎ、それでも嘔吐感が抜けずに一本のタバコも吸えなかった。ようやく三日目に体調回復の兆しが見えて、昼食の後、何とか紫煙の香りが喉を通った。


 その夜のこと、ビールを飲んで良い気分で眠ろうと思って布団に横になった途端、喉がつぶれて咳が出た。腐ったゴムホースが弾力を無くしてペタリとつぶれたように、気管支が半閉じになって咳が出た。咳をする度に喉がゼイゼイ締め付けられる。

 昼間、タバコを吸っている時には何ともないのだが、夜になると咳が出る。それから数日も経たないうちに発作がどんどんひどくなり、ついに呼吸困難に陥って救急の病院に飛び込んだ。

 医者から酒とタバコをやめろと宣告された。ワシの意志はコンクリよりも鉄板よりも固いから、その日を限りにきっぱりとタバコをやめた。誰から勧められても誘惑されても決してタバコを吸わなんだ。


 善右衛門は語り終えて一息入れて、ミネラルをコップに注いで一気に飲んだ。


「なるほど、そいつは災難だったねえ。それで善さん、タバコをやめて、どうして酒をやめなかったんだい、鉄とコンクリよりも固い意志で」

 揶揄するように鉄仮面が言った。


「冗談言っちゃあいけねえよ。タバコなんざあ赤ん坊の吸い口玩具みたいなもんだ。やめると言ったらきっぱりやめる。だけどなあ、酒はそういう訳にはいかねえよ。酒をやめるは人生に縁を切るのと同じじゃねえか。鯨が陸に上がって生きられるかよ。豚から真珠を取り上げるようなもんじゃあねえか。そうじゃないかい鉄仮面の旦那」


「そうだそうだ。男気だねえ」

 鉄仮面が調子を合わせた。羅生門親分も感極まって向かいのベッドから声を掛けた。


「おうおうおう、実に男だねえ。しびれるねえ。豚に真珠とはよく言ったもんだ」


「豚に真珠ってのはそういう意味だったのかい。さすが親分さんだねえ、ワシら凡人とは知性が一枚違うねえ」

 鉄仮面が首をかしげながらも納得したように言う。


「ようし、善さんの全快祝いだ。みんなで花見に行こうじゃねえか。酒ならあるぜ」

 羅生門親分が飲みかけのコップ酒を天井にかざして提案すると、迷わず鉄仮面が呼応した。


「いいねえ、花見といえば桜だぜ。亥鼻いのはな公園の桜は満開だって言うじゃあないか」

 鉄仮面が四角い顔を丸くして応じると、羅生門親分はベッドの上に立ち上がった。


「思い立ったが吉日だあ。おい、朝比奈のう、ちょいと携帯電話とやらを貸してくれねえかい。なにい、病院内の使用は禁止だとう。いい加減なデマをかませやがるとチャカで吹き飛ばして、おうそうかい、悪いねえ。パコン、ピピピッピ、ツー。おう、ワシじゃあ。何だとテメエ、ワシの声が分からねえってのかこの野郎。やかましい、ダンプ一台転がして来い、今すぐに」

 


亥鼻いのはな公園>


 桜の名所の千葉亥鼻公園は、天も地もピンクの花びらに彩られ、大勢の花見客で混み合っていた。亥鼻城天守閣を再現した郷土博物館や団子の茶屋も花見に風情を添えていた。

 

 突然、一台の大型ダンプカーが公園入口にズズズズンと乗り着けられた。

 黒い背広姿の一団が荷台から次々と身をひるがえし、むしろを片手に桜花の見事な広場中央に駆け寄ると、銀刃のドスを一斉に鞘から引き抜き太陽に向かって虹を描いた。

 すわヤクザの出入りに巻き込まれては命が無くなると顔面蒼白となった善良な市民の皆様が、中央広場からサッと身を引いたところを見はからって、素早く銀刃の背広衆は手にしたむしろを敷き詰めた。男たちはドスを鞘に収めると、むしろを囲んで周囲を睥睨するように立哨した。

 

 やがて入口の方からパジャマや寝巻き姿の四人の男と一人の少年が、桜も唖然として顔を背けてしまいそうな艶やかな衣装の女衆を引き連れて現われた。


「おうおう、たまたま空いてて良かったじゃあねえか。しかもこんなど真ん中に。運がいいねえ、ついてるねえ。さあ、景気良く始めようじゃねえか。おい、音楽をかけろい。景気のいいやつを」

 黒眼鏡で立哨するお兄さんの一人に羅生門親分が声をかけた。

「へい」

 ドンドンパンパン、ドンパンパ、ドドパパ、ドドパパ、ドンパンパ


「おい姉さん、随分厚化粧じゃねえか、まあこっちへ来いや。なにい、むかし集団就職列車で青森から出て来て苦労したって。おい誰だ、こんなババア連れて来やがったのは」

「へい、何しろ急だったもんで。場末のキャバレーから慌てて見繕って積み込んで来ましたもんで、へい」


「健坊、お前さんは未成年だから酒はダメだぞ。大人しくビールにコーラでも割って飲んでろ」

「うん」


「さあ善さん、全快祝いだ。パッといこうや、パッと」

「おお、すまないねえ親分さん。いやあ、これほど見事な桜の花を、ワシらだけで観賞するのは勿体無いのう。病院の皆にも見せてやりたいものじゃのう」


「おう、さすが善さん。それは良い考えだ。おい、そこでただドス持ってボケッと突っ立ってるんじゃねえぞ、こら。この木を根こそぎ一本ダンプに積んどけ。分かったか、ウィー」

 花の香りと春の陽気に誘われて、亥鼻公園の上空をトンビがクルリと輪を描いて、ピーヒョロロ、ピーヒョロロと鳴いていた。


「おい、野郎ども。ここの桜はもう見飽きたぞ。次の花見の会場はどこだ、あん」

 羅生門親分が黒眼鏡の一人を指差して怒鳴った。


「へい。昭和の森公園のしだれ桜が見事だと聞いておりやすので、次はそちらへダンプを回しやしょう」

「よっしゃあ。行くぞう、みんな。二次会は昭和の森公園のしだれ桜の下で宴会だ。ダンプを回せ。早くしねえか」

 


<昭和の森公園>


 黒眼鏡の一行を乗せた黒塗りのベンツが先導し、五人を乗せた大型ダンプが房総半島を横断する県道を東へ向けて突っ走る。飲んだアルコールがトラックに揺られて血中濃度を跳ね上げる。


「おう、着いたぞ。あそこだ、あそこだ。おう、不思議だねえ、一番良い場所が空いてるぜ。ラッキー、ラッキー」

 大勢で賑わう花見の席で、なぜか満開のしだれ桜の下だけがポッカリと空いていた。良く見ると空き地の周囲に銀刃のドスが、まばゆい陽光を受けてキラリ、キラリと円を描いてきらめいていた。そこに赤いカーペットが二重に敷かれて酒盛りが始まった。

 やがて黒眼鏡の一人が、華やいだ衣装の女衆を引き連れてやって来た。


「まあまあまあ、済みませんねえ、お招きにあずかりまして。はあ、どっこいしょっと。おハルさん、こっちが空いてますよ。さあ、さあ」

「はいどうも。何年ぶりでしょうねえ、お花見なんて。うちの息子たちは親不孝で嫁にばっかり気を使って、私はもう姥捨て山に捨てられたも同然ですよ。オメオメ」


「おいおいおい、誰だ、こんな湿っぽい婆さんばかり連れて来たのは。着てる着物だけは派手だけどよう」

「へい、駅前にバーもキャバレーも無かったもんですから。不動産屋の親父に尋ねましたらね、それなら良い所があるってんで、詳しい地図まで書いて教えてくれまして、へい。ちょいとこの先の養護老人ホームから都合して来まして。へい、何でも昔は東銀座と西池袋と下北沢界隈を又に掛けて、派手に男を泣かせたもんだと豪語するもんですから、へい」

「昔は女か。まあいいだろう、これも縁だ。コンニャクでも食わせてやれ」

 

 紺碧の空にしだれ桜の花弁が舞って、ピンク色の風が公園の芝生をフワリとなめる。時折、小型犬のチワワやプードルや大型犬のリトリバーなどのリードを引いて若い女性が行き過ぎる。


「おうおう、そこの犬を連れたお姉ちゃん。別嬪べっぴんだねえ。色白だねえ。色っぽいねえ。旦那は幸せ者だねえ。憎いねえ。なに、未亡人だって。そいつはいけねえ。ワシが良い男を紹介してやろうじゃないか。こっちへ来て飲みなよ。なに、男はもうこりごりだって。重い過去を背負っているんだねえ。だめだ、だめだ、本当の幸せを見付けなくちゃあいけねえよ。さあ飲みな。犬にも飲ませてやりな。焼酎の炭酸割りくらいなら飲むだろうよ。おい、突っ立ってねえでお酌をして差し上げねえか。気が利かねえなあ、この野郎。チャカばっか振り回してんじゃねえぞバカ」

 

 いわくのありそうな団体だけど、お世辞にも別嬪などとおだてられてその気になったうら若き未亡人は、羅生門親分に誘われるまま緋毛氈ひもうせんの上に腰を下ろした。


「そうですか。それではお言葉に甘えまして一杯だけ。おっとっと。いえね、未亡人というのは世間さまの体裁をつくろっているだけで、本当はただのバツイチで、オホホホホ。昔かたぎの姑から厳しいイジメにあいましてねえ、その姑の側に付いたマザコン亭主に愛想を着かして別れたのですわ」


「ほほう、最近は姑のイジメも残忍を極めてエスカレートしておるらしいからのう。それで姉さんはどんなイジメを受けたんじゃ」

 善右衛門が割り込んで、自称未亡人のコップにビールを注ぎながら口を挟んだ。


「良くぞ聞いて下さいました。私の話を聞いて、決して涙を流されませぬように。私と元マザコン亭主は、花の東京三流大学のテニスクラブで知り合いまして、夏の軽井沢の合宿の際に真赤な糸で結ばれたのですわ。何しろ私はこのように見目うるわしく静淑ゆえに、あたかもかつての皇太子殿下と美智子妃殿下を彷彿とさせるような出会いではないかと噂され、学校中の羨望を一身に受けておりましたわ。フホホ」

 前置きをぶち噛ませて未亡人は語り始めた。


「私たちは火の噴くような愛を貫き、大学を卒業と同時に結婚することになりましたのよ。華燭の宴は大東京の日比谷に御座います帝国ホテルの裏のビジネスホテルのアホウドリの間で華々しく執り行いまして、新婚旅行はかねてから憧れておりました花の都パリへ行きましたのよ。勿論エールフランスの最新式ジャンボジェットですわ。ファーストクラスの近くのエコノミーの禁煙席で。宿泊先はフランス一の豪華格式を誇るホテル・ドゥ・クリヨンの三軒先の路地を入った隅にある、なかなか趣のある建物で、何と言っても屋根裏部屋が素敵でしたわ。その時すでに、私はすっかりオードリ・ヘプバーンに変身しておりました。彼と肩を寄せ合いトレビの泉やスペイン広場で愛を語らい、え、それはローマの休日ではないかですって、あら、パリにも休日はありましてよ、フホホ。彼はムーランルージュのストリップを見たいと頑固に言い張ったのですが、私は無理矢理セーヌの畔のルーヴル美術館とノートルダム寺院に連れて行きました。レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザの微笑に接し、ヴィクトル・ユーゴーのせむし男とお話がしたかったのよ」


「それで姉さん、姑の話はどうなったのじゃ」

 横道にそれまくった自称未亡人の話を善右衛門がさえぎって、本題に戻るべく舵を切らせた。


「あら、そうですわ。肝心の話をすっかり忘れておりました。まあ聞いて下さいな。何という事でしょう、その新婚旅行に姑がくっついて来たのですよ。憧れのパリの空の下、シャンゼリゼの並木通りで愛をささやく私たちの後ろを姑が歩いていたのですよ。しかも、モンパルナスのレストランで食事をとった時、彼の生牡蠣にだけレモンを絞って掛けてやり、食べ終えればナプキンで口を拭ってやるし、カルチェ・ラタンのカフェでは彼のエスプレッソにだけ砂糖とミルクを入れてやる。それだけじゃありませんわ。ホテルを出る時にはボストンバッグを引っ掻き回して、出掛ける先に合わせて彼の服装や下着にまでいちいち口出しをする。私は一体何なのでしょうか」


「ほうほう、そりゃあ尋常とは言えませんのう。マザコンというより、子離れのできない母親の醜態ということかのう」


「はい、それから千葉の家で姑と同居生活が始まったのですが、何と恐るべき原始人のしきたりでしょうか。旦那様よりも先に風呂へ入ってはいけませんとか、女は共稼ぎなどしないで子供を生んで育児に専念しろとか、廊下を光るほど磨けとか、間食するなとか、肥り過ぎだとか、トイレが長いとか、鼻クソほじくって飛ばすなとか、屁をするなとか、今時パリだってローマだってネアンデルタール人だってそんな馬鹿な事は申しませんわ」

 

 羅生門親分と善右衛門の背中越しに、未亡人の興奮の声が養護老人ホームの婆さんたちの耳に飛び込んできた。


「おハルさん、聞いたかい。何とバカだねえ、この女は。そんな事は嫁の常識じゃあないか」

 聞き捨てならない婆さんの言葉が未亡人の脳味噌をグサリと突いた。親分と善右衛門の間を分けて半身を覗かせた未亡人は、婆さんの耳にささやいた。


「何だって、このクソババア。私の話の何処がどうバカなのですか。掃除をすれば便器に鼻を付けて臭いを嗅いでやり直せと言う。味噌汁を作ればまずいと抜かして猫に食わせる。亭主には鯛の刺身で嫁の私にはメザシの尻尾。消費期限を過ぎて腐敗した豚肉を無理やり私の口にねじり込む。亭主がへべれけに飲んだくれて真夜中に帰宅したって、三つ指ついて迎えるのが嫁の礼儀だと叱りやがる。それが夫婦のあるべき姿だと言うのかい」


「当たり前だろ、嫁のくせに。姑に逆らうという事は、ご先祖様に反逆するという事だよ。そのあさはかな根性が腐っているのさ。息子を一人前に育てるまでにはねえ、それ相応の銭が掛かっているんだよ。育ち盛りのガキの頃には親の二倍の飯を食い、ろくに勉強もしないくせに中学校から高等学校、それに三流の私立大学の費用まで平気な顔ですねをかじって、ようやく社会に出たから少しは生活の面倒でも見てくれるかと思えば女にうつつを抜かし、挙句の果てには親を見捨てて嫁をめとって尻に敷かれる。その嫁がどのツラ下げて姑に反抗が出来るんだろうねえ。ふざけるんじゃあないよ、小娘のくせに」

 未亡人の心臓と肝臓に火が付いた。


「ふざけてんのはそっちでしょうがアホんだら。親が子供を育てるのに不平があるなら生むなよバカ。息子が嫁をめとったら、姑はふすまの向こうの納戸の隅っこで小さくなって呼吸だけして生きているだけでいいんだよ。嫁のやる事にいちいち口出しして邪魔立てするような姑は、百叩きの死刑になって東京湾の藻くずとなって、電気クラゲの餌にでもなっちまえばいいのですわ」


「よくそんな口が利けるねえ、このクソ女は。私たちの亭主はねえ、赤紙一枚で戦争に駆り出されて、今日も暮れゆく異国の丘で涙をぬぐい、さらばラバウルのジャングルで大蛇と戦い、敵の鉄砲の弾を掻い潜りながら生き抜いてきたんだよ。私らはね、焼夷弾でボコボコにされた戦後の焼け野原をさまよいながらも必死になって食い物を見付け、飢え死にしそうな自分よりも先に、子供に食わせてやったんだ。その子供が、いつからそんな大それた口を利けるようになったんだろうねえ、恩知らずが」


「いつの戦争だか知りませんが、そんな百年も千年も昔の話をしているから脳味噌が化石になってしまうのですわ。そんなに苦労が自慢なら、今からでも遅くないからもう一度戦場へ行きなさいよ、自衛隊と一緒にイラクのサマワへ」


「何だって、言うに事欠いて尊老をコケにするようなあばずれ女。お前みたいな女が日本を滅ぼし、地球を破壊するんだよ。死んじまえ、この売女」


「売女はあんたらだろう。東銀座と西池袋と北千住で売女やってたって言ってたじゃないか」


「北千住じゃない、下北沢だよバカ。人の話をしっかり聞けないから姑にバカにされるんだよ、天然ボケ」


「何ですって、平成の死に損ないのババアのくせに。とっくの昔に明治も昭和も終わったのですわ。覚悟を決めて老人ホームで野垂れ死になさいよ」


「おハルさん、あんたも旦那が死んだあと、嫁に散々いびられたんだろ。何か言っておやりよ、このうすらバカ女に」


「はいはい、うちの嫁は鬼でしたよ。私の誕生日に何かプレゼントをしたいからと殊勝なことを言われて、渡されたカタログを見たら葬儀屋の豪華棺桶一覧でした。たまにお義母さんもこんな服でも着たらきっと似合うかもねと言われて渡されたのは、三角巾と死に化粧セット付きの白装束でした。たまには気晴らしに旅行にでも行って来なさいよと言われて薦められるのは、富士の麓の青木ヶ原樹海か自殺の名所の東尋坊。毎日の食事のお膳には、ストロキニーネ入り猫いらずのふりかけが置いてありました。私は嫁に暗殺されるのが恐ろしゅうて、喜んで老人ホームへ入りました。私にはまだ、老いらくの青春が残されているというのに、ああ、何と切なく情けない身の上でしょうか、ああ、ハラハラハラ」


「聞いたか、鬼嫁。お前の事だ」


「やかましい。惚け損ないの死に損ないが、いつまでも生き恥さらしてイジイジ抜かしてんじゃないわよ。三途の川で赤鬼が手招きして呼んでいるのが見えるでしょうよ。行ってらっしゃいよ早く」


「何だって、白痴の豚女」


「うるせい、ババア」


「おいおい、誰か止めてやれよ、婆さんと未亡人が喧嘩を始めたぞ。あ、未亡人の犬がババアに噛み付いた。ババアが犬を蹴飛ばしたぞ。仕返しに犬がババアに小便を引っ掛けたぞ。ババアが犬をつぶしにかかったぞ」

 なごやかに楽しそうな会話がはずみ、昭和の森公園の酒宴もたけなわに盛り上がっていた。


「おう、あっちのしだれ桜の下も随分と盛り上がっているじゃないか。見てみろよ、熱気が竜巻みたいに渦巻いて、桜の花弁が舞い上がってるぜ」

 鉄仮面が焼酎のストレートをあおりながら、枝豆をつまんでいる朝比奈に顔を向けて話しかけた。


「盛り上がり方がいささか剣呑ですね。男も女も眼が血走っていますよ。議論というよりも絶叫というか罵倒というか、ヤケ酒と言うよりも狂い酒と言うべきか、平和な日本であれ程までに怒れる人間像を見るのも珍しいですねえ。僕がちょっと様子をうかがって来ましょう」

 朝比奈が一升瓶を手に持って、隣のしだれ桜の下を訪れた。


「いやあ、本日はお日柄もよろしいようで。アハ、アハ、アハ」

「何だ、テメエは。何しに来やがった」


「まあまあ、私は小学校の教師をやっております朝比奈という者でして、お近付きの印しにさあどうぞ、一杯やって下さいな」


「おい、聞いたかみんな。小学校の教師だとよ。うらやましいねえ。あんたは幸せだよ、幼いガキを相手に教育のまね事ができて。小学生といえばよう、物事の判断も自分じゃまともに出来ねえ幼稚さだから、先生の言う事にいちいち反抗する事もねえ素直さだ。たまに生意気な性悪がいたって、ゲンコツの一つも食らわせてやれば大人しくなる。そうだろう、兄さんよう。中学校じゃあそうはいかないよ」

「はあ……」

 どうやら自分と同じ教職に就く人たちが、理想の教育の在り方について論じあっているのだと朝比奈は察して聞き入った。


「高等学校の先公だって気楽なもんさ。反抗期も思春期も無事通過して、いっぱしの大人気取りの分別が付いた高校生は、大学受験だの就職だのと目先の進路に追われて先生に逆らう余裕が無い。真剣勝負の受験勉強は塾の先生にお任せだから、授業なんて能天気に飴玉でもしゃぶりながらやってたって父兄も校長も無頓着だ。ところがどうだ。タチの悪いのが中学生だ。ちょいと知恵が付いたばかりの未熟児のくせしやがって、厳しく注意をすりゃあ、むかつくだとか、ウザイだとか抜かしてワシらを馬鹿にする。平気で他校の生徒と喧嘩をするし、ところ構わず万引きする。親に買ってもらった携帯電話を使って援助交際をするし、無免許でバイクを運転して暴走族の仲間に入って校舎の硝子を割って放火する。愛の鞭だと言って右の頬を叩けば左の頬を出すかと思えばドスを持って追いかけて来る」

 朝比奈の額に脂汗が糸を引き始めた。


「授業のやり方が悪いだの、生徒の指導が生ぬるいだの、情熱と誠意と意欲と真剣さと工夫と愛情と度胸が足りないから生徒が真面目に育たないと、PTAの能無しが言いたい放題抜かしやがる。ならばと腹をくくって、ちょっと厳しくしつければ暴力だ、虐待だ、痴漢だ、セクハラだと騒ぎ出す。テメエら一回ぶち殺して脳味噌ほじくり出して踏み付けてやろうかと、堪忍袋がブチ切れる寸前のところでヤケ酒をあおって冷静を保つ。ガキどもはなあ、毎年毎年入学して来やがって、ワシらの心をズタズタにして涼しい顔して卒業して行く。ワシらはこのまま奴らのコケにされて生贄いけにえにされて、PTAの玩具にされていたぶられて、教育委員会にこけ脅されて冷や飯を食わされて、あらがう術も無くしかばねとなって朽ち果ててしまうのか。ええ、どうなんだい、小学教師の朝比奈さんよう」

 

 酒の勢いを借りて噴き上げる熱血中学教師の鬱憤を上塗りするように、頬も白目も真赤に染めて上気した女性教師が焼酎をあおりながら加勢した。


「そうよ、そうよ、私だって我慢の限界ですわ。私の国語の授業中に口笛吹いたり、早飯を食ったり、酒を飲んだり、パンツを脱いだり、携帯でアダルトサイトを検索したり。私は確かにクレオパトラに似て鼻が高く、楊貴妃に似て傾国の美女と呼ばれておりますわ。だからといって、私を強姦しようとするなんて許せませんわ。父兄を呼び出して注意をしたら、お前の顔が卑猥だとか、猫背が歪んで猿みたいだとか、豚のように醜い脂肪太りが非教育的だとか言いやがる。関係ねえってんだよこの野郎。テメエらの家庭のしつけが出鱈目だから、ご子息様が学校も世間も思いっきり舐めてくれていらっしゃるんじゃあござんせんかえ。あたしゃねえ、日本の未来を託す青少年教育に情熱を燃やして中学校の門をくぐって来ましたのよ。天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと教えましたら、何と、天は人の上に人を乗せて、人の中に人を作ると抜かしやがった。私たちは一体何を教育すれば宜しいのでしょうか、教えて下さいましな朝比奈様よ。ウィー、ヒック、グウイィー」


「まあまあ、そうは言っても悪い生徒ばかりではないでしょう。三年B組、金八先生のような、美しくも感動的な世界があるのも中学時代ではありませんか。アハ、アハ、アハ」

 朝比奈が軽く取り成すと、熱血教師は絡んで叫んだ。


「何を言いやがる。そんな世界がどこにあるんだこの世の中に。金八とやらを呼んで来やがれ。一発本音をゲロさせてやろうじゃねえか。ウィー、ウイィー」


「そうよ、そうよ。金八だか金目鯛だか知らないけど、地獄にでも突き落としたいような悪ガキを、包丁で刻んで金目鯛の餌にしてくれるのかい、あん」


「あ、いえ。金八というのは金目の煮つけではなくて、あのう、そのう」


「やかましい、ウィー。もう我慢ならねえ。やい、もっと焼酎を飲ませろ。日本酒で割ってダブルで寄越せ、ウィ。おい、そっちの顔の不細工な姉ちゃんよう、美味そうな犬を連れてるじゃねえか」

 熱血中学教師が未亡人を指差して吠えた。


「んまあ、何と下劣きわまる不当な発言。五郎、噛み付いてやりなさい、髭ヅラのゴリラに」


「五郎だと、何で俺の名が犬ころについてんだ。舐めんじゃねえぞ、犬のくせに」


「まあまあ、落ち着きなさいよ、お兄さん」

 横合いから養護老人ホームの婆さんが声をかけた。


「やかましい、クソババア。余計な口出しすんじゃねえ」

 熱血中学教師が一喝してとがめた。


「ババアとは何だ、クソまでつけて。ちょいとおハルさん、そこのビールの空瓶を取ってちょうだいな。この男の頭をぶち割ってやるからさ」


「うるせい、死に損ないのババア。テメエら、どいつもこいつも皆殺しにしてやる。みんな地獄送りだ、ワォー、ワォー、ウィィィー、ガガー」


「な、何だ、何だ、何が起こってるんだ。ワ、ワ、ワォー」

 

 

 かくして、和気あいあいのうちに宴は盛り上がり、しだれ桜の花弁も頬を染めて春風に乗って舞い上がった。

 みんなの騒ぎも素知らぬふうに、公衆便所の横で黒メガネの衆がむしろの上でチビリ、チビリとやっていた。花蜜の香りも蝶々も蜂も、険悪な殺気を感じてこの周囲を避けていた。その衆を指差して、羅生門親分の怒声が飛んだ。


「バカヤロー、テメエら。のんびり酒なんか食らってる暇なんかねえだろう。そこの枝振りの良いしだれを一本引っこ抜いてダンプに積み込め。グズグズするんじゃねえぞ。次は泉自然公園で三次会だ。早くしねえか」

 黒メガネの衆は俊敏に立ち上がり、大型ダンプからツルハシとシャベルを取り出すと、一瞬のうちに作業を終えた。



<千葉市の職員>

 

 極楽安楽病院第二内科病棟の廊下に爽やかな春の陽射しが差し込んで、院内の陰鬱で重苦しい空気をさらりと和らげていた。

 

 看護師の早乙女麗子は、松本清吉の点滴用リンゲル液を交換するために九号室の扉を開いた。

 いつになく平穏な静けさにホッとしたのだが、それにしても九号室では有り得ないほどの異常な静寂さに、麗子の第六感がピクピクと反応して不穏なきざしが脳裏をよぎった。

 

 末期胃ガンでベッドに横たわる松本老人を除く五人が、一様に頭を布団に隠して寝入っているのはなぜか。


「健太郎」と、呼んでみた。

 返事が無いので布団を覗き込むと、頭の代わりに枕があった。羅生門親分も鉄仮面も善右衛門も朝比奈も、布団の中には毛布が丸めてあるだけだった。

 

 これは大変な事になるかもしれないと、確実に荒れ狂う悪夢の予感を抱きつつも、素知らぬ顔で麗子は九号室の扉をそっと閉めて出て行った。

 

 

 翌日の朝、善右衛門は背骨を海老にしてうつむいて、主治医にこっぴどく怒鳴られていた。

「いったい何を何本飲んだのですか、あーん。アルコールの血中濃度が二百パーセントを超えていますよ、善右衛門さん。血液の中に酒が溢れているのか、アルコールの中に血が混じっているのか、こんな血管は初めて見ますよ。喉がつぶれて死なない事が奇跡というもんですよ、あーん。昨夜の発作で病院中の吸入用酸素がみんな空っぽになってしまったと言って大騒ぎですよ。おかげで心臓移植の大手術が二日後に先送りになってしまったと、外科部長から叱責されたばかりか蹴飛ばされてしまいましたよ私は。今後一切、ほんの一滴でも酒を飲んだら精神病棟に隔離しますから覚悟して下さいよ。分かりましたか善右衛門さん」

 

 ふと窓から外を眺めると、病棟の中庭にいつの間に植えられたのか、桜の巨木が二本と一本のしだれ桜が、見事に満開の花を咲かせて春の日差しを浴びているではないか。


「おうおう、桜吹雪が見事なもんだ。病棟の患者の皆様も、朝から目の保養になって悪い病気も快復するってもんだぜ」

 羅生門親分がベッドの上で胡坐あぐらをかいて、人差し指と中指を立ててピースをしながら満足げに窓外を眺めながら焼酎で薬を飲んでいる。


「隣りのトメ婆さんも、この世の見納めになるって喜んでることでしょうよ。桜の押し花でも作って冥土の土産にすれば、閻魔の裁きにも多少の目こぼしがあるってもんだ」

 鉄仮面は二日酔いの迎え酒だと言って、ビールを喉に流し込んでいる。


「あの枝を一本へし折って、生クリームにチョコボールを添えて生け花にして、隣りの優子さんに僕の愛の証として贈りたいです、ああ、ああ……」

 朝比奈が鼻水と涎を垂れ流しながら、無情の涙を飲み込んでいる。


 調度その頃、千葉市の職員が眉をピリピリと吊り上げて、病院の受付を訪れて怒鳴り声をあげていた。

 亥鼻公園と昭和の森と泉自然公園から、根こそぎ掘り起こされて持ち去られた桜の巨木を取り戻すために、証拠の写真をたずさえて極楽安楽病院の事務局へ抗議にやって来ていた。


 事務局長に呼び出された第二内科病棟看護師長の藤巻は、三か所三十枚の証拠写真を見せつけられて思わずのけ反り、危うくソファーのちょうつがいを壊して頭を床にぶつけてしまうところであった。

 

 見よ、それぞれの証拠の写真には、桜の巨木を遠巻きにして、ドスの刃先を太陽にかざした黒いメガネの一団がいる。その前列に岩石のような厳つい顔と、スルメのような三本皺の老人と、太め短足の四角い顔と、白面のしゃもじ顔に加えて一人の少年がいる。

 そして彼らを取り囲むように、化け物だか狂人だか得体の知れない何者かが、桜吹雪を浴びながら真赤な顔でピースをしている。

 

 目を鬼にした藤巻師長は三十枚の写真を白衣のポケットに押し込んで、黙って立ち上がると局長室を出た。

 帰り際に放射線科のレントゲン室に立ち寄って、放射能発射装置をわしづかみにして行こうとするところを、エックス線撮影中の放射線技師とその助手に、必死の羽交い絞めで制止されていた。

 

 この後、九号室の患者たちがどのような教育を受けたかは説明するまでもありません。屋根の上から眺めていたカラスがアホ―アホ―と鳴いていました。



次の話は、患者に「お」と「様」をつけて一波乱

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