第三話:娘を訪ねて四万十川から
鳥兜善右衛門がゼイゼイと喘息の喉を鳴らしながら、興奮した様相で第二内科病棟九号室に戻って来た。
「おうおう善さん、そんなに息を切らしてどうしたんだい。外来にでも行って、白いうなじの色っぽい後家さんでも見つけたのかい」
息を切らしながらも爛々と目を輝かせている善右衛門に、羅生門親分が声をかけた。
「親分さん、事件じゃよ。看護師の浅野咲子がさらわれるかもしれんぞ。ゼイゼイ」
「なにい、看護アイドルの咲ちゃんが、いったいどうしてさらわれちゃうの」
「親分、奇妙な声を出さんでもらいたい。ゼイ。昼飯食って腹ごなしに本館の外来をうろついとったらな、受付に金満風の壮年男女が現われて、看護師の浅野咲子を出せと怒鳴って、えらい凄みを利かせておった。ワシの推理によるとじゃな、どうやら咲子は悪い金融業者に借金をして、雪ダルマ式に膨らんだ利子を払えず逃亡中に、とうとう居場所を突き止められて、悲しいかなどこか遠くの国へ売り飛ばされてしまう運命か。ゼイゼイ」
「何だと、どこの借金取りだい、そいつは。第二内科病棟のアイドル、僕の可愛い咲ちゃんをそんな目に合わせる奴は生かしちゃおけねえ」
「く、苦しい。やめろ親分。ワシの首を絞めてどうするんじゃ、ゲホゲホ。頭がくらむ、喉がつぶれる」
ピーナッツをポリポリ頬張っていた鉄仮面が、ベッドから起き出して四角い顔で口を挟んだ。
「それで善さん、その金満の男女はどうしたんだい」
「どうやら応接室に通されて藤巻師長と面談するらしい。まあ、あの師長のことじゃから、ヤクザが来たって鬼が来たって一歩も怯むことはないじゃろうが、殺生沙汰になりはせんかと心配じゃのう」
「ふーむ、ワシも一肌脱がぬ訳にはいくまいのう」
羅生門親分が、ベッドの上で胡坐をかいて腕を組む。
第二内科病棟のナースステーションに、看護師の大田原桃子が慌てた様子で走り込む。
「し、師長」
「何ですか、大田原さん。廊下をパタパタ走るもんじゃないでしょう。急患くらいでうろたえるな」
「急患じゃありません。咲子のご両親が来られて応接室に」
「咲子は非番で休みじゃないか。そう言ってやりなよ」
「そう言ったら、そんな事はどうでもいいって怒るんです。咲子の住んでいる居場所を教えろって息巻いて、それで手に負えなくて師長さんに」
「親御さんがどうして娘の住所を知らないんだい」
「さあ」
<浅野 咲子の両親>
何やら事情がありそうだと首を傾げながら、藤巻竜子は応接室のドアをコンコンとノックした。
「看護師長の藤巻です。あ、どうぞそのままお掛け下さい」
立ち上がろうとする二人を制して、藤巻はどっかとソファーに腰を下ろした。待ちかねたように父親は、堰を切ったように言葉を発した。
「私は浅野五郎と申します。咲子の父です。こっちは家内の晴子であります。お忙しいと思いますので余計な話をして手間を取らせたくありません。咲子の住所と電話番号を教えて頂きたい」
「お断り致します」
顔色も変えずに藤巻は言い捨てる。
「何ですと、私は咲子の父親ですぞ」
「父親だろうと母親だろうと、そんな事は私の知った事ではありません」
「何の権利があっていとも簡単に断るなどと。親子として、肉親としての事情があるのですぞ。人の苦労も知らないで。どうしても教えないと言うなら警察に訴えますぞ。さあ早く教えなさい」
「看護師の咲子は満の年齢で二十六ですよ。その咲子が明かせぬ秘密をどうして他人の私が教えられますか。患者だろうが看護師だろうが院内のプライベートを他人に明かすことは、本人以外にはご法度なんですよ。警察でも弁護士でも呼びなさい。第二内科病棟のルールは私が作り守らせる。教えないと言ったら教えない。知りたかったら本人の口から聞きなさい」
「本人の口から聞きたいから電話番号を教えろと言うとるんじゃないか。それをどうして教えられんのじゃ。見ろ、これが父親の証じゃ。三十年前に四国の自動車教習所で取った免許証じゃ」
「くどい」
頑とした師長の啖呵に動揺して、ヨヨヨッと泣き崩れて晴子は叫んだ。
「師長様」
「様付けたって、泣いたって言えません」
「どうか事情をお聞き下さいませ。私どもは四国の四万十川のほとりで農業を営んでおります。幼い頃から心根の優しい咲子は福祉の道を志し、仲の良い友人と一緒に横浜の看護学校に進みました。なんとか国家試験にも合格し、横浜の病院にも勤めが決まったと私たちも喜んでおりました。娘からは毎月便りも届き、看護師としての技量を磨き、頑張って充実した日々を送っている様子がうかがえました。私たちもあの娘の白衣の姿を想像しながら、幸せを掴んでくれることを願っておりました。そんな折、二年を過ぎた正月のこと、久しぶりの帰省でお父さんは早くから娘の顔が見たくて、数日前から落ち着かなくて空港まで迎えに行きました。わずか三日間の水入らずでしたけど、とても幸せな三が日でした」
ここから重要な本題に入るのだから、聞き洩らすことなくしかと理解してほしいというかのように晴子は顔を上げ、一呼吸の間をおいて話を続けた。
「ところが、横浜に戻る最後の日、咲子は急に改まって話があると言うのです。そのかたくなな表情を見て女の私はピンときましたけれど、黙って咲子の話を聞きました。将来を誓い合った男性がいると打ち明けました。その男性は二歳下の大学生だがとても真面目で誠意のある頼れる人なので、次の休日が取れた際に家へ連れて来るので会って欲しいと言いました。そうです、あの娘はこの話をしたくてわざわざ正月の休みを貰って帰って来たのです。そして三日の間、言い出す機会をうかがいながらも反対されはしまいかと、不安を胸に秘めつつ過ごしていたのです。あの娘の性格を知り尽くしている母親の私には、並々ならぬ決意の深さを察しましたが、お父さんにとってはまさかの告白を受けて、たじろぐ以上にショックが大きかったことでしょう。絶対に許さないと叫んで激昂しました。学問研究を本文とすべき大学生が勉強も就職もそっち退けにして、人生の先も見通せないくせに親のすねだけかじりまくって軟派に走るとはふざけた馬の骨だ。よりにもよって二歳も年長の看護師に手を出して、稼ぎの安泰を狙う甲斐性の無い不埒な奴め。そんな男と将来を誓うだの結婚だの、騙されるお前も大バカだ。父の言うことが聞けぬなら勘当だ。と突き放してしまいました」
父親の五郎は、首をうなだれて小さく頷いていた。
「咲子はじっと口をつぐんだまま横浜へ戻ってしまいました。それ以来あの娘からの便りは途絶え、私は心配になり咲子に手紙を書きました。返送されないので読んでくれているものと考え、咲子からの返事を得られないまま私は手紙を送り続けました。そして一年が経過して、ついに私の手紙が宛先不明で返送されて来ました。あの娘は一年前に転居していたのです。勤めていた横浜の病院に電話をしましたところ、数ヶ月前に退職したと言われました。それから二年間、音信不通の咲子の身を案じ、狂おしい日々を悶々として過ごすほかありませんでした。お父さんは、許して楽になりたいけれども、許せば愛しい咲子の不幸を背負う将来を認めることになるというジレンマに苦しんでおりました」
看護師長の藤巻は、表情も変えず身じろぎもせず、黙って晴子の話を聞き入っていた。
「私たちは相談しました。そして決断しました。もう葛藤に苦しむ事はやめようと。二年を経たあの娘の生き様を見よう。横浜へ行ってあの娘を捜そうと決めて地図を買って、横浜中の病院に赤い印を付けました。私たちは一週間の往復航空券を購入して横浜に宿を予約し、悲痛な決意で飛行機に乗りました。田舎者の私どもには横浜の都会をどう歩けば良いのか見当も付きませんでしたが、まず、あの娘の勤めていた病院にたどり着き、地図を見ながらそこから近い病院を片っ端から訪れて、受付で咲子の所在を尋ねました。何軒、いや何十軒回ったことでしょうか三日目のことでした。ある病院の受付で咲子の名前を出しましたところ、看護学校時代に友人だったという若い看護師さんが傍にいて、咲子は千葉の病院へ移ったらしいという話を聞きました。私たちは千葉の地図を買い求め、市内中の病院に印を付けて、翌朝の千葉行き始発電車に乗りました。残る日数もありませんので私たちはあせりました。宿を移すゆとりも無いまま一日足を棒にして、千葉中の病院を訪ねて回りました。そして、ようやく今日、ここにたどり着けました。咲子が勤めていると聞いて涙が溢れました。どうか師長様、どうか咲子に会わせて下さいませ」
涙ながらの晴子の話をしきりに頷きながら聞いていた浅野五郎は、藤巻師長を睨みつけるようにして言った。
「そういう訳だ。家内の話で私らの苦労と苦悩がいささかでも分かってもらえたと思う。さあ、咲子の居場所を教えてもらいましょう」
「ダメだと言った筈です」
「何ですと。私らは明朝の飛行機で帰らねばならんのですぞ。今日しか時間が無いというのにダメだとは一体どういう了見ですか。私らの苦労が分からんと言うのかねあんたは、あん」
「あん、じゃありませんよご両親。時間が無いのも勘当したのもそっちの勝手。あたしの知ったこっちゃありませんよ。どんな理由があろうと個人の秘密は明かせません。咲子がここで無事に働いていることが分かっただけで目的を達したことになるでしょう。伝えたいことがあれば書面にして、病院気付で郵送されれば本人の手元に届くでしょう。どうぞ四万十川までご無事の旅をお祈りします」
「し、師長様、殺生なことを言わずに咲子を私たちに返して下さい」
「そうだ、返せ。この意固地な頑固ババア」
「返せだと、ふざけたことを言っちゃあいけないよご両親。私はね、今の話を聞いて良く分かりましたよ、あの性格の明るい咲子に潜む一片の暗いかげりの訳が。お茶の時間でも飲み会でもね、年頃の看護師やスタッフが集まれば、恋人のことや結婚の噂で花が咲く。飲みに行こうよとも食事をしようよとも誘われる。詰所に若いドクターが来れば、年頃の看護師たちは口説かれながらも大はしゃぎで喜んでいる。そんな時にね、咲子は突然口を閉じて部屋の隅っこに逃げてしまうんだよ」
胸に抱いた憤怒の勢いを抑えるように、両親に言って聞かせるごとく師長は静かに語り始めた。
「あたしゃ、おかしいなと思ったが、私が問えば尋問になりかねないから知らぬ振りで通したよ。どういうことか分かるかねご両親。咲子は二十六歳の立派な成人。自分が楽になろうと思えばいつだって入籍して夫婦になれる。そうすりゃあ何もこそこそしなくとも皆に公表できるじゃないか。それでも入籍せずに耐えていることの意味が。両親の祝福なくして自分たちだけの幸せを許せずにいるのさ。あんたはね、勝手に勘当して親父の威厳を笠に着て納得していればそれで済むかもしれないが、それでも親を立てようと思う咲子のけなげさが愛おしいと思わないかい親父さん。そういう咲子の心をいたわり、支え合っている彼氏の優しい心を私は信じてやりたいねえ。あたしゃ、彼氏がどんな男だか知らないよ。でもね、咲子のけがれの無い明るさと、負けず嫌いの仕事振りと、清楚な生活態度を見てりゃあ見当が付くよ。馬の骨だろうが魚の骨だろうが女を愛する誠実さと、したたかな生命力と、前向きな労働意欲があればそれで充分だと思わないかい親父さん。それだけじゃあないよ。お母さんなら分かるよね、それまで赤ん坊を作ることの許されない女の辛さを。勘当されて今日までの、咲子と彼氏が過ごして来た浮草のようにやるせない時の流れを、ほんの少しでも思いやって見なさいよ。四万十川のせせらぎで、ゆっくり頭を冷やして考えてもらいましょうか。それまで咲子は渡さないよ」
「師長様」
「様付けたって渡さないよ」
「私たちは明朝の便で四国へ帰らなければなりません。咲子がこちらでお世話になっていることが分かって本当に安堵しました。咲子が勘当を覚悟で一緒に過ごしている男性と、師長さんがおっしゃるように真実幸せであるならば、私たちは心から祝福したいと念じます。娘の幸せを願わない親が何処の世界におりますでしょうか。先方のご両親にも一刻も早く挨拶に伺いたい。この旨を是非とも咲子にお伝え下さい。私たちは今夜、横浜の湾岸一番星ホテルに宿泊して明日の早朝に発ちます。どうか咲子のこと、よろしくお願い申し上げます」
浅野夫妻は咲子の消息を知って安堵はしたが、顔を確かめた訳ではないし本人の声を聞いた訳でもない。本当に娘の咲子だろうかという、釈然としない不安を残して千葉の病院を後にした。
晴子は手紙を書こうと考えていた。病院気付にすれば咲子に届けてくれると師長は言った。あの師長は狂暴そうだが悪人ではない。いや、話の筋は通り過ぎるほど通っているようにさえ思える。
娘への過度な愛しさに真実を見失い、しっぺ返しの報復に戸惑うやるせない心情が、晴子の不安と焦燥を増幅させる。
それでもようやく淡い脱力感に視界が開け、凍てついていた鉛のしこりがゆっくりと瓦解していくようなほころびを覚える。マスコミの報道で暴行や殺人のニュースを聞けば、咲子のことではないかと何度もうろたえて眠れない日々が続いていたのだから。
<師長の思惑>
ナースステーションに戻った藤巻は、看護師の大田原に声をかけた。
「ちょいと、咲子の自宅に電話を入れてくれないかい」
「はーい、やっぱり訳ありなんですね」
事情を知りたそうな素振りをあらわに見せながら、大田原は電話のボタンをプッシュする。
ピンポンパン、ポン、ツー、ツー
「あーもしもし、咲子かい、大田原だよ。病院からに決まってるでしょう、仕事中だよ。何やってるんだよ、あんた」
「こら、余計なことしゃべってないで受話器を寄越しなさい、早く」
「はいはい」
慌てて師長に受話器を渡す。
「藤巻だけど。あんた今日は準夜勤じゃなかったよね。え、深夜勤でもない。それは良かった。ちょいと話があるから六時に病院の傍の極楽レストランに来なさい。大切な用事に決まってるだろ、わざわざ仕事中に呼び出しているんだから。いいわね」
「はい、分かりました」
仕事の話は仕事場で済ますというのがこれまでの師長のやり方のはず。しかも、理由も言わずにレストランに来いと言う強引さも前例が無い。絶対に良い話であるはずがない。言いようのない殺気が咲子の心臓をえぐり上げた。
咲子は同棲中の増次にメモを残すかどうかを迷っていた。東京の貿易会社に営業として勤務する増次の帰宅時間は不定期だが、だいたい九時前に帰ることは稀だった。
師長の話がどんなに長引いたとしても、自分の帰宅が増次の後になることは無いだろうと思いながらも、念の為に簡単なメモを残してアパートを出た。
午後六時きっかりに、病院そばの極楽レストランのドアを開けて中を覗くと、師長の藤巻はすでに来ており、窓際の席で右手を振って咲子を招いた。
藤巻は咲子にメニューを開かせて夕食のオーダーを促した。
「あたしゃ、サーロインステーキとスープにするよ。あんたも遠慮しないで好きな物を注文しなさい。なに、野菜サラダとコーヒーだって。そんなキリギリスの餌みたいなもの食って、ナースの重労働が務まる訳ないでしょうが。別に難しい話をする為に呼んだ訳じゃないんだから。え、とろろ定食にするって、まあいいだろう」
コップの水をゴクリと飲んで、藤巻は用件を切り出した。
「昼間、ご両親が病院に訪ねて来られたよ。横浜中の病院を何十軒も訪ねてあんたを捜したそうだよ。あんたの友人に偶然出会って千葉に移ったことを知って、市内の病院を軒並み訪問してついに極楽安楽病院へたどり着いたそうだ。ご両親からあんたの住所を聞かれたけど教えなかった。あんた、どうするね」
やっぱりそうかと咲子は思った。いつか露見することだと覚悟は決めていたものの、まさかこのような形になるとは思わなかった。
すぐには返す言葉を失っている咲子に、藤巻は言葉を添えた。
「親子の事情に割り込むつもりは無いけどね、看護師の私生活に悩みや乱れがあれば師長である私の責任だよ。心に病んでることがあるんじゃないのかい。洗いざらい話してごらんよ」
咲子は話の筋道を整理した。そして、履歴書には書けなかった裏側の、病院内の誰にも話せなかったこれまでの経緯についてとつとつと語り始めた。
「私には心に決めた人がおります。三年前、横浜の病院に勤務していた時でした。彼はオートバイを運転中に乗用車と接触して救急車で運ばれて来ました。膝関節骨折で約一か月の入院中に私たちは親しくなりました。彼は大学の三年生で、私より二歳年下の学生でしたが、年長の私よりもずっとしっかりした人生観と将来の目標を持っておりました。私は結婚ということをそれまで真剣に考えたことはありませんでしたが、彼との出会いに宿命的な絆を予感しました。それから一年後、はっきりと約束を交わしたのです」
師長は黙ってサーロインステーキの脂身を咀嚼しながら、スープでゴクリと喉に流し込んだ。
「その年の暮れの大晦日、私は久しぶりに四国へ帰省しました。正月の三が日をくつろいだ最後の日、私は両親に決意を告げました。父は頭ごなしに反対しました。二歳年下の大学生など絶対に許さないと言われました。見合いをさせるから四国の病院に転勤しろと言われました。さもないと勘当だと、激昂して父は叫びました。私は覚悟を決めました。母に見つからないように、中学時代と高校時代の卒業アルバムをこっそり鞄に入れました。幼い頃の思い出を閉じ込めて、四万十川にお別れを告げて家を出ました」
そこまでは両親の話と一致していた。その先の状況を知りたくて、藤巻は咲子に経緯を促した。
「はい、彼は卒業して東京の貿易会社に勤めました。勤務地が千葉と決まったので、私は横浜の病院を辞めて千葉にアパートを借りて近くの病院を探しました。それがここ、千葉市立極楽安楽病院でした。そして五月の連休に、彼は私を連れて山口県の下関にある彼の実家に行きました。彼の両親は私のことを何でも詳しく知っておりました。そして温かく迎えてくれました。フグの刺身と天婦羅もご馳走になりました。美味しかったです。それ以来二年間、いつか晴れて結婚できる日まで、私生活のことは口にするまいと決めておりましたので、私はこの病院でおどおどしながら勤務しておりました」
「いつ結婚するつもりだったんだい」
「それは、いずれ、時期が来た時に」
「あんた、本当は待っていたんじゃないのかい。ご両親が病院へ来ることを」
「父は勘当すると叫んでから、いっさい口を利こうとしませんでした。私には兄もいれば妹もおります。私はどうせ看護師として家を出た身ですから、農家の役には立ちません。田舎の世間体を重んじる両親が、本気で私のことなど気に掛けるはずなどありません」
「あんたの気持ちは良く分かったよ。それじゃあ、ご両親から承った、あんたへの伝言をそのまま伝えるから良く聴きなさい」
そう言って藤巻は、両親の言葉をそのまま伝えた。
患者たちの夕食の片付けも終わり、日勤の看護師たちが引き揚げてしまうと、第二内科病棟のナースステーションは潮が引いた後のように静まり返る。その入り口付近に二台の車イスがフラフラと近付いて来た。
点滴用のブドウ糖注射液を交換するために、準夜勤の麗子がナースステーションから出たところ、鉄仮面と善右衛門の乗った車イスに両足を挟まれて、危うく転倒して注射液を落とすところであった。
「何をしているんですか、あなたたちはこんな所で。車イスになんか乗って遊んでないで、歩くか寝るか、おとなしくして下さい、病人なんですから」
鉄仮面が麗子の行く手を阻むように車イスを回転させて、はす睨みに声をかけた。
「おい、麗子」
「何ですか?」
「お前、何か知ってるな」
「何ですか、いきなり。私が知ってるのはあなたたちの病名だけですよ」
「師長から聞いてるだろ、浅野咲子の事件についてさ。誰にも言わないからさ、話してみなよ。事と次第によっちゃあ力になるって、羅生門親分さんもいつになく張り切ってるぜ。だからさ、麗子、包み隠さず話してごらん」
「事件ですって? 何ですか事件だなんて。咲子を巻き込んでまた何か悪事をたくらんでいるんじゃないでしょうねえ、あなたたちは」
「怪しいなあ、本当に知らないのか」
「怪しいのはあなたたちの方でしょうが。昨夜だって、病院の花壇で打ち上げ花火をやっていたのは誰ですか。廊下で線香花火やってるし。夏でもないのにドンパチ花火なんか打ち上げないで下さい」
「みんな喜んでいたよなあ、善さん」
「うん、喜んでた」
「喜ぶ訳ないでしょう。一階の第一内科の八十七歳の患者さんが、爆竹の音に驚いて引き付け起こして救急車を呼べって叫んでいたわよ」
「刑務所じゃあ、有名な歌手を招待してショーを見せたり、運動会やったり、色んな娯楽があるって親分さんが言ってたけどなあ」
「ここは刑務所ですか? あなたたちは囚人ですか? 痴漢ですか? 詐欺師ですか? 師長さんに言い付けますよ。そうすればここから救急車に乗せられて、念願の千葉刑務所まで直行できますよ、あなたたちだけ特別に」
渋々二人は車椅子の向きを変えると、フラフラ九号室へと戻って行った。
<師長の決断>
極楽レストランで浅野夫妻の話を咲子に伝え、彼女の気持ちを察した藤巻は、サーロインステーキを食べ終えると、とろろ定食をほとんど食べ残した咲子に言った。
「咲子、あんた、車持っていたね」
「はい。軽ですけど」
「出掛けるよ。車をここまで転がして来な」
「え、どこへ行くんですか?」
「横浜の湾岸一番星ホテルへさ。ご両親は明朝の便で発っちまうんだよ。今夜会って、きっちりケリを付けるんだよ。幸せはね、早い方がいいんだ。チャンスが来た時に掴まえないと、幸せはすぐに逃げちまうんだよ。この時間なら、あんたのハンドルさばきでも二時間あれば着くだろうさ」
咲子は、師長の口から両親の伝言を噛み締めるような思いで聞いた。しかし、咲子は、脳髄にしつこい黴のようにこびりつく、父親への猜疑の念を拭うことができずにいた。
二年の歳月が、父の怒りをよりかたくなにさせることはあっても、決して氷解することはないと確信していた。確信を覚悟に変える定めの日を、心の内で絶えず苦しみ先延ばしにしてきたのだ。
ピンクの軽自動車の助手席に師長を乗せて、習志野インターから東関東自動車道に入った。ハンドルを握り直した咲子は、父親の確執に対する逡巡の思いを師長に吐露した。
「両親は、私を四国へ連れ戻すために師長さんに嘘を付いたのではないでしょうか。私たちが両親に逆らって同棲していることを、父が許すとは思えません。心から祝福したいなんて、唐突過ぎて信じられないのです。横浜中の病院を捜したというのも、私を心配したというよりも、自分たちの意地を貫くために行動したことで、訪れた病院で私の不在の返答を聞くたびに、私への憤りを鬱積させていったのではないでしょうか。だから、どんな事があってでも、たとえ師長さんを騙してでも私の居場所を突き止めたかったのではないでしょうか」
なおも続きそうな咲子の口舌を藤巻はさえぎった。
「私はねえ、子供を持った経験が無いから偉そうなことは言えないけれど、どんなに意地を張ったって娘の幸せを願わない親はいないと思うがねえ」
咲子の疑念は藤巻にも理解できる。だからと言って、いつまでも淀みに嵌ったままうずくまり、一歩を踏み出さなければ年を重ねるだけで進展がない。はっきりと決着をつけてやらねば咲子の幸せが色あせてしまう。それが看護師を束ねて病棟を仕切る師長としての役割だろうとわきまえて、いたわりの言葉を選んで咲子に諭した。
「しっかり思い出してごらんよ、親父さんが激怒して叫んだ言葉を。生活設計の目処の付かない軟派な大学生だから反対だと言ったんだろ。収入の安定した年長の娘が、男に騙されているに違いないと危惧の念を昂じた余り、勘当の言葉が親父さんの口から飛び出したんじゃあなかったかい。だから今、あんたの口から証明してやるんだよ。彼が立派に大学を卒業し、貿易会社に就職を決めて自らの夢と人生設計を描き、しっかり社会に一歩を踏み出して、稼ぎもきちんと家に入れていることを。二年の歳月が実績としてそれを証明してくれるのさ。ご両親も知っているさ。真に人を愛し、愛されることが夫婦の幸せの根源にあることを。あんたが消えた二年の間に、ご両親も充分苦しんだのさ」
二人を乗せた軽自動車は、首都高速湾岸線を横浜に向けてひた走る。窓外の夜景がやけに寂しい。いつもなら浮き立つランドマークタワーや観覧車の輝きが、近寄りがたい地獄の漁火に思えてしまう。
<真垣 増次>
真垣増次は得意先の都合で夕食の接待が中止になって、久しぶりに早い時間の電車で帰路を急いでいた。
会社では独身貴族で通している増次は、先輩や同僚に夜遊びの声を掛けられる事も多かったが、今日だけは予定外の早い帰宅に、咲子と夕食を共にできることで心が浮いていた。
駅からバスに乗り換えて二十分、バス停を降りると二百メートルほど先にアパートは見える。
増次は「おや……」と思った。アパートの窓に明かりが灯されていないので訝しく思い、内ポケットの手帳を開いて確かめてみた。やはり今日の咲子の勤務予定は休みと記されている。腕時計の針は午後の八時を回っていた。
増次はブザーを押さずに合鍵をひねってドアを開け、台所のテーブルに置かれているメモを見つけた。
「師長さんに呼び出されて、病院横の極楽レストランにいます」と、メモに記されている。
増次はせっかく早く帰宅したのにと、少々不機嫌な面持ちで風呂を浴びた。冷蔵庫を開けてビールを取り出し、ソーセージを刻んで皿に盛った。
ビールをあおりながらテレビを観ているうちに時間が過ぎて、いつの間にか午後の十時を過ぎていた。
ふと、増次の胸中に瞬時の不安がビクリとよぎった。帰宅した時に、増次はアパート横の駐車場を一瞥した。そこにピンクの軽自動車が無かったことの不自然さに、どうして今まで気付かなかったのか。
メモが書かれたのが何時のことか分からないが、増次が帰宅してすでに二時間以上も経過している。増次はてっきりレストランで病院スタッフの飲み会が始まり、師長に呼び出されて出掛けたものと思い込んでいたが、酒が入れば車を運転できるはずもない。アパートから病院横の極楽レストランまでは、車で表通りから入るより歩いて裏から入った方が早い。
病院の仕事ではない何かが起こっている。思いがけない何かが起こっている。ほろ酔い加減の増次の脳裏に悪寒が走り、言いようの無い危急な胸騒ぎをビクビクと感じ始めた。
増次はアパートの部屋を飛び出した。駐車場にピンクの軽自動車はやはり無かった。レストランまで走った。
極楽レストランのドアを開けると、いらっしゃいませと声を掛けられアルバイトの女給が出て来たが、まばらな客席に咲子の姿はどこにもなかった。
レストランを出た増次は、夜空を見上げて涙を溜めた。咲子の身に何かが起こるとすれば、思い当たる事はただ一つ。自分の非力な若年齢を言い訳に、ずっと目をそむけてきた威圧の障壁が、今ついに動き始めたのだ。
きっと、咲子の両親が病院に現われたに違いない。両親の話を聞いて納得した師長は、咲子を説得して連れ去ったのだ。四国へ返され見合いをさせられ郷里の呪縛に拘束される。秋空のように脆く移ろいやすい女の心は血縁に負け、過去の情熱を置き去りにして都会を忘れる。
二年前、両親に勘当されたと咲子は笑って戻って来た。大学生だった増次には勘当という言葉が虚ろに思えて、咲子が戻って来たことが無性に嬉しかった。
あの時は、咲子を失う事など現実として捉えていなかったから、だけど今は違う。咲子は二つ歳を重ねて、両親の真剣さの度合いも二倍に膨らんだろう。
どうすれば良いのか。咲子を失わない為に他人と戦うなら死を賭しても戦えるが、両親を相手に如何にして戦えば良いのだ。戦うことなどできはしない。入籍も受胎もタブーとなった咲子との間には、侵すことのできない肉親の血流が深い谷間となって阻んでいることを増次は知っていたから。やる方の無い慟哭を抑え、不安と焦燥だけが動脈を駆け巡り心臓を震撼させる。
身体中から涙が込み上げて夜空を見上げる。心地良いはずの秋の風が背筋を抜けて脊髄を凍らす。仲秋の満月が鼻クソをほじくり弄びながら、黄色い真顔で舌を出してあざ笑っているようだ。
どうしてもっと早く手を打たなかったのか。苦渋の無念が胸を焦がす。自分は年上の咲子を姉のような思いで頼りにしていた。その彼女が、放っておくしか仕方が無いのよと言い切った。両親と一緒に生活する訳ではないのだから、自分たちがしっかりしてさえいれば、そのうち父も分かってくれると言った。その覚悟が嬉しかった。
しかし、その言葉に安堵して、自分は男としてなすべき義務を怠っていたのではないのか。いつかこの日が来ることを、いつも自分の心の内で不安を抱いていたのではなかったか。
自分が就職を決めた日に、咲子の故郷である四国の四万十へ行き、両親に会って二人の決意を伝えなければいけなかったのではなかったのか。
一度で駄目なら何度でも、努力と誠意を示して説得することが、男としての責務ではなかったか。放っておけばいつの日か、事態が改善されると不甲斐無く楽観していた自分が憐れで情けない。
思い過ごしの杞憂だと願いたい。だが他に理由はあり得ない。増次の思考は堂々巡りを繰り返して振り出しに戻る。
本当に咲子の両親が病院に現われて、病棟の看護師長まで向こうに回して咲子を取り上げられてしまったら、自分の力で今更何が出来るというのか。
もしも、もしも咲子がそのまま四国の四万十へ連れ去られ、二度とこの部屋に戻って来なかったら、自分の人生はどうなるのだ。愛を奪われた空虚な世界が茫漠と広がるだけで、生きる力も働く意欲も虚無となる。
ああ、どうしてもっと早く手を打たなかったのか。分かっていたはずなのに、いつかこの日が来ることを。心臓を押しつぶすような苦悶と後悔の念が、腹の底からうねりとなって燃え上がる。
増次はアパートに戻り、台所の椅子に呆然として腰を下ろした。ビールを飲む気にもならず、まんじりとしたまま時間だけが過ぎていく。
その時、六畳間の卓上に置かれた電話がジリリと鳴った。弾かれたように腰を上げて受話器を取った。
受話器の奥から咲子の嗚咽の声が小さく聞こえた。
「どうしたんだ、咲さん。よく聞こえないよ。教えてくれ。何があったんだ。どこにいるんだ」
杞憂が的中してしまったのだ。だから電話の向こうで咲子が一人で嗚咽している。放っては置けない、いよいよ戦う時が来たのだ。胸が引きつり引き裂かれる思いで、増次の叫びが覚悟の言葉に変わった。
「咲さん、お父さんが来たんだね。そうなんだね。僕もそこへ行く。今すぐに行くから教えてくれ。どこにいるのか咲さん、教えてくれ」
嗚咽を抑えた囁き声が、増次の握りしめている受話器からこぼれた。
「お父さんが、お父さんが許してくれたの、私たちの結婚を」
涙に滲む咲子の声を、増次の鼓膜がきっちりと受け止めた。
「横浜のホテルに両親が来て、師長さんが会わせてくれたの。増次さん、良かったね……」
信じられないような咲子の言葉を受け止めて、増次の心臓に突き刺さっていた慟哭のくさびがポロリと落ちた。
「本当かい、本当にお父さんが認めてくれたのかい、咲さん」
「うん、本当だよ。良かったね……」
増次は受話器を置くと、六畳の部屋の窓を開け放って風を入れた。瞼に溢れた涙が頬を伝ってポロリと落ちた。真ん丸お月さんが唇をとがらせて、ピロロピロロと口笛を吹いていた。
<四国の四万十組>
二週間後、浅野五郎は妻の晴子を連れて極楽安楽病院本館外来の受付窓口に現われた。
「第二内科病棟の藤巻看護師長さんはいらっしゃいますか。はい、お礼に参りました。あ、お休みですか。え、明日は日勤ですか。それでは明日また出直すことに致します。これは四国の四万十川の鯛菓子で、二百人分くらいはありますので、是非皆様に召し上がって頂きたく持って参りました。え、病院では受け取れない規則で、まあそう硬いことをおっしゃらずに。あ、そうですか。それでは明日病棟の方で師長さんに、はい、分かりました。ではまた明日、失礼します」
受付近くの待合ロビーのソファーにかがみこみ、アフリカ象のように耳を広げて、壮年夫婦と受付係の話を盗み聞きしている喘息持ちのおっさんがいた。
浅野夫妻が玄関から出て行くのを目で追うと、そのおっさんは血相を変えて息を弾ませ、喘ぐように第二内科病棟の九号室へと急いだ。
「親分、大変じゃよ、ゼイゼイ。えらいことになりまっせ。ゲホ」
「どうしたい善さん。えりあしの色っぽい後家さんに声でもかけられたのかい、外来で」
「それどころじゃないですぞ親分。藤巻師長が危ないのじゃ。いよいよ咲子が連れて行かれるぞ。あの金満の金貸しが攻めて来るぞ」
「何だって? アイドルの咲ちゃんがさらわれちゃうの」
「親分、奇妙な声を出さんでくれ。本館の外来を腹ごなしにブラブラうろついていたらな、先日の金満夫婦が現われて、受付の窓口でな、凄みの効いた声でこう言うたんじゃ。藤巻看護師長を出してくれと。お礼参りにやって来たとな」
「なにい、お礼参りだとう。どこのどいつだ、そいつ等は。そうか、この前の応接室の続きだな。それで、そいつは何だと抜かしていやがるんだ、善じいさん」
羅生門親分は、喫緊の危険を察して気合が入り、善右衛門に話の先をうながした。
「奴らはな、四国の四万十組の代貸に頼んで、二百人くらいの衆で押し掛けると言うとった。受付の姉さんがな、しきりに困るから止めてくれと断っておったが、ならば病棟の師長の方に、直接押し掛けると啖呵を切って帰って行ったぞ」
「なにい、二百人だとう。四国の四万十組など聞いたこたあねえが、とにかく放っちゃあおけねえ。それで善さん、お礼参りの殴り込みってのはいつの日だい」
「明日じゃ」
「ようし、阿修羅連合会千葉獄門組組長、羅生門源五郎、一宿一飯の恩義に報いる時が来た。命に賭けて藤巻師長と咲ちゃんをお守り致しやすぜ。おい、朝比奈のう。あんさんの携帯電話とやらをちょいと貸しておくんなせい」
「え、ダメですよ。病院内で携帯電話の使用は禁止なんですから」
「じゃかあしい。病棟が滅亡するかどうかという非常時に何を抜かすか。チャカぶっ放してぶち壊すぞ貸さねえと。見てみろ、このワルサーP38が火を噴けば、そんな携帯なんかいちころで木っ端みじんだ」
「はいはい、どうぞ」
メダカに似た羅生門親分の瞳が凄惨な気迫を帯びて、本来のヤクザの凶暴な血脈をむき出しに、火山の火焔のようにメラメラと燃えていた。
ベッドのそばで立哨していた黒い背広のお兄さんも、親分の凄まじい殺気を感じて緊張を高めた。
朝比奈誠から携帯を受け取った黒い背広のお兄さんは、ドスの刃先でピンポンポンとダイヤルキーのボタンを押した。
「おう、俺だ。良く聞けバカヤロー、親分の、いや、社長の命令だ」
羅生門親分から耳打ちされたお兄さんは、何やら不気味な専門用語を交えて電話の相手にさしずしていた。
翌日の朝のニュース番組で、大型台風五十二号が石垣島南方に接近しつつあると報じていた。
藤巻竜子は目玉焼きとメロンパンを口の中に放り込み、牛乳パックを口飲みすると、通勤バッグのストラップを首から肩に回し、赤白ツートンカラーのヘルメットを被って五十CCのラッタッタに乗っかりセルボタンをシュルルと押した。
国道を避けて車の少ない裏街道を突っ走ると、十五分ほどで極楽安楽病院に到着する。裏の職員専用駐車場の隅にバイクを停めて、一階の看護師更衣室のロッカーに向かう。
藤巻は、廊下で擦れ違う職員の表情に、何やらいつもと違う切迫した空気を感じたが、構わず看護師長の白衣に着替えてエレベーターホールに向かった。
上階から降りてきたエレベーターの扉が開くと、医師や職員たちが引きつる顔面を蒼白にして、逃げるように飛び出して行った。
怪訝に思いながらも藤巻は、第二内科病棟勤務の看護師と一緒にエレベーターに乗り込んで、二階行きのボタンをポンと押した。
二階に着いて扉が開いて目の前を見た看護師は、後ろに三歩跳び退ってエレベーターの壁面に後頭部を激打し、腰を抜かして卒倒して失禁して失神してしまった。
思わず一歩あとずさった藤巻は、気丈にも腰を抜かすことなく、無敵の根性で踏ん張った。
エレベーターの向こうには、正面に五人、左右に各五人、上から下まで真っ黒装束のお兄さん方がサングラスを掛け、銀刃のドスをギラギラ光らせ腰を据えて立哨していた。
なお、廊下の両側にはぎっしりと百人、いや二百人はいるだろうか、アリもゴキブリもビフィズス菌でさえも通れそうもない間隔で、黒い背広のお兄さんたちが無表情に直立していた。
「あ、師長さーん」
ナースステーションから飛び出してきた早乙女麗子が、藤巻の姿を見つけて助けを求めるかのように慌てて呼び掛けると、黒装束黒眼鏡のお兄さん方は一斉に、藤巻の立つエレベーターに身体の正面を向けて、剥き出しのドスを鞘に収めて直立した。そして、真正面の一人が片膝着いて、くそ丁寧な挨拶をした。
「お勤め、ご苦労さんに御座います」
額の両側に十文字の血管を浮き立たせた藤巻は、黒装束のお兄さんに声をかけた。
「あんたたちは何者ですか? ここで何をしているのですか?」
「へい、あっしらは、株式会社阿修羅連合会千葉獄門組の舎弟でござんして、へい。こちらさんにおかれましては組長の、いや社長の羅生門源五郎が、一方ならぬ恩義をうけたまわり誠に感謝申し上げやす。あっしは代貸を務める鬼倉と申しやす。あっしら、命に賭けて藤巻師長さんと咲子姉さんをお守り致しやす。たとえ幾百人の血の雨が降り、天を朱に染め地が血の海に覆われようと、獄門組の誰一人としてうろたえる者はおりやせん、へい」
額の十文字が四つに増えて顔面怒張の藤巻にお構いもなく、お兄さんは立て板に水のごとく、社是の仁義を切り続けた。
「株式会社獄門組のモットーは、殺られる前に殺れ。盗られる前に盗れ。踏み込まれる前に殴り込め。親の恩よりも重い一宿一飯の義理と人情を忘れるな。裏切り者は極楽非道の愛の拷問に小指がおまけで消えていく。ここはどこ、私は誰、ここは房総千葉の栄町、私は獄門印の黒眼鏡が良くお似合いの命知らずの社員さんだよ、よろしくね。チャカとドスとが首飾り。ムショ帰りの前科が勲章で、背中の刺青が誓いの証だ。義理人情と欲と金とが企業理念の獄門組を知らねえか、へい。堅気の衆はお客さま、命を懸けてお役に立ちます皆の衆、義理を欠いたら社員失格、へいへい。どうぞ、ご安心なすってお勤めにお励み下さいませ師長さま、へい」
黒装束の言葉の終わらぬうちに、藤巻師長の額の血管はぶち切れて、ナースステーションでメスと注射針をわしづかみにすると、黒い背広に埋め尽くされた第二内科病棟の廊下を大股で九号室へと向かった。
九号室の扉をバコンと開くと、なんと、羅生門親分と黒メガネの二人が、マシンガンを構えて待ち受けていた。その銃口を目がけてメスが飛んだ。
羅生門親分は何が起こったか分からずに、マシンガンを放り投げてとにかく布団をかぶってくるまった。そして二人の黒メガネは、一瞬にしてメキシコのサボテンとなってしまった。
大型台風五十二号本土襲来の一日前に、九号室で血まみれの嵐が吹きまくり、台風一過、穏やかな看護の一日が始まりました。
次の話は、みんなで花見に出かける始末記