第二話:心中未遂と片恋慕
夏の盛りの昼下がり、ジージー、ミンミン、ワシュワシュワシュと、公園の木々を飛び交うセミの声が湿った微風に運ばれてくる。
第二内科病棟九号室のベッドの上で、鉄仮面虎蔵は下腹部に食い込んだステテコの紐を思い切り引っ張り、股間を広げた上からパタパタとうちわで風を送っていた。
羅生門親分は朝から飲み続けの酒が回って、腹巻もステテコも脱ぎ捨て裸で寝息を立てて泥酔していた。
湿気が肌にへばり付くような不快指数にもかかわらず、旧館のエアコンは完璧にヤル気を無くしてカタカタと音だけ立てて空回りしていた。
健太郎はナースステーションの冷凍庫から取り出してきた氷のかけらを口に頬張り、ベッドの上で逆立ちをしたり寝返りを打ったりして暑気払いをしていた。
すると、突き当りのエレベーター付近で、バタバタと靴音の入り乱れる音が聞こえる。急患か事件か、何やら異常な空気を察して患者たちが聞き耳を立てる。
朝比奈誠は野次馬根性を剥き出しにして、頭から掛けていたタオルケットを跳ねのけベッドから降りると、九号室の入り口から顔だけ出して廊下を覗いた。
健太郎も一緒になって覗いていると、ナースステーションの前で二人の看護師が手際よく、簡易ベッドを仮設している様子がうかがえた。
そしてすぐに、大きな折り畳み式の衝立が持ち出されて、簡易ベッドを包み隠すように遮蔽した。
続いて、エレベーターの中から白衣を着た男性が現れて、患者を乗せた台車を運び出して衝立の内に消えてしまった。
「そういえば先程ピーポーピーポー鳴らして救急車が飛び込んで来たようだねえ」
朝比奈が健太郎の耳元でささやいた。
「救急車の患者なら、内科じゃなくて外科に運ばれるんじゃないのかなあ」
健太郎が知ったか振りに応じた。
「そういえば、そうだなあ。健坊、ちょっと偵察して来いよ」
「うん」
健太郎がスリッパをぺタリぺタリと鳴らしてナースステーションに近付き、カウンター越しに中を覗き込むと看護師の姿は一人も見当たらずひっそりとしていた。
しばし様子を窺っていると、白衣の男性が衝立の中から現われて、空の台車をガラガラ押してエレベーターに消えてしまった。白衣の男性は救急隊の人に違いないと健太郎は推測した。
ナースステーションの中は静まり返り、看護師の姿が見えないことを幸いに、健太郎は衝立の横から首を突っ込んで内の様子をうかがった。
簡易ベッドの上には患者が一人、洋服を着たまま寝かされていた。意識があるのかないのか見極めは付かないが、どうやら若い女性のようだった。
バタンと音がして振り向くと、ナースステーションの斜め向かいに位置する個室部屋の一室の扉が開き、空の台車がガラガラと引き出されてきた。
健太郎は慌ててカウンターの隅に身を隠し、じっと成り行きを見守っていると、看護師長の藤巻と白衣の救急隊員が続いて出て来て、何事か打ち合わせをしている様子が確認できた。
何となく緊張を帯びた藤巻師長の表情を見ていると、へたに近付いてあれこれ詮索したり事情を尋ねたりしたら張り倒されそうな気がして、健太郎は偵察を切り上げ部屋に戻り、見て来た通りの状況をみんなに報告した。
鉄仮面はしきりにウムウムと意味あり気な表情で頷いていた。
鉄仮面は車イスに乗り、苦虫を潰したようなしかめっ面で、第二内科病棟の廊下をフラリフラリと徘徊していた。
そのそばを、点滴用交換液を持った麗子が通り過ぎようとしたところ、待ちかねていたかのように鉄仮面が声を掛ける。
「おい麗子」
「何ですか。壊さないで下さいよ、車イスを。玩具じゃないんですから」
呼び止められて立ち止まった麗子は、車イスでふんぞり返っている鉄仮面を横目で見下ろす。
「なにか隠していることがあるだろう」
「何を隠すって言うんですか。今夜の夕食のおかずですか」
鉄仮面は衝立を指差して問い詰めた。
「教えろよ。あそこの衝立の中で寝かされてる女は何者なんだ。訳ありなんだろ、あん」
「言えません、患者様のプライベートについては」
「何が患者様だバカヤロー。俺だって立派な患者様じゃねえか。患者が患者の事を聞いて何が悪いんだ。第二内科病棟の件についちゃあ俺にだって責任がある。だから教えろ。誰にも言わないから俺だけに教えろ、な、麗子」
「そんな屁理屈がどこの世界で通用しますか。私は何にも知りませんから。どいて下さい」
「知らねえ訳ねえだろう、とぼけやがって。言わねえとひき殺すぞ、この車イスで」
早乙女麗子は眉をしかめながらも仕方なさそうに、そっと鉄仮面の耳元に唇を寄せてささやいた。
「心中未遂ですよ。胃洗浄が早かったから二人とも命を取り留められたんです。内緒ですよ。大騒ぎされると困りますから」
「おう、やっぱりそうか。そうに違いねえと思っていたが。農薬かごきぶりホイホイでも飲んだのか。それともガス栓を口にくわえながら互いに首を絞め合ったのか、あん。違うのか、え。そうか睡眠薬を飲んで川に飛び込んだのか。俺のにらんだ通りだな。衝立の簡易ベッドは女だろ。相手の男はどうした。おおそうか、そりゃあそうだ、男と一緒の部屋じゃあまたやっちまうからなあ。そうか個室が満室で塞がったから、女だけ廊下の簡易ベッドか。フムフム」
麗子を追いやった鉄仮面は、急いで車イスをターンして九号室に戻って扉をバタリと閉めると、事の次第を全員に聞こえるような大声で報告をした。
<善右衛門の恋話>
話を聞いた善右衛門は、喘息を抑えながら大きな溜息を吐き、はるか遠くを見詰めるように小皺の目尻を引き付けながら呟いた。
「懐かしいのう。ワシも昔、ゲホ、心中未遂をやらかした事があるのじゃ。忘れもせぬ、十五の春のことじゃった。ワシも彼女も東北地方は岩手県の生まれでのう、何しろたんぼのアゼ道を自転車に二人乗りで暴走するほどの仲じゃった」
「凄い仲じゃのう」
羅生門親分が感嘆して言った。
「それだけじゃ、ありゃあせんぞ。トランジスターラジオから流れてくるロックンロールを聴きながら、納屋の藁にまみれてツイストを二人で踊ったもんじゃで、ゲホ」
「超ナウじゃのう」
羅生門親分がしびれて頷いた。
「ところがのう、ワシらがどちらも豪農の一人っ子だったちゅうことが悲劇じゃった。今の若いもんが聞けば馬鹿馬鹿しくて笑い飛ばすかもしれんが、当時の農家では一人娘を嫁にやったら家系は途絶え、農地も失ってしまうのじゃ。ワシらはその宿命を知りながらも刹那の享受を求めて逢瀬の時を重ねておった。何しろ村一番の眉目秀麗なるダテ男と餅肌美人のミス農協とが出くわせば、クレオパトラとアントニウスの出会いにも似て、恋の火花が弾け飛ぶのは当然の成り行きと申せましょう、ゲホ。誰もがうらやみ、誰もが認め、甘美の風にそよぐたんぼの稲穂も愛の賛歌に酔いしれていた」
「ほう、すごい話じゃのう。善さんがのう。それでどうした」
羅生門親分が善右衛門の話にのめり込んで膝を乗り出し、コップの酒をグイと呷って先を促す。
「しかし、ついに運命の時がやってきた。手を広げれば端から端まで届くような狭い田舎のことじゃから、燃えるようなワシらの恋の逢瀬は噂となって、彼女の親父の知るところとなってしもうた。その日からワシの愛しき人は、籠の鳥のカナリアのように家の中に閉じ込められてしまったのじゃ。ワシは会いたさ見たさに怖さを忘れ、暗い夜道を懐中電灯持って会いに行き、窓の下からロメオのように愛の言葉をささやき続けた。それを見付けた彼女の親父は、なたでワシの額を切りつけて、石臼でワシの背骨をへし折ろうとした。そして更に、愛の深みにはまったワシらを引きはがすために、見合い写真を彼女に示して強引に祝言の日を迫ったのじゃ。彼女は泣いた。私はどうしたら良いの。私はどうすれば良いの、教えてちょうだい善右衛門さんと叫んで、納屋の藁の上でワシに抱きついて泣き続けたのじゃ。そしてな、泣き疲れて涙が枯れて彼女が言った。死のうって。一緒に死のうと彼女は言った。ワシも若かった。彼女を嫁にできんのならば死んでも良いと思うたんじゃ」
「それで善さん、どうやって死んだんじゃ」
羅生門親分が、せっかちに結論を促した。
「おう、それよ。ゲホ。ワシは考えた。彼女を苦しませずに二人して確実に死ねる方法は無いものかと。あったんじゃ。ワシは薬局に行って睡眠薬を売ってくれと言ったんじゃが、未成年には売れんと言われた。じゃから、目薬を一個とドリンク剤を二本買って来た。女を手籠めにするなら目薬をジュースに垂らして飲ませろと、街の不良に教わったことがある。睡眠薬を飲んだみたいに眠ってしまうという話を思い出したんじゃ。ワシらは手と手を取り合って南へ向かった。山を二つ、川を三つ越えて峰に登った時に、遠くからボゥーという蒸気機関車の汽笛が聞こえてきた。急いで山を下ってようやく人家の見え隠れする山裾の線路に辿り着いてから、彼女が作ってきてくれたラッキョウ入りのおにぎりを二人で食べた。それから二人は目を合わせ、ドリンク剤に目薬をたっぷり垂らして一気に全部飲み干した。そして最後の接吻を交わすと手をつないで線路の上に並んで横たわったんじゃ。ゲホ。ワシらは興奮してなかなか眠れんかったが、それでも薬が効き始めたのか次第に意識が薄れていった。遠くに汽笛の音が聞こえてきた」
「死んだのか?」
「死にはせん。死んだらワシはここにはおらん。それからどれだけ時間が経ったのか分からんが、ふいと眼を覚ましたら周りがザワザワと騒がしいではないか。眼をこすりながら首を持ち上げてみるとな、目の前に蒸気機関車がシュー、シューと蒸気を吹き上げながら停車して、駐在のお巡りさんと運転士さんがワシらの顔を心配そうに覗き込んでおった。周囲は村人たちでごった返して、どさくさにアイスキャンデーやお好み焼きを売っている奴もいた。何と驚いたのは、線路に横たわっていたワシら二人の横に、カモシカと狸とコウモリが仲良く並んで寝てるじゃないか」
「与太話もいい加減にしなよ、善さん。まったく、どこまでが本当だか分かりゃしないよ」
鉄仮面が呆れ顔で言い放った。
<朝比奈誠の恋文>
「クックククグググッズズ」
朝比奈が感極まったような表情で、忍ぶような呻き声を放った。
「おい朝比奈、笑っているのか泣いているのかどっちなんだよ。はっきりしねえなあ、お前の顔は。おおそうかい、泣いているのか。何でそんなに忍び泣いているんだい」
浅草のりをサリサリかじりながら鉄仮面が訊ねた。
「う、羨ましくて、切なくて」
「カモシカと狸と寝たのが羨ましいのか?」
「愚かなことを言わないで下さい。恋する人と愛を誓い、心中できることが羨ましいのです」
「何だ、死にたいのか。麗子に頼んで青酸カリでも貰ってやろうか」
「死にたくなんかありません。切なくて耐えられないのです僕は」
「分かってるよ、皆まで言うな。隣の榊原優子とねんごろになりたいんだろ。俺に任せろ。力になってやろうじゃないか。あん」
「鉄仮面さんに力になってもらったら、ろくなことにはならないことは予測できますが、溺れる者はワラでもゴミでもつかむといいます。お願いします鉄仮面さん」
「俺はゴミか」
「僕は毎日トイレに行くたびに、隣の八号室の扉の隙間から、ピンクのタオルケットにくるまれて横たわる優子さんの寝姿をチラリと一瞥して、自分のベッドに戻るとその姿が焼きごての烙印のように網膜に焼き付けられて、枕を抱き締めて忍び泣いているのです。毎日五十回もトイレに行っています」
「そんなにトイレに行って、よく病気にならねえな」
「毎日、スイカを丸ごと食って水分補給をしていますから」
「お前、小学校の先生やってるくせに恋の処方箋も知らんのか。生徒や父兄に尋ねられたら何と答えるつもりだろうね。良く聞けよ、太古の昔からな、恋の思いを伝えるには恋文と決まっているんだ。書いてみろ」
「書いてみろったって、僕は優子さんのことを何も知らないのですよ。うるわしき君の黒き瞳に魅せられて、さざなみのように長き黒髪の虜になりました。なんていきなり書いたら変質者か詐欺師と勘違いされてしまいますよ。自然に袖を触れ合って、二人は馴れ初めの恋に燃え上がる。そんなストーリーを、鉄仮面さんの知恵を絞って考えて下さい、お願いです。僕の知能は炎と化して、冷静な思考が叶いませんので」
翌日の朝、朝食を終えた患者たちを見回る為に、服薬用トレイやシーツを抱えて看護師たちが忙しそうに立ち回っていた。
鉄仮面は車イスに乗ってフラフラと、第二内科病棟の廊下を徘徊していた。そこに、ツツンと澄まして通り過ぎようとする麗子の白衣を捕まえて声をかけた。
「おい麗子、どこへ行く?」
「病室以外にどこへ行くって言うのですか。邪魔しないで下さいよ、忙しいんですから」
「ちょいと顔を貸してくれねえか」
車イスをくるりと回して鉄仮面が前をふさいだ。
「お前、確か八号室の榊原優子と仲が良かったよなあ。常日頃どんな話をしているんだい。まあ年かっこうも同じようだし、いろんな悩みを打ち明けられることもあるんだろう、あん。包み隠さず話してごらん」
「何をたくらんでいるんですか? 痴漢行為は禁止ですよ院内では」
患者のプライベートをあれこれ詮索してはいけないのが看護師の掟だと認識している麗子だが、区役所に勤務しているという鉄仮面虎蔵が、どんな浅知恵を働かせて市民に接しているのかとおもんばかると鳥肌が立つ。
そういえばこの前のこと、離婚届を持参してきた夫婦に、婚姻届は受け付けるけど、離婚届の提出先は隣の警察署の捜査一課だと教えたら、舞い戻って来た亭主に首筋をナイフで突き刺されたと言って笑っていた。本当に公務員の資格を持っているのだろうかと、いや、どんな手段を講じて公務員の資格を得たのかと、一市民として一抹の不安を覚える。
その鉄仮面が、いったい何をたくらんで、何を知りたいと言うのか。
「いや実はな、論文を書こうと思い立ったんだよ。考えてもみろよ、長い入院生活で腐っちまうのは身体だけじゃない。脳味噌だって鍛えておかなくちゃあ、仕事に復帰した際に更生が利かないじゃねえか。そうだろう。そこで俺は考えた。今どきの若き乙女たちが何を考え何を求めて生きているかを統計的にだなあ、さまざまな証言をもとに多元的に試行錯誤しながら構成を組み立ててみようと、な、分かるだろう。区役所じゃあ普通にやってる仕事だぜ。いや大丈夫さ、個人の秘密を漏らすような非常識な事を俺がする訳がないじゃねえか。それとも何かい、他人さまに隠し立てしなきゃあならねえような秘密でもあるのかい、あの娘に、あん」
榊原優子のプライバシーを根掘り葉掘り執拗に聞き出した鉄仮面は、部屋に戻ると「おい、作戦会議だ」と言って朝比奈と額を寄せ合い密談を始めた。
しばらくの間、コソコソ、ヒソヒソやっていたと思ったら、突然鉄仮面はベッドの上に立ち上がり、朝比奈を指差して怒り出した。
「ええい、じれったい男だなあ。だからお前はいつまでたっても慢性の胃炎なんだよ。そんな気弱な根性じゃあ、思春期のメス豚だって振り向いちゃあくれねえぞ。死ぬ気で手籠めにしたいのか、したくねえのか、どっちなんでい、はっきりしやがれ慢性胃炎」
鉄仮面は自分の胃潰瘍を棚に上げて叱咤した。
「し、しかし、初めての手紙にしては語調が少々激烈ではありませんか。いきなり彼女の部屋へ泥だらけの靴で上がりこんだストーカーのような気がするのですが。僕は手籠めだなんて凶暴なことを考えている訳ではありませんよ。ほのかに燃える僕の思いを、ほんのわずかでも伝えられれば幸せなのです。それから徐々に親しくなって、病院の喫茶ルームか隣の極楽レストランの隅のテーブルでレモン入りのジンフィーズを飲みながら、お互いの幼き故郷の思い出などを語り合えることを願っているのです。そのうち二人の目と目が合って、沈黙のなかにも嬉し恥ずかし恋の芽生えに花香る。ああ、優子さん」
「お前ねえ、五つか六つの幼年幼女じゃないんだよ。明るい学級三年五組でプラトニックな馴れ初めごっこをやってる場合じゃあねえんだぞ。近頃の小学生にだってそんな寝とぼけた事を言ってみろ、シカトされて一生口も利いてくれねえぞ。よくそれで小学校の先生が務まってるねえ。学校で一体何を教えてるんだ。たまには為になる本でも読んで学習しているのかね君は、あん」
「ドストエフスキー、ゴーゴリ、モーパッサン、オッペンハイマー、ゴッホの画集、ファーブルの昆虫記」
「君ね、そんな本ばかり読んで己の人生にどれだけ役に立っているんだバカ。もっと生活に密着した為になる本を読まねえから女の一人も口説けねえんだ。今週号の週刊丸秘の実話シリーズなどはなかなか読み応えのある、実に充実した内容だったじゃねえか。赤い糸と黒い糸とがねばねばと絡み合うような、ただれた男女の真に迫る生き様を参考にして、世の中の人たちは己が人生を振り返り強く逞しく生きて行くんだ。ゴーゴリやモーパッサンが教えてくれるか、そんな事を、あん。何者なんだオッペンハイマーなんて。せっかく病院に長々と逗留していながら、一人の看護師も女医も手籠めにできず、無事学校へ戻って来ましたと報告できるのか。校長先生に対してそんな女々しい言い訳が通るのか。それともなにかい、学校中の笑い者になって皆から後ろ指を差されながら、一生うらぶれた人生を送るつもりかい、君は」
筋の通ったような、ねじ曲がったような、鉄仮面の力強い論法に説得された朝比奈は、何も言い返せずに黙って頷いた。
その翌日、鉄仮面と朝比奈は顔を見合わせると、ニッコリ笑って健太郎を手招きした。
「いいか健坊、良く聞けよ。この封筒をだなあ、隣の八号室の髪の長い黒い瞳のお姉ちゃんに渡して来るんだ。誰からだと聞かれても答えちゃいけねえ。ただ、読んでくれとだけ言えばいいんだ。分かったな」
内科病棟では十三歳の健太郎は子供扱いなので、女性患者の大部屋へも天下御免の出入が認められ、と言うよりも、誰も咎める者がいないので勝手に出入りしていた。
隣の八号室は女子部屋で、内科病棟一の長期滞在といわれるタツ婆さんが療養していた
糖尿病だとか白血病だとか結核だとか、いや、慢性子宮癌だ、アルツハイマーだ、エイズだと様々に噂されながら、本当の病名を知る者は誰もいなかった。
健太郎が部屋を覗くといつものように、待ちかねていたかのように手招きをする。
「お前さんは色が白くて、まるで歌舞伎役者のようだねえ。きっと顔立ちがいいんだねえ。入院して来た頃はまだ浅黒く日焼けの跡が残っていたけど、長い療養生活になった証拠だねえ。私は甘い物は食べられないから箱ごと持ってお行き」と言って、タツ婆さんはお見舞いで届けられたカステラやゼリーを健太郎に箱ごと渡した。
「お婆ちゃん、本当は老人ホームへ行くのが嫌だからここにいるんだろう」
健太郎がタツ婆さんの心を見透かしたように言った。
「お前さんは率直に物を言うから分かりやすいよ。私は老人ホームにも行かないし、家へも帰らない。皆に囲まれてここで死ぬ」
「家よりも病院がいいのかい、婆ちゃんは。畳の上で死にたいとは思わないのかい」
「畳にも色取り取りの種類があるのさ。針の山や血の池のような畳の上で毎日寝起きするよりも、暖かい人の温もりの中で最期の時を過ごしたいだけなのさ」
「婆ちゃんの家はお金持ちなんだろう。金さえあれば幸せだって愛情だって、神だって仏だって、何だって買えるって、うちの父ちゃんが言ってたぞ」
白糸の滝のような純白の髪を梳きながら、タツ婆さんは囁くように語りかけた。
「そうかい。いい父ちゃんと一緒で幸せだねえ、健坊。良くお聞き、お金を粗末に考えちゃあいけないよ。どんな幸せそうな家庭でも、お金が無くなれば崩壊する。幸せというものはねえ、生きる保障があって初めて言える言葉だよ。だけどね、しょせんお金は人間が考え出した小道具さ。そんな物で神様が作り出した愛や幸せを買うことなんてできやしない。でも、健坊の父ちゃんが言う通り、幸せに近付くための工夫はできるのさ。大人になってお金を稼ぐようになったら健坊にもきっと分かるよ」
「婆ちゃんは幸せじゃあないのかい。金で幸せを買えなかったのかい。だからここで死ぬつもりなのかい……」胸に含んで言葉にはできず、健太郎は黙って背を向けた。
タツ婆さんの隣の窓際のベッドでは、榊原優子が午後の検温に回る途中の麗子を引き止めて、半身を起こしておしゃべりに夢中になっていた。
健太郎は二人の会話をさえぎって、鉄仮面から言われた通りに封筒を優子に手渡した。
「何よ、それ」
看護師の麗子が見とがめるように指さして言う。
「誰かに何かを頼まれたんでしょう。言いなさい」
「鉄仮面さんに頼まれた」
毒蛇のような目付きになった麗子に射すくめられて、ヒキガエルになった健太郎はいとも簡単に白状してしまった。
キッと目を吊り上げた麗子は、優子の手から封筒を取り上げるとビリリと封を切り裂き、サッと開いて優子に聞こえるほどの小声でブツブツと早口で読み上げた。
聞き終えた優子は嘆息し、麗子はさらに目を吊り上げて呟いた。
「まあ、何と恥知らずな鉄面皮。よくもまあこんな激情的な文章を。しかも、鉄仮面のオヤジまで絡んできたとなったらどんな騒動を巻き起こすかもしれないわ。きっぱりと赤い糸とやらを断ち切ってやらないと、後々やっかいな禍根を残すことになりかねないわよ、優子さん」
二人はあれこれ相談しながら言葉を選び、厳しい内容の返書をしたためた。
「健坊、これ返事だから、鉄仮面さん経由で朝比奈さんに渡してちょうだい」
麗子に頼まれて健太郎は病室に戻った。
「おう、さっそく返事を寄越してくれたか。早いじゃないか。どれどれ、ん、何だか麗子の筆跡に似ているようだが、まあ年恰好が同じだから大概こんなもんだろう。何、丁寧な文章の割に言ってる事が過激じゃねえか。ううむ、あの優子がなあ。人は見掛けに寄らないもんだのう」
「鉄仮面さん、何が書いてあるのか早く教えて下さい。良い知らせに決まっていますよね」
「ほれ、読め」
鉄仮面の手からむしり取るようにして返書を奪い取り、速読してさらに精読した朝比奈は打ちのめされて、絶望の余り病室の窓によじ登ろうとしたが、失意の非力に転がり落ちた。
「ああ、もうダメです。僕の人生はこの病院と共に滅びます」
「バカヤロー、病院が滅んでどうするんだ。泣くんじゃねえ朝比奈くん。作戦はこれからじゃあないか。この程度のジョブを食らったくらいで怯んでどうする。お返しにアッパーカットを食らわせるのだ」
鉄仮面と朝比奈は再び額をピタリと寄せて、ときおり顔を見合わせ目と目を合わせ、しこしこと語り合いながらしきりに筆を走らせた。朝比奈の顔は次第に蒼ざめ、鉄仮面の額には脂汗が滲み出していた。
鉄仮面はもう朝比奈の事などどうでも良かった。自らが悲恋の主人公に成り切って、途方も無いストーリーの盛り上がりに酔い狂い痴れていた。
「よし健坊、これをもう一度お姉ちゃんに渡して来い。間違えるんじゃあねえぞ。窓際の長い髪のお姉ちゃんだぞ。隣のババアに渡すなよ」
健太郎は鉄仮面に言われて優子に渡そうとして麗子に取られた。
「あら、また鉄仮面さんから。しつこいわねえ。これじゃあ検温に回れないじゃないの」
舌打ちしながらも他人の悲恋ゲームにのめり込むように、麗子は優子を無視して封書を開いて読み上げた。
「まあ、あのバカ、悲劇の王子様に成り切ってるわ。ロメオは最後に死ぬんだから、お前も早く死になさいって書いてやりましょうよ、優子さん」
「えっ、本当に死んだらどうしましょう」
優子が心配して言った。
「未遂で終わるわよ。ここが病院だってことを忘れないでちょうだいな」
「それにしても小学校の教師でインテリの朝比奈さんが、これほど道理も理性も常識も、形容詞も文法も句読点も無視した文章を綴るなんてとても意外だわ」
あきれて戸惑う優子の疑問に、麗子はきっぱり決め付けるように言い切った。
「鉄仮面のオヤジのしわざに決まってるでしょう。完璧にロメオに成り切ってるのよ。そうねえ、あの厚顔無恥の知恵遅れを、完膚無きまでにとどめを刺すには、うーむ。こんなところでどうかしらねえ、優子さん」
「え、そこまで言うか。何だか事件が起こりそうな予感がするわ」
「そんな弱気じゃあダメよ、優子さん。バカの脳味噌にはね、しっかりくさびを打ち込んでおかなくちゃあ、調子に乗って付け上がるわよ。さあ健坊、これを届けてちょうだい」
再度、麗子に頼まれて九号室へ戻った。
「おう、健坊。早く返書を見せろ。どれどれ。な、何だと、ふざけやがって。男の純情を何と心得ていやがる。今月今夜のこの月を、きっと血の雨で曇らせてやるぜ、こん畜生」
「あ、あの。僕の純潔な思いをいささかでも優子さんに汲み取ってもらえたのでしょうか。何か不吉なことでも書いてあるのでしょうか、鉄仮面さん。ねえ、鉄仮面さん」
朝比奈が悲壮な思いで覗き込んだ。
「うるせい、オメエは黙ってろ。もう容赦も手加減もしねえからな。きっちりと思い知らせてやるぜ。これでどうだ。よし、これをお姉ちゃんに渡して来い健坊」
もはや鉄仮面の両眼は牙をむいたイグアナの如く、何かに取り憑かれたように緋色に燃えて充血していた。
健太郎は鉄仮面から封書を手渡されると、パタパタとスリッパを鳴らして言われた通りに優子に渡すつもりで麗子に取られた。
「何と、悶絶しそうなハレンチ極まりない卑猥なたわごとを。気のふれたストーカーでもなかなかここまでは書けないわよ。身のほど知らずのジャワ原人が、恋だの愛だの語るには一万年も早過ぎるわよ。千葉動物公園の檻の中か、鴨川シーワールドの生けすの中で、お似合いのお友達を見付けなさいって書いてあげましょうよ。あらまあ何と、一生のお守りにしたいから下着を一枚頂きたいだなんて追伸に書いてあるわよ、あの痴漢バカ。僕は赤が好みだけど、優子さんは何色が好きですかだってさ。ここまで下心見え見えの欲望むき出しに下品な文章を書けるのは、鉄仮面のオヤジを置いて他にいないわ。病院の裏手に無人踏切があるから、一度、三途の川で顔を洗って出直して来いって書いてやりましょうね、優子さん」
「あ、あの麗子さん。本当にそれを私の名前で」
「大丈夫だって、優子さん。この程度で傷つくほどやわな脳味噌じゃないんだからあいつ等は。赤レンガみたいなツラの皮を、金鯱サボテンの棘で串刺しにしてやらないと、いつまでたっても示しがつかないのよ。よし健坊、これを鉄仮面のオヤジに渡して来な」
「な、な、な、何と。クソ。よし、これをお姉ちゃんに」
「これを鉄仮面のオヤジに」
バタバタバタとあっちの八号女子病室と、こっちの九号室を行ったり来たりしていたら、師長の藤巻に呼び止められた。
「健坊、さっきから何をドタバタしているんだい」
鉄仮面から頼まれたと言って封書を見せたら、無造作に開いて文面を追う藤巻師長の形相が人間でなくなるのを見て、健太郎は忍び足で部屋に戻り、「おい、健助。どうした、返事は」と、催促する鉄仮面の言葉を無視して頭から毛布を被ってベッドに潜った。
九号室の木製扉がバーンと大音響を発して開くと、入口脇のベッドで眠っていた八十五歳末期胃ガンの松本老人の身体が、まな板の上で蛸が跳ねるようにピョンと跳ねた。
恐怖にたじろいだ鉄仮面と朝比奈は、注射針が降ってもメスが飛んでも生身の体に届かぬように、厚手の掛け布団で亀の甲羅のように身を守り、背中を向けて狸寝入りのイビキを掻き始めていた。
今回限りは罪の咎を負ういわれのない羅生門親分と善右衛門も、藤巻師長の剣幕に色を失い、巻き添えを恐れてアルマジロのように背筋を丸めて狸寝入りに入っていた。
顔半分を口にした師長の藤巻は、歯茎をむき出し怒りも露わに額に十文字の血管を浮き立たせ、心臓をえぐりつぶすような怒声で吠えた。
「ここは西船橋のOS劇場でもなけりゃあ、宝塚の雪組でもないんだよ。ラブレターでもない、脅迫状でもない、何だこの意味も分からない気違いじみた文章は。安静にしとかなきゃならない子供をダシに使って、病棟を攪乱するのもいい加減にしなさいよ」
「…………」
「…………」
誰も口をつぐんで静まり返った九号室に、師長の怒声が響き渡って壁が震える。
「外科病棟ではね、手術未体験の見習い外科医たちが、生身の人間の土手っ腹にメスを突き刺したくてうずうずしながら待っているんだよ。ちゃんと元通りにして返却するから、適当に見つくろって二、三人寄越してくれないかと、あたしゃ外科部長から督促されて断り切れずに困っているんだよ。ちゃんと聞いてるのかい、あんたたち。トカゲの解剖実習じゃあねえ、あいつら、胃袋の代わりに勘違いして心臓を切り落としたって笑っていたよ。人間なら上手くやれるから任せてくれって豪語してるよ。手ぐすね引いて待っているから、麻酔をしたまま台車に乗せて寄越してくれってうるさいんだよ。日本の医学の進歩のために、犠牲になるのは誰だろうねえ。命知らずの勇気ある希望者は手を上げなさいよ、今すぐに」
九号室に注射針の嵐が去って、狸寝入りが深い眠りへと落ちていく。
静まり返った病室に、夏蝉のかすれ声と、松本老人の健やかな寝息だけが心地良い静寂を和らげていた。
次の話は、駆け落ちした看護師を探し求める両親について